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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 承太郎は、自分のではなく、他人の論文の下書きの山に埋もれていた。
 学生たちの、いわゆる卒論と言う奴の手直しだ。完成されていない文章など、自分のすら目にしたくはないのに、他人のそれを、師としての目線で眺めてあれこれケチをつけてやり直しをさせるなど、まさしく拷問に等しい。
 自分でも時々読めなくなる、殴り書きになりそうになる字を、とにかくも助けなく読める程度にとどめる努力をしながら、承太郎は自分のこめかみ辺りにこっそり爪を立てている。
 研究室の、自分の机にしがみついてすでに10日余り、ここに、これが理由で泊まり込むことはしたくなくて、無理矢理学生たちの作文──と面と向かって言うといやな顔をされる──の束を家に持ち帰り、大学への行き帰りでも自宅の自分の仕事机の上でも、絶対に紛失したり置き忘れたりしないように神経を使いながら、一向に嵩の減った気のしないそれを目の前に、承太郎は果ての見えない苦行にひたすら耐えている。
 ただでさえ親しみの薄い目つきはいっそう悪くなり、頬の線もいつもよりも鋭くなっていた。そして、外ではほぼない口数は寡黙の域を軽々と越え、時々無意識にスタープラチナを出現させて、それは一体、機会さえあれば誰かをぶん殴りたいと言う、八つ当たりの気持ちの現れなのか。
 そうして、承太郎の机の上の電話が鳴った。


 どこのクソ野郎だ。思ったことが、実際のつぶやきになって声が漏れていた。背後で、たまたまいた、承太郎の苦行とは無関係の学生がぎくっと体を縮めたことなど、承太郎は知りもしない。
 もしもし、と地の底が震えるような低音で、それでも受話器を握りつぶさずに応えられたのは奇跡だった。
 ──やあ、承太郎。
 思いがけなく、そこから聞こえて来たのは花京院の声だ。途端に、承太郎の頬の線が緊張をゆるめ、そして目元の色まで変わる。部屋の中には背を向けていたので、承太郎のそんな変化──ほとんど誰も目撃したことはないはずだ──は見咎められずに済んだ。
 「なんだどうした珍しいな。」
 ──邪魔してごめんよ。ちょっとね、珍しく時間が空いたから、君の予定を訊きたくて。
 承太郎がこの苦行に耐えている同じタイミングで、花京院も近頃ずっと忙しい。家で最後に一緒に食事をしたのがいつだったか、承太郎は一瞬思い出せなかった。
 「予定?」
 訊き返すと、花京院が向こうでちょっと声を落とした。
 ──世間的には、風邪を引いたことになってるんだ。僕が明日休んだところで、世界が終わるわけじゃない。
 断固としたその言い方に、承太郎のそれとは違う、花京院のサラリーマンとしての悲哀が滲んでいた。ああこいつはやっぱりおれの戦友だと、承太郎は受話器に向かって顔を傾ける。
 ──と言うわけで、僕は早退して、もう家にいる。今日と明日は好きに過ごそうと思って、それで君はどうしてるかなと思って、電話した。
 どうしてるか、と言うところで、声のトーンがわずかに変わる。承太郎の今現在の状況を知りたいと言うのは、その言葉通りのことではなく、何か別の意味が含まれているように、承太郎は聞き取った。
 第一、ただご機嫌伺いに、他人の仕事場へ特に用もない電話を寄越すような男でもない。承太郎の今の忙しさ──花京院のそれほどではないにせよ──を知っているのだから、それの邪魔をするようなことは絶対にしない男だった。
 しかし責任感と生真面目が第一の花京院が、風邪だと嘘をついてまで仕事をずる休みとは、忙しいのは常だけれど、そんなに大変だったのかと、一向に気づいていなかった自分に、承太郎はちょっと舌打ちをする。
 「どうもこうも、相変わらずだ。他人の書いたもんなんざ、終わったらしばらく見たくもねえ。」
 花京院が相手だと、つい気がゆるむ。学生たちには絶対に見せない、元不良の貌(かお)がうっかり外に出た。
 ──そうか、君も大変だな。
 花京院の声が、同じ立場で、けれど今は安全地帯である後方にいる、待機中の兵士のそれになる。
 羨ましいのと花京院が恋しいのと、ごっちゃになって、承太郎は持っていた鉛筆をついに手から放して転がして、空いた手で目の上に指先を押しつける。
 ──別に用はないんだ。ただ君の声が聞きたくて──。
 そこで、不自然に言葉が消える。続きを当然あるものとして待つ承太郎の耳に、ぎくしゃくと沈黙が届いて、花京院の、何か言いあぐねている様子だけが伝わって来る。
 「おいなんだ。」
 つい、その気がないまま、苛立ちが声に出た。
 ──いや、うん、君が忙しいのは分かってるんだが・・・その、僕らほら、しばらくずっと忙しかったじゃないか。ろくに顔も合わせてないし。だからその、僕は休みだから、君とその、久しぶりに、と思って電話したんだが──。
 何か、真っ直ぐ伝えようとして伝え損ねている、あるいは承太郎が受け取り損ねていることがある。
 半分は日本人でなく、育ちもあまり日本人とは言い切れない承太郎の、やや普通とは馴染まない、行間を読むやら言葉の裏を読み取るやら、その辺りを避けて花京院は比較的物をはっきり言うけれど、今は疲れのせいかまたはほんとうに自覚なく風邪気味なのか、寝起きのように言葉の焦点がぼやけている。
 「なんだ一体。」
 はっきり言え、とやっと言葉にはせずに、承太郎はさらにもっと花京院の言葉の先を促した。
 ──いやだから、うん・・・ようするに僕は、君も風邪気味なんじゃないかと思ったんだ。
 「風邪?」
 ──君も風邪気味なら、僕ら一緒にベッドに閉じこもれるだろう? 今日も、今夜も、明日も。
 今夜、と花京院がわざわざとってつけたように付け加えて、承太郎はやっと花京院の言いたいことを悟る。
 頭の動きが鈍っているのは、花京院ではなく承太郎の方だったようだ。
 花京院に押し倒されて、覆いかぶさられている自分の姿が、承太郎の脳の裏側にはっきりと映った。
 そしてその映像は、残念ながら即座に乱れて、砂嵐と雑音に変わる。
 承太郎は転がっていた鉛筆を再び手に取り、心底悔しくて唇の端を噛んだ。
 やっと、言葉をしぼり出した。
 「・・・今日は、ちっと無理だな。」
 自分はなぜ、高校生のままではないのだろうと、承太郎は思う。17歳の承太郎なら、今すぐ椅子を蹴って立ち上がり、無言でこの場を去ったろう。明日のことなど考えずにすんだ自分のあの頃の幼さを、今ほど懐かしいと思ったことはなかった。
 ──そうだろうな、そうだと思ってたんだ。急に悪かった。邪魔したよ承太郎。
 おう、と相槌が、足元へ沈んだ。
 電話はあっさりと、引き剥がすように終わって切れ、承太郎は静かに壊れ物のように受話器を元に戻すと、鉛筆の先をまた紙の上へ立て直す。
 字を書こうとするのに指が動かず、どんどん無駄な力が入って、ついに指先が震え始めた。
 がたん、と音を立てて、承太郎は不意に立ち上がった。
 「気分が悪い、吐き気もする。悪いが明日は病欠だ。」
 部屋中に聞こえる声で、はっきりとそう言って、承太郎は手早くまとめた紙の束を引き出しに放り込み鍵を掛け、そうして、椅子を蹴って部屋を出て行った。
 一瞬で去った小さな嵐を、部屋にいた学生たちその他は呆然と見送り、声を掛ける間さえなかった。


 スタープラチナにやらせれば、屋根伝いに街を駆け抜けることは可能だったけれど、見られて警察に通報でもされては困るので、承太郎は素直にいつもの経路で家路を急ぐ。
 走れるところはすべて全速力で駆け、車なら絶対にスピード違反で捕まっている勢いで、家へ着いた時には汗まみれだった。
 静かにと言う、いつもの所作は忘れ切って、派手に玄関のドアを開け、閉めながら、
 「花京院!」
と、奥に向かって怒鳴っていた。
 「おい承太郎何だどうした。君一体──」
 電話での、やたらと間の多かった話し方とは打って変わって、驚くまましどろもどろに、上着もネクタイも取っていたけれど、まだ着替えてはいない花京院が、呼ばれた声に従って玄関へ顔を出して来た。
 「おい君まさか──」
 早退して来たのか、と言う声は、承太郎が放り出すように靴を脱いだ音と、階下への気遣いなど皆無な足音にかき消されて、さらに、抱きすくめられた後の、噛みつくようなキスの中にすべて消えた。
 奥へ続く細長い廊下の、キッチンへの入り口付近の床に、承太郎は尋ねもせずに花京院を引きずり倒した。
 近頃、掃除もろくにしてないそこは、ふたりが動けば埃が舞う。構う余裕など失って、承太郎の手はさっさと花京院の、すでにふたつみっつボタンを外したワイシャツの胸元へ掛かっている。
 「こんなところで──」
と言いながら、花京院の手も、承太郎の服を脱がそうと必死だった。
 「風邪気味だからな、早く体調を確かめねえとな。」
 「ああそうだな、今夜はきっと熱が出る。おとなしくベッドで寝てないと。」
 「お互いな。」
 上着から腕を抜く。その腕を、花京院が撫でてゆく。承太郎は花京院の両脚の間に割り込んで、互いに、疲れた気配を漂わせているのに、皮膚はもうそんな空気などどこかへ置き去りにしているのに、内心苦笑した。
 「承太郎、風呂と食事と、どっちが先だ?」
 忙(せわ)しい口づけの合間に、花京院が儀礼的に訊く。
 「てめーが一緒なら、先に風呂か。」
 「夕食は、ピザでも取るかい。」
 「全部後だ。まずはてめーだ。」
 「そうだな、僕もまずは君だな。何しろ僕も君も風邪気味で、早く汗をかいて熱を下げないと。」
 「もう黙れ。」
 床の上で、手足が泳ぐ。すでに汗をかいた体に、もう一層、新たな汗が吹き出し始める。
 埃まみれの床に服がしわだらけに波打って、明日は合間に家事も片づけようと、ちらりとかすめたそんな考えは、花京院の指先のひと触れでどこかへ消え去る。それでも、覚えておくことは忘れない。
 承太郎はがつがつと、花京院の鎖骨へ、跡は残さずに歯を立てる。

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