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一文字お題5@Theme

5. 幸 (承太郎)

 土曜の夜は少し夜更かしをする。ラップトップパソコンの電源を入れて、インターネットに繋いでメッセンジャーを立ち上げ、そこで承太郎を待つためだ。
 Windows 98のロゴを眺めながら、さっき淹れたばかりの紅茶のマグを両手に包み込み、そろそろ暖房の欲しい冬の始まりの深夜、パジャマの肩には半てんが乗っている。
 約束の時間は、毎週土曜の深夜1時──つまり正確には、日曜になったばかり──で、承太郎の方は冬時間が始まり、この時間は向こうでは土曜の午前11時だと言う。
 こちらは真夜中なのに向こうは前日の昼間と言うのにいまだ馴染めず、そして思ったよりもずっと気軽に承太郎にこうして繋がれるせいか、距離があるのは間違いないのに、つい隣りの部屋に承太郎がいるような錯覚に陥ることもしばしばだった。
 花京院は、デスクトップのネット接続のアイコンを2回クリックして、ジーゴロゴロと軋むような機械音が小さく始まるのに耳を澄ませた。
 承太郎とのやり取りに集中するために、ラジオや音楽は掛けないことにしている。
 比較的造りのしっかりしたこのマンションでは、他の世帯の生活音が聞こえることはあまりなく、少し先の大通りを、ごくまれに派手な音を立てて車が通り過ぎてゆくのが、遠く聞こえるだけだった。
 承太郎とジョセフが去った後で、ひとりこの町に残った花京院のために、ジョセフがSPWを通して用意してくれたこのマンションは、高校生がひとり暮らしをしているとは周囲に分かりにくいように核家族用の間取りで、しかもカモフラージュに、母と死別の父子家庭で、単身赴任の父親はたまに帰宅すると言うシナリオの元、SPWは周到に偽の戸籍謄本すら花京院の手元に置いて行ってくれた。
 この名前と誕生日は覚えておいて下さい。花京院の、単身赴任の父親の振りをしてここへたまにやって来るSPWの職員は、戸籍の父母の欄を指差しながら言った。そこにある名前が、花京院のほんものの両親のそれとはまったく違うことに、安堵もしながら落胆もして、その時また改めて、自分がすでに死人扱いなのだと言うことを花京院は心に刻み込んだ。
 無事にネットに繋がり、すぐにメッセンジャーを立ち上げる。デスクトップに現れた小さな窓には承太郎の名前しかなく、すでにオンラインであることを示して、小さなアイコンには色がついていた。
 ──おう、元気か。
 向こうにも花京院がオンラインになったと出たのか、即座に小さな窓が別に開いて、承太郎がそう打ち込んで来る。
 「ああ、元気だよ。変わりはない。そっちは?」
 まるで電話のようにこうやって会話をする──送り合うのは文字だけれど──ので、つい声も一緒に出てしまう。顔は見えないけれど、承太郎が送って来る文章の合間に、承太郎の表情が見え隠れするような気がして、花京院はモニタに向かって微笑み掛けながら、これももしかして承太郎には見えているのかもしれないと、ふと思う。
 ──何もない。相変わらず本と紙の山だ。
 乱雑に散らかった承太郎の、書斎の机の上を想像する。そこへうつむき込んで、何か花京院には分からない文字を書き連ねている、承太郎の大きな背中。
 先週よりは寒くなったと、承太郎が伝えて来る。もう暖房が入っているそうだ。こちらはまだだ、でもそろそろ寒いなと、花京院が返す。
 カチカチとキーボードを打つ。承太郎が打つ時は2本指だ。それなのに慣れているせいか、文章を送って来るのはとても早い。花京院は丁寧にキーボード全体に指先を置いて、見様見真似のブラインドタッチだ。商業高校ならタイピングの授業があるんだろうかと、そういう専門学校があると言うような話をすでにしていた、同じクラスの女の子たちの会話をまた思い出していた。
 花京院が改行キーを2回押す間に、承太郎からはもう5回分が送信されて来る。
 実際に電話で会話をする方が確実で早いに決まっているけれど、さすがに週に1度の国際電話──しかも確実に長電話になる──を、承太郎の負担にする──花京院の生活は、基本的にSPWとジョースターによって賄われている──わけには行かず、インターネットと言う便利なもので遠距離でもこうして繋がっていられるのだと承太郎に教えられ、この手の機械には強い花京院は、むしろいい機会だと自分で本や雑誌を読んで使い方を学びもしている。
 とは言え今のところ、このパソコンはもっぱら承太郎との連絡用で、週に2、3度Eメールを送り合い、週に1度はこうしてメッセンジャーで直に話をするためだけに、花京院の机の隅に鎮座している。
 個人使用のコンピューターが、普通の店で気軽に買えるようになっていると知ったのも衝撃だった──しかも、机の片隅に置いておける大きさで──けれど、こうして、ほとんど時差なく承太郎とやり取りができると言う技術の進み具合も、花京院には心臓が止まるような驚きだった。
 ──学校は楽しいのか。
 何となく複雑なトーンを含んで、承太郎が文字で訊く。実際に声で聞くなら、もっとはっきりと、承太郎の質問の意図が理解できるのだろう。
 「楽しいよ。仗助くんたちともうまくやってるよ。幸いに成績は心配ないし、普通の高校生活を思う存分楽しんでるところだ。」
 そうやって無邪気に返して、今のところ、吉良より他に問題のありそうなスタンド使いは現れてはいないと、暗に伝えたつもりだった。
 承太郎がどちらを望んでいるのか、花京院にはよく分からない。この町が、吉良の去った後にずっと平穏であり続ければいいと、そう願っているのか、あるいは逆に、またろくでもないスタンド使いが現れて、自分の助けが必要にはならないかと思っているのか、承太郎が、どちらをどれだけ強く望んでいるのか、はっきりと訊くのは恐らくふたりの間柄でも少しばかり踏み込み過ぎている。
 花京院はキーボードに触れている指先を少し浮かせて、承太郎が花京院の送った文章を読んで、そしてゆっくりと確実に飲み込むのを待った。
 もどかしいと、もう何度思ったか分からないことを、また花京院は思う。
 直に顔を合わせて話し合えればいいのに。電話ですら、結局はそのもどかしさの度を増すだけだ。
 ネット越しに、こうして近々と繋がっていられるだけでも有り難いと、そう思う気持ちと同時に、こうして承太郎と言葉を交わしていることで、余計に承太郎との物理的な距離を思い知る。電話すら少々ためらう場所に承太郎がいるのだと、時間すら同じでないところに承太郎はいるのだと、会えない分さらに会いたくなる。今すぐ、承太郎に会いたいと、花京院は週末の深夜、必ず感じることをまた思った。
 色んなことはとりあえず飲み込んだまま、互いを不安にはさせない、他愛もない会話がまた続く。承太郎の日常を尋ね、自分の、変わり映えしない日常を伝えて、読んだ本の話と見た映画の話が重なる。
 ──せめてスペインの映画くらい見れるんじゃないかと思ってたんだが大間違いだった。
 ヨーロッパ映画の好きな承太郎にとっては、アメリカ滞在は苦行のようだ。
 「カナダならフランス映画が見れるんじゃないのか。」
 うろ覚えに、確か仏語も公用語だったはずだと、思いながら送信する。
 ──どうだろうな、あそこもここと大した違いはないんじゃねえのか。
 今では、花京院よりもよく日本の外のことを知っている承太郎が、淀みなくすらりと答えて来た。
 「まあ見れるにせよ、映画のためにわざわざ国境を越えるのは大変だろうな。」
 文章の最後に、句読点の丸の代わりに笑顔のアイコンを添えて、また改行キーを押す。承太郎──とジョセフ──の住む街から国境を越えるのには、飛行機で数時間か車で10何時間だ。
 「日本で出てるビデオでも買ってそっちで見ればいいじゃないか。送るのが大変そうだが。」
 ──オンラインで通販って手もあるが、こっちのクレジットカードを受け付けやがらねえ。
 不良の承太郎の口調が、そのまま画面に現れた。
 「どういうことだ? そっちから買い物できないのか?」
 ちょっと驚いた表情のアイコンをわざわざ探して、末尾につけた。
 ──実家に送ろうとしたら、店から向こうに電話が行った。海外のクレジットカードは受け付けられませんと来たもんだ。
 今度は、ひどく驚いた表情のアイコンだけを送りながら、花京院もまったく同じ表情を浮べていた。
 海外に住んで、日本のものを手に入れると言うのは、想像以上に大変なようだ。
 この手の苦労話は、あちらではしてもなかなか通じないようで、こんな話になると承太郎の送信量は一気に増える。花京院の返事を待たずに次々と、例えばこうして花京院とメッセンジャーで話をするのさえ、PCの設定がひどく大変だったと言う類いの話を送って来る。
 向こうで承太郎は当然英語のOSの入ったPCを使っているけれど、それでは日本語のソフトウェアが使えず、花京院の自由にやり取りするためのこのメッセンジャーを使いたいと言うだけで、承太郎は結局自分のPCのハードドライブをふたつに分け、ひとつには普通に英語のOSを、もうひとつには日本語のOS──Windows 95──を入れて、デュアルブート──多重起動と言うような訳と説明を、花京院はやっとどこかの雑誌で見つけた──に設定したのだそうだ。
 花京院がパソコンのことをもう少し詳しく勉強したいと思ったのは、この手の承太郎の説明を、さほど手間も時間を掛けずに理解したいと思ったせいもあった。
 「いつか、もうちょっと簡単に君とやり取りできるようになるかな。」
 ──その前に、世界のどこの映画でももうちょっと気軽に見れるようになりやがれ。
 「映画よりも、僕は本が先だな。」
 そこで、ちょっと承太郎の動きが止まった。キーボードを打っている最中だと言うメッセージも、開いた窓の下には出ていない。
 どうしたのかと、そう問うために、打ち込み掛けた花京院の小指が改行キーに触れるより先に、承太郎の打った文字がやっと現れる。
 ──てめーの顔が見れるようになるのが、何より先だな。
 普段の口振りのまま、承太郎がそう送って来て、花京院はちょっと虚を突かれたように指先の動きを止める。どこか胸の奥の、小さく空いたままの虚(うろ)へ、その承太郎の言葉がすとんと落ちて込んでゆく。胃の裏側辺りで、その言葉がことんと音を立てて、虚の底へたどり着いた気配があった。
 それが一体、技術の進歩のことを言っているのか、それとも早く自分の元へやって来いと言っているのか、きちんと見極めることはできず、それを問うのは何だか不粋な気がして、花京院もまた指の動きを止めたまま、じっと承太郎の言葉へ視線をとどめていた。
 やっと、ごくりと喉を小さく鳴らしてから、そっと指先をキーボードへ置き直す。
 「多分、そうなるにはそんなには時間は掛からないと思う。」
 これもまた、技術の話か花京院自身が承太郎の元へ行くと言う話か、どちらとも曖昧なまま答えて、向こうで承太郎がその花京院の返事の真意を、さっき花京院がそうしたように、時間を掛けて見極めようとしているのが、時差とモニタと海と大陸越しにすら伝わって来る。
 ああ、そうだな。そう承太郎が、キーボードにではなく、自分の直のつぶやきで答えたのが、聞こえたような気がした。
 会いたいと、素直に言ってしまえば、後は何もかもがあふれてしまう。ほんとうに伝えたいことは、他に山ほどあった。けれどそのひとつびとつは、言葉では伝え切れない。それに言葉にすれば、気持ちが切なくなるだけだ。週に1度こうして繋がるのが充分なはずもなく、それでも、時には2週間以上掛かる手紙のやり取りよりは確実に早かったし、今ここで互いが発している言葉が時差なく送り合えると言うメリットは、何物にも替え難かった。
 声が聞きたかった。けれど、声を聞いてしまえば顔が見たくなる。顔を見せれば、次は触れ合いたくなる。触れ合えば、もう離れられなくなる。ふたりともそれを嫌と言うほど知っていた。だから、ぎりぎりそうはならずに我慢できる質と量と頻度での繋がりを、こうして我慢をしながら保っている。
 学生の本分は勉強だ。それは、自分を引き止めるための建前だった。そして同時に、花京院は今、10年先に進んでしまった承太郎に少しでも追いつくために、自分ができるだけ早く成長しなければならないのだと知っている。そのために、どうしてもきちんと高校生である自分を終わらせる必要があった。
 だから、もっと勉強して、きちんとそれを成績で眺めて、そして、実力が備わっていると自分にも他の人たちにも証明して、堂々とアメリカへ行くのだ。
 承太郎に会うために。承太郎と、一緒にこれからを過ごすために。
 花京院はもう、どうあろうと断ち切れないほど深く、承太郎に結び付けられている。その結び付きの強さを自覚しながら、けれどそれを今口にしてしまえば自分と承太郎が辛いだけだった。
 電話よりもさらにきりがなくなるメッセンジャーでのやり取りを、切り上げるために、花京院はそろそろ眠くなったと承太郎へ送る。いつの間にか3時近い。
 ──そうだな。また来週、同じ時間に。
 承太郎があっさりと、いつもと同じにそう返して来た。じゃあまた、元気で、と行ったり来たりを数度繰り返して、今夜メッセンジャーを閉じたのは花京院の方が先だった。
 ネット接続も切って、けれどまだパソコンの電源を切るのが惜しくて、キーボードの端へ両手を添えたまま、花京院はさっきまで並んでいた承太郎の送って来た文章を、ひとつびとつ思い返している。
 メッセンジャーをまた立ち上げれば、今夜の会話も、今までの会話も、すべてログが残っている。それを便利だと思う以上に、それを見返す時の胸の痛くなるような切なさが辛くて、花京院は深夜にざわめいたままの自分の気持ちを落ち着かせようと、喉が伸びるほど深く息を吸って、倍の時間を掛けて吐き出した。
 今夜はいつもより、気持ちが静まるのに時間が掛かる。きっと、そろそろ寒いせいだ。そうやって理由を見つけて、薄く笑って、花京院はやっとパソコンの電源を落とすために、画面左下のスタートボタンへカーソルと動かす。
 大丈夫だ、それほど先のことじゃない。自分に言い聞かせながら、そしてその思念が承太郎へも飛んで行くように願いながら、モニタ部分をキーボードへ伏せ、ぱたんとラップトップを閉じた。
 Windows XPの入った新品のノートパソコンを、承太郎のためにわざわざ手荷物で大事に運ぶ羽目になることを、花京院はまだ知らない。新しい家でそのパソコンを承太郎と共有して、ファイルとフォルダの置き場所でしょっちゅう小競り合いになることも、まだ知らなくていいことだった。

(了)

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