パラレルコプヤン。天涯孤独のヤン少年の異種同種恋愛譚。人間シェーンコップ登場。

変化たちの森 29

 飲み過ぎだよと、バーテンに店を追い出された時、飲酒運転は困ると車の鍵を手から取り上げられた。明日にでも取りに来いと言われて、ふんと肩をいからせて外へ出た。案外素直に、車は駐車場に残したまま歩き出し、初めて来たこの辺りに詳しくもないのに、脚の動くまま、薄暗い道を進む。
 まるで糸にでも引かれるように、どんどん街灯の少なくなってゆく方へゆく。人も車も見えない、舗装された道かどうかも分からないそこを、その暗さと静けさに引き寄せられて、ああ、今の自分にはまったくお似合いだと思いながら、ただ歩いた。
 間違いなく飲み過ぎだった。そうして、ふらりと傾いた体が、傾きのまま転がり落ちてゆく。坂と言うには短過ぎる、道路──と呼べるなら──の脇、溝なのか藪なのか、暗くてよく分からないそこへ、気がつけば天を仰いで横たわって、その夜空も今夜は星も月も見えず、ああまったくなんていい夜だと、思わず声に出して悪態をついていた。
 起き上がる気にならず、それでも腕を持ち上げて、上着のポケットの中の携帯電話を取り出し、壊れていないことを確かめる。着信はない。メッセージもない。まあそうだろうなと思った。思って、自分を嘲笑った。
 ああ、いい夜だ。今度は少しだけ、肯定的にそう思う。
 ひとりきり。闇の中に、文字通り沈み込んで、誰もいない。誰も来ない。ここがどこかも分からない。さっき転げ落ちた坂だか溝だかは、一体這い上がれるのか。夜空の暗さを視線でなぞって、そこよりひと色さらに濃い坂のてっぺんを眺める。まあ大丈夫だろう、楽観的に、頭をかすかに肩の方へ傾げた。頭の向いた方は、林か森か、木が鬱蒼と茂って不気味に暗い。危険な動物がいないとも限らない。食い殺されるならそれでもいいさ。あんまりいい死に方じゃないがな。春は終わり、初夏の気温だ、このまま寝てしまったところで凍死の心配はない。死んだところで、一体誰が心配する。
 そう思ってから、いや、迷惑を蒙る連中はいるなと、まだ酔いのたっぷり残る頭の中でぼんやりと思ったけれど、そのために今は何かしようと言う気にはなれなかった。
 悪い夜ではなかった、5時間ほど前までは。
 俺も30も過ぎたことだし、そろそろと、付き合って1年になる恋人に、今夜プロポーズした。ふたりのいるテーブルを、通り過ぎる誰もが振り返ってゆく、ふたりはそんな組み合わせだった。
 彼女は、とても美しい大きな目で、何の感情も表さずに、自分の手元を見つめた。今日きれいに仕上げさせたばかりのマニキュアの出来を検めるように、そうして返事をごまかして、聞かなかった振りでワインに口をつける。グラスの縁に、ワインと同じ色の口紅が残った。
 返事は、と促した。
 やめときましょう、と彼女は言った。あなたは、ほんとうに人を好きになるのがどういうことか分からない人だもの。
 落ち着いた口調で、本でも読むように彼女が続ける。
 あなたはひとりが淋しいから、夜に抱いて眠れる人形が欲しいだけなの。結婚は、抱き人形とするものじゃないわ。お互い抱き人形同士、それ以上のことは望まない方が身のためよ。
 彼女の言っていることはよく分からなかった。けれど、彼女の言う意味は理解できた。
 それきり無言で、今夜のためにいつもより特別にした食事は終わり、彼女はさようならと言って立ち上がり、ひとり先に姿を消した。
 指輪は、彼女に選んでもらおうと、先に買っていなかった。それをよかったと思った。
 それから、先も定めずに適当に車を走らせ、突然ぽつんと現れたバーに入り、カウンターでひとり飲み続けて、そうして今この有様だ。
 人の気配も車の音もないと言うのは、街暮らしの人間には静か過ぎる。聞こえるものはなく、見えるものもなく、ただ夜空の星をひとつびとつ、数えるわけでもなく眺めて、彼女の言葉を反芻した。
 恋人の切れたことはなかった。いつだって隣りに誰かがいて、ある時期が来ればそれは別の誰かと入れ替わり、前やその前やそのさらに前や、時々思い出すことはあっても、特にその誰かに心を残すと言うこともなく、人目を引かずにはいない美しい女(ひと)と言う共通点以外には、何か今思いつく個性が彼女らにあったろうかと考えて、つまりは自分は何も見てはいなかったのだと言うことに思い至る。
 抱いてあたたかかったと言う以外、覚えていることが思い浮かばず、そう言えば、去られても別に胸の痛むと言うこともなかったなと、今夜も一向に胸の疼かないことに、初めて気づいて驚いている。
 こんなに酔ったのは、結婚と言う落ち着いた巣の中に、ぬくぬくと縛られるのだと言う期待が裏切られたせいだ。いちいち巣から出て、抱いてあたたかい体を新たに探すと言う、そんなことをもう続けなくていいと、思い込んでいたからだ。今夜彼女がうなずいて、それでハッピーエンドだと決め込んでいたからだ。
 夜露に、頬や髪が湿って来る。酔いはまだ醒めず、とろとろと眠気が脳を覆って来る。投げ出した手足に力が入らず、それでも眠り込んでしまう前に昼間の理性が甦って来て、胸ポケットから再び携帯を取り出した。
 目当ての番号をすぐに見つけて、短く素っ気なく、メッセージを残す。
 「俺だ、2、3日休む。緊急以外の連絡は入れるな。」
 誰にも会いたくなかった。それならここでずっと寝ていればいい。ちょうどいいじゃないか。
 突然何もかもが虚しくなったのは、少し過ぎた酔いのせいだ。酔いが醒めて目覚めれば、またいつもの調子に戻るさ。
 ──生きてればな。
 死ぬはずもないのに、そんなことを自嘲混じりに考える。ああ、酔ってるなと思った。
 数時間で明るくなるだろう夜空の下で、地面に縫いつけられたような重さに従って、ゆっくりと目を閉じた。遠くで、犬かその類いか、何か生き物が長く吠える声を、子守唄のように聞いた。


 空っぽの冷蔵庫に舌打ちして、ヤンはごしごしと髪をかき回し、ぞんざいに買い物のメモを作った。牛乳、野菜、肉、そろそろ紅茶も切れる。酒はあるからいい。それからパンと、シリアルはどうするかと迷ってから、リストには加えないことにして、車の鍵を手に外へ出る。
 昼にはまだ間があるけれど、日差しはもう十分強い。そろそろ夏だなあと、ちくりと胸を疼かせて考える。
 夏は嫌いだ。今では冬も嫌いだ。数年の間に、多分春も秋も嫌いになるだろう。季節を嫌いになった後は、きっと周囲の人やもののひとつびとつを嫌って、そうして偏屈な老人になって、望み通りひとりきり、コンピューターにただ文字を打ち込むだけの人生を送るのだ。
 それとも、そんなに長生きはしないかな。
 近頃、すっかり自堕落になって、食事も睡眠もめちゃくちゃだ。本を手に取ることすら億劫で、自分の綴る文字も無機質に、ただ黒い点にしか見えないことがある。
 何もかもが灰色か黒か、ヤンの視界には今色と言うものがなく、自分の立てる音以外は何も聞こえず、そこへすっかり閉じこもったまま、抜け出す気にもならない。
 時々、自分がもう人の形すらしていずに、床の染みになったような気分になって、アッテンボローがやって来ては自分に話し掛ける時だけ、自分はまだ人間でいるのだと自覚できる。
 腹が空き、喉が乾き、不規則にせよ眠気に襲われ、体は生命活動を確かに営んでいた。今だって、欲しいとも思わない食料を買い出しに行く途中だ。
 生きている、と棒読みめいて考えて、それへ向かって、肺ごと吐き出しそうなため息をついた。
 体は生きている。けれどそれだけだ。心臓が動いて呼吸をしていて、それが止まる気配は今のところなく、ヤンは確かに生きている。生きると言うのは一体どういうことだったかなと、体温の感じ取れない自分の皮膚が、乾いてかさついて、少しずつ死人のそれに近づいているような錯覚にわざと陥りながら、気がつけば、空しいと声に出してつぶやいている。
 空洞になった自分の体が、淋しいほどこの世界で存在感がなく、心はとっくに向こうへ行ってしまっているのにと、今も家の方へ振り返りたくなって、ヤンは軽く首を振ってハンドルを握る手へ視線を据えた。
 ただ生き長らえるだけの、食事や睡眠。意味はない。強いて言うなら、ヤンが死んだらアッテンボローと彼の家族がひどく悲しむから、今自分が感じている様々な感情を、彼らに味あわせるのが嫌だから、自分が生きているのはただそれだけなのだと言う気がした。
 砂や石でも噛むような食事と、泥水に溺れるような睡眠、皮膚からゆっくりと身を削がれているような、もう肉はすべて落とされ、自分が骨だけになってまだ動き回っているような、ヤンは思わず自分の頬に触れて、顔と指先に皮膚の触れることを確かめた。
 骨でもない、腐ってもいない、ああ、自分は生きた人間だと、鉛でも飲み込んだような重い気分で考えた時、不意に目の前の道に、四つ足の生き物が見えた。
 幻かと思ったそれが動き、ヤンの車へ向かって腕を上げて振る。
 ──ワルター。
 大きな犬のような、狼のような、灰褐色の毛に覆われた体で、その生き物が、ヤンの車を止めた。
 ヤンは急いで車から降り、それへ向かって走り出す。
 「ワルター!」
 5歩先にいたそれは、けれどヤンが思った生き物ではなく、ただ四つん這いに苦しげに、地面から顔を斜めに上げて来る、人間の男だった。
 それでも、咄嗟に目に入った男の髪の色は確かにワルターの毛色にそっくりで、自分を見上げる瞳の色もワルターのそれのように見え、ヤンは1歩半手前で立ち尽くし、呆然と男を見下ろしていた。
 男が、ヤンへ向かって腕を伸ばして来る。手を、と男が、かすれた、けれど通りは良い声で言う。ヤンは、我に返って男へ手を差し伸べた。
 ヤンにすがって男は立ち上がり、けれど左足を引きずっていて、
 「怪我を──?」
 「そこから、滑り落ちて・・・。」
 男が、道の端を指差す。そこから落ち込んだ藪が見え、深さは分からないけれど、這い上がるのは大変だったろうと、男の、泥だらけの姿を見てヤンは思う。考えずに体が動き、当然そうするように男へ肩を貸した。
 触れた服が湿っている。疲れた様子の男の横顔から目を離せず、自分より背の高い、体の厚い男を何とか車まで運ぶと、ヤンは彼を後部座席に放り込んだ。
 男はぐったりとそこへ横たわり、
 「どこかでお会いしたことが──?」
 運転席へ戻るヤンへ訊いて来た。
 「いや、そんなことはないと、思うが・・・。」
 「私の名前をご存知だ。」
 「名前?」
 「・・・ワルター、と。」
 「ワルター?」
 男に問われ、ヤンの声が思わず震える。男は、座席に体を起こしてきちんと坐りながら、ヤンが驚いたのを訝しむ視線を投げて来た。
 ヤンはどう答えていいか分からず、どうとでも取れる仕草で頭を振って見せる。
 「そんなことを、言ったかな。」
 ごまかすようにつぶやいて、男が何か言おうとしたのを遮るように、
 「どこに連れて行ったらいいかな。救急か、それとも掛かりつけの医者がいるなら──」
 今度は、男の方が目を伏せ、ヤンの問いに答えるのを拒むように黙り込み、何か考え込む風に、車の中に沈黙が落ちて、ヤンは居心地悪げにもぞもぞと肩を揺すって髪をかき回した。
 男と一緒に考え込んだ後、ヤンはやっと思い切ったように、
 「・・・もしいやでないなら、とりあえずわたしの家にでも・・・ここからすぐだし、お茶くらいなら出せるから──」
 男の方を見ずに、珍しい早口でそう言った。男はヤンの申し出を、視線を左右に動かしてから、それほど嫌そうでもなく受け入れる。
 「お言葉に甘えましょう。」
 そう言ってまた目を伏せた男を、ヤンはミラー越しに見つめて、ワルターと言う名だと言うこの男が、死んだワルターのように見えることに戸惑いながら、早鐘のように打つ心臓を男に見えないように押さえて、やっと車を動かす。
 タイヤが砂利を噛む音にかぶせて、怪我が痛むのか眉を寄せたままの男が、後ろから静かにヤンに向かって名乗った。
 「ワルター・フォン・シェーンコップ、貴方は?」
 「ヤン──ヤン、ウェンリー。」
 滅多と名乗りも思い出しもしない自分の名前が、すぐにはきちんと音にならず、幸いにそれほどつっかえもせずに名乗り返すと、男が唇でだけヤン、と口移しにしたのをミラーの中に確かめて、ヤンも男と同じように、自分も口の中でだけ男の名を繰り返した。
 ワルターと言う名だけを、もう一度、男に見えないように、ゆっくりと唇を動かして、声に出さないために、ヤンは下唇をきつく噛んだ。

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