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雰囲気的な10の御題"在"("here")@loca

02.音のない夢

 ドアを開けると、家の中が暗い。人の気配の感じられないそこはまるで洞窟のようで、花京院はちょっと声をひそめて、ただいま、と奥へ向かって声を掛けた。
 お帰りとは返って来ない声に、小さくため息をこぼして、かかとをこすり合わせて靴を脱ぎ、花京院は中へ上がりながらもうひとつため息をついた。
 仕事から帰って来て、承太郎の遅い日にひとりきりなのは苦手だ。空腹のはずだったのに一気に食欲まで失せてしまい、何も食べずに寝てしまおうかとキッチンを通り過ぎてリビングへ入った途端、薄闇の中に白い塊まりがぼんやりと視界に入る。
 ソファに長々と体を伸ばして、うたた寝をしている承太郎だった。
 背に白いコートを掛け、それが明かりがなくてもきちんと見て分かり、着替えもせずにすぐに寝入ってしまったものか、床へ腕を落としてすうすうと承太郎は平和に眠っている。
 それを見た途端、花京院は微笑ましい気持ちになって、足元へそっとカバンを下ろすと上着だけ脱いで足音をさせずにソファの近くへ寄った。
 部屋の半分を占める3人掛けのソファは、承太郎の身長を納め切らずに、膝から下が外へはみ出している。頭の下にクッションは敷いているけれど、あまり寝心地は良さそうでもなく、それでも承太郎はすっかり寝入っているようで、上から見下ろす花京院の気配に気づいた様子もなく、そのまま眠り続けていた。
 君も疲れてるんだなあ。
 手にしていた上着を、承太郎がソファの背にすでに掛けている上着の上へ、花京院はわざとちょっと音を立てて放った。承太郎はまだ目を覚まさない。花京院はそっとソファの縁へ、承太郎の腰の辺りにわずかな隙間を見つけて、腰を引っ掛けるように浅く坐る。
 ハイエロファント・グリーンを呼び出して、花京院はその翠の光でうすぼんやり闇を照らした。承太郎の眠りを妨げずに、その寝顔に視線を当てて、疲れのにじむ花京院の顔の上には、それでも穏やかな笑みが浮かんでいた。
 そう言えば、あまりしげしげと承太郎の寝顔を眺めたことがない。眠りに落ちるのは大体同じタイミングだし、ひとり先に目覚めたところで、大抵出掛ける準備に大急ぎで、ゆっくり承太郎の寝顔など眺めている暇はない。
 ナイフで切り取ったように鋭い、承太郎の顔の造作の線をじっと見て、明らかに西洋の血の混じるその顔立ちを、花京院はつくづく綺麗だと思った。
 端麗とか端正とか、他に形容もしようのない承太郎の、鼻筋や額の広さや唇の線の円やかさや、自分とは違う、皮膚の下にクリームでも流し込んだようなどこか濃密な白さをたたえた肌の色合いや、そのひとつびとつゆえに承太郎を綺麗だと思うのか、それが承太郎だから綺麗だと思うのか、どちらだろうと考えながら、花京院はふと指を伸ばして、承太郎の頬骨のいちばん高いところへ触れた。
 羽の乗ったような軽さだったせいか、承太郎はまだ目を覚まさず、花京院はそれを確かめてさらに大胆に承太郎の鼻先へ触れ、それから、額の、髪の生え際へ揃えた指先を乗せた。寝汗のわずかな湿りが伝わって来る。そこから、呼吸のかすかな震えも伝わって来る。
 この眠りは、承太郎だけのものだ。眠りながら、今承太郎が一体どんな夢を見ているのか、花京院に知ることはできず、その眠りの中へ入って、眠りそのものの感覚を味わうこともできない。承太郎は今、完全にひとりきりの眠りを、ひとりで貪っている。
 花京院は承太郎の頬へ掌を当てて、伸ばした親指の先でふっくらとした唇へ触れた。口づけの時には柔らかく開き、少しだけ先の尖るその唇が、今は呼吸にだけかすかに震えて、苦しみなど見えないその表情で、少なくとも見ているのが悪夢ではなさそうだと、花京院は勝手に安堵している。
 どれだけ自分たちをふたりでひとりだと思おうと、現実にはふたりはどこまでも別々のふたりでしかなく、眠りを分け合うと言うことは、ただ一緒に並んで眠ると言うだけのことだ。承太郎の夢を花京院は見ることができず、花京院の眠りを承太郎が眠ることはできない。
 僕らは──。
 不意に何か突き上げて来て、花京院は声には出さずに、唇だけを動かして承太郎に話し掛けようとした。
 皮膚に隔てられて、ひとつになることのできないふたりは、切り裂いた皮膚を縫い合わせえて繋いだところで、ひとつになれるわけではない。
 花京院は知らずに、もう片方の手の掌を自分の腹に当てて、そこに空いた大穴のことを思った。
 穴を塞ぐのに、一時的に承太郎さんの皮膚を使いました。すぐに塞ぐ必要がありましたが、十分な大きさの人工皮膚がその時には用意できなかったもので。
 まともに話のできるようになった花京院に、SPWの医師が言った。
 一時的な処置でしたから、今はそれは取り除いてあります。
 そのままにしておいてくれれば良かったのに。医師に向かって、言おうとして言えなかった。
 そこにあったと言う、花京院は覚えてはいない承太郎の皮膚の感触を探るように、花京院は承太郎の頬に触れながら自分の腹を撫でる。
 眠りを分け合いながら夢を分け合うことのできないふたりは、けれど皮膚を分け合ったのだ。もう跡形もないその痕跡を、花京院はひとり恋しがっている。承太郎は、花京院に分けた自分の皮膚のことなどひと言も言わず、医者から聞いたと、花京院も結局言わないままだ。
 僕だから、君は自分の皮膚をくれたんだろう。そして僕は、君の皮膚だから、そのままにしておきたかった。
 繋げた皮膚から、承太郎の感覚が流れ込んで来たかもしれない。承太郎の見るもの、触れるもの、聞くもの、味わうもの、内臓の動き、骨のきしみ、筋肉の伸縮、そんなものがすべて、皮膚越しに伝わったかもしれない。
 今承太郎の見ている夢も、皮膚越しに見れたかもしれない。繋がり、自分とひとつになった皮膚の、けれど色合いの違いでそこは承太郎のだと分かったろうか。自分の中の承太郎と、見下ろすことができたろうか。
 「承太郎──。」
 花京院は、自分の腹を見下ろして、思わずそこへ呼び掛けた。
 眠っていた承太郎の腕が床から持ち上がり、その途中で花京院の肩へ乗った。
 「・・・いつ帰った。」
 寝起きのかすれた声が訊く。
 「さっきだ。起こしたか。」
 「──腹が減ったな。」
 花京院の問いには答えず、まるで花京院を真似るように、承太郎が自分の腹を撫でている。
 体を起こそうとした承太郎の肩を黙って押して、花京院は胸へ頭を乗せる。ちょうど心臓の辺りへ耳を当てて、
 「ロールキャベツならすぐ温められる。」
 「何でもいい。てめーでも全部食っちまえそうに腹ぺこだ。」
 すでに完全に目覚めたしっかりと太い声の、腹筋の揺れが鼓動と一緒に骨から耳へ届き、花京院は承太郎の胸の上で何度か瞬きをして、自分の首筋からも血液の流れる音が承太郎へ伝わるのだろうと思った。
 「僕を"食う"のは後にしてくれ。」
 承太郎の皮膚へきちんと伝わるように、花京院はゆっくりと言った。
 「──コーヒーの後には。」
 面白そうに承太郎が言う。かすかな笑いが喉を震わせている。一緒に笑って、花京院は承太郎の胸に額をこすりつけた。
 素肌同士のこすれ合う、音とも言えない音を思い浮べながら、まだそこまではたどり着かせずに、ただ穏やかな口づけのために、花京院は承太郎の唇の先へ自分の唇を移動させて行く。
 空腹を満たす食事では満たせない自分の腹の、大穴をきれいに埋め尽くす承太郎の、その唇を今は塞いで、花京院はあらゆる音を消した。

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