* リアル獣姦展開含 *
変化たちの森 10
誰に何も強制されない夏が始まり、それでも2、3日に1度はアッテンボローが誘いを掛けて来る、その電話で起こされ、ぼんやりと起き出して無理矢理に身支度を整え、アッテンボローの家で午後を過ごす。それ以外は、ひとり本を読んで1日が終わる、そんなヤンの日々だった。何か新たに書き出すと言う気持ちはあっても、まだ指が思う通りには動かず、ノートを開いても何か言葉をふたつみっつ書いて、文章にはならないまま埋まらないページを無駄にし続けていた。
焦る気持ちが湧かないことに、うっすらと焦燥感はあっても、それをどうしていいのか分からず、長い夏の間に、自分はもう何も書かなくなってしまうのかもしれないと言う漠然とした予感もあった。
アッテンボローは、読んだ本の話はしても、何か書いたとノートを持って来ることをしないヤンを明らかに心配していて、自宅にヤンがやって来るたびに、何となく水を向けはするけれど、ヤン自身はただ黙って髪をくしゃくしゃ混ぜて、さあと言うきりで、アッテンボローに話の糸口も与えないのだった。
様々のことを面倒くさがるのはヤンの常だけれど、この夏のヤンの怠惰な空気はいつものそれとは少し違い、誰もが知るその理由に、ふたりはあえて触れずにいる。
アッテンボローは、ヤンを心配することで自分の不安から目をそらせ、ヤンはアッテンボローの不安に付き合うことで、自分の受けたショックを直視せずにいて、ふたりはそうして肩を寄り添わせて、互いが突然消えたりはしないかと見張り合っているのだけれど、それをはっきりとぶつけるには、まだ感情が生々し過ぎ、そしてふたりとも傷つき過ぎていた。
人は簡単に消えてしまうんだと、ラップには言えたそのことを、ヤンはアッテンボローには口にできず、アッテンボローは、ラップやジェシカみたいにどこかへ行ってしまわないでくれと、ヤンにはっきりとは言えないのだった。口にすることでそれが現実のことになってしまいそうで、ふたりは自分の怯えを隠して、それを相手の怯えなのだとわざと誤解した振りで、自分が相手を守っているのだと思い込もうとしている。
この年のふたりの少年の夏には、色も匂いも音もないように思えた。
ある日、アッテンボローが、例の父親が言っていたと言うことを、ヤンに向かってまた蒸し返した。
「ブログに載せるとか、そういうのどうかなって・・・。」
「え、それって、タイプし直せってことか。」
「・・・そうなりますね。」
ヤンはうんざりした表情でアッテンボローをじっと見る。
ヤンの家にあるコンピューターは、父親が仕事で、商談のための書類を作る程度の機能しかなく、ヤンはろくに触ったこともない。学校の宿題でコンピューターが必要な時は学校のPCルームへ行けば良かったから、ヤンはそれ以外の用途でコンピューターが自分に必要だと思ったこともなかった。そもそもタイプは苦手以前で、人差し指でキーを探し探し打つのがやっとだ。
手で書く方がずっと早いよ。ヤンはまた髪をくしゃくしゃ混ぜた。
「ネットのことはよく分からないし・・・ブログとか言われても・・・。」
「ならオレが打ち直しましょうか? ブログもオレが作って管理しますよ。先輩は今まで通り、書いてオレに見せてくれたら──」
アッテンボローが身を乗り出して来る。濃い緑色の目がきらきら輝いて見える。こんな顔は久しぶりに見たなと、ヤンは思って、思わずうなずきそうになったところで踏みとどまる。
「いや、やるなら自分でやるよ。でもほんとにやるなら、まず新しいコンピューターを買うところからかなあ。オヤジのは古くて使えないだろうし。」
「そこからですか。」
「そこからだよ。第一、オヤジのコンピューターじゃ、ネットもまともに使えるかどうか分からないんだから。」
アッテンボローが、今さら呆れた顔をする。ここのような街中ならともかく、ヤンの家ではネットなど二の次、暮らしに必須の水や暖房以外は完全に後回しだ。車でたかが10分程度の距離でも、家族がみな自室にそれぞれコンピューターを持っているアッテンボローの家とはまるで環境が違うのだった。
ネットが必要なら学校のPCルームがあるし、家では読書と書き物で時間のつぶれるヤンには、コンピューターなど使い道もない。それでもアッテンボローの久しぶりに輝く目を見ていると、アッテンボローの言う通りにしてみるもの悪くはないかもと言う気もちらとした。
庭で焼いてしまったノートは、もうアッテンボローが持っているコピーしかない。あれを全部、夏の間に全部打ち直して、そうすればまた心の中でラップとジェシカに会えると、ヤンはぼんやりそんなことも考えている。
父親が残してくれた金があるとは言え、それはまだ完全にヤンの自由になるわけではなく、決まった頻度でそこから少しずつヤンの手元へ渡される形になっていて、その管理は、父親が死んだ時に世話をしてくれた弁護士のキャゼルヌがしていた。
年に2、3度はキャゼルヌから連絡があり、元気にしているか、金は足りているか、無駄遣いはしていないか、何か必要なものはあるかと、いつも同じ質問をされ、上っ面でもないような親身なキャゼルヌの調子に、別に、特に何も、と言葉短く答えるのがヤンの常で、ヤンの方から何か尋ねたこともない。
新しいコンピューターを買う程度のことはキャゼルヌにお伺いを立てる必要もないのだけれど、ヤンはふと高校から先へ進むなら学費はどうなるのかと、訊いておくのも悪くはないとキャゼルヌに連絡を取ることにした。
きちんと事務所に、仕事の時間内に電話したと言うのに、キャゼルヌはヤンが話を切り出した途端に、それならうちで話そうと自宅へ誘って来る。
なぜ誰も彼も自分を自宅へ招きたがるのかと、ヤンは聞こえないようにため息をついて、ちょっとだけうんざりしながらもそれを断らなかったのは、やはりヤンも知らずに人恋しかったのかもしれない。
「ウチの女房のパイはちょっとしたもんだぞ。」
明るい声でキャゼルヌが、電話を切る前に言ったのに、ヤンは苦笑いをこぼした。
小さな娘がふたりいると言うキャゼルヌの家は、アッテンボローの家より少しだけ小さかったけれど、ひとつ向こう側の街の端に近い、明らかに高級住宅地の中にあった。
ヤンの、手に入れて以来あまり気を使っていない古い車は、ぴかぴかの街並みの中で悪目立ちして、ヤンは肩を縮めるようにしてキャゼルヌ宅のドライブウェイへ入り込む。
汚れもくすみもない玄関のドアの前に立った途端、待っていたように開いたそこに、金髪の女性が、両脇に小さな女の子をふたり抱えるようにして姿を現した。
「ヤン?」
一瞬、ヤンは彼女を見上げた角度にジェシカを思い出し、慌てて女の子たちの方へ視線を下げる。
「こんばんは。」
「こんばんは!」
ヤンの挨拶に、女の子たちが元気に応える。女の子たちの髪色は彼女のそれよりひと色淡く、瞳の色は覚えているキャゼルヌのそれそっくりに見えた。
中へ入ると、外から見た印象そのまま、色の淡い壁にすべてが揃いに見える家具、そこに幼い女の子ふたりと母親は、まるで家の一部のようにしっくりとはまり、ヤンは自分の場違いさに、来るんじゃなかったとすでに後悔している。
キャゼルヌは、これもどこもぴかぴかのキッチンでオーブンから何か取り出しているところで、ヤンを見ると顔いっぱいの笑顔を浮かべて、手からミトンを外しながらこちらへやって来た。
「背が伸びたな。」
自分の肩を越した辺りのヤンを引き寄せて、まるで旧知の間柄のような仕草で、そのままヤンをキッチンの向こうの端の大きなテーブルへ案内する。
「酒はまだ飲めないんだったか。」
「・・・車ですから。」
「ああ、そうだったな。」
まだ肩を縮めたまま椅子に坐るヤンへ、愉快そうに言う。
「アレックス、高校生に、冗談でもやめてちょうだい。」
まだ名前を聞いていないキャゼルヌ夫人が、美人と言っていい顔の中心に眉を集めて声を尖らせた。彼女を真似して、娘ふたりがやーめーてーと声を合わせてはしゃぐのに、キャゼルヌはすでに皿やフォークの出ているテーブルへ向かって手を振り、ごまかすように子どもたちにテーブルへつくように言った。
キャゼルヌは夫人と一緒にテーブルへ料理を運び、全員が揃ったところで、ようやくひとりひとりを指差して、誰が誰とヤンに紹介してくれる。
ヤンは名前を言われるたびに、改めてそれぞれに軽く頭を下げ、女の子ふたりにヤンお兄ちゃまと呼ばれたのにはちょっと閉口しながら、アッテンボロー宅の家族団欒よりもさらにむず痒い気分で、キャゼルヌ夫人──オルタンスと言う名前の方で、大人の女性を呼ぶのにヤンは慣れていない──のお手製だと言うラザニアの味も、半分も分からない。その半分でも、驚くほど美味しかったのだけれど。
女の子たちはおしゃべりで、キャゼルヌはもっぱら聞き役に回り、夫人は一瞬も笑顔を絶やさない。
テーブルの上を行き交う声の中で、ジェシカとラップが結婚したらこんな風だったろうかと、キャゼルヌ夫妻と、彼らの子どもたちとひと目で分かる娘ふたりを見て、ヤンのフォークの手はつい止まりがちになる。半分だった味が、もっと分からなくなりそうで、お代わりをと夫人の差し出した手を、ヤンは断ってしまった。
「なんだもう腹いっぱいか。」
キャゼルヌは自分の皿へ小さめのひと切れを乗せながら、同じくらいのサイズを、無理矢理ヤンの皿へも置く。
「遠慮するな。もっと食べろ。」
「もっと食べろ!」
キャゼルヌそっくりの言い方で、また女の子たちが声を揃えた。
夫人は3人をちらりと見て、どうしようもないと言う風に、ヤンの方へ首を振って見せた。
ヤンはそれでやっと愛想笑いの仕方を思い出し、こわばった口元を何とか笑みの形にして、ふた切れ目の、これはさらに味の消えたラザニアへフォークを突き刺す。
トマトソースの赤が、真っ白な皿の上でやけに毒々しく目に映る。
夫人が、何か言いながらキャゼルヌの肩に触れた。夫人の口元へ耳を寄せてゆくキャゼルヌの動きに、またジェシカとラップを思い出して、ヤンは口の中のラザニアを、ほとんど噛まずに飲み込んだ。
大人はきっとこんな時に酒を飲むのだと、トマトソースに真っ赤に染まった自分の舌を想像しながら、ヤンは思った。
「で、どうするんだ、大学に行くのか。」
食事が終わり、キャゼルヌはコーヒーを、ヤンは紅茶を手に、やっとふたりきりキャゼルヌの書斎へ閉じこもる。ドアを閉めると、甲高い女の子たちの声はすっかり遠ざかった。
「まだ、分かりません。でも、学費が大丈夫かどうかくらいは訊いておこうと思って。」
「とりあえず、お前さんが街の大学に、あの家から通うなら問題はない。その分はちゃんとするように、とっくにお前さんのオヤジさんから頼まれてたしな。」
そうですか、とヤンはうなずいた。
「成績は問題ないんだろう。」
まるで、ほんとうの父親みたいにキャゼルヌが訊いて来る。ヤンは再び、今度は曖昧にうなずいて、ごまかすために頭をかいた。
キャゼルヌは、ヤンの頭の中を見通すように額の辺りへ視線を据えて、不意に真顔になると、
「まあ、行けるなら大学くらい行っておけ。卒業証書は邪魔にはならん。」
弁護士のキャゼルヌに言われると、その通りだと素直に思いはして、けれどそんな先のことは分からないと、ヤンは意味もなく胸の中で反駁している。
ジェシカは大学へ行くことが決まっていて、行くことができなくなってしまったのだから。先のことなんか、決めたって無駄じゃないか。
それなのになぜ自分は、わざわざキャゼルヌに会いに来たのだろうと今さら不思議に思って、一体自分は先のことを考えたいのか考えたくないのか、ヤンは自分でよく分からなくなって来る。
この夏の終わりに、自分が生きていると言う保証はない。ジェシカもラップも、あの夜自分たちが死んでしまうと、考えもしなかったはずだ。
自分はただ、運良く生き延びているだけで、今夜の続きに明日の朝があり、明日の朝の後に明後日がやって来て、けれど明々後日が必ずあると信じる根拠はどこにもない。
人は、簡単に消えてしまうんだ。ほんとうに、簡単に、消えてしまうんだ、ラップ。
目の前の、ふたりの娘を持つこの男も、そんなことを考えるのだろうか。ヤンの父親が突然事故で亡くなったように、自分も家族を残して思いも掛けない死に方をするかもと、考えたことはあるのだろうか。
考えるからこそ、天涯孤独になったヤンに対して、こんな風に優しく振る舞うのだと分かっていても、実際にふた親と、そしてつい数週間前に友人たち──とても特別の、友人たち──を亡くした自分の気持ちなど誰にも分かるはずがない、自分自身にすら、直視を避けている限り理解不能なのだからと、半ば拗ねるように考えてもいる。
キャゼルヌが静かな声で、何か現実的な話をしているのを、ヤンは真剣にじっと耳を傾けている振りをする。
声は耳を素通りし、ラップと重なるキャゼルヌの姿が、ヤンの視界の中で遠く小さくなる。一緒に遠ざかる声を、ヤンはもう追おうとはしなかった。
両手に抱えたカップの中で紅茶が冷めてゆき、ドアの向こうから漂い始めた甘い匂いと共に、再び聞こえ始めた女の子たちの声に耳を塞ぎたい気持ちになりながら、ヤンは、もう二度と会えないジェシカとラップが恋しくてたまらなかった。