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一文字お題5@Theme

4. 笑 (岸部露伴&噴上裕也)

 「エゴン・シーレが好きなんて、高校生のくせに君はずいぶんと趣味が渋いんだな。」
 仕事の机からちょっとだけ振り返って、岸辺露伴がからかうような口調で言う。
 クリムトの画集の案内の冊子を眺めていた花京院は、色刷りのその発色の鮮やかさに目を奪われたまま、露伴の口調には頓着せず、そうかなと、つやつやと光るぶ厚いページへ声を上滑りさせた。
 「彼の、あの狂気じみた感じ──クリムトとは方向が全然違うが、それに魅かれるにしたって、高校生が好むには作風が地味過ぎるじゃないか。」
 クリムトの、"接吻"の、これだとしかとは断定し難い女の表情へ再度目を細めて、花京院は彼女の、男の指先の添えられた華奢なあごの線にそっと触れる。
 「狂気じみてるところが、僕みたいな不安定な年頃にアピールするもかもしれない。」
 そう言ってみるだけで、一向に信じている素振りはないと隠しもせず、また花京院は上っ面だけ返事を返した。
 露伴はちょっと考え深い表情を浮かべて、肩をわずかにすくめてからまた机へ戻った。
 露伴の背を見送ってから、花京院はつるつる滑るページの端を、曲げたりしないようにそっとめくる。
 花京院がエゴン・シーレに魅かれるのは、露伴が言うところの狂気じみた部分ではなく、内からあふれるものを抑えられない困惑をまず感じるからだ。
 クリムトの、その困惑を美しく昇華させる洗練されたテクニックよりも、技法もへったくれもなく、とにかく目の前の苦痛から逃れるために手を動かしたように思える、それを見る人間の存在がまるきり念頭にないような、その閉ざされた精神の在り方に花京院はいつも慄える心が痛むような気すらする。
 彼の描く線と、ハイエロファント・グリーンが不定型になる過程に見せる輪郭の滲み具合が、似ているのだと言ったら、この偏屈な漫画家は何と言うだろう。
 自分が同じ立場で絵を描いたら、きっと似たような線を描(えが)いたろう。やや自惚れを自覚しながら花京院は考えた。
 露伴の家へ来るのは、もう何度目だろうか。来るたび、マンガのための資料なのか、画集やデッサン集が増えていて、他にも紀行本や特殊な体験談の本が山ほどあって、露伴が机に向かえば背後をぐるりと三方向を囲む形に置かれている本棚は、どこへ立って手を伸ばしても花京院を夢中にさせた。
 仕事部屋にはあまり人を招き入れないと言うのだけれど、仕事の邪魔さえしなければ、露伴は花京院がここで何時間本を読んでいようと気にしない。お互い、好きなことをしている時の集中の仕方がよく似ているのだ。
 座面の丸い、背もたれのない椅子を引き寄せる時もあれば、見つけた本に夢中になって、床に直にあぐらをかいてしまうこともある。背を丸めて、膝の上に開いた本へ視線を狭め、絵や写真や文章に見入る。部屋の壁が本に埋め尽くされて、しかもどの本を手に取っても外れのないここは、花京院にとっては天国のようだった。
 露伴の、椅子の背もたれの向こうで丸まっている背中をちらりと見やる。頬杖をついた手首を少しだけ返して、露伴を眺める視線をそこへ据え、成人して間のない男の、まだ少年くささの残る薄い肩へ、それよりもふた回り大きくてぶ厚い、これはもう十分に大人の男の、今ここにはない背中をかぶせた。
 花京院はそのまま目を細めて、わざと引き寄せた錯覚をもっと近くたぐり寄せ、まだ見たことのない、アメリカの承太郎の自宅の書斎の、話だけは何度も聞いた、どっしりと重い机の大きさを露伴のこの部屋の中に想像する。
 カリカリと、鋭いペン先が紙を削る音は、承太郎の書き物の時にはもっと柔らかな音だったような気がする。ボールペンだったり万年筆だったり鉛筆だったりシャープペンシルだったり、承太郎は紙にも道具にもこだわらず、頭に中に何かがよぎった時にはとにかくすぐに書き記したいタイプのようだ。
 持ち歩いている手帳を、ポケットから出して白紙のページを開く間さえ惜しんで、レストランの紙ナプキンや広告の余白や、最悪の場合には掌や手の甲や手首の内側へも、承太郎のメモの種類は多岐に渡る。
 日本語と英語が入り混じり、とにかく後で解読さえできればいいと、花京院も何度か承太郎のメモの中身を見たことがあるけれど、ほとんど意味の分からないことばかりだった。
 露伴の一心不乱な様子と、そしてシーレの、考えるよりも手が先に動くのだろうと思える情熱のあふれ様と、そのどちらもが承太郎へ向かって重なり、いつの間にか、膝の上のクリムトの絵のことは忘れて、花京院は自分の目の前に現れた承太郎の幻へ見入っていた。
 紙とインクの匂い、そして図書館とは少し違っても、それでもかすかに在る本の上へ薄く薄く積もる埃の匂いへちょっと鼻先を慣らした時、階下でドアを叩く音が響いて来た。
 遠慮がちな音ではなく、家主に対して親しげな、ほとんど不躾けなくらいのその音量に、露伴が椅子からさっと立ち上がり、
 「噴上裕也ッ!」
 露伴が乱暴なノックの音に負けないくらいの声で、怒ったように叫んだ。
 「噴上裕也?」
 耳に届いたままを、やや首をひねりながら繰り返す花京院の目の前を、ばたばたと駆け抜けて、露伴は部屋から飛び出して階段を駆け降りてゆく。
 ノックの音はその間ずっと同じ調子で続いて、足音が混ざり合い、ドアが開くと同時に、
 「噴上裕也ッ!」
と、また露伴が怒鳴る声が聞こえた。
 招んだ覚えはないとか、ドアをうるさく叩くなとか、仕事の邪魔だとか、露伴が言い募っている声が、足音と一緒にこちらに戻って来る。
 その合間に、へらへらと何か言い返す裕也のものらしい声が聞こえ、なぜその裕也の声も一緒にこちらにやって来るのだろうと思う内に、開いたままのドアから露伴の姿がばたばたと再登場する。
 後ろへ続く裕也へ、肩越しにまだ軽く怒鳴り散らしながら、まるできちんとリハーサルした芝居の、舞台の下手(しもて)からと台本に書いてあるまま、と言った感じだった。
 「もう来るなと言ったろう。」
 ぴしりと、空気を切りつけるような露伴の声に、裕也は一向に堪えた様子もなく、丸めて揺する肩に、あのにやけた笑い顔を乗せて、それでも、ドアを閉める手つきは礼儀正しく静かだ。
 ドアから露伴へ振り返る途中で、床に座り込んでいる花京院に気づき、いっそうへらりと裕也の口辺が上がる。
 「何だ、今日はアンタもいたのか。」
 花京院は、やあと言う代わりに眉の間を開いてから、同時に小さく肩をすくめても見せた。
 「彼はおまえとは違うぞ! 彼はぼくが遊びに来いとちゃんと誘ったんだ!」
 「ハイハイ、オレは招かれざる客だよ。それより客に茶のひとつも出さないとマズいんじゃねえの、露伴せんせー?」
 仗助や億泰とは少し違う、明らかに人を小馬鹿にしたような調子の語尾の伸ばし方だけれど、この男がやると、その容貌と相まってか、奇妙に音楽的に響く。そして正しく露伴はそのトーンに、バイオリンのソロが終わった直後のソプラノのフルートのように、きちんと音の合った応え方をした。
 「誰が客だ!誰が!」
 「オレじゃねえよ、そこのそっちのお客さんの話だぜぇ。」
 今はやや無作法に床にぺたりと坐り込んでいる花京院へ、裕也はあごをしゃくって、さらにへらへらと口元を片方だけ上げた。
 息が合っているのか合っていないのかまるで分からない、漫才のコンビの掛け合いのようだ。花京院は口は差し挟まず、どこへ視線をやったらいいものか迷いながら、距離を置いて向き合っているふたりを、ちょっとおどおどと眺めている。
 「君は紅茶でいいんだったな。」
 ぴしりと、指先でも突きつけるような鋭さで、突然露伴が花京院の方へ向いた。
 「ミルクで砂糖なし。」
 確認するように重ねて鋭く言われて、
 「あ・・・ああ。」
 ありがとう、と続けるつもりが舌が動かなかった。
 「オレも紅茶でいいぜぇー。ミルクも砂糖も──」
 「おまえなんかインスタントのコーヒーで充分だッ!」
 露伴の語気の荒さなど一向に気にもせず、裕也はひらひらと胸の前で指先を揺らして見せ、またばたばたと、床を踏み抜きそうに部屋を出て行く露伴へ、ドアまでの道を優雅に譲り、振り向かないその背へ向かって、またひらひらと手を振る。
 ばたん、と少し強めにドアが閉まった。後へ続く、乱暴な足音。
 「相変わらずだぜあのせんせーはよぉ。」
 細身のズボンのポケットに両手を入れて、大袈裟に肩をすくめてから、裕也はなあと同意を求めるように、花京院へ視線を送って来た。
 「君がここへ遊びに来てるなんて知らなかったな。」
 「せんせーの淹れてくれるお茶があんまり美味いんでね。たまにゃオレも、静かにお茶が飲みたい時があるのさ。」
 気障ったらしい口調は相変わらずなのに、それほど嫌味には響かないのは、花京院もすでにこの男に対してそれなりの好意を抱いているからだ。
 裕也は露伴の机の方へ行くと、そこへ広げられた途中の原稿を興味深げに眺め、
 「花京院さん、アンタ今日もいい匂いだな。あのおっかない、承太郎って人は元気かぁ?」
 机の上にかがみ込むようにしたまま、視線は向けずに声だけ送って来る。さり気なく、どうと言うこともない質問の中に、あれこれお互いの思惑がすでに通じ合っていた。
 花京院はついくすりと微笑を浮かべて、上半身をきちんと裕也の方へ向けて問いに答えた。
 「ああ、元気にしてるよ。この町の騒ぎが落ち着いて、君らと同じくらい安心してるよ。」
 微笑が、言葉につられてほんものの笑みになる。振り返って花京院を見た裕也も、それに釣り込まれてか、気障も小賢しさもない親しげな笑顔になった。
 それきり言葉が途切れ、会話を続ける義務を感じるほど親しくはないふたりは、花京院はまた手元の冊子へ視線を戻し、裕也は指先で露伴の仕事机の端っこを意味もなくなぞり、そしてふたり同時にけれど別々に、階下のキッチンらしい辺りから伝わって来る、露伴が何やら動き回っている気配へ耳を澄ます。
 裕也はなぜかおかしそうにまた肩を揺すり、似合わない忍ばせた足さばきで花京院の傍へやって来た。
 本棚の目の前へ立ち、何か物色しているように、並んだ本の背表紙に手を伸ばし、適当な1冊を取り出して掌の上に開くと、それを読み始めながら花京院へまた話し掛けて来る。
 「アンタがこの町に残ったのは意外だったぜ。」
 「なぜ?」
 するっとよそゆきの表情をかぶせて、花京院は微笑みを消して冷たい声で訊いた。言葉のやり取りで遊ぶのは嫌いではないけれど、核心を突いて来られるのは苦手だ。
 「なんでって──てっきりアンタ、あの承太郎さんとやらと一緒に行っちまうもんだと思ってからよぉ。」
 この町の住人で、恐らく唯一承太郎と花京院の間柄を正しく見抜いている裕也が、花京院に横顔を見せたまま答える。
 冷たい声の調子を変えずに、花京院はさらに言葉を継いだ。
 「僕はまだ高校生だ。学生の本分は勉強だ。承太郎と一緒にいることじゃない。」
 自分の嘘を自覚しながら、花京院はそれをちらりとも語調には含ませず、それでも承太郎の名を口にすると、胸の中は素直にざわめいた。
 花京院の表面の冷静さに、わずかの間鼻白んだように、裕也は面白くもなさそうに手にしていた本をぱたんと閉じ、それを丁寧な仕草で元の位置へ戻す。腕を伸ばしたその姿勢のまま数秒動かずに、それから、ため息を吐くように、少しばかり重々しく前へ向かって首を折る。
 「まあ、アンタの言うことももっともだがよぉ・・・離れてても問題もねえ絆ってのがあるんだろ、アンタらふたり。なあ?」
 まるでそうだと言ってくれとでも言いたそうなその口調に、似合わない少年くささが滲んだ。ほとんど、幼い子どもの泣き出す直前のような、裕也なりの何か屈託や鬱屈のようなものが感じられて、何もかもを軽薄に扱うこの男──この少年──にも、信じられる確かな言葉が欲しいことがあるのかもしれないと、不意に花京院は思った。
 「そう──思ってくれてても、別にいい。」
 今だけはちらりと裕也のために本音を覗かせて、花京院は、少しためらいながらそう答えてやった。
 承太郎と花京院の間には、確かに決して切れない絆のようなものがある。それを大っぴらにに口にすることはできないけれど、この町に来て確信を深めたそのことを、今裕也のためにはっきりと口にして、花京院は肩から小さな荷物をひとつ下ろしたように、突然軽くなった背中の辺りを、すっきりと伸ばしたくなった。
 「だろうよ、そういうモンがあるんだろうよ、この世の中にはよぉ。」
 裕也が、また唇の端だけを片方上げる笑い方をする。
 花京院へ質問しながら、裕也が言っているのは何か別のことなのだと、その表情で見当はついたけれど、それが何なのかよくは分からず、花京院は所在なくページの端を挟んだ指先で撫で続けた。
 「ここを開けろ、噴上裕也。」
 露伴の、先ほどよりはずっと落ち着いた声が、不意にドアの向こうから聞こえる。
 裕也は跳ねるようにドアへ駆け寄り、内側へ引くそのドアをさっと開く。大きな白木のトレイを抱えた露伴が、爪先を滑らせるように部屋の中へ入って来た。
 無言で、視線も投げずに裕也の傍らを通り過ぎて、露伴はそのまま真っ直ぐ花京院の傍へやって来ると、そこの床へそのトレイをそっと下ろした。
 よく見れば、トレイには短い脚がついていて、小さなテーブルとしても使える物のようだ。そこには、大きめのティーポットに華奢なティーカップが3客、それからひと口大にすでに切り分けられたスコーンがひと山、後はミルクピッチャーや砂糖入れや数種類のジャムの取り分けられた小皿や、このお茶会に必要なものがごちゃごちゃと並べられて、食器はどれも明らかに値の張りそうなものだったから、床に、簡易テーブルの上とは言え、ほとんど直に置くのは冒涜のようにも思える眺めだ。
 「おまえの分もわざわざ淹れて来てやったんだ、早く来て坐れ。」
 花京院に倣って、床の上にあぐらを組んだ露伴が、ドアの傍へまだ突っ立ったままでいる裕也へ手招きしながら声を掛ける。
 裕也は慌てたようにドアを閉め、普段の落ち着きぶりなどどこへ落として来たのか、そわそわと、けれど遠慮がちに露伴の隣り──花京院の隣りでもある──へ腰を下ろした。
 露伴が、ペンだこの目立つ指を伸ばしてティーポットを持ち上げ、まずは花京院にいちばん近いカップへ、色も香りも強く出た紅茶をゆっくりと注ぐ。次は自分の目の前のカップへ、それから裕也へらしいカップへ、最後はきちんとポットを軽く振って、最後の一滴までそこへ注ぎ切る。
 すでに自分の分へは手を伸ばしながら、紅茶は、最後の一滴がいちばん美味しいんじゃなかったかなと、以前本で読んだことがあるような気がする話を、花京院は今何となく思い出していた。
 紅茶が各自に渡ると、
 「このマーマレードはぼくが作ったんだ。」
 透き通ったオレンジ色のジャムを指差して、露伴がちょっと胸を張るように言う。
 「すごいな。」
 素直に感嘆の声を上げて、花京院はスコーンをひとつ取り上げる。ジャムをすくう小さなスプーンを持ち上げるより先に、そのジャムの表面を、爪のきれいに整えられた指先がするっと撫でて行った。
 「うまいぜぇ、せんせー。」
 マーマレードを指先に味わいながら、裕也がにやりと言った。
 呆気に取られた後に沈黙が来て、それから、
 「このッ!貴様ッ!噴上裕也ッ!」
 露伴の怒鳴り声が、部屋の窓ガラスすらびりびりと震わせて、ちっとも堪えない風に、裕也はへらへら笑ったままだ。
 「うまいって誉めてんだろーなぁー?せんせー。」
 花京院は懐かしい感覚に襲われて、やり合うふたりを、淹れ立ての紅茶の香りに細めた目で眺めている。
 同じだ。エジプトへの旅の途中も、ちょうどこんな風だった。アヴドゥルの起こした火を囲んで、ポルナレフの調子の良さに笑い転げ、ジョセフが塩を振って焼いただけの肉に皆で舌鼓を打ち、さらに暖を取るために、夜には寄り添って来るイギーの小さないびきを聞いて、あれはそんな旅だった。
 露伴の淹れた紅茶は確かに美味い。マーマレードをやっとスコーンの上に軽く乗せ、舌を流れてゆく甘酸っぱさが、何か別のものを思い出させるのに、花京院は潔く今ここにはいない承太郎を思い浮かべていた。
 いつまでも終わらない露伴と裕也の小競り合いをBGMに、この奇妙なお茶会は続いてゆく。
 カップの縁に寄せる自分の唇に、さっきまで眺めていたクリムトの絵を思い出して、今自分の傍らに想像する承太郎の姿を、後でスケッチするために脳裏へはっきりと描きながら、承太郎に会いたいと、いつもより強く花京院は思った。

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