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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 終わった後の熱のまだ引かない躯を、承太郎が背中から寄せて来る。腰から回って、名残を惜しむようにみぞおち辺りを撫でる手を、花京院は自分からもっと近くへ引き寄せた。
 まだ汗に湿る肩や首筋を、続きかどうか、承太郎は唇で触れ、花京院はくすぐったさ──嘘だ──で肩をすくめる。
 「君はタフだなあ。」
 「てめーのせいじゃねえか。」
 間も置かず切り替えされて、花京院はくつくつ笑った。
 「何でもかんでも僕のせいだな承太郎。」
 「ほんとのことだからな。」
 肩から首を後ろにねじって、そのつもりで承太郎へ振り向くと、承太郎はすぐに唇を合わせて来る。
 さっき、もっと親密に重ねて合わせた躯が、そうすると何もかもを思い出して、再び湧く熱はなくても、じわりと脳の底が揺れる感覚はきちんと蘇る。
 躯が、触れた端から融け出して、液体状になって承太郎の躯をくまなく覆い、そうやってひとつになれるイメージが頭から去らない。
 承太郎が触れた背中がまた熱い。花京院は目を閉じて、大きく息を吐いた。
 「君は何て言うか、僕のことが好きだな承太郎。」
 息と一緒に、思わず嘆息のようにこぼれ出た言葉だった。こんなことを口にする日が来る自分だと、承太郎に出会う前は思ったことすらなかった。
 「当たり前じゃねえか。」
 これもこともなげに、承太郎があっさりと肯定する。
 「てめーも同じだろう花京院。」
 「僕はそんなに君のことが好きだなんて、言ったり見せたりしないぞ。」
 好きの部分は否定せず──できず──に、花京院はちょっと考えるように瞳をめぐらせる。おかしそうに、承太郎が喉の奥でちょっと笑う。
 「うそつけ、うるせえくらいに言ってるじゃねえか。」
 肩にあごを乗せてしゃべると、喉の震えが皮膚と骨に伝わって来る。花京院は見えないことに耐えられなくなって、そっと承太郎の腕の中で体を反転させた。
 「いつ?」
 上目に、眺めればまだそこも熱の去り切らない、承太郎の瞳をとらえて花京院は訊いた。
 「・・・なんだ、覚えてねえのか。」
 承太郎の手が背中を撫でる。また不埒に、もっと下へ触れようとするのも、花京院はわざわざ止めることはしない。
 承太郎の表情と口振りで、一体いつ自分がそんなことをあからさまに伝えているのか、花京院はするりと悟って、もう顔を赤くするような純情さはない代わりに、あっさり素直に承太郎のあご辺りでうなずいていた。
 「・・・そうか、そんなにうるさいのか僕。」
 防音が決して完璧とは言えない住宅事情を慮って、そちらをまず気にするのが花京院らしい。
 「隣近所に響いてるわけじゃねえ。安心しろ。」
 「朝のゴミ出しは主に君だからな。噂されるとしたら君の方が先だ。」
 「この野郎。」
 軽口を叩くのも、あんなことの後のじゃれ合いだ。
 花京院も承太郎の背中へ腕を回し、鎖骨や首へあごをこすりつけた。
 喉と喉を触れ合わせ、意外と骨の形のすぐわかるそこが、そんなにも露わなのに急所だと言うのが不思議だ。すぐに触れられる。ほとんど常に剥き出しで、掌や指先を押しつけるのも簡単だ。互いにそこを晒して、互いを傷つけることなどちらとも考えず、こんな風に無防備になれるのは、結局は信頼のあかしなのだと突然気づいて、花京院は承太郎の喉へ向かって目を細めた。
 ああそうだ、確かに僕は君が好きだ。こんなにも。
 今それをきちんと口にすることは、さすがに正気に返った後では素直にはできず、それでも承太郎へもっと近く体を添わせて、花京院は承太郎の背中を撫でる手にもう少し優しさを込めた。
 いつの間にか、こんなにもいとおしくてならなくなった承太郎と、互いを腕の中に納め合って、限界まで素の互いを晒して、これはまるで奇跡のようだ。
 自分が好きな誰かが、自分を好きだと思ってくれる、それが一体どんなものなのか、承太郎に出会うまでは、想像の中ですらきちんと像を結んだことがなかった。
 嫌われてしまうことに、もう好きではないと言われることに、常にびくびくと恐れを抱く日々の方なら簡単に想像できたのに、承太郎といると、そんな恐怖も忘れてしまえる。
 何を言っても、たとえ怒らせても、承太郎となら大丈夫だと、最初の最初から思えたのはなぜなのだろう。
 ほんとうに、別々に生まれて来てしまった元はひとつの生きもののように、何もかもがぴったりと寄り添って解け合って、承太郎とならひとつになったような感覚が常にある。
 誰かを好きになると、誰もこんな気分を味わうのだろうかと、考え込んだこともあったけれど、自分たちの結びつきが、特殊である以上に、何かほんとうに運命のようなものだったのだと、確信に変わったのはいつの頃だったろうか。
 承太郎の掌が、何のためらいもなく、花京院の背中の傷跡に触れる。花京院も、指先で手探りに、承太郎の背中──そして体中──に散った傷跡にひとつびとつ触れる。
 自力では見ることのできない互いの背中を、花京院も承太郎も、自分の掌のようによく知っている。
 背中だけではない。他の誰も知らない、腿の裏側から膝裏へ落ちる薄暗い陰や、隠された皮膚の薄さや、傷つきやすい秘めた部分の、熱さや硬さや柔らかさの何もかも、ふたりはふたりでだけ知り合って、分け合っている。
 爪先が互いに触れ合い、足を時々絡めて遊んで、ここから先がまたあるのかどうか、ふたりで腹の探り合いだ。
 まだ週末ではなかったし、夜はすでにとっぷりと更けている。今では明日のことをきちんと気に掛けられる大人のふたりは、それでも互いから腕をほどけず、寄り添って抱き合ったままだ。
 どこまで近く触れ合っても、満ち足りても、完全に満たされたと言うことはなく、次にはもっと触れ合いたくなる。どこまで深く近寄れるのかと、それを試し続けるように、飽きることも終わることも考えすらしないふたりだった。
 何の気負いもてらいもなく、承太郎のことを好きだと、花京院は思った。
 それはもう、手をみれば小指がそこにあると言うのと同じくらい、花京院にとっては当たり前のことになっていて、わざわざ改めて情熱を込めて感じたり伝えたりすることではなくなってしまっている。それでも、承太郎がうるさいと言うほどには、無意識に伝えることをやめてはいず、承太郎もまた、花京院にそれを伝えることをやめたりはしない。
 どれだけ互いに注いでも足りず、互いの中に、驚くほど深く食い入りながら、恐らくほんとうに体をひとつにでも繋がない限り、今想像している満足は得られないのだろう。たとえそうしたところで、それでも絶対にもういいと思うことはないのだと、花京院は知っている。
 好きだと思う気持ちは尽きない。それは深まって、量を増やすばかりだ。勝手に溢れて、承太郎の方へ流れてゆく。承太郎はそれを受け取り、承太郎の好きを花京院へ注ぎ掛ける。
 ふたつの好きは、合わされば倍になるのではなく、何か不思議な掛け算のように、無限に量を増やしてゆく。酸素のように、ふたりはそれを取り込み、そしてまた溢れさせてゆく。
 想いが溢れ過ぎて、死ぬ時は一緒だと、つい陳腐なことも言ってみたくなるけれど、それは多分言う必要のないことなのだろう。きっとそうなるのだと、花京院はすでに信じてしまっているからだ。
 眠るのが惜しい。もっともっと、分かりやすく好きを分け合っていたいと思った。
 眠気は、ふたりのところへ、それ以上は近づけずに遠巻きに踊り回っている。
 もう一度と言うには少しだけ夜の長さが足りず、それでも回した腕を外す気にならず、ふたりは寄り添い続けていた。
 軽く、触れ合わせるだけの口づけの間に、好きだと、声には出さない言葉も交わして、そのたび微笑みが深くなるのに、ふたりは同時に喉を鳴らした。
 永遠のように、そこでだけ空気があたたかい。

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