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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 まさか背伸びをすることになるとは思わなかった。最初に考えたのは、そんなことだった。
 どこへ言っても、背が高いのねと見上げられることばかりなのに、承太郎と並んでいると、自分をそう言う彼ら彼女らの気分がよくわかる。
 挙句にこれだ。花京院は、やっと踵を下ろしながら、触れたばかりの唇の柔らかさよりも、そちらの方がややショックで、上向いたまま、承太郎からうまく視線を外せなかった。
 ああ、とても綺麗な緑色の瞳だ。深くて、澄んでいて、海のように青みがかったところはなく、どちらかと言えば金色へ寄った、計算式でも作って花京院の好きな緑を表して正確に色を混ぜて作ったら、きっとこの色になるだろう。絵の具を混ぜて作るには骨の折れそうな、そんな承太郎の瞳だった。
 帽子のつばの影から、その色がよく見える。自分の方を軽く見下ろした瞳の角度のせいか、どこか今は潤んでいるようにも見えて、その瞳を見つめ続けている花京院自身の小さな姿が、そこにかすかに揺れていた。
 承太郎の瞳の中に自分がいる。ひどく不思議な気分だった。
 承太郎と、学校の屋上で、一体なぜそんなことになってしまったものか、キスをしたと言うことよりも、こんな近くに承太郎の瞳を見て、キスをするには、こんなに近く全身を寄せなければならないのだと言う新しい発見と、そして、伸ばした自分の首の角度と上げた踵の高さに、花京院はひとつびとつ、拾い上げるように驚いている。
  煙草を吸う承太郎に、付き合ってここまで来ただけだったのに、ここへこうやってふたりで来るのは、別に初めてではないのに、なぜこんなことになってしまったんだろう。花京院は心の中で考え続けていた。


 最初に、帽子のつばが当たって邪魔をした。
 何だい承太郎。おかげで、花京院がかえってこちらを向いてくれて、やりやすくなった。
 承太郎は帽子のつばを上に上げ、それから花京院のあごをすくい上げるように両手を添え、首を伸ばさせたのはやや強引にだった。
 あごに掛かった手に、思った通り花京院の手が触れて来て、振り払われるかと思ったのに、花京院は素直に体を伸ばして寄せて来た。
 驚かれて嫌がられて、多分すぐに外れてしまうと思っていた唇を、今度はするりと外すタイミングを逃してしまった。重ねて触れ合わせる以上の知恵などなく、一体それをどれほど続ければいいものか、知識などあるわけもなく、勢いでしてしまったことを、少しだけ、ほんの少しだけ後悔して、そしてその後には、触れた唇の感触が惜しくなって、もう少しもう少しと思っているうちに、花京院の体が少しだけ遠のき、手はそのままだったけれど、唇はこすれるようにして外れて行った。
 きょとんとした、どこか放心したように承太郎を見つめて、これは咎められている目つきなのか、それとも受け入れたと言うことなのかどっちだと、承太郎も花京院から目が離せず、無表情を保ったくせに内心は嵐同然の騒がしさだった。
 殴られるならそれでもいい。最悪の場合は、試してみたかっただけだ、冗談だと、そうやって誤魔化してしまおう。そっちの方が花京院を本気で怒らせてしまいそうだったけれど、この勢いで惚れてるんだと言う本音を吐いてしまうには、承太郎はまだ少し幼いプライドが邪魔をする。
 好きでもねえ奴にキスする趣味はねえ。ポルナレフじゃあるまいし。
 自分の、声には出せない本音を、花京院が読み取ってくれないかと、虫のいいことを考えながら、まだ花京院が自分を見つめたままなのに、さらに都合の良い方へ希望が傾いてゆく。
 承太郎は、もう一度花京院へ向かって顔を傾けた。


 2度目は、もう少し余裕があった。驚きはそのままだったけれど、唇はもう少しゆったりと触れ合い、花京院も必死にならずに背伸びをして、今度は頬に掛かったままの承太郎の指先に、自分から触れて行く余裕さえあった。
 唇と言うのは、想像以上に柔らかいのだと、花京院はひとりで驚いている。それともこれは、承太郎の唇が特別柔らかいのであって、他の人たちは違うのかもしれない。
 承太郎は、自分の唇のことをどんな風に思っているのかと、余裕が生まれた心の隙で、今度はそんなことが気になり始める。
 女の子のように、普段わざわざ気を使ったりはしないから、乾いていてざらついていて、失望されているかもしれない。それとも承太郎が触れれば固いばかりで、つまらないと思われているだろうか。接吻の技巧など考えたこともない花京院は、触れるだけの退屈なこのキスに、承太郎はきっと以前の経験と比べて、すでに飽き始めている。どうしよう、とどんどん余裕が失われてゆく。花京院は火照る頬の辺りとは裏腹に、額へ冷や汗をかき始めていた。
 デッサン用の石膏像とキスの練習をするのは、あれは何の映画だったか。けれど石膏像はほんものの唇の柔らかさなど教えてはくれないし、花京院が求めるものからは少し外れている。
 僕の17年なんて、何の役にも立たない。成績が良くったって、絵が描けたって、キスひとつろくにできないのに。
 キスの学校があったら、入学すら許してもらえないだろう。なまじうまく滑り込めても、きっと最初の学期で落第だ。そうしたら、また承太郎と別れ別れだ。承太郎はきっと、そこでは優等生だろう。きっと、多分。
 退屈でつまらなくて下手くそなキスのはずなのに、承太郎はいつまでも唇を外さず、そもそも2度目は一体どういう意味だろう。
 もしかして、とその時やっと、花京院は、肩や腕の辺りをずっとうろうろしている承太郎の長い腕が、自分を抱きしめたがっているのだと気づいた。


 体がもう少し近くへ寄る。殴られなかったし、拒否もされなかったことに気を良くして、承太郎はもう少し先へ進んでみることにした。
 あごへ添えていた掌を首筋へ滑らせて、肩へ置き、それから腕を撫で下ろす。時々薄目を開けて花京院の様子を窺って、頬に赤みが差していることを確かめると、どうやら自分の希望的観測は、もう少し確実なものと知れた。
 急いては事を仕損じる。殴られて絶交だとでも言い出されたら元も子もない。
 そうして、腕が迷った。
 好奇心で、近づいて来る女の子たちに、好きにさせたことはあった。彼女らは驚くほど薄くて小さくて、確かな重みと質量があるくせに、承太郎の腕の中へ入ると頼りなくひたすら柔らかい体をして、少しでも力を込めれば骨を折ってしまうと、本気で心配になる。彼女らを扱うのには、ほんとうに気を使うのだ。あちらがそんなことなど気づきもしないように平気で無邪気に自分に近づいて来るのに、承太郎がどれほど冷や冷やしているか、彼女らは知りもしないだろう。
 幸いにと言うべきなのか、花京院は彼女らとは違うし、男としても、承太郎よりは小柄にしても、平均以上の体格だったから、少々力を入れ過ぎたところで、大した問題があるとも思えなかった。
 思い切り気にせず抱きしめても大丈夫なのだと思った途端、そうしたくてたまらなくなった。まるで、そうするために花京院に出会い、同じ学校に通い、そして今、屋上でこうして唇を交わしているのだと、つい信じ込みそうになる。
 確かに自分勝手な考え方ではあったけれど、承太郎が腕を回すと、驚くほどぴったりと、その中に花京院が収まった。余り過ぎず足りないと言うこともなく、まるで、誂えたように、花京院の体は承太郎の腕の輪に囲われて、少しずつ腕に力を込めながら、承太郎は、花京院はほんとうに自分のために存在するのだと、口にするのは少々憚りのあることを、ほんとうに信じ始めていた。


 唇が外れ、けれど抱き合った腕はそのまま、承太郎を見つめる視線は外さす、花京院がそこで2度、小さく咳をした。承太郎をの口元を避けて顔を横に向けて、肩へあごを埋めるようにして2度、首筋がはっきりと筋肉の形を現した。
 「・・・煙草か。」
 「喫煙者の傍にいるのに、慣れてないんだ。」
 「てめーがいやならやめる。」
 承太郎がきっぱりと言った。口先だけと言うことがない承太郎が、その場しのぎのことを言うはずもなかったけれど、花京院でさえ聞き知っている禁煙の辛さを思えば、この承太郎の発言は少々軽率で衝動的だと、花京院は思った。
 「ありがたいが、できもしないことは口にしない方がいい。」
 承太郎を恐れもせず、抱き合った近さのまま、花京院が柔らかく言う。
 「なんでできねえと決め付ける?」
 「禁煙が大変なことくらい、僕だって知ってる。」
 そこまで言われてやっと、承太郎も少しばかり考えたらしい。深緑の瞳が揺れて、ちらりと後悔の色がよぎった。それでも結んだ唇の決意の表情は変わらず、何事にも本気で当たる承太郎なら、案外ほんとうに禁煙を果たしてしまうかもしれないと、そう思うのが承太郎へすでに傾いてしまっている自分の心のせいだとは花京院はまだ気づかないまま、くんと小さく鼻を鳴らす。
 「・・・それに、君の煙草の匂いは、嫌いじゃないんだ。」
 嘘ではなかった。今ではすっかり慣れてしまった承太郎の体臭には、常に煙草の匂いがまといついているし、自分の制服や髪にそれが移ってしまっているのを、ひそかに喜んでさえいた。
 それに、禁煙で苦しむ承太郎を見たくはないと、なぜかそう思った後で、そう思うのは2度続けてしまったさっきのキスのせいだと、花京院は思った。
 「どうせやめ時だ。」
 「それなら君の好きにすればいい。」
 放り出すような口調だったのに、どこか柔らかく包み込むように、そう花京院は言った。
 承太郎を見つめる視線に、もう15分前とは違う色が浮かんでいることに、花京院自身は気づいていない。承太郎はその色を見下ろして、頬の辺りが熱くなるのを止められず、そんな時にはいつもそうするように、ぐいっと帽子のつばを引き下げた。
 互いに触れていた腕がほどけ、また半歩ほどの距離が空き、抱き合っていなければ突然手持ち無沙汰になった両腕に戸惑う学生服の少年たちは、おずおずと指先だけを伸ばし、そこで人差し指と中指を絡め合う。
 口づけの意味を、まだ真には理解せず、煙草をやめると言うのと、別にやめなくてもいいと言うのと、それが恋の告白に等しいのだと、自覚もないままの、まだ幼い少年たちだった。
 「承太郎。」
 花京院が、気がつけば承太郎の肩に軽く頭をもたせ掛けて、そこで小さな声で呼んだ。
 「なんだ。」
 空いた方の手で、自然にポケットの中の煙草の箱を探りながら、承太郎が応える。すぐには返事がない。それでも苛立ったり焦れたりしたような空気は一片もなく、むしろその沈黙を楽しむように、ふたりは絡めた指先に同時に力を込める。
 「何でもない・・・。」
 そうか、とつぶやいてそのやり取りを終わらせた承太郎から、煙草の匂いがする。
 花京院は目を細めて、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

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