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雰囲気的な10の御題"在"("here")@loca

01.安心の温度

 昼が終わると、生徒たちは皆てんでばらばらに校内に散って、ざわめきが学校全体を包んで来る。そこから少し離れて、承太郎と花京院は屋上にいた。
 寒くないと言ったら嘘だけれど、風のない、陽射しはあたたかい日だった。
 コンクリートにじかに腰を下ろし、承太郎はゆうゆうと喫煙の最中だ。その隣りで、花京院はジャージを制服の上着の上に羽織って、今朝図書室で借りて来た本を読んでいる。
 「君、一体いくつチョコレートもらったんだ。」
 本に視線を落としたまま、花京院がいかにもさり気ない風を装って、訊く。承太郎も、眉ひとつ動かさずに、
 「いっこも受け取ってねえ。全部断った。ひとつもらうとキリがねえからな。」
 「・・・全女子生徒の憧れの的の空条承太郎のせいで、今日は一体何人の女の子たちが泣いたんだろうな。」
 「知ったことじゃねえ。」
 憧れの的、と言うところは否定しないのかと、そこにちょっと引っ掛かりながらも、花京院は自分のちょっぴり皮肉っぽい物言いは自覚していたから、喉まで出掛かった言葉はそのまま飲み込んで、本のページを静かに繰った。
 「チョコなんざ、自分で選んで食うから美味いんじゃねえか。」
 吐き出す煙と一緒に言う。瞳だけを上に押し上げて、なるほど、そういう考え方もあるのかと、花京院は思う。バレンタインにもチョコレートにもあまり縁のない花京院は、チョコレートをわざわざ食べたいと思うことはそう言えばないなと、今読んでいる紙面の文字から心をそらして、ついでにちらりと視線も動かして、隣りの承太郎を盗み見た。
 承太郎の煙草は、間違いなく煙の出る本物で、子どもの頃、煙草そっくりのチョコレート菓子を買って喫煙の真似事をし、母親にこっぴどく叱られたことを、今なぜか思い出す。あの煙草のお菓子、まだ売ってるのかな。煙草を吸わない花京院は、あの菓子でもくわえて、今は承太郎の真似をしてみたいと不意に思いついて、不良と評判の承太郎に合わせて、ちょっとだけ不良ごっこをしてみる自分を思い浮かべると、即座に自分をひっぱたきに来る母親が一緒に思い浮かんで来て、だめだだめだと頭の中で首を振る。
 制服の裾は長いけれど、花京院はあくまで普通の生徒で、さらには成績優秀の優等生だ。不良の承太郎はありとあらゆる女の子と女性たちから羨望の目で見られ、その承太郎と一緒にいる普通の高校生の花京院は、一体どうしてと奇異の視線を浴びるだけで、それはなかなかの不公平だと、花京院は続けて考えた。
 読んでいる本のことなどすっかり忘れて、花京院は気づかない内に、何もない目の前をぼんやりと眺めていたらしかった。
 「ページ、進んでねえぜ。」
 承太郎が、突然指先で、本の紙面をつついた。
 慌てて手元へ視線を戻すけれど、花京院の頬が隠せず薄赤い。ぼうっとしているところを見られるのを恥じるのと、承太郎にはつい見せる素の顔に自分で驚いたのと、花京院はどこを読んでいたのか分からずに、しばらくページに視線をさまよわせる羽目になった。
 やっと読み進んでいた箇所を見つけて、再び字を追い始めるのに頭はそれについて行かず、相変わらず隣りの承太郎から気持ちを外せずに、花京院はまたあの煙草のチョコレートのことを考えた。
 承太郎の真似をしてみたい自分の、承太郎へのひそかな憧れの気持ちが、どこかで曲がって、受け取る──はずだった──チョコレートの数の上下にこだわるところへ落ちている。承太郎に憧れているのは花京院だけではないし、どのみち承太郎は、他人のそんな視線を鬱陶しいと感じているだけだ。それでも、少なくとも女の子たちは、チョコレートに自分の気持ちを託して、承太郎へ向かって差し出すことはできる。
 僕がやったら、冗談にもならないな。第一、あの煙草のチョコは、あんまり美味しくないんだ。
 そうだそうだだからやめておけと、駄菓子屋で探してみようかと思ったあのチョコレートから、花京院はやっと心を引き剥がす。承太郎には聞こえないように小さく息を吐いて、やっと次のページへ進んだ。
 「花京院。」
 花京院がやっと心のざわめきを鎮めたのを、見計らったように承太郎が呼び掛ける。花京院は頑なに紙面から視線を動かさずに、
 「何だ承太郎。」
と返事だけして、
 「──やる。」
 不意に本の上へ放り投げられた小さなビニールの包みにびっくりしてから、やっと投げて来た当人の、承太郎へ顔を全部振り向けた。
 「何だいこれ。」
 指先でつまみ上げると、見掛け通り軽い手応えの、けれど口を縛っているのは細身の青いリボンだ。ビニールは濃い緑で、持ち上げてよく見れば、中身がちゃんと透けて見えた。
 「お袋が、時々山ほど買って来やがる。」
 いかにも忌々しいと言う口調で承太郎が、花京院の方をもう見ずに言った。
 「開けていいかい。」
 おう、とうつむいたまま返事が来たので、花京院は読み掛けの本にしおりを挟んで閉じ、その小さな包みの口を丁寧に開きに掛かる。ぱりぱりとビニールが触れられて音を立て、それは冬の木枯らしの音にも似て、けれど中から現われた色とりどりのラムネ菓子の可憐さは、一瞬花京院に真冬の空気の冷たさを忘れさせる。
 わあ、と思わず声を立て、中からひと粒取り出して、見れば1円玉よりひと回り大きいそれはハートの形をしていて、いかにも女性が好みそうに淡い色ばかりで、しかもそこには、Hug Meと赤い字で書いてある。
 花京院は承太郎の方を見ないようにしながら、小さな袋の中へ視線を注いで、ラムネ菓子のどれにも、Kiss MeやらLove Meやら、甘ったるいことばかり書かれているのを確かめた。
 ちらりと承太郎を見ると、煙草を吸い終わりポケットに両手を差し入れたまま、承太郎は唇を結んであれきりひと言も発していない。
 「うれしいな、僕、ラムネが好きなんだ。」
 素直に微笑みを浮べて、花京院はそう言った。この菓子をくれた真意はともかくも、今日と言う日に、あえてチョコレートを選ばない承太郎の不良の気骨のようなものを感じて、花京院はそれを、ひどく可愛らしいと思った。このラムネ菓子と同じくらい、この不良の承太郎を、花京院は真っ直ぐ可愛らしいと思った。
 「甘ぇぞ。」
 「いいさ、勉強の後は甘いものが欲しくなるんだ。」
 「──おれは、普通のラムネの方が好きだがな。」
 そう言った時に、やっと承太郎は上目遣いに、帽子のつばの下から花京院をじっと見つめて来て、それもまた、決してラムネのことを言っているわけではないと花京院には分かるように、手にした包みの色と承太郎の瞳の色と、そのそっくりさ加減に、花京院はもう何もかもがいじらしくて、承太郎を抱き寄せて頭を撫でてやりたくなる。
 そうしたら、君は怒るだろうか。
 内心でだけくすくす笑いをこぼしながら、花京院は指先につまんだラムネをさっそく口の中に放り込み、
 「ホリィさんはこういうのが好きなのか。」
と、わざと心にもないことを言ってみる。
 今日の帰り道に、駄菓子屋へ寄って、森永のラムネ──緑の、本物を模したビンの形の容器に入った──を買って、承太郎の上着のポケットに忍ばせておこうか、ハイエロファントにやらせても、スター・プラチナは気づいてしまうだろうか、そんなことをひとりで考えながら、もう花京院は笑みを隠せない。
 口の中で溶けるラムネが、確かに脳がしびれるほど甘く、そこへあった文字が喉へ甘やかに流れ落ちてゆくような気がして、花京院はその言葉をそのまま承太郎へ告げてみたい衝動に駆られてもいた。
 口の中へ含むのは、承太郎が口には出さない言葉たちだ。それが、胸からあふれているのが今ははっきりと見える。自分もそうだと、花京院は包みの口を元通りにリボンを結んで閉じて、上着のポケットへ丁寧にしまった。
 「この週末な、お袋がケーキを焼くそうだ。チェリーと生クリームがたっぷりなヤツだから、てめーを絶対に連れて来いとのお達しだ。」
 「何だ、僕はラムネで懐柔されるわけか。」
 「チェリーと聞いたらエジプトにでもすっ飛んで行くヤツが何言ってやがる。」
 まだからころと、形の残ったラムネを歯や頬の裏に転がしながら、承太郎の声音に上機嫌の節を聞き取って、そこに授業開始のチャイムが重なるのに、珍しく承太郎の方が先に立ち上がった。
 「放課後な。」
 言い残して、承太郎はさっさと屋上から姿を消す。
 ひとりになると、陽だまりでも急に寒さが増した気がして、花京院も教室へ戻ろうと腰を上げかけてから、そこへついた掌に、たった今まで坐っていた承太郎のぬくもりが伝わって来る。
 口の中を転がっていたラムネをそこで止めて、花京院は自分の手を見下ろした。この体温で、チョコレートなら溶けてしまうのだ。掌の上や口の中で、チョコレートが甘く溶けると言うのは、何かとても象徴的な気がして、だから恋の告白をする日に相手に手渡すのはチョコレートなのだろうと、花京院は初めて思いついたように、驚きながら納得していた。
 立ち上がる時に、上着のポケットの中で、ラムネの包みがかさっと音を立てる。名残りを惜しんで、校内に戻る前に、口の中にまだあるラムネをゆっくりと噛み砕いて、飲み込む甘さの上に、承太郎の残した煙草の匂いが重なって来た。
 まるでここで抱き合いでもしたように、交じる互いの匂いへ目を細めて、花京院は最後の甘さを唇の奥で舐め取った。

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