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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 徐倫の、はしゃいで立てる高い声が、承太郎の家の高い天井に響く。
 若い女の声は、なぜこんなにも耳障りなのかと、承太郎は少年の頃から思うそのことが、自分の娘にさえ未だ当てはまることに少しばかりうんざりする。
 徐倫は今、ウェザーがいつもいるソファの上に手足を伸ばして、その爪先は、ソファの端へ座ったウェザーの膝に預けられて、きれいに爪を塗られているところだ。
 ウェザーは、ややうつむき加減に、徐倫の剥き出しの腿や膝からはあえて目をそらしていると言う風でもなく、真剣な表情で徐倫の足の爪へ目を凝らしていた。
 素足に触れられてくすぐったがる徐倫は、ほとんど用を為していない短いスカートの裾がめくれ上がるのを、一応は気にしている素振りだけはして、大きな手に、不釣り合いに小さなマニキュアのブラシをちんまりと持って丁寧に動くウェザーの指先を、面白がって眺めている。
 「はみ出さないでね! あんまりぶ厚く塗ると不格好だから!」
 大胆に素足を預けて、爪を塗らせながらこの言い草だ。承太郎はふたりに背を向け、コーヒーを淹れながらちょっと苛立っている。
 徐倫とウェザーの間には、承太郎の知らない繋がりがすでにあって、ふたりの互いに対する態度に、承太郎が口出しをする筋合いではないとわかってはいても、我が娘の少々品のなさ過ぎる、無礼な言動は、親として単純に恥でもあれば不愉快でもある。
 ここで、別れた妻──徐倫を、ほとんどひとりで育てた──の躾について、つい責めるような言葉が次々頭の中をよぎってゆくけれど、同時に、ひとり娘の徐倫の人生に、これまでまったく関わらなかった自分の手落ちを責めることにもなる──そちらの方がいっそう根深いから──と分かっているから、承太郎は下唇を噛んで、言いたいことをすべて飲み込んだ。
 突き詰めて考えてゆけば、ウェザーに狎れ狎れしくする徐倫と、それを許しているウェザーと、そこには父親としてと、承太郎個人としての複雑な気持ちがあって、実のところふたりともに対して苛立ちを感じながら、そんな風に感じている自分にいちばん腹を立てているのだと、気づいている自分に、承太郎はいちばんイライラしている。
 「やだウェザーくすぐったいったら!」
 「君が動くからだろう。じっとしてろ。」
 嬌声に近い徐倫の声に、いっそう冷静なウェザーの声だ。
 承太郎はとりあえずふたり分注ぎ分けたコーヒーのマグを両手に持って、ようやくふたりのところへ向かう。
 「徐倫、うるさいぞ。」
 決して怒鳴ったりはせず、あくまで父親の威厳を保って、低い声で脅すように言った。昔はひと睨みであらゆる人間を黙らせたものだけれど、これがまったく通じない人間もごくわずかいる。
 「うっせーぞオヤジ。」
 徐倫がそのひとりだ。
 ウェザーが、徐倫の爪先からちらっと目線を、承太郎と徐倫の両方に向けたのが見えた。
 徐倫は細い肩をいからせて、威嚇の態度で父親に向かう。父親は両手にマグを持ったままそこに直立し、あくまで冷静な目元とは裏腹に、唇の端がすでにひくりと一度震えた。
 血の繋がりと言うのは恐ろしいもので、承太郎のそんな態度など一度も見たことがないはずなのに、徐倫のこういう挙動は、高校生の頃の承太郎そっくりだ。なまじ可愛らしい娘──承太郎の親ばかだけではないはずだ──だけに、徐倫の方が妙な迫力があって始末に悪い。
 この強さがなければ、あの刑務所での惨事を生き抜けはしなかったろうと、それに感謝の気持ちはあるにせよ、さすがに手放しで賛辞できるほどは承太郎も甘い父親ではない。
 「アナスイにやらせてたら怒るくせに。それともアナスイならいいの?」
 承太郎の方へやや胸を開く姿勢に、徐倫が挑発するように言葉を投げ掛けて来る。ほとんど喧嘩腰だ。
 アナスイ、と言う、承太郎の前ではほぼ禁句のその名を聞いた途端、承太郎のこめかみに青い筋が薄く浮く。
 ふん、と顔の向きを弾みをつけて正面に戻し、徐倫はまたウェザーの手元を、監督する目つきで眺めやった。
 徐倫、と、厳しい声を荒げようと承太郎が大きく息を吸ったところで、徐倫の方も、何よ父さんなんて、とねじ曲げた唇の半分でだけ言い募ろうとする。 
 「君らふたりとも黙れ。」
 突然、ウェザーは、徐倫の爪を塗る手を止めないまま、静かな声でぴしりと釘を差す。
 まるで、体を差し込んでふたりの間を割るような、ウェザーの声だった。
 「ケンカにスタンドは使わない約束だろう。」
 これも血の繋がりのなせる業か、呼び合うように、承太郎の背後には薄青い影が浮き、徐倫の肩辺りには、確かに何か紐状のものが絡みついている。互いに無意識だったのか、ウェザーにそう言われた途端、それらは素直に主の体の中へ引っ込んだ。
 「アナスイとケンカしたからって、承太郎に八つ当たりはやめろ。」
 徐倫が肩を引いて、顔を真っ赤にした。なんで知ってるの、と、てらてら光る薄紅色の唇がぱくぱくあえぐ。
 なるほど、アナスイのことで機嫌が悪いと、ことさらウェザーに親密な態度を見せると言うのに、本人は自覚はなかったようだ。承太郎も恐らく気づいてはいない。ウェザーはふたりの方はあえて見ずに、ひとりで苦笑した。
 徐倫は、隠し事のばれた──よりによって、いちばん隠したい相手の承太郎に──戸惑いに、急に肩を縮め、胸の前を両腕で覆い、小さな子どもがいやいやをするようにかすかに首を振る。
 それを眺める承太郎の表情からはさっと怒りが消え、ひたすら心配だけをする父親の貌(かお)が浮く。そうなのか、大丈夫なのか、と、できれば話をして欲しいと瞳がはっきりと言うけれど、この互いに素直でない父娘(おやこ)に、そんな展開は望めない。
 ウェザーは、もう少し踏み込んで、ふたりに助け船を出すことにした。
 「どうせそっちの爪も塗るんだろう? 君の父さんに塗ってもらえばいい。」
 マニキュアのブラシを持ったままの手で、徐倫の胸辺りを指し示す。
 え、とふたりの唇──そっくりな形の──から、驚いた声が同時に漏れた。
 「と、父さんがマニキュアなんか塗ってくれるわけないでしょ!」
 叫ぶように言うのに、それでも自分の手と承太郎を交互に、ほとんどすがるように眺めて、徐倫は、Yesと言って欲しいのかNoと言って欲しいのか、どちらとも誰にも分からない表情を浮かべる。
 いっそうゆっくりと丁寧に徐倫の爪先に色を落としながら、ウェザーは黙ってふたりがどう動くか待っている。ふたりは視線を合わせたり外したりしながら、しばらく無言でいた。
 「アナスイならやってくれるのか。」
 絶対に口にはしないと決めているその名を、承太郎が低い声で発した。徐倫はちょっと驚き、今度は承太郎から目をそらさずに答えた。
 「アナスイは、アタシが言えば何でもやってくれるわ。」
 言葉自体には自信があふれているくせに、声音がそれを裏切っている。徐倫はそれをもう、信じられなくなっている。
 どうやら比較的深刻な仲違いのようだと、それでふたりが別れることを期待する気持ちと、それによって徐倫が傷つくことの心配と、どちらも同時に抱えて、承太郎は小さく小さくため息をこぼした。
 目の前のテーブルにマグを置き、承太郎はその同じテーブルの、徐倫の目の前に腰を下ろす。
 「どの色だ。」
 ウェザーの手の届くところ、自分の右側へいくつか置かれた、色とりどりの小さなびんへ振り向きながら、言葉短に承太郎が訊く。
 徐倫が、ごくっと喉を鳴らして、承太郎に手を取り上げられてもまだ半信半疑で、迷う視線をあちらの床辺りへ這わした。
 「ラメ入りの紫がいい。」
 徐倫の足の爪を、つやつやした黒で染め続けているウェザーが、視線を上げずにぼそりと言った。
 ほっとしたように徐倫の目元がゆるみ、そして同時に、唇の辺りに優しい表情が浮かぶ。その色が、アナスイのお気に入りだと知らないのは、承太郎の幸いだった。
 承太郎はそっと、まさしく壊れ物のようにびんを取り上げ、そしてこれはさらに壊れ物のように、徐倫の手を取り上げる。
 ウェザーの手元を観察するようにちらりと眺めてから、真剣な表情で、まず1滴を徐倫の爪に落とした。
 ブラシで色を塗ればいいだけの話だ。ただ、そのブラシも爪も、小さいのが問題だった。
 承太郎はもう最初のひと塗りで自分の限界を悟り、さっさとスタープラチナを呼び出す。自分とすっかり重なるスタンドが、自分よりも精緻で正確な動きで小さなブラシを扱うに任せた。
 けれど、徐倫の手に触れるのは主に自分自身の手で、そして丁寧さを最優先するために、そこはスタンドには完全に任せずに、できるだけ時間を掛けることにする。
 歩けるようになった頃に、常に繋いでいた手だ。承太郎の指を握り、けれど大抵は、あまりの身長差に承太郎の体が先に悲鳴を上げ、結局はいつも承太郎の長いコートの裾を握る羽目になる。
 細い指が長く伸び、ふっくらと薄く肉の盛り上がった掌は、弾みと柔らかさに満ちている。親の贔屓目なしに、美しい若い女の手だった。
 今はこの手を、あの男が取っているのだと言う事実は、残念ながら承太郎をいまだ苛立たせるだけだけれど、それでもあの男も自分の娘も、端から見ていて危ういにせよ、真剣に互いを思い合っているのだと言うことだけは、承太郎も決して否定はできない。
 「徐倫。」
 黙々と作業をしていた承太郎は、右の薬指をほとんど塗り終わりながら、平たい声で呼んだ。
 「何、父さん。」
 まだ少し警戒しながら、それでも徐倫が素直に返事をする。
 2拍間が空く。3人とも、自分の作業に没頭しながら、ふたりは承太郎の次の言葉にじっと耳を澄ませている。 
 「あの男にどんな態度を取ろうとおまえの勝手だが、他人に優しくされたいなら、自分も他人を優しく扱うことだ。」
 言葉そのまま、徐倫の手を取る承太郎の手つきはひたすらに優しかったし、声音も、それは確かに、心の底から愛する娘を気遣う父親のそれだった。
 「・・・うん。」
 小さな女の子のように、徐倫がかすかにうなずいだ。
 ウェザーのはもう、後左足の小指を残すばかりだ。
 足が終わったら、徐倫の左手は自分が塗ろうかと思って、けれど紫色は承太郎が使っているから無理だと気づく。
 それなら、左手は徐倫が好きな色にすればいいと、父と娘が穏やかに空気を分け合っているのを、ウェザーは上目に眺めてひとり微笑む。
 承太郎の置いたコーヒーのマグが少し遠い。ウェザー・リポートを呼び出して、手元へ引き寄せようとした時、スタンドの気配にスタープラチナがウェザーの方を見た。
 薄青い巨人の目元も、今は優しくなごんで見えた。

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