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雰囲気的な10の御題"在"("here")@loca

07.足音ふたつ

 足音がした。書斎の真上の、自分の部屋で立つ音に、承太郎は自然に耳を澄ませ、論文用のメモを取る手を止めて、瞳だけをそちらへ動かす。
 朝早くにベッドを抜け出し、特に急ぎでもなかったけれど、不意に思いついたことを逃したくなくて、パジャマのまま机に向かい始めて、外はもうすっかり朝だ。
 隣りに承太郎のいない広いベッドで、ウェザーが何度か寝返りを打つ気配があった。眠りの浅いらしいあの男は、伸ばした腕の先に承太郎が触れないことに、気づかなかったのかどうか、はっきり目覚めたと知れたのは、跳ね起きるように体を起こした時の、大きなベッドのきしみの音のせいだった。
 部屋の外へは漏れない音が、真下のここではよく聞こえる。話し声は通らなくても、床へ伝わる音はここの天井を素通りして来るようだ。
 ベッドの上で動く音で、ウェザーの寝姿が想像できた。寝相は良かったし、寝てしまえば滅多と動くこともないと思っていた男の、ひとりきりの広いベッドで左右に動く音が、ウェザー本人よりも生々しく感じられて、滑るペンの先に集中したい承太郎を、時折妨げた。
 ベッドを降り、周囲を短く歩き回って、脱ぎ捨てた服を拾っている。歩幅の広い歩き方ではなく、爪先を先に滑らせるような、ウェザーの独特の歩き方の気配だった。
 足音はベッドから遠ざかり、部屋についたバスルームへ進み、ぱたんとごく静かにドアの閉まる音が続く。じきに、水音が始まった。
 夕べ、ふたりで過ごした名残りを、洗い流している。承太郎の使う石鹸を使い、承太郎の使うシャンプーを使い、今ではすっかり同じ匂いになって互いに馴染んで、他人であるはずの──ある意味では、まるきり赤の他人とは少々言い難い繋がりを持った、けれど赤の他人のふたり──互いを、時折自分自身と見分けられない瞬間すらある。承太郎はそのことを、今では苦笑とともに認めざるを得ない。
 水音がじき止まり、そこからの物音はあまり聞こえず、それでもドアの開閉の音がまたすると、承太郎の部屋を歩き回るウェザーの足音が再開する。
 あるところで立ち止まったのは、きっとクローゼットの前だ。着ていた衣類をそこにある洗濯かごの中に放り込み、新しい下着を出す。
 洗濯かごの中で、サイズと色と形が少しずつ違う衣類がふたり分、洗った後でどれがどちらのと分けて棚や引き出しにしまわれるまで、一緒くたにされている。
 洗濯機や乾燥機の中で、ふたり分の衣類がぐるぐる回っているのを眺めるのは、何となく奇妙な気分だ。
 日常で、互いに触れ合うのと同じように、洗濯物がそこで絡み合っている。重なり、こすれ合い、離れたりまたくっついたりしながら、それはそれを着る自分たちそっくりで、以前の倍の早さでいっぱいになる洗濯かごを洗濯機の前まで運ぶ時に、承太郎は何よりウェザーと自分の距離の近さを感じて、常にそれが初めてのように驚くのだった。
 ウェザーの足音が、クローゼットの前からまだ動かない。洗濯物がたまっているから、今日は洗濯機を回そうかとでも考えているのか。それとも、ハンガーに掛かった承太郎のシャツの数を数えて、クリーニングに出した分をちゃんと受け取りに行ったかどうか思い出しているのか。あるいは、承太郎がウェザーのために空けたクローゼットのスペースがそろそろ足らずに、それをどうやって打ち明けるべきかとでも考えているのか。
 すっかりペンの動きが止まり、承太郎はまるで自分が上にいるウェザー自身であるように、ウェザーの行動をなぞっている。
 また足音がする。ベッドの回りを歩いている。ふたりで乱した後をととのえているのかと思っていたら、音も気配ももっと派手になった。
 きっと、シーツやピローケースを取り替えているのだろう。どうやら今日は、洗濯の日のようだ。
 またクローゼットへゆく足音。再びヘッド回りへ戻り、歩き回る足音。
 今夜はどうやら、柔軟剤の香りの方が強いベッドで寝ることになりそうだ。その上に石鹸やシャンプーの匂いが上書きされるのには、いつも数日掛かる。
 早起きし過ぎたと言う口実で、午後に昼寝をする自分を想像した。そうして、自分の隣りにまたウェザーも一緒かどうか、承太郎は埒なく思い迷った。
 他愛なく、メモへの集中力はそれきり消え失せ、部屋を出てゆくウェザーの足音を追うように、承太郎はペンを放り出して椅子から立ち上がる。今書斎を出れば、ウェザーより数歩早くキッチンへたどり着ける。ウェザーのためではなく、つい早起きしてしまった自分の眠気覚ましのためにコーヒーを淹れる振りが、今なら何とか間に合うだろう。
 ウェザーが起きて来たことになんて、これっぽっちも気づかなかった風に、ウェザーを振り返って、それならちょうどいい、今から朝食にしようと、さり気なく言えばいい。
 ウェザーのためにコーヒーを淹れ、食事を作る。まったくそんなつもりはないと言う素振りは、承太郎の精一杯の照れ隠しだ。
 階段を降りて来るウェザーの、カーペットへ吸い込まれる足音なら、気づかなかった振りをしても不自然ではなかった。
 朝食の後で、洗濯機と乾燥機の立てる音を聞きながら、手を着けたメモを終わらせて、それからウェザーの作った昼食を食べて、洗って乾いたシーツをふたりで一緒にたたんでしまうまでに、新しいシーツの掛かったベッドに昼寝でもぐり込む誘い文句を、何とか思いつけるかもしれない。あるいはもう、そんな遠回しは忘れて、素直にウェザーを抱き寄せれば済む話だ。カーテンを引いても消えない明るさを、承太郎が気にさえしなければ。
  おはようと声を掛けて来るウェザーに振り返りながら、承太郎は、足音のすっかり消えたこの家の午後の静けさを、頭の片隅に思い浮かべていた。

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