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雰囲気的な10の御題"在"("here")@loca

04.風の便りが

 届く便りが一体どこからのものか、ウェザーには分からない。特に知ろうともしない。とりあえず地球のどこかにいるのだと、そうとだけ思っている。
 ちょっと崩し気味の、けれど決して読みにくくはない字だ。ただの白い厚紙の、葉書。裏側にはびっしりと字が並んで、特に何と言うこともない、今日はどこへ行った何を見た何を飲んだ何を食べた何時に寝た明日は何時に起きる、そんなことを書き連ねてある。一番下には日付と、そしてJと言う一文字か、あるいはウェザーには読めない日本語の、漢字とやらの承太郎のサインのどちらかが記してある。
 承と言うその字は、象形文字と言うものの感覚が分からないウェザーにも、承太郎その人の似姿のように見えて、長いコートの裾をなびかせてこちらに歩いて来る承太郎そのものだと、ウェザーは思う。
 今日の文字は青い。水で滲まないようにボールペンだ。こんな葉書が、大体2、3日に1枚届く。宛名がきちんとウェザーへなのに、ウェザーはひそかに面映い思いをして、承太郎のあの手が綴る自分の名の、どこか特別のように見えてしまう。
 どこかの海で、魚か何かを眺めているそうだ。魚の名前は、2週間ほど前に来た手紙のどれかに書いてあったけれど、綴りの複雑さと長さで、ウェザーは流し読みして諦めてしまった。
 記される日付が、少しずつ承太郎の戻って来る日に近づいている。何も言わず、表情にも出さず、ウェザーはその日を指折り数えて待っている。
 どこへ行っても、承太郎はこうしてまめに手紙を寄越す。内容はただの日記だけれど、承太郎の字を見れば、その終わりの撥ね具合や字の濃さや筆圧の感じで、何となく承太郎の気分を読めるようにもなっていて、元気そうだと思えば自然に嬉しくなったし、何となく気が滅入ってそうに感じればウェザーの気も重くなる。
雨に降り込まれ、大事な1日を無駄にすることになったと、静かに愚痴る文面なら、オレがいれば雨なんかすぐに止ませるのにと、承太郎を抱きしめたくなる。
 海と海の生き物を眺めに出掛ける──フィールドワークとか言うのだそうだ──のに、承太郎はウェザーを連れて行くと言ったことがない。ウェザーも、ついて行きたいと言ったことはない。
 何となく互いの分を弁えた形に、海洋学者である承太郎の領域をウェザーは決して侵さず、10代の終わりからずっと刑務所暮らしだったウェザーの、まだ外の世界へ馴染み切らないのを承太郎は急かすことはせず、そうやって保つ距離は、他人との関わりと持つことを恐れているからだとはふたりとも気づかない振りをして、忙(せわ)しく先を急がないことには無言のまま同意し合った形になっていた。
 口数の多くはないふたりの、こうして距離で隔てられればその分承太郎は文字で幾分雄弁になり、そしてウェザーは普段の寡黙さそのままに返事を送ることはせず、代わりに文面すべてを暗記できるほど何度も何度も読み返して、そうして承太郎の帰りを待っている。
 今日は、どこでどんな風に過ごしたのだろうか。それが分かるのはしばらく先だ。今日届いた葉書は、10日前の日付だった。ウェザーは10日前の承太郎を掌に乗せて、余白まで視線で焼き焦がしそうに、じっと眺め続けている。
 泊まっている先で出されるコーヒーが好みでなく、ずっと紅茶を飲んでいるそうだ。行間に、ウェザーの淹れたコーヒーが飲みたいと記してあるのだとそう読み取って、帰って来たら、コーヒーなんかシャワーで浴びるくらい飲ませてやる、知らず、そう声に出してしまっていた。
 早くと、急かす気持ちが現われるのが恐ろしくて、ウェザーは返事を書かない。電話をしても構わないけれど、そうしたら多分、もう会えないことに耐えられなくなるだろう。
 承太郎の便りを受け取って、それをじっと眺めて、ウェザーはひとり承太郎の帰りを待っている。
 雨の降り出した裏庭が薄暗く、主のいないせいかどうか、草の色もどこか冴えない。それはただ、承太郎を恋しがる自分の気持ちをそっくり写しているだけだと気づいても、ウェザーは雨を無理矢理止めて太陽の眩しさでごまかしてしまおうとはしなかった。
 アンタに会いたい。早く会いたい。返事を書いても、電話をしても、ウェザーが伝えたいのはそれだけになってしまうから、だから口を閉じて、ただ静かに承太郎を待っている。
 おれも会いたいと、字の線の流れ方から読み取れても、絶対にそうとはっきりは書かない承太郎の、同じように耐えている気持ちを感じて、ウェザーはこつんと冷たい窓ガラスに額を当てた。
 10日前の承太郎は、どうやら機嫌が良かったようだ。明後日頃届く手紙の承太郎は、一体どんな承太郎だろうか。
 海に掛かる虹を見たと、承太郎が書いて送って来ることを、ウェザーはまだ知らない。その葉書には潮の匂いが染み付いていて、波打ち際で虹を見つめながら承太郎がそれを書いたことを、ウェザーは知らない。承太郎がその虹の写真を、ウェザーに見せるために撮ったことを、知るのはまだずっと先だ。
 裏庭の少し伸びた芝生に、ウェザーが承太郎を思い出しているように、承太郎は、夕陽の落ち掛ける頃の空の色が、時々ウェザーの瞳に差す色と同じだと毎日思っている。
 胸元に抱えていた、今日受け取った葉書に、ウェザーは静かに口づけた。承と記されたそこへ、尖らせた唇の先を触れさせ、紙のざらついた感触が似ているはずはないのに、承太郎の頬の辺りへ触れた気になって、承太郎の明日がきれいに晴れた日でありますようにと、誰ともになく心の底で祈った。

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