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一文字お題5@Theme

2. 楽 (億泰&トニオ)

 数字の赤点のせいで、英語を何とかしないとこのままでは留年になりかねないと、億泰に泣きつかれたのは数日前のことだった。
 実のところ、夏休みの補習で何とか追いつきはしたものの、花京院自身もいまだぶどうヶ丘高校での授業は手探りで、生来の、勉強についてだけの要領の良さは遺憾なく発揮して何とか優等生の顔を保っているけれど、内心の不安は億泰とおっつかっつだ。 
 とは言え、仗助の言うことがまだ友情を含んだ好意的なものである、現実の億泰の成績は、教師たちによれば前代未聞と言うひどさらしい。中学どころか小学校からやり直せと、しきりに困り顔で言われていると言う億泰が気の毒になって、花京院はとりあえず手を貸すことにした。
 どこか空いた教室でと思ったけれど、クラスメートや教師に見られるとバカにされるし、きっと転校生で上級生の花京院に迷惑を掛けるなと叱られると億泰が言うので、カフェ・ドゥ・マゴはどうかと提案したら、
 「あんなイチャイチャのふたり連ればっかのトコいやっスよォ!」
 すかさず半泣きの声で却下された。
 やれやれ。承太郎の口癖が、思わず舌の奥に湧いた。花京院はそれでも気を悪くはせず、じゃあどこにしようかと穏やかに尋ねると、
 「トニオさんトコ行きましょう!」
 そんなわけで放課後、億泰の下駄箱で待ち合わせて、ふたりはトニオの店、トラサルディーに向かった。
 花京院は承太郎と来て以来顔を出す機会はなかったけれど、億泰はどうやらしょっちゅうここへ来ているらしく、慣れた様子で中へ入り、他に客もなく空のテーブルに坐って何か書き物をしていたトニオに向かって、ほがらかに手を振る。
 「トニオさん、また来たぜェ!」
 億泰の後ろで花京院は軽く会釈をして見せ、さっさと億泰が、キッチンへの入り口近くのテーブルへ向かうのに慌てて着いてゆく。
 「イラッしゃいマセ。」
 優美な笑顔を浮かべて、トニオは花京院にだけ何にするかと訊いた。
 「コーヒーを。」
 「チェリーではありまセンが、ブルーベリーのタルトがありマスヨ。」
 あの夜のことを覚えていたのかと、トニオがにこやかに勧めて来るのに、花京院は素直にうなずいた。
 「あ!オレもオレも!それ!」
 学校にいた時とは打って変わって、ほとんどはしゃいだような億泰の素振りに、花京院は驚きながらこっそりと苦笑をこぼして、キッチンへ去ってゆくトニオの背中を見送ると、早速カバンの中から筆箱と小さな英語の辞書を取り出した。目覚めた直後に承太郎がくれたものだ。くたくたの表紙に掌を乗せて、花京院は一瞬だけ心をどこか他のところへ飛ばす。
 億泰の成績に困り切った英語教師が、特別にドリルをくれたとかで、表紙に中学2年生と見えたのは錯覚ではなかったようだ。
 「ここ、be動詞が抜けてるよ。」
 めくった数ページ目で、すでに頭痛を覚えながら、花京院は辛抱強くひとつひとつの間違いを億泰に指摘してゆく。
 「へ? でもこれ動詞じゃないっスか。」
 likeを指して億泰が怪訝そうに訊く。
 「このlikeは、好きのlikeじゃなくて、みたいな、って言うのはえーと、形容詞になるのかな。とにかくここはbe動詞がいる。」
 Iと言う一人称の後に、億泰はページの紙の破れそうな筆圧でisと書き込んだ。
 「・・・いや、そこはamだ、億泰くん。」
 忍耐を込めて指先で示して、なるほど、これは難物だ、と花京院は思う。
 諦めずに中学生用のドリルを渡した英語教師の良心に、億泰自身は多分思い至ってもいない。それでも、とにかくも挫けずに何とか手を着けようとしていることだけは評価すべきだと、花京院はまた億泰と一緒にドリルにうつむき込んだ。
 「readの過去形はredじゃない、r-e-a-dだ。発音はredだけど。」
 「もっかい言って?」
 「R-E-A-D。」
 ひたむきに、ひたすら一生懸命に、億泰がまずい字を、消しゴムできれいにした空白に書き込んでゆく。歳の離れた弟がいると言うのはこういうものかと、ひとりっ子の花京院は考えながら、speakの過去分詞をspeakedと書いているのを、spokeだと言ってから、いや違うspokenだったと慌てて言い直した。
 僕もたまには、中学生の英語からやり直した方が良さそうだな。
 まだ誰にも言っていないけれど、もう日本の大学へ行く気は失せている。ぶどうヶ丘高校を卒業した後は、何を専攻するかはもう少し考えるとして、花京院の心は、アメリカの大学へすでに定まっていた。
 成績が足りるのかとか、英語は大丈夫かとか、そんな心配は外に置いて、主にはこれから先を承太郎と一緒に過ごすために、それがいちばんいいのだと花京院は思い決めていた。
 僕ももう少し英語を頑張らないと。
 決して成績は悪くない。けれど億泰を助けて自分も一緒にミスしているようでは先が思いやられると、花京院はまた承太郎の口癖を、そうとは気づかずに胸の中でつぶやいている。
 「I、was、eighteen、years、old。」
 ひと言ひと言、しっかりと発音しながら億泰の手が動く。億泰が瞬きも忘れたようにドリルに向かっている間に、トニオがそっとコーヒーとタルトと、そして億泰のためのカプチーノを運んで来た。
 たっぷりと柔らかそうに盛られた泡の上には、チョコレート色のスマイルマークが描かれていて、自分もコーヒーではなくそっちにすれば良かったと、花京院は次回──きっとまた、億泰と一緒に勉強しに来るだろうから──のために心に留めた。
 「そのりんごを、わたしは、たべました?」
 トニオよりもいっそうつたない発音で、億泰が日本語の文章を読む。
 「リンゴの前に冠詞がいるよ。the appleだ。」
 ひとり先にコーヒーのカップを取り上げながら花京院が言う。
 「じ?」
 「t-h-e。」
 「あーッ!」
 合点が行ったと言う仕草で億泰が顔を上げ、そうして初めてカプチーノが運ばれていることに気づき、シャーペンを放り出して両手でカップを抱える。
 「トニオさーん!あんがとよォー!」
 足音もさせずにキッチンへ戻ったトニオが、億泰の声に顔だけひょっこりと出して見せて、億泰へ向かって手を振った。
 トニオはキッチンへ引っ込んだまま、ふたりの勉強の邪魔をしないつもりらしい。仕事の妨げではないかと心配にはなるけれど、確かにここなら静かで、こんな風に貸し切り状態でなら億泰の騒がしさも迷惑にはならなくてすむ。
 「トニオさん、時々オレの親父にもメシ作ってくれんスよ。」
 ずずっと白い泡をすすって、億泰が明るく言った。
 「ここで食べるのかい?」
 「いやいや、持ち帰りで。オレだけで親父外に連れ出すの無理っスから。」
 確かにそうだった。屈託なくあの父親のことを口にする億泰に、花京院は少し気まずい笑みを返して、ブルーベリーのタルトに添えられたフォークへ手を伸ばす振りをする。
 「親子で食事ができるのはいいな。僕は今はひとり暮らしだから。」
 思わず正直な感想を口にすると、むしゃむしゃと、手づかみでタルトにかぶりついている億泰が怪訝そうな表情で、
 「んじゃオレん家来るとか仗助ン家行くとかすればいいじゃないっスかー!」
 底抜けに明るい声で、唇の端にタルトの小さなかけらをつけたまま言われて、花京院は面食らった。
 「仗助ン家のお袋さん、すンげェメシうまィんスよ! あ、でもここだけの話っスけどォー・・・」
 突然億泰は声をひそめて口元を掌で覆い、花京院の方へ顔を近づけて来た。
 「トニオさんが作ってくれるメシ、もう絶品で、オレもう他でメシ食えないっスよ。」
 それは花京院も知っている。特に誰かと一緒に食べれば、もっとうまいだろう。
 ひとり暮らしも自炊も、面倒だとか淋しいだとか思うことはない。それでもたまには、誰かと囲む食事もいい。思いながら、花京院の手はごく自然に、英語の辞書の上に乗っていた。承太郎がいれば、こんな店にももう少し頻繁に来る気になるのだろうか。辞書の、つるつるとした紙面を差し入れた指先で撫でて、承太郎は今何をしているだろうかと、時差のことは差し置いて何となく考えた。
 億泰はあっと言う間にタルトを平らげ、またシャーペンを握り直して難しい顔でドリルの上に伏せる。それを、どこかで見ていたかのように、トニオがまたすすっと気配もさせずにテーブルの傍へやって来た。
 空になった億泰の皿を取り上げて、
 「あ、トニオさん、うまかったっスよ! カプチーノ、後でお代わり!」
 まだ1/3くらいは中身の残っている自分のカップを指先でつついて、億泰が声を張り上げる。トニオはそれに再びにっこりと笑みを向けて、それから、何気ない仕草で億泰の唇の端へ指先を伸ばし、くっついていたタルトの小さなかけらを払い落とした。ここの料理の味と同じくらい、優美な指先とその動きだった。
 「ソチラはまだ大丈夫ですカ?」
 まだフォークの先も触れていない花京院のタルトを指してトニオが訊く。
 「僕はゆっくり戴きます。」
 億泰の手元を覗き込みつつ、フォークもきちんと取って、花京院は敬意を込めてタルトの最初のひと口分を崩し取った。
 「トニオさん、今度よォーまた親父の分も何か作ってくれよなァ。」
 「いつでもドウゾ。」
 しゃくしゃくと、軽い歯触りのタルトの生地を花京院が味わっている間に、億泰が調子のいい交渉に掛かる。トニオは本気かどうか、あのやわらかな笑みをまったく崩さずに、それでも声の調子で何となく、億泰に対する物柔らかな態度が何か特別な好意の表れなのだと花京院にも伝わって来た。
 「おいしく食べテ下さルから、億泰サンにならいつデモ作りマスよ。」
 「マジ? トニオさん、ほんっと口ウマいよなァ。」
 照れたように、ちょっと首をかしげて億泰が笑う。それから、たった今思いついたと言う弾けるような表情で、
 「あ、じゃあ、今度は花京院さんも一緒にどうっスか? オレと親父と花京院さんと! 一緒にトニオさんのメシ食いましょうヨ! 何なら仗助と仗助のかーちゃんも誘います?」
 話が突然大きく広がった。億泰らしい、突拍子もないアイデアだったけれど、一番手間を掛けられる当の本人が、
 「イイですネ。食事はミンナで食べる方がオイシイです。ぜひ皆サンでどうぞ。」
 礼を取った仕草で、胸の前へ掌を当ててそう言った。
 「そン時はトニオさんも一緒に食おうぜェ。何かでっかい皿に全部盛ってさァ、ワイワイ一緒に食ったらウメぇし! ですよね、花京院さん!」
 両手を振ってテーブルの上に大きな輪を描きながら、億泰がもう話が決まったかのように花京院に同意を求めて来る。勉強をしに来たのに、一体どこからこんな話の流れになってしまったのだろう。突然のことにちょっと慌てたまま、けれど億泰の提案は何だかとても素敵に思えた。
 「──ああ、いいかもしれないな。」
 トニオと億泰の笑顔を写して、花京院も横に広い笑みを浮かべた。
 「イツでもドウゾ。お待ちしておりマス。」
 やや大袈裟な会釈で体を折って見せて、トニオは空の皿を手に、またキッチンへ下がって行った。
 「いいっスね、みんなでメシ!」
 今にもよだれを垂らしそうに、億泰はもう決定事項と決め込んでいるようだ。
 「・・・とりあえず、先に英語のテスト勉強を片付けよう。赤点を取らなかったらみんなでここで夕飯だ。」
 きちんと、上級生らしく──そして今は、家庭教師らしく──、すっかり舞い上がっている億泰に釘を刺して、それから花京院はドリルの開いたページの真ん中を指先でつついた。
 「・・・あー・・・。」
 億泰の笑顔がしぼんで、ちょっと泣きそうに唇をとがらせて、それでもおとなしくドリルに向き合い、億泰はまたシャーペンをがっしりと握り込む。
 ふた口めのタルトをやっと口元へ運びながら、花京院はタルトのバターの香りだけ先に味わって、軽くため息をこぼした。
 「億泰くん、複数形のsは、アポストロフィーはいらないよ。」
 先が思いやられる。
 ブルーベリーのタルトは、やっぱり絶品だった。

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