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君と過ごした10題 (配布サイト閉鎖)

06.君を泣かせたのは

 「痛い!痛い痛いー!」
 大き目のナイフを持ったまま、徐倫が甲高い声で悲鳴を上げる。叫びながら目をこすろうとしている左手を、ウェザーは慌てて掴んで止めた。
 「触るな、余計に痛い。」
 涙のたまった目で隣りのウェザーを斜めに見上げ、それから徐倫は目の前のたまねぎを、ちょっと憎々しげににらむ。
 「手と顔を洗って来るといい。たまねぎはオレが切る。」
 「いやよ、だってアナスイが──。」
 ウェザーはぐるりと瞳を上に押し上げて、大袈裟にため息をついた。
 「・・・分かった。分かったから、とにかく顔と手を洗って来てくれ。」
 やっとナイフをまな板の上に置いた徐倫の肩を洗面所のある方へ押して、ウェザーは、徐倫が果敢にみじん切りに挑戦していた半分に切ったたまねぎの残りを、手早く取り出したラップでくるんで電子レンジの中へ入れる。ちょっと考えてから、30と言う数字を押して調理と言うボタンを押していると、まだ目をこすりながら徐倫が戻って来た。
 たまねぎ入りのツナサンドイッチ、それからピーナッツバターのサンドイッチ、それとハムとチーズのサンドイッチ、今日はふたりでピクニックに出掛けるのだそうだ。ツナにはマヨネーズをたっぷりと、ハムとチーズはバターだけでマスタードはいらない、ピクルスは嫌い、徐倫が冷蔵庫に貼ったメモにはそう書かれている。
 30秒経ったレンジからたまねぎを取り出し、徐倫に渡すと、徐倫は親の敵のようにまたたまねぎをにらんで、これからちょっと物騒な目に遭わせる──比較的正確な描写だ──と言った風に、再びまな板へ向かった。
 手つきがいかにも危なっかしい。ちょっとグレていただけの不良娘が飛び出しナイフを扱い慣れているとも思えず、料理のナイフにも縁遠いようだ。
 「指先に気をつけて。」
 「わかってる。」
 手元に目を落としたまま、徐倫が短く答えた。
 先にやって見せたウェザーの手つきを何とか真似て、それなりの大きさのみじん切りが少しずつ掌の下にたまってゆく。
 「今度は目が痛くない! レンジに入れるの?そうすると大丈夫なの?どうしてそんなこと知ってるの?」
 「オレは昔、食堂で働いてたことがあるんだ。」
 「へえ。」
 話が始まると手元が疎かになる。見ないままナイフを動かされるよりは、作業を止められた方がましだ。
 後ろのカウンターの上には、もう食パンとピーナッツバターが出してある。ハムとチーズはまだ冷蔵庫の中だ。ツナの缶詰は、とっくに油切りされてボウルの中だ。ああ、マヨネーズがまだだったと、ウェザーはちょっとその場を離れて、徐倫の後ろを通って冷蔵庫へ向かった。
 マヨネーズを取り出そうとして、粒マスタードのビンがないのに気づく。あれは承太郎のお気に入りで、ウェザーが承太郎にサンドイッチを作る時にしか使わない特別なやつだ。斜め後ろを振り返ると、カウンターの上にそのマスタードがしっかり乗っている。
 なるほど、いい物を見る目は確かと言うことか。
 さすが空条承太郎の娘だと思いながら、サンドイッチの目的がアナスイとのピクニックだと知ったらまた静かに怒り狂うだろうけれど、徐倫が使ったのだと言えば文句は言うまいと、ウェザーはそのまま出されたマスタードを使うことにした。
 「コーヒーはどうする? 持って行くか。」
 「ううん、コーヒーは、今日はアナスイがスタバをおごってくれるって!」
 語尾に、ピンクのハートマークが散らばるような喋り方だ。ちょっと当てられて、ウェザーは頬に吹き掛かって来る熱気を避けるように、ちょっと顔を横に向けた。
 ふうと、何か大仕事でもやり遂げたように額を汗を拭う仕草をして、徐倫が切ったばかりのたまねぎをツナのボウルの中へ入れる。ウェザーが見守っていると、時々これでいい?と確かめるように見上げながら、そこにたっぷりマヨネーズを入れる。
 徐倫がボウルの中身を一生懸命混ぜている隣りで、ウェザーは食パンにピーナッツバターを塗り、それを4枚作ってから、内2枚の上にバナナの輪切りを乗せる。まな板を使わずに、手に持ったままのバナナの先を綺麗に輪切りに切り取ってパンの上に落としてゆくウェザーの手つきを、また徐倫が驚いたように見つめている。
 「ウェザーって、器用よね。」
 この程度で器用と言われてもちょっと困るなと思いながら、とは言え若い女の子のそんな言い方にいちいち噛みつくほど子どもでもなく、ウェザーはわずかにうなずいてそのコメントを受け流した。
 「たくさんあるから、全部サンドイッチにして置いて行ってもいい? そしたらウェザーも父さんも食べられるでしょ。」
 どうやらうまく混ざったらしいボウルの中を指差して、誇らしげに徐倫が言う。ちょっと首を伸ばして、ウェザーは中身の量を検分した。
 「いや、全部にはしない方がいい。君の父さんは生のたまねぎは食べないんだ。」
 え、と徐倫の唇が開いたまま止まる。離婚のせいで長い間疎遠だったこの父娘は、いまだ互いのことをよくは知らない。おっと徐倫を傷つけたかと、ウェザーは無表情なまま考えて、心配を見せないように気をつけた。ウェザーに心の動きを読まれると、徐倫がいっそう傷つくと分かっているからだ。
 「少し作って、オレが後で食べる。残りはサラダにでもするさ。」
 何事も起こらなかったような振りで、ウェザーはできるだけ軽く言った。
 「それより早くしないと遅れる。まだハムとチーズも出すんだろう。」
 「あ、そうそう!」
 そこで徐倫の気は他へそれ、バナナとピーナッツバターのサンドイッチをウェザーが完成させる間に、ツナサンドイッチとハムのサンドイッチを、徐倫が何とか完成させた。
 サンドイッチは、全部それから三角形に半分に切り、ひとつひとつをラップでくるんで、どれがどれとすぐ分かるように切り口を上にして紙袋の中に入れる。その傍に小さなりんごを数個、パックのジュース、それからボトル入りの水、クッキーとチョコレートまで入れて、徐倫はやっと満足したように紙袋の口を折って閉じた。
 存外大きな包みになってしまった紙袋の前で、徐倫はちょっと胸を張るようにしてそれを見下ろし、ふふんと言うように、あごの先を持ち上げる。
 得意満面は充分に可愛らしい眺めだったけれど、それを堪能している暇はなかった。
 「徐倫、時間だ。」
 キッチンのストーブのデジタル時計を指し示すと、たまねぎに襲われた時と同じような悲鳴を上げ、徐倫が慌てて紙袋をつかみ上げる。
 「て、手洗って! あ!髪ももう1回! ワタシのこの格好、変じゃない?大丈夫?」
 「大丈夫、君はいつだってパーフェクトだよ徐倫。」
 嘘ではなかったけれど、口調が棒読みになるのは仕方がない。大体どんな徐倫であっても、アナスイが文句を言うはずもない。徐倫のお手製のサンドイッチを食べる恩恵に預かれて、あの男はきっと今日1日、世界でいちばん幸せな男になるだろう。
 徐倫はウェザーの言葉に気を良くして、ちょっと髪の乱れはあったけれど、それほど直すのに時間は掛けずに、うきうきと玄関へ向かって行った。
 キッチンの惨状は、すべてウェザーの手の中に残された。
 さて、片付けるとするか。ちょっとだけうんざりして、その気分を素早く振り払って、ビンのふたを全部閉め、スプーンやフォークはひとまとめにし、汚れた皿やボウルも、一緒に重ねてひとまずシンクの中へ置いた。それからふと思いついて、ツナサンドイッチを手早く作ることにする。ひと休みしてからでもいいだろう。朝早くから徐倫の手伝いをしたのだし。しかも徐倫がアナスイとピクニックへ行く計画を、ずっと承太郎に秘密にすると言う苦難まで背負って。
 楽しげに帰って来れば、その態度でどうせすぐに承太郎にはそうとバレる。バレたところで、承太郎が数時間か数日か機嫌を損ねるだけで、徐倫にもウェザーにも実害はない。アナスイの命は保証の限りではないけれど。
 それでも、できれば事前に知られたくはないのだそうだ。徐倫はウェザーにだけは、アナスイとのあれこれを打ち明け、そして最後に必ず付け加える。父さんには言わないでね。ああ、とウェザーはいつも迷いなくうなずく。秘密を最後まで秘密にしておけないのは徐倫の方だから、ウェザーはただ、時間稼ぎの囲いのような役目を果たしているだけだった。
 できたサンドイッチに、皿にも置かずにいきなりかぶりつく。マヨネーズが案外ちょうどいい。うまいと素直に思って、アナスイがそのうちスター・プラチナに殴られそうになっても、たまには殴られておけと言うことにしようと決めた。
 大き目のみじん切りのたまねぎが、しゃくしゃくいい歯応えだ。悪くない。
 唇の端についたマヨネーズを指先で拭ってから、自分の歯の形に半円に噛み取られたサンドイッチの断面を眺めて、ウェザーは、徐倫が作ったんだと言えば、生のたまねぎの入ったサンドイッチでも、承太郎は食べるのではないかと思いつく。
 何となく、自分のその考えは正しいように思えた。
 自分を間に置いて、やっと普通に会話をしているようなこのよそよそしい父娘を、何とかしようと思う正義心も親切心もないけれど、ただ承太郎と徐倫が楽しげにうれしげに笑っていれば、自分が幸せなのだと、ふとそのことに突然気づく。
 徐倫がそう言ったように、全部サンドイッチにしてしまおう。昼に出して、生のたまねぎ入りだと言って、さあ一体どうなるのか。
 ちょっと顔をしかめながら、それでも徐倫が作ったというそのただ一点で、サンドイッチをいとおしそうに食べる承太郎の表情が、やすやすと目の前に思い浮かんだ。
 たまねぎのせいで徐倫が泣いた、と言うことは言わないでおこう。世界のすべてのたまねぎを破壊しに出掛けかねない。
 自分の想像を笑って、それから、そのまだ見ぬ承太郎へ向かって、ウェザーは知らず微笑み掛けている。

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