パラレルコプヤン。天涯孤独のヤン少年の異種同種恋愛譚。アッテンボロー家族。
* リアル獣姦展開含 *

変化たちの森 9

 ドアが激しく叩かれている。ひどくうるさい。ヤンはごそごそと起き出して、まだ半ば寝ぼけたまま、その音へ耳を澄ました。
 先輩、ヤン先輩、と叩く合間に聞こえるのは確かにアッテンボローの声だった。
 今は一体何時だろう。裏庭でノートを焼いた後、しばらく台所でひとりぼんやりしてから、さすがに徹夜の後の睡魔に勝てずにベッドに入ったけれど、眠気は目の前で踊っているくせになかなか眠りには入れず、頭の中でラップとジェシカのことばかり考えていたのを覚えている。眠った後も、夢はふたりのことばっかりだったなと思い出して、ヤンはまるで二日酔いのように重い──よく知らないけれど──頭の中に、容赦なく入って来るドアを叩く音とアッテンボローの声に、顔をしかめながらもとにかくベッドを出た。
 パジャマのまま玄関へ現れたヤンを見て、アッテンボローはなぜか驚いた顔を見せ、次の瞬間には安堵をそこに刷き、それからすぐに妙に真剣な表情を浮かべて、
 「ウチに、夕飯食べに来いって、親父が・・・。」
 アッテンボローの向こう、ヤンの車の後ろに、そう言えばアッテンボローの家の車が見えた。運転しているのはアッテンボローの父親なのか。
 「ついでに、今夜は泊まって行かないかって。」
 申し出を断らせない重さが、アッテンボローの声の底にあった。
 「・・・別に、いいけど・・・。」
 寝起きの、まだ少しぼんやりの取れない声でヤンが答えると、ヤンの肩を押すようにアッテンボローが中に入って来る。見慣れているはずの家の中を見回して、まるで何か探すように視線をあちこちに投げる。何だろうと、ヤンは思った。
 「ちょっと待ってくれ。寝てたんだ。着替えて、顔洗うから・・・。」
 今朝早く、突然にアッテンボロー宅を訪れたことを、今になって少しだけ恥ずかしくなって、アッテンボローになら自分の書いたものを読まれても平気だったのに、あのコピーを読んだのかどうかと確かめるのもためらわれて、ヤンは黙り込んでアッテンボローへ背中を向ける。
 自分の部屋へ行くヤンの後ろをついて来て、中に入ろうとするのを、着替えるからと、ヤンはアッテンボローの鼻先でドアを締めた。
 今はあまり顔を見られたくなかったし、自分の裸を見られるのもいやだった。アッテンボローに対する自分のよそよそしさに自分で驚きながら、ヤンはクローゼットから出したシャツの中に自分の身を包んで隠すつもりで、必要もないのに、もう1枚上着を羽織ることにした。
 「あの話、終わったんですね。」
 ドアの向こうから、アッテンボローがヤンに話し掛け続ける。
 「うん、終わらせないと、次が書けないだろ。」
 考えずにただの相槌のつもりで口からこぼれた自分の物言いに、ヤンは突然虚を突かれたように、そうか、自分はまた何か書くつもりでいるのかと、まだ真空のままの頭の中にたった今吐いた自分の声と言葉が延々と響き続けるのを聞いた。
 次があるのか。次なんて書けるのか。あれで何もかも、吐き出して何も残ってないじゃないか。自分の頭の中を覗き込んでも、何も見当たらない。まるで空の本棚みたいだと思った。その本棚の前にいたジェシカはもういない。そのジェシカの傍らにいたラップもいない。
 自分の頭の中にもういないふたりを、ヤンは、機械的に1泊分の準備を手元に集めながら、見知らぬ砂漠を走り回るように探し回っている。
 ふたりはどこにもいない。
 ドアを開け、荷物を詰めたバックパックを手に、アッテンボローを押しのけるようにしてバスルームへゆく。
 顔を洗い、うがいだけして、歯ブラシと歯磨きのチューブを荷物に放り込んで、ヤンはいつものように髪には指だけ通して、無表情なまま、行こうかと自分を待つアッテンボローへ言った。
 今度は、ヤンが先に立つアッテンボローを追って、戸締まりをし、自分たちを待つ車へゆく。アッテンボローはヤンの様子が明らかに沈んでいるのに気づいているのか、自分は助手席へ行き、ヤンだけが後部座席へ入る。
 やあ、とアッテンボローそっくりの髪色の彼の父親が、快活な、けれど明る過ぎないように慎重に調節したような声を投げて来る。こんにちは、どうも、とヤンは頭を軽く下げ、それきり話も特に会話にも繋がらない。
 食事においでとか、泊まって行くといいとか、アッテンボロー家からそんな誘いは時折あったけれど、こんな風にアッテンボローが血相を変えてヤンを招びに来たのは初めてだ。ラップとジェシカのせい、そして今朝の、尋常ではない様子の早朝の訪問のせいだろうとヤンは理解して、自分からそのことについて口を開くことはしない。無理に開かせることもするような人たちではなく、夕食の後には多分、アッテンボローが何か訊いては来るだろうなと、ヤンは少しだけそれを鬱陶しく思った。
 それでも、こんな風に自分を気遣って、そして思うだけではなく実際に少々強引でも行動に移す人たちの身近にいることを、家族のいないヤンはありがたくも思う程度に、今は気持ちは落ち着いてもいる気がするのは、まだ頭の中の眠気の霧が完全に晴れてはいないせいだろう。
 自分のことばかり考えながら、ふと目の前に並んだよく似た頭をふたつ見比べて、ショックを受けて悲しんでいるのはアッテンボローも同じで、アッテンボローの家族はアッテンボローのことも心配しているはずだった。そしてアッテンボロー自身にきちんとした慰めが必要で、そのために自分が呼ばれたのだと思い至って、ああ家族とはそういうものだったなと、ひどく懐かしいもののようにヤンは考えている。
 ラップを、とても優しいいい子だったと言った、ラップの母親。ジェシカの家族と話しはしなかったけれど、彼女の家族もきっと、ジェシカがどれほど素晴らしい娘だったかを語り続けるのだろう。
 そうやって、ラップとジェシカを、思い出の中にできるだけ長く生かしておくために。覚えていることは、生きているのと同義だ。忘れない限り、ジェシカとラップは記憶の中で生き続ける。ふたりは、そうやってヤンの中でも生き続けるのだ。
 人に憶えておいてもらうって、案外大事だな。ヤンはぼんやりと思う。顔も名前も見分けてもらえない、視界から消えれば次の瞬間には忘れ去られてしまう自分のことを、自分は生きていても生きていないのと変わらないなと、今は何をしてもざわめかない胸の中で思いついて、見るものもない窓の外を、ヤンはぼうっと眺め続けている。

 
 車の中でまったく話の弾まなかったのと同じに、夕食の席でもヤンは黙り込んでばかりだった。
 トマトソースのパスタに山ほどのサラダ、たくさんの手が目の前を行き交い、アッテンボローのいちばん上の姉はいなかったけれど、ヤンを含めて6人、巨大なテーブルについてそれぞれに皿を回し、誰かが誰かのサラダを取り分け、ドレッシングはどこだ塩はどこだとしばらく騒がしい。
 ヤンは、アッテンボローのすぐ上の姉があれこれ盛り付けてくれた皿を受け取り、短くつぶやいた礼以外は口をつぐんで、すぐに皿にうつむき込んだ。
 幸い、誰もヤンを無理に会話に引き込もうとはせずに、アッテンボローは主に父親と、母親は娘たちと、当たり障りのない話題を投げて返しまた投げている、何の変哲もない家族の団欒だった。
 アッテンボローの父親は、ふと気づくと、ヤンを見守るような視線を投げて来て、その後で必ず息子のアッテンボローを見て、何か言いたげに再びヤンを見るのだけれど、ヤンはそれを上目に受け止めはしても、気づかない振りを無言で続けた。
 隣りのアッテンボローの食べるスピードを、ちらちら見ながらそれに合わせて、ヤンはアッテンボローと一緒にお代わりをし、同じタイミングで食べ終わり、アッテンボローがごちそうさまと立ち上がると、同時に同じことを言って空の皿を手に立ち上がる。
 心底リラックスしたこともないにせよ、彼らといるのが別に苦痛と言うわけでもないのに、アッテンボローの家族との今夜の夕食は、ヤンには何となく居心地が悪く、ひとりになりたい気持ちと、ひとりにせずに一緒にいてくれる彼らに対する感謝と、両方が自分でもどちらに天秤が傾くのか分からない比率で混じり合っていて、ヤンはアッテンボローの両親と姉たちから不自然に視線をそらし、うつむいたままキッチンへ皿を下げに行くアッテンボローの後を追った。
 アッテンボローは冷蔵庫からコーラを取り出し、ヤンにはアイスティーの缶を投げて来た。すぐに缶を開けて口をつけながら、天井を指差す。自分の部屋へ行こうと言う意味だ。ヤンも同じようにアイスティーをひと口飲んで、アッテンボローへうなずいた。
 部屋へ着くと、アッテンボローは、他の家族はまだ食事中なのを聞こえて来る声で確かめて、ドアを締めてヤンの傍へやって来る。
 今日は突然で済まなかったと、妙に大人びた口調で言い、ヤンと一緒に自分のベッドへ腰を下ろすと、ちょっと肩を落とし、ヤンの方をちらちら上目に見ながら、長い間言い淀んでいた。それから、ひどく言い難そうに、
 「今日、先輩がオレに渡して行ったアレ、親父が・・・。」
 アイスティーを口元へ運んでいたヤンの手が止まる。
 「先輩の様子がおかしかったから、何かほら・・・遺書って言うか、書き置きって言うか、そんなもんじゃないかって親父が心配して・・・それで・・・。」
 「オヤジさん、読んだのか、アレ。」
 アッテンボローが胸元に尖ったあごを引きつけ、肩に頭を埋め込むようにしながら小さくうなずいた。
 なるほど、あの食事中の視線はそのせいか。ろくに話もしたことのない息子の友人の、頭の中身を突然見せつけられて、向こうも困惑しかないだろうにと、ヤンは平たく考えている。
 身近な人間に素裸を見られたような羞恥は間違いなくそこにあったけれど、ヤンは案外狼狽もせず、読みにくい自分の手書き文字を読み通すことになったアッテンボローの父親へ、まず感じたのは同情だった。自分の息子を心配している時に、赤の他人の心配もしなければならなくなった、大人である彼のまともさへ対する、ごく軽い嘲笑のような気分が、この年頃の少年に特有の大人に対する反射的な反発であることは自分で理解できても、自分がまだジェシカとラップの死をきちんと受け止めずに、現実から目をそらしているがゆえの、感情の麻痺のせいもあるのだとは気づいていない。
 黙ったままのヤンへ、アッテンボローが必死に言い継ぐ。
 「オレも返してもらって読んだけど、親父が心配するようなことなんか何も書いてないし、最後は悲しかったけど、別にだからって悲惨てわけでもないし、希望がある感じで、いいじゃないですかアレ。」
 言い訳の最後に、読後の感想を混ぜて、ほんとうに気に入ったのか、今はヤンをそっとしておこうとするアッテンボローの気遣いか、それに対する興味も今はなく、あの話は終わってしまったのだと、自分が書いたくせに、ヤンは今になってあの続きをもう書くことはないのだと言う淋しさに襲われて、唇の端がそうと気づかずにはっきりと下がる。舌が溶けるほど甘いはずのアイスティーの、苦味ばかりが喉の奥を刺して来る。
 その苦味を消すために、ヤンはまたアイスティーをごくごく口の中に流し込んだ。
 「あれ、ジェシカ女史とラップ先輩ですか・・・。」
 恐る恐ると言う風に、アッテンボローが訊いて来る。ヤンは、どうでもいいと言う風に肩をすくめて見せた。
 「さあ、どうだろうな。書いたらああなっただけだから、おれにもよく分からないよ。」
 今は誰にも心中を吐き出す気になれず、読めば明らかなそのことも、ヤンは曖昧にごまかしてしまった。
 ヤンの嘘を、アッテンボローは追求はせずに、今は一体どちらが歳上なのか分からない態度で、彼の父親がそうしたように、ヤンをただ見守っている。
 今日は話し掛けない限り自分からは口を開かないヤンへ向かって、しばらくして、アッテンボローがまた口を開いた。
 「親父が言ってたんですけどね、もしこれからまた何か書くなら、もっとちゃんと書いたらどうかって・・・。」
 一体何の話だと、ヤンは珍しく眉を寄せた表情を作り、隠し切れずにそこに不愉快の色をわずかに刷いた。
 「今は別に、出版社に持ち込んだりとかそういうことをしなくても、ああいうのを個人的に発表することもできるからって、親父が・・・。」
 「なんだそれ。」
 アッテンボロー──とラップ──以外に見せるつもりもない趣味の書き物を、持ち込みだの発表だの言い出すアッテンボローの父親の的外れの意見に、ヤンは鼻白んで、自分を力づけようとしてくれているのだろうけれど余計なお世話だと、真っ直ぐ毒を含んで考える。
 アッテンボローに宛てたものを勝手に読まれたことにも、今になって腹が立って来て、空っぽの頭蓋骨の内側へ、怒りの薄皮がぺりぺり剥がれて積もってゆく。
 関係の遠いアッテンボローの父親へ、行き場のない様々の感情をぶつけようとしているだけだとヤンには自覚はなく、生きていれば、きっと自分の父親にそうしたろうと気づけるほどヤンはまだ大人でもない。アッテンボローの父親が、正しく自分に対して父親の態度を取ろうとしているのを、ヤンはただ余計なお節介だとしか受け止められなかった。
 ヤンの父親にせよアッテンボローの父親にせよ、ヤンの胸中を知れば、自身も覚えがあるゆえに苦笑いしながら、難しい年頃だとこれを表現したに違いなかった。
 「次を書くか分からないし、書いても誰にも見せないよ。読ませるのはおまえだけでいいよ。」
 「でもオレ、先輩が書いたの、誰かが読んでくれたら、一緒に話ができて楽しいのにな。」
 空になったコーラの缶を両手の中に軽く握り潰しながら、アッテンボローが乾いた声で言う。
 奥行きのないままの声がベッドに吸い取られて消えて、ヤンは、アッテンボローの言うその誰かがラップだったことを思い出すと、自分の気持ちにばかり拘泥して、アッテンボローのことなどこれっぽっちも思いやらない自分の冷血さに突然気づいて、追悼の場でそうしていたように、アッテンボローの肩へそっと腕を回した。
 ヤンが触れた途端、アッテンボローの薄い肩が震え出す。
 「なんで、こんなことに、なっちゃったかなあ・・・。」
 身近な人が突然姿を消すのは初めてのはずのアッテンボローへ、掛ける慰めの言葉も思いつけず、ヤンはただアッテンボローの髪を撫でた。
 人は簡単に消えてしまうんだ。ラップにそう言ったと同じことを、今アッテンボローへ言うことはできず、一緒に話ができれば楽しいと言ったアッテンボローの、それはラップと自分にも当てはまるのだと思って、ヤンは改めて、ラップのいない自分の空ろさを思い知る。
 話すだけではない。抱き合って、ぬくもりを分け合うこと。あの秘密を、少なくともラップとは語らうことができだのだ。ひとりではないと言うのは、ひとりですべてを抱え込まなくてもいいと言うことだ。
 アッテンボローが自分へ向かって、限度の線を探りながら少しずつぶつけて来る悲しみを、ヤンは何とか受け止めながら、自分の悲しみと淋しさは持て余す一方だった。思い切りぶつける先は、結局紙の上でしかないのかと、空になった自分の頭の中にただ反響する、オレと一緒に行こうと言うラップの声を、その声の主の姿の見当たらないことへ今はかすかに怒りを感じて、それもまたぶつける先もなく、頭の中にただ降り積もってゆくだけだった。
 ヤンは、静かに言った。
 「おまえのオヤジさんの言った、発表するのがどうのってのは、一応考えておくよ。それでいいか。」
 ヤンの腕にしがみついて来て、アッテンボローがそこで小さくうなずく。
 アッテンボローの母親が、下から声を投げて来た。コーヒーはどうかと訊くのへ答えようとするアッテンボローの涙混じりのかすれた声の代わりに、ヤンの奇妙に通る声が階下へ届く。
 トマトソースの匂いに、じきコーヒーの香りが混じって、家族のざわめきと一緒にふたりの元へもたどり着き、アッテンボローはシャツの袖で涙を拭いながらやっとヤンから体を離す。
 行こうと、下へ戻るために、ヤンはアッテンボローの手を取った。部屋を出る前に、アッテンボローがもう一度濡れた頬をぐいと拭う。
 人は簡単に消えてしまうんだ。自分の言ったことを思い出しながら、ヤンはアッテンボローの肩をそっと抱き寄せ、ラップとは高さの違うその肩を、違う角度で見上げて、今は泣かないために歯を食い縛った。

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