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一文字お題5@Theme

1. 好 (仗助)

 「花京院さん。」
 一応は抑えたつもりらしい声が、肩の後ろからやって来る。読んでいた本から顔を上げて、花京院は声の主の方へ、頬杖をついたまま軽く振り返った。
 「邪魔っスか?」
 放課後のこの時間になってもひと筋の乱れもない、見事なリーゼントの仗助が、散歩を期待する犬のような表情でこちらを見ている。いや、と微笑みながら開いていたページへ指を挟んで本を閉じ、花京院は自分の隣りの空いた椅子へあごをしゃくる。
 「億泰のヤツが特別補習でまだ帰れないんスよー。あのバカ、要領悪ィから数学でひでえ点取ったらしくて。」
 息継ぎがどこか分からない、途切れない喋り方のその声を、図書館の入り口近くのカウンターの中から、咎める視線を司書の女性が投げて来る。それに仗助の肩越しに気づいている花京院は、そっと自分の唇へ人差し指を立てて、けれど微笑みの表情は消さないままだ。
 おっと、と仗助が大袈裟に肩をすくめて、花京院を真似て自分の唇へ人差し指を立てて見せた。
 「すンませン。」
 いかにもこんなところには居慣れていない風に、ちょっと鬱陶しそうに司書の女性に視線を飛ばし、声を低めるために、仗助は花京院へ顔を近づけて来た。
 そうやって、ジョセフに良く似た、濃くて太い眉とふっくらとした唇が間近に迫ると、花京院はそれを微笑ましく受け取りながら、もうひとつ別に思い浮かぶ面影のせいでちょっと速くなる鼓動を、仗助には知られないように、胸に当てた掌の下で鎮めようとする。
 「まだ本読んでるんスか。」
 暗に、騒がしくすると叱られるここから出ないかと、仗助が誘って来る。息の掛かる近さへ平気で寄って来るのは、仗助の無邪気さの現れだ。この幼さを好ましく思いながら、花京院はもう仗助に付き合うつもりで、読み掛けのその本へしおりを滑り込ませた。
 「いいよ、行こう。」
 言いながら、仗助へ手本を見せるために、花京院は静かに椅子を後ろへ押して立ち上がる。空気すら揺らさないようなその所作に、仗助が一瞬呆気に取られたように、坐って背中を丸めたまま花京院を見上げ、その瞳──これもまた、誰かそっくりに、深くて濃い緑色だ──に憧憬のような色が浮かんだのに、花京院は面映ゆく視線をずらした。
 仗助は、花京院を見習ってできるだけ静かに椅子から立ち上がり、きちんとルールは理解していると示すためか、また司書の方へ振り向きながら音をさせずに花京院の後へ続いた。
 ドアを抜け、廊下に出ると、仗助がはあっと大きく息を吐く。何をするにも騒がしいこの1年生には、図書室は鬼門のようだ。
 薄いカバンは脇へ挟み、花京院より背は高いはずなのに、姿勢が悪いので目線の位置は時々花京院よりも下になる。
 「今日は康一くんは一緒じゃないのかい。」
 放課後の暇つぶしなら、花京院よりも康一との方が適当ではないかと思いながら、花京院は何気なく訊いた。途端に仗助の声のトーンが上がる。
 「アイツはダメっすよー! プッツン由花子にがっちりシッポ掴まれてて、テストの点が由花子のお眼鏡に叶わなかったからって、とっとと連行されてったんスよッ!」
 人気のない廊下で肩を並べて──教師に見つかると、通り道を塞ぐなと怒られる──、仗助は大きな身振りと手振りとくるくる変わる表情で、怒髪天を突きそうな由花子と、絶望に顔色もない康一のその時の様子を、花京院に向かって再現してくれた。
 仲はいいらしいけれど、問題がないわけではない康一と由花子のカップルの事情を、花京院はもちろん仗助たちほど詳しくは知らず、時々校内の片隅で、ちぐはぐな背の高さをほとんど溶け合わせるようにしながら一緒にいるところを何度か目撃したことがある程度だった。
 そんなふたりを見掛ければ、無遠慮にからかいと邪魔の声を掛けるのは当然仗助や億泰たちで、花京院は目を伏せて恋人同士を静かに避けるだけだ。
 人目もはばからない──本人たちは、十分こっそりのつもりなのかもしれない──振る舞いを、花京院は照れが半分、残りの半分は羨望のような気持ちで視界の隅から消す。花京院には、そんな振る舞いはまだ許されていないからだ。
 思い出らしい思い出もない以前の高校生活と違って、ここでの花京院の時間は、常に様々なことに彩られている。
 ほとんど無礼なほどの遠慮のなさで花京院に親しみを見せるこの仗助と億泰、彼らに比べればずっと行儀の良い康一、個人的な付き合いはないけれど、会えば挨拶をする程度には親しい由花子、そして顔を合わせるたび、挨拶も前置きもなく絵の話を始める岸辺露伴、他にもまだ、花京院には友人知人と言える人たちがこの杜王町にはたくさんいた。
 彼らの共通点は、花京院同様スタンド使いと言うことだ。そしてそれを抜きにしても、彼らはひとりひとり興味深く、面白い人たちだった。
 それがなければ、この町にこんな風にとどまることを選びはしなかったろう。
 隣りで、明るくしゃべり続ける仗助の声へ耳を傾けながら、ここで起こった事件の陰惨さに胸の奥はまだうずくのに、同時に、思い出せば胸の他の場所はあたたかく満たされてゆくことを、花京院は不思議にもありがたくも思う。
 皆が守って救ったこの町だった。そして、守護神のように現れた承太郎は希望を残してここを去り、その希望を受け継いだひとりとして、花京院は今この町に暮らしている。
 承太郎の残した、その希望そのもののような仗助は、ジョースターの血に連なると言う意味だけではなく、花京院にとっては何か縁の深い存在のようだった。
 ジョセフと仗助、そして承太郎、ジョースターの血統に、こうまで深く長く関わることになるとは思わず、そしてジョースターの血と出逢わなければ、巡り合うこともなかった様々の事柄と人たちと、これをきっと運命と言うのだろうと、花京院は仗助に向ける微笑みは薄めもせずに考えていた。
 その運命とやらは、ようやく平凡で穏やかな、この町での静かな暮らしへ落ち着こうとしている。
 確かにこの町は、人をそんな気分にさせる。朝が来て、昼を過ごし、夕飯の匂いがあちこちから立ち上(のぼ)る町中を通って、皆自分の家へ帰る。昨日の続きに今日があり、今日の次には明日がやって来ると、それを素直に信じることのできる、杜王町はそんなごく普通のどこにでもある、けれどそこへたどり着くまでに想像を絶する経緯を経る羽目になった不思議な町だった。
 その不思議を、そこらへ転がる平凡さへ引き戻したのは、仗助を初めとするこの町のスタンド使いたちだ。外から来た人間として、それに関わったことを、花京院は心のどこかで淡く誇りにも思いながら、この町に起こった不思議と自分の身に起こった不思議を、重ね合わせて考えずにはいられない。
 承太郎にそう言った通り、この町は花京院自身だ。そして承太郎自身でもある。
 承太郎とジョセフが去った後で、夏と秋を過ごし、冬の近くなりつつあるこの頃、日1日と、この町への愛着が増すのを、花京院は止めることができない。
 ここは、とてもいい処だ。
 胸の中へ抱え込んだ承太郎の面影へ向かって、花京院は胸の中でひとりごちる。そして仗助へ向かって、いっそう微笑みを深くして、1年生の教室へ向かって階下へゆくのに、階段へ向けて肩を回した。
 「どこで億泰くんを待つんだい?」
 先に階段を下りていた仗助が、少し慌てたようにそこで足を止めて花京院を振り返った。
 「あー・・・廊下で待ってたらヤバいっすよね? うるせェって先公に怒られっかな。」
 頭に手をやっても、リーゼントは絶対に崩さないように指先に気をつけている。さすが仗助だと思いながら、花京院も考えをめぐらせるようにちょっと肩をすくめた。
 「屋上へでも行くかい?」
 何となく、不良と言えば屋上へたむろいたがると言う先入観で、そんな風に言ってみた。
 「屋上って、鍵掛かってんすよ。それに3年生とかいるとうるせェし。」
 「何だ、君でも上級生は怖いのか。」
 「怖いってわけじゃないッスよ! 絡まれたらめんどうなだけッスよ。花京院さん、まだ体完全じゃないんでしょ? おれひとりならいいッスけど、花京院さんも絡まれたら色々後でめんどうくせェし。」
 一体承太郎が、花京院のことをどんな風に言ったのか、仗助は花京院に無理をさせてはいけないと思い込んでいるようだ。不良高校生のひとりやふたり、ハイエロファント・グリーンがいなくても不安はなかったけれど、ひとりいきり立つ仗助の気持ちに水を差す気にもならず、花京院はただ曖昧な微笑を口元へ浮かべるだけにした。
 「じゃあまた、図書室に戻るかい?」
 茶化すように言うと、仗助が顔を真っ赤にして、思い切り首を振る。
 「あそこじゃ話もできないじゃないスかーッ!」
 貸し出しカードに名前の記入などしたこともなさそうな仗助が、いかにも嫌そうにぶるっと肩を震わせて見せた。
 「とりあえず外行きましょ、外。プールまで行ったら、フェンス越えたら自販機もあるし。」
 なるほど、よく仗助たちが一緒にいる、学校の敷地の端のブールサイドだ。彼らのたまり場らしいそこへ、自分が行ってもいいのかと思いながら、花京院は勢い込んでまた階段を降り始めた仗助の後へ着いてゆく。
 「そこにいるって、億泰くんには知らせなくていいのかい?」
 「おれらがいなきゃ探しに来んでしょ、行きましょ行きましょ花京院さん。」
 花京院の手を取って引っ張りたそうに、どうやら自販機での買い食いに、もう仗助の心は飛んでいるらしい。
 「じゃあ、僕がハイエロファントで知らせておくよ。」
 仗助の浮かれぶりに、思わず吹き出しながら、花京院は置いてきぼりの億泰に気を使って、もう廊下の床に素早くスタンドの触脚を伸ばし始めていた。
 億泰の気配を探るのは簡単だ。10人足らずの教室の中で、億泰は廊下側のいちばん後ろの席で、心ここにあらずと言った風にノートにうつむき込んでいる振りで、きょろきょろと視線が忙しないのが伝わって来る。
 所在なさげな億泰の肩をそっと叩き、驚かせないようにハイエロファント・グリーンの姿を見せてから、耳元に、プールサイドで仗助と一緒に待っているとスタンドの声でささやく。花京院の伝言を受け取った途端、億泰が生き返ったように瞳を輝かせた。
 「あそこの自販機、おれこの間当たりが出たんスよ! 今日は何にしようっかなー。」
 仗助はまた花京院と肩を並べて下駄箱の手前へ進みながら、はしゃいでどんと花京院へ肩をぶつけて来る。
 仗助と一緒に校舎の外へ出ると、いきなり明るくなった視界の中に、青い空を降り仰ぐ。まぶしさに目を細めて、仗助と肩を並べて校庭の端を騒がしく歩いてゆく自分を、まるで普通の高校生みたいだと花京院は思った。
 ここは、ほんとうにいいところだ、承太郎。
 自分たち──エジプトへ一緒に行った仲間たち──にとっては、この町そのもののような仗助へ微笑みを向けて、仗助の向こうへ見える承太郎へも、花京院は微笑み掛けている。

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