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雰囲気的な10の御題"在"("here")@loca

09.咲かないつぼみ

 なめらかに滑るペン先に目を凝らして、文の最後にピリオドを打った。同時に小さく息を吐いて、左側のコーヒーのマグに手を伸ばし掛けてから、それがすでに空であることに気づく。
 まるでどこかから承太郎を観察でもしているように、舌を打つ直前に、かすかなノックの音が聞こえた。
 ウェザーが、器用に片手だけでマグとサンドイッチの皿を抱えて、部屋の中へ入って来る。
 新しいコーヒーがそっと置かれ、承太郎はその香りに目を細め、ウェザーはそれをちらりと見ながら、空のマグを手に取る。サンドイッチは4切れ、大きな皿に並べて置かれ、いい匂いがした。
 ライ麦のパンも中身のハムもチーズも、東欧系の食料品店でウェザーが買って来たものだ。車で行っても10分程度は掛かるその小さな店へ、ウェザーはひとりで歩いてゆく。車を出そうと承太郎が言っても、店の中をゆっくり回りたいからと断って、だから昼に時々出て来るサンドイッチを頬張りながら、それがどんな店からやって来たのか承太郎は知らない。
 「アンタ、今日はずっと家にいるんだろう。」
 ペンの手を止めて、自分を斜めに見上げる承太郎を見て、ウェザーが突然訊く。
 「ああ、そのつもりだ。」
 言いながら、字のぎっしり並んだ紙面をちらりと見て、承太郎が息継ぎにため息をかすかに混ぜ込む。
 「何か、用があるのか。」
 論文の下書きの息抜きにできればと、ほのかに希望を込めて承太郎は訊き返した。ウェザーはにこりともせずに、それに向かって首を振る。
 「いや、別に用はない。」
 承太郎の愛想のなさに負けず、ウェザーの物言いも素っ気ない。こんな風なやり取りで、ふたりが一応は一緒に暮らす恋人同士と知ることは難しく、当人たちが決して大っぴらにはしない程度に、それはまだ周知のことではなかった。
 それでも、ふと思いついたように承太郎が伸ばした手を、ウェザーは黙って引き取って軽く握り、指先同士だけで手を繋ぐ形に、文章をひねり出す作業に明らかに疲れている承太郎の片頬に、ごくかすかになごんだ笑みが浮かぶ。ウェザーのように、ごく親しい間柄の人間だけに読み取れる、承太郎の笑顔だった。
 「後で少し、雨を降らす。」
 承太郎の指先を軽く握り返して、ウェザーがぼそりと言った。
 「芝生に水がいるのか。」
 真正面の窓から、裏庭をちょっと見やって、承太郎が訊く。数日前に刈ったばかりの芝生は、切り口もまだ青々しく、水やりが毎日必要な季節はもう少し先だ。承太郎は見えないように、わずかに首を傾げた。
 「ここじゃない、ひとつ角の家だ。花壇の花がちょっとしおれてた。」
 店まで歩く途中の、いかにも若い夫婦の住む家だ。大きな茶色い犬を飼っていて、女の子が一緒に庭に出ていたのを見たことがある。庭はきちんと手入れされているけれど、今朝通った時に、色鮮やかに植えられた花々が、少しだけ首を垂れていたのをウェザーは見た。
 「1時間かそこらだ。土砂降りにはしない。」
 今日の天気予報は1日中晴れだったから、それを信じて雨の用意などしていない人たちの迷惑にならないように、午後の早い時間に少しだけ、その花壇が潤う程度にと、ウェザーは通りすがりながら考えた。
 花が枯れてしまっては、花壇の周囲を犬と一緒に走り回っていたあの少女が悲しむのではないかと、そんな風に思って、少女が徐倫を思わせ、徐倫の連想が承太郎へ繋がったのだと、もちろんウェザーはわざわざ口にしたりはしない。
 それでも、今繋がった手から何かが伝わって、承太郎は淡い笑みを消さないまま、そうか、と短く言って、ようやくウェザーの手を放す。
 「店でケーキも一緒に買って来た。夕食の後に食べよう。」
 「パウンドケーキか何かか。」
 「いや、チーズケーキだ。でかい固まりの。」
 「今夜だけでは終わらないな。」
 「そうだな。」
 そこで会話は途切れ、承太郎の休憩は終わったと理解したウェザーは、承太郎がサンドイッチに手を伸ばしたのを見届けて、くるりと肩を回した。
 ドアの向こう側へ爪先を滑らせた時に、承太郎が振り向かないまま、不意にウェザーに声を投げて来る。
 「明日は、午後中雨にしてくれ。」
 ウェザーは足を止め、ドアから半分だけ体の向きを戻して、問い返す。
 「なんだ、裏庭で水浴びでもするのか。」
 冗談だとは聞こえない、平たいウェザーの声だ。
 「・・・シャワーなら風呂で浴びるからいい。雨なら、外出しない言い訳になるからな。」
 「論文書きが大変そうだな。」
 「・・・これは今夜で終わる。」
 仕事がないならなぜと、思うと同時に、ウェザーにはもうこんな承太郎の物言いの、言葉の間を読む癖がついていた。
 明日は何もせずに、1日家にいると言うことだ。ウェザーと一緒に。
 書斎から出て、居間のソファにウェザーと並んで坐って、ウェザーはTVガイドを読み、承太郎は研究とは関係のない読書をする。ウェザーはふたり分のコーヒーを淹れ、残りのチーズケーキを切る。
 そうやって、明日はふたりきりで過ごそう。承太郎の言わない言葉を聞き取って、ウェザーはそう考えた。
 雨をひと時止ませて、あの家の花壇の花たちの様子を見に、承太郎と一緒に散歩に出てもいい。植えられたばかりらしく、まだ開かない小さなつぼみたちが開く日はいつかと、そんな話でもしようか。
 分かったと、少し弾んだ声で答え、ウェザーは静かに部屋を出る。サンドイッチを頬張って噛み切る小さな音だけが、微笑ましくウェザーの耳に届いた。

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