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雨音5のお題@Dream of Butterfly

5、君の寝息と雨の音

 ぴたりと重なる背中と胸の、ぬくもりにウェザーはゆっくりと瞬きをした。
 少しずつ当たり前になってゆく、素肌と素肌のこすれ合う感触。触れ合うことが習慣になる、ウェザーには馴染みのないことだ。
 刑務所の中では、当然のようにそれは禁止されていたし、けれど地獄の沙汰も金次第、いつだって抜け道はあった。黙認されていたそのことは、現実には触れ合いなどと言う穏やかなものではなくて、誰もただそこで生き延びるためだけに他人の体温を奪おうとしているように見えて、結局それも、彼らが──そしてウェザーも──外で犯して来たあれこれのことと大差はなかったのだ。
 吐き出すためだけの、ただの処理。他人の体を使った自慰。悲しい摩擦。閉じ込められ、どこにも行けないただ溜まってゆくだけの時間を、数分忘れるための、そのこと。
 承太郎に触れる。腕を伸ばすと、彼は何かと振り返り、そこにウェザーを認めるとゆるく唇の端を上げて、腕を差し出し返して来る。互いの体に巻く腕。掌を押し当てる広い背中。少し上向く口づけにはまだ少し慣れず、承太郎の背高い体を自分の下に敷き込んでから、ウェザーはふたり分の長い手足の行方が、たまに心配になる。
 刑務所の、足のはみ出す小さなベッドではない。承太郎のベッドだ。たっぷりと横にも縦にも広く、ふたりで少々暴れても床に落ちる心配もない。柔軟剤の匂いのかすかにする、すべすべと柔らかいシーツ。そこに挟まれて、シーツよりも素早くぬくもってゆく、承太郎の躯。
 ここは刑務所ではないし、承太郎は奪うだけの者ではないし、これは淋しい自慰の摩擦でもない。ふたりはここに、少しの間閉じこもることを自ら選んで、静かに或いは騒がしく躯を重ねて、自分のそれよりも相手の満ち足りた表情を見たくて、思いやりを表すために、こうやって抱き合っている。
 承太郎に触れるたび、ウェザーの心のどこかがうずいた。輪郭も定かではない痛み。遠すぎる記憶は幾重もの幕の向こうに、在ると言うことだけが確かな痛みだった。
 大事な何かを、大切な誰かを、喪った痛み。まだ柔らかな傷口。永遠に塞がる保証のない傷。油断したひと触れで、傷口はまた新たにぱっくりとその口を開く。真っ赤な血。鮮やかな桃色の肉。なめらかな切り口に引き攣れる皮膚。ざくざくと糸と針で縫うのも、ひどい苦痛を伴う。糸の端を小さく結んで、歪んだ縫い目を目にするたび、同じ痛みが甦る。繰り返し再生される、喪失。
 なぜかは分からない、出逢った瞬間に、この男も同じ傷を抱えているのだと思った。塞がらない傷口。触れられないように、心の奥底に隠して、必死でひとり耐えるその痛み。傷の存在に耐えられないはずなのに、そうやって抱え込んでいる限りは、失くした大切な何かのことを、忘れずにいられる。耐える痛みの深さだけ、大事な想い出も強く刻み込まれる。
 語る必要はなかった。訊く必要もなかった。ふたりは、別の場所で、けれど同じ様に大切な誰かを喪った、悲しい同士だった。
 代わりはない。失ったものを、別の何かに置き換えることはできない。失くしたのは唯一のものだった。代わりがあるはずもない。だからこれは、互いの胸に空いた大穴を、互いで埋めることではないのだ。
 胸の穴を通り過ぎてゆく風の音を、ふたりは一緒に聞いている。時には横に並んで、時には背中合わせに立って、あるいは向かい合って抱き合って、通り過ぎる風が鳴らす骨の音を、ふたりは黙って聞いている。
 ふたつの、乾いた音が重なる。ひゅうひゅうと、ごうごうと、ざわざわと、胸の穴を撫でて通り過ぎる風の音がまるで合奏のように重なって、不思議な旋律は、まるでふたりを慰撫するように心地良く聞こえる。
 慰められてもいいのだ。そうやって悲しさと淋しさを紛らわしてもいいのだ。自分が世界にひとりきり立ちすくんでいるのだと思わずに、安堵してもいいのだ。ひとりではない。自分は、ひとりきりではない。
 痛みは消えない。喪った何かの記憶はそこに在る。けれど、その記憶と一緒に、ひとりきりではなく生きてゆく。
 今なら、それができる。奪い合うのではなく、与えたくて抱き合える誰かがいる今なら、それができる。
 柔らかさのないのはお互いさまだった。互いに、それに少し戸惑いながら、けれどぬくもりには安心して、誰かを抱きしめたいと思うこと、抱きしめたいと思う誰かが傍にいること、その誰かを、そうしたいなら抱きしめてもかまわないこと、そのどれにもすぐには慣れずに、少しずつ少しずつ、不器用に距離を縮めてゆく。
 皮膚をぴったりと重ねても、心の距離はすぐには近づかない。触れ合う互いの魂の縁の、わずかな電気のショックのような、そんな感触にすら全身が震え上がる。痛みの深過ぎる過去の、けれどこれは忘れるためのことではなかったし、忘れたくて触れ合うわけではなかった。
 痛みを抱えたままの互いを、ふたりは求め合っていた。何もかもすべて、それが互いであると言うことだったから、痛みも傷も過去も、それすら含めてのいとおしさだった。
 だから、とウェザーは考える。痛みが薄れることを、恐れなくてもいい。いつか傷口がほんとうに塞がって、ただ淡く盛り上がった線だけになってしまっても、それでも自分自身が消えてしまわない限りは、忘れてしまうことはない。忘れることを人が恐れるのは、自分が忘れ去られることを恐れているからだ。
 恐れることはない。こうやって、誰かと触れ合い続ける──抱き合うと言うことだけではなく──限り、自分の痕跡は少しずつ世界に残されてゆく。自分たちが、自分たちの傷を決して忘れないように、生きたと言うあかしは、そうはたやすくは消えないものだ。
 だからこそ人は、誰かを求めるのだ。求めて求めて求め続けて、そうやって、魂の縁の触れ合う共鳴の音を探して、素早く、或いはゆっくりと、恋に落ちる。
 ひとりではない。どのように生きても、人はひとりではない。
 ウェザーは承太郎を抱いた腕にそっと力を込めて、それから、窓の外から伝わって来る音に気づいて、ふっと耳を澄ませた。
 厚いカーテンの下がった窓の、外は首を回しても見えない。それでも、かすかな音で雨が降り出したと思って、少し体を起こして、眠っている承太郎を見下ろす。
 どうしようか。このまま降ったままにしようか。
 起こして訊きたい気持ちになりながら、頭の中だけで考える。こうやって、承太郎のために天気を変えようと、いつも考えるようになったのはいつからだろう。
 触れた皮膚から、このままでいいと、承太郎が眠りの中でそう思っているのが聞こえたような気がして、ウェザーはもう一度窓の方へ浅く振り返って、承太郎のうなじの辺りへ額をこすりつけた。
 夢の中の雨音は、一体どんな風に聞こえるのだろう。ふたりで一緒に聞く雨音は、なぜかひどく耳に優しく響く。
 承太郎の寝顔をひとり占めしながら、胸を通り過ぎてゆく風の音が止んだのを確かめて、ウェザーは雨音の子守唄に合わせて、またゆっくりと瞬きした。

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