戻る /

30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 承太郎は、花京院を抱きしめるのが好きだ。
 どこかへ触れていないと落ち着かない風に、抱きしめていない時は髪や首筋や肩に触れて、数度に一度くらいは花京院に鬱陶しがられてやめろと言われるのに、承太郎のその癖は治らない。
 治せと花京院も真剣に言うはずもなく、常識の範囲内にしておいてくれと、ちくりと釘を差すだけだ。
 今も承太郎は、床に腰を下ろした花京院の、その腹の辺りに顔を埋めるようにして、腰にはしっかりと両腕を巻き付けて、花京院を抱きしめていた。
 自分の前に、背高い体を長々と伸ばして、時々獣の仔の仕草で頬や額をこすりつけて来るのを、花京院は閉口している振りで、振り払おうともせずに、承太郎の髪を時々撫でている。
 承太郎が自分を抱きしめるのは、そうやって承太郎自身の体で、花京院の体を計っているのだと、花京院はいつの頃からか気づいていた。
 腹に大穴が開(あ)き、ちぎれた筋肉や骨や内臓や皮膚が元通りになるのに、その若さ──幼さ──ゆえの驚くべき回復のスピードがあったのだとしても、何となく薄く削げたままのような傷口の辺りが、それなりに塞がるのには相当の時間が掛かり、死体のようだった花京院の、その姿から目に焼き付けていた承太郎は、一瞬一瞬の回復を喜びながらも、常に懐疑を抱かずにはいられなかった。
 ほんとうに治っているのかどうか、医者の言葉ではなく、花京院の言葉ではなく、目の前に示された数字ではなく、承太郎は、直に花京院に触れて知りたがった。
 最初の1年は、どこにどう触れても、花京院はただひたすらに痛がった。人一倍我慢強い花京院が、ろくに薬にも頼らず、けれど承太郎にだけは隠さずに痛みを訴えて、触れるたび、
 「痛いんだ、もうちょっとそっと触ってくれ。」
 あるいは、そこへ触れることはやめろと、わずかに低い声で、けれどきっぱりと言う。
 花京院の体に、両腕を巻くことすら、その頃は単なる夢で、肩にようやく掌が置けるようになり、その肩へ腕を回せるようになり、抱き寄せるのに力の加減を覚えた頃に、やっと花京院の背中へ触れられるようになった。
 ついに両腕で花京院を抱いた後で、素肌に触れられるようになったのは、またさらにそのずっと後だ。
 誰にも、花京院にさえ言わず、その頃承太郎は、花京院とのことを、事細かに日記に書き記していた。
 ほとんど観察日誌か報告書のように、その日の花京院がどんな様子で、承太郎がどんな風に触れて、どんな風に拒んだか、嫌がったか、受け入れたか、読めば即座にその日のことを思い出せるほど微細に、承太郎は自分が直に触れて知った花京院のことを、様々に書き残していた。
 今になって思えば、それはまさしく一種の観察だったのだろう。医者や家族でさえ恐らく、そこまでの詳細は知らないはずだ。そもそも興味すらないかもしれない。
 承太郎は、今も花京院に触れて、花京院のことを知ろうとする。腕の動きや上がり方や、胸や肩の厚みや、腹の内側で正しく内臓の機能している音や、そんなものの悉くのすべてを、承太郎は自分の体で計っている。
 抱きしめて、体温を測る。骨の硬さを識る。背中に乗る筋肉の厚みを、きちんと掌に覚えさせて、それが不意に薄くなったりしないように、そんなことが起こったらすぐに分かるように、承太郎は機会があればいつでも、花京院のすべてを知ろうとしている。
 おれは、と花京院の腹へ顔を埋めたまま、不意に承太郎は言った。
 「てめーの専門家になりたかったんだ。」
 承太郎の、丸まった後ろ髪へ指先を差し込みながら、上から花京院がくすりと笑う。
 「何だい一体。」
 「日長1日、てめーのことだけ考えて、てめーのことだけ観察して、てめーのことだけ報告して、てめーがどんな風に生きてるのか、おれだけが知ってる、そんな風にしたかった。」
 するりと承太郎の柔らかな髪から指先を抜き、花京院は承太郎のうなじをそっと押す。肩へ繋がる辺りがごりごりと固い。ああまた論文書きで疲れているのだなと、その凝りへ指先を押しつけながら、花京院は笑みを消さないまま思った。
 「今だって、君は十分僕の専門家じゃないか、海の先生。」
 ちょっとおどけて、花京院が言う。東洋人とも西洋人ともつかない顔立ちと、雲つくようなその長身のせいで、近所の子どもたちから奇妙に親しまれている──人間の大人ではなく、何か彼らには、優しいモンスターのような扱いらしい──承太郎が、一体何の仕事をしているのかと訊かれた時に、口ごもりながらそう名乗って以来、承太郎は海の先生で通っている。
 初めてそれを聞いた時に、花京院は腹を抱えて笑った。それは単純で簡素にも関わらず、承太郎の、海洋学者と言う肩書きを非常に分かりやすく表現していて、そんな言い方を思いついた承太郎の言葉のセンスに感嘆し、同時に、高校時代の不良学生っぷりを直に知っている花京院は、あの承太郎が、自ら先生と名乗るような、一体いつそんなことになってしまったのかと、時間の流れと承太郎のその成長が、何だかひどく可笑しいものに思えたのだ。
 体をねじって大笑いする花京院を見下ろして、そんなこと──全身で笑うこと──の遠慮もなくできるようになった花京院の、またひとつの回復を、承太郎のその時喜んでいた内心を、花京院は知らない。
 肩の後ろを押していると、また少し柔らかく承太郎の体が伸びる。花京院は少しずつ、指先へ送る力を強くしていた。
 「今だって君は、僕を毎日観察して、毎日僕のことを知ろうとして、毎日あれこれ僕のことをうるさく言ってるじゃないか。僕の背中の傷跡のひきつり具合を、見もせずに描けるなんて君ぐらいなものだ承太郎。」
 この手の研究者と言うものが、論文やレポートに、極めて写実的な絵を描いて参照のために添えるのだと、花京院は承太郎を通して知った。
 面白いことに、絵心のある人間の描いたそれは、ただリアルなだけでもこちらに迫って来る迫力があり、絵として認識するのに相当骨の折れる力量の研究者も、気の毒なことにやはり相当数いるらしい。承太郎の描く絵が、圧倒されるほど緻密なのはスタープラチナのおかげだけれど、重ねられた線がそこで実体化しそうなほどこちらに迫って来るのは、もしかすると絵を描く花京院からの影響ではないかと、花京院自身はひそかに面映ゆさを感じている。
 そして承太郎は、それも花京院の影響か、時々花京院の手や足や背中や傷跡や、そんなものをちらりと描く。部分だけで、見ただけでは誰のものとわからないように、けれど花京院自身はすぐにそれが自分だと分かる。承太郎の見ている自分をそこに見て、自分がどんな時も承太郎に見つめられているのだと思う。
 「観察なんて、僕がまるで珍獣か何かみたいだな。」
 自分で言って花京院がそう笑うと、承太郎は満更冗談でもなさそうに、
 「珍獣か、そうかもな。」
と、今は花京院の膝に上半身を伸ばし切って、ぼそりと言う。
 珍獣と言う言い方はともかくも、確かに花京院はこの世に一種きりの生き物ではある。人間と言う種類に数えれば、何十億と同種はいるけれど、花京院典明と言う、ただひとりの存在と考えれば、天然記念物や絶滅危惧種以上に、承太郎にとっては貴重な存在だ。
 その花京院と言う珍しい生き物の観察を、承太郎はもうずっと続けている。
 花京院の指先が、程良い強さで承太郎の肩の凝りをほぐして、時々タートルネックのシャツの首回りから膚に触れる。その手を取って引き寄せたいと思いながら、承太郎はほとんど眠気に近いようなとろけるような気分を味わって、花京院の体の中から聞こえる血のめぐる音に耳を澄ましていた。
 腰へ回していた腕を外し、伸ばした先へある花京院の体に触れる。腿や脇腹や爪先や、きちんと服に包まれ、体温にぬくまった、掌や指先に触れる花京院の形を、半ば閉じた目の奥に、もう実際に見なくてもはっきりと思い描ける承太郎は、迷いもなくその映像を脳裏の引き出しに、日付のラベルさえ貼ってからしまう。
 ああそうだ、確かにおれはもう、花京院の専門家だ。
 それでも、花京院が生まれた時から一緒にいる、ハイエロファント・グリーンほどは、花京院のことを知らないかもしれない。主の体内へ吸い込まれるように消え、呼び出されれば音もなく出現する。花京院のその肩や首へ抱きつくようにして在る、翠に光るスタンドは、言葉も表情も持たず、それでも瞳孔のない眼らしい形のその器官を主に向ける時には、どこかなごんだような、空気にぬくみの混じる感情らしきものを漂わせる。
 承太郎は、時折スタンドにすら嫉妬する。ハイエロファントも、それを読み取ってかどうか、承太郎のいる場に呼び出されると、殊更花京院の傍に寄り添うようにして、花京院が、僕のハイエロファントと、所有格で呼ぶその声に、まるではしゃぐような表情すらかすかに浮かべる。
 自分のそんな部分に、ごくまれに自己嫌悪を感じながら、それでも子どもっぽさがいまだ抜け切れない承太郎の内側が、また承太郎の知っている花京院をひとつびとつ数え上げて、ハイエロファントへ意趣返ししようとする。
 触れる、花京院の肌の熱さ。そして、承太郎だけが触れることのできる、もっと奥の、内側の、花京院の熱さ。狭いところへ入りたがるのは、何もハイエロファントだけではない。
 そして、花京院が"それ"を許しているのは、承太郎だけだ。
 下らない勝ち負けの判定に、それでも唇の端が上がるのを止められず、承太郎は知らずに小さく声を立てていたのか、
 「どうした承太郎。」
 肩を押す指を止めて、花京院が怪訝そうに訊いた。
 「何でもねえ。」
 まだくつくつ震える喉が止められず、承太郎は花京院の腰に両腕を回し、もっと近く体を寄せる。
 これは、承太郎だけが知っている花京院だ。ハイエロファントのことは、今は考えないことにした。
 肩と首筋が熱い。それは、承太郎が花京院に触れ返さなければ、消えそうにない熱だった。
 承太郎はやっと体を起こし、花京院を自分の下へ敷き込む少し先の未来のことを考えながら、きょとんと自分を見つめる花京院へ、傾けた顔を近づけてゆく。
 唇が触れそうになるところで、空気に押し返されるような抵抗を感じて、ハイエロファントが邪魔をしているのだと即座に気づく。
 「・・・引っ込んでろ。」
 小さな小さな声で、その唇の辺りを覆う、ほのかな翠の光へ向かって言うと、それは一瞬だけ光を強めた後で、するりと花京院の皮膚の下へ吸い込まれて消えた。
 花京院の専門家である承太郎──とハイエロファント・グリーン──だけが知っている、些細な現象だった。
 唇を重ねるために、花京院が目を閉じる。うっすらと縦に残る、切り裂かれたことのある傷跡に目を奪われていると、見えなくなる瞳にちらりとまた翠の光が走った。
 花京院が目を閉じたことを確かめてから、承太郎はこの野郎と、苦笑の混じったつぶやきをもう一度こぼした。

戻る /