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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 ふと見下ろした自分の胸から、虹が伸びているのを見た。
 体の幅いっぱいに、それは、あごを引きつけて見下ろすと、面ではなく線に見える角度に、まるで新しく生えた腕か何かのように、きらきらと七色の細かな光を振りまいて、そこから上へ向かって伸びていた。
 はるか上で、やわらかく弧を描き、もう一方の端はどこで終わるものか、意外な巨大さは辺りを埋め、他にはなにもないのっぺらぼうの空間だった──空の青さえ見当たらない──けれど、背中に当たる地面らしきところはふかふかとあたたかく、見覚えのない異次元とは言え、害意は感じられない。
 承太郎は仰向けに横たわったまま自分の胸を見下ろし、その虹をじっと眺めた。
 七色の、色の変わり目はぼんやりとにじみ、水気の多い水彩絵の具の重なりを思い出させる。子どもが勢いばかりで筆を操ったように、よく見れば、それぞれの色の幅も、ところどころで違っているように見える。
 虹の生えているそこには、異物感も何もなく、根元──と言うのも妙な言い方だ──をそっと指先で探っても、ふくらみも盛り上がりもなく、虹そのものは、空気の固まりか何かのように、穏やかな手応えを返して、指先をもぐり込ませることはなかった。
 虹そのものは、冷たくもなければ、特にあたたかくもない。何かに似ていると、承太郎は、掌の間に虹を挟むように触れながら、ふと考える。
 これは、他人のスタンドに触れた時と、よく似た感触だ。
 そうすると、虹に見えるこれは、誰かのスタンドなのだろうか。攻撃されているとも思えず、そしてこれの本体である誰かの気配もない。
 承太郎は確かめるために、スタープラチナを呼び出そうとした。けれど、常に承太郎に忠実な、薄青い巨人の気配はどこにも現れず、承太郎は慌てもせずに、あれは眠っているのだと思い出した。
 少し眠るから、邪魔をしないでくれと、そう言われたんだった。
 何の脈絡もない唐突な記憶で納得して、承太郎はまた虹を見下ろし、恐らく虹がそこから生え始めているのだろう自分の胸の中が、ほのかにあたたかいことに気づく。
 何か、もうひとつ、別の体温でもそこにあるように、それはまるで、春の陽射しにあたためられた海の水のようなぬくみだった。
 承太郎は自分の胸を、虹ごと抱くように両腕を重ね、この虹はどこから来たのだろうかと、また何となく考える。
 そうして、顔がひとつ思い浮かび、スタープラチナが眠っている間に、代わりにオレが傍にいると、そう言えばあの男が言ったのだと、また別のことを思い出す。
 ああそうか、この虹はあの男だ。
 何もかもがやっと辻褄が合い、承太郎は安堵の笑みをこぼした。
 目の前で虹が光る。どちらかと言えば布状に近い虹は、承太郎が動くとかすかに揺らめき、七色の輝きが、承太郎の瞳の中になだれ込んで来る。
 虹の緑は承太郎の瞳の色よりもずっと淡く、その色をどこと知れない終わりへたどるまで、承太郎は瞬きを止めた。


 目が覚めて、目の中へあふれていた色がまだ輪郭を重ねて残り、部屋の中の暗さに、自分のいる場所を思い出すまで、数瞬掛かった。
 ここはホテルの部屋だ。海へ歩いて10分と掛からない、ここへ来たのはおとといだ。
 眠気はすっぱりと去り、眠りに戻れないと寝返りを打ち続ける気にならずに、潔くベッドから足を下ろす。
 爪先に、そこに脱いだはずのスリッパを探って、乱れた髪をぐしゃぐしゃとかき回しながら、承太郎は部屋を横切って窓際へ行った。
 ノートパソコンの電源を入れて、メールチェックで時間を潰すと言う手もある。あるいはまた眠気がやって来るまでの暇つぶしに、中にすでに入っている、カードゲームでもやるか。
 どちらも選ばずに、承太郎はカーテンを軽く開け、暗い外を眺めた。
 この窓は、残念ながら海に面してはいず、夜の、黒々とした海面を見ることはできない。代わりに、深夜過ぎだと言うのに、煌々と明るさを吐き出す街の灯を、他に見るものもなく眺めやる。
 その人工の明るさに目を細めて、承太郎は、夢の中で抱いていた虹のことを思い出した。
 この街の灯では、虹を生み出すには十分ではないだろうか。夜に虹が見えるとしたら、一体どんな眺めになるのかと、自在に天候を操るスタンドのことを考えながら、次第にその主のことを考え始める。
 昼間、あまりに鮮やかな空の青さに、虹が掛かればさぞ映えるだろうと、そう思ったのは、彼のことを想ったからなのか、それとも彼のことを考えたくて、虹のことを思い出したのか、どちらだったのだろうと、承太郎は胸の辺りを撫でた。
 夢の虹の痕跡は、当然感触すらなく、それでもあれは確かにあの男が見せてくれたものだと、承太郎には信じられた。
 まだメールも使えない、携帯電話のこともよくは理解できないあの男──ウェザーから、こんな時間に連絡があるはずもなかったけれど、ひょっとしたらと考えることをやめられず、けれど新しいメッセージはないと確かめて、やはりそうかと思う気がせず、もしかしたらと思い続けるために、メールも携帯もチェックはしない。
 こんな他愛もない希望が、なぜか胸をあたためてくれる。
 会いたいのだと、今一緒にいられればと、そう素直に思う自分がいて、そして、それを押し隠そうとする自分もいる。
 こんな気持ちは久しぶりで、恋だと思い決めるなら、これは承太郎にとって、2度目の恋だった。
 長い長い間、恋と言って思い出すのは、少年の頃のことだった。恋とは、淋しく悲しく思い出すもので、今この瞬間に、目の前に存在する誰かに魅かれるなど、もう2度とないと思っていたのに、足元をすくわれるように、出会った時にはもう始まっていた。そのことに自覚はなく、そして、触れたいと止められず思う落ち着かない気分に、自分の内側を覗き込んでようやく、ああこれは恋だと、やっと思い至った。
 承太郎は、何気なく自分の唇に触れた。揃えた自分の指先を、手繰り寄せる感触に重ねて、強いて錯覚させる。自分に触れる、誰かの手指。抱き合って、体の添わせ方も腕の巻き方も、すっかり忘れてしまっていた。
 ぎこちなく、ひとの体を抱きしめる。その先を期待しながら、重なる唇の間で通う呼吸とそのあたたかさに、ああ自分たちふたりは、ふたりとも生きているのだと思う。
 この恋は、始まったとしかとはまだ決まっていないこの恋は、まだ失われてはいず、終わる気配もない。現在進行形で、激しい熱さも荒れ狂うような心の動揺もなく、ただ静かに、承太郎の胸の中にたゆたっていた。
 停電の夜にともす、小さな蝋燭の火のような、そんな恋だ。
 窓ガラスに、こつんと額をつけて、らしくもなく感傷的な気分のまま、小さく名前を呼んだ。返る声はなくても、届くはずがなくても、きっと聞こえているだろうと信じられた。
 ウェザー。もう一度呼んで、承太郎は自分の胸に掌を当てる。虹を抱いていた自分の胸に触れて、あの虹は自分であり、ウェザーであり、そしてこの恋それ自体でもあるのだと思った時、ほとんど息が止まりそうに、ウェザーに会いたいと思った。
 いつか、一緒に海に出よう。波の穏やかな、天気のいい日に、海に掛かる虹は、一体どんな眺めだろうか。
 あるいは、いつかの夜に、暗い暗い夜に、ひっそりと虹を見せてくれと頼もうか。小さくていい、掌に乗るような、そんな小さな虹を、暗い夜に眺めてみたいと思った。
 朝はまだもう少し先だった。明日が晴れなら、電話をしようと決める。虹の話をしよう。そして、会いたいと、勇気を出して言ってみよう。
 考えるだけだ。今はそれだけで充分だった。
 カーテンを元に戻し、承太郎は窓から離れ、ゆっくりとベッドへ戻る。ひとり分だけ乱れたベッドへ少しの間目を凝らし、自分の胸や腰へ回る腕の重さを思い出していた。
 ベッドへ入り、横たわる一瞬前に、自分の隣りへ顔を向け、お休みと承太郎は小さな小さな声で言った。

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