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雰囲気的な10の御題"在"("here")@loca

08.ここにいるよ。

 卒業論文の締め切りが現実的に目の前に迫って来ていて、間に合うことは確実だったけれど、それでも何が起こるか分からないと、律儀に承太郎は面倒な字を書き連ねると言う作業に根を詰めていた。
 喫茶店や人の少ないファストフードの店や、そんなところでの作業を好む輩もいる中、承太郎は雑音や人の気配があると作業に没頭できないたちで、けれど日曜は図書館は昼までしか開いていず、その後は大学へ行って人気のない研究室の片隅へ陣取ると言う日が続いていた。
 資料をやたらと周りに広げ、下書きに使う紙やペンも好みでないと筆が進まないと言う、一体どこの文豪かと我ながら忌々しい。できるだけ大きな机──テーブル──に、できるだけきしまない椅子を持って来て、手元にうつむき込んでそろそろ数時間、ここへ来る前に忙しく腹に入れたサンドイッチと缶コーヒーもとっくに消化され、空腹が思考の邪魔をし始めている。
 筆が進まなくなると、すでに書いた部分へ戻って余計な推敲を始める。書き直して、前のままに戻して、また書き直して、さらに書き直して、ぐしゃぐしゃと何重もの取り消し線を重ねた後で、結局書き直す前の元の文章を改めてそこに書き直すのだ。
 これは一体空腹のせいか、あるいは頭の中では整然としている思考を、紙の上に写そうとすると途端にまともな言葉にも文章にもならなくなる、そのせいの苛立ちか。
 大丈夫だ、ここで詰まったとしても、まだ時間はたっぷりとある。別に今日書き上げなければ世界が終わるわけでもない。最終的に書き上げられず、締め切りを逃して、結局提出できなかったとしても、朝日はまた昇るし、陽は静かに沈んでゆく。それだけのことだ。
 もちろん、そんな事態を甘んじて招くつもりも受け入れるつもりもなく、承太郎はそれでもぐしゃぐしゃと左手で頭をかきむしった後で、ぱたりとペンを置き、投げやりに背中を椅子の貧相な背に伸ばした。
 今日はここまでだ。
 綿埃の詰まったような頭の中で、低い声で自分に向かって言う。無理に書き進めても、明日見直してまた全部書き直しに決まっている。挙句書き直したそれが気に入らずに、結局全部無駄になる、そんな24時間後が容易に想像できた。
 ここで諦めることにまだ決心がつかず、承太郎はさらに数分ペンの無力に転がった紙を眺めて、ついに椅子から立ち上がった。
 広げた資料をまとめ、とんとんと丁寧に天地を揃え、下書きの分は順番通りに並べて、そしてここに来た時とあまり嵩張り様の変わっていないのに、内心でもう一度苛立ちを感じてから、自分の書いた字を見ないように伏せて、資料とは混ざらないように一緒に重ねる。
 付箋のあちこちについた資料を、苦労してカバンの中へ折れたり曲がったりしないようにきちんと納めて、テーブルと椅子は来た時とまったく同じ状態に戻して、承太郎は部屋を後にした。
 これは一体ほんとうにいつか書き終わるのか、書き終わるにせよ、満足の行く出来になるのか、帰り道考え続けて、書いて提出さえすれば卒業はできると言うもっぱらの評判の、それでもどうしても自分が納得したいのだと言う気持ちがずっと喉の辺りへ苦くたまっていて、吐き出したいのにすっきりとは吐き出せないそれのせいで、承太郎の苛立ちは一向に治まらない。
 つい足を引きずるように帰り着いた自分の部屋で、ドアに手を掛けようとしたところで内側からすっとそれが開いた時、承太郎は恐らく般若のような表情をしていたに違いない。
 「やあお帰り。」
 承太郎とは対照的に、柔和な笑みを浮かべて、花京院がいかにもくつろいだ普段着で承太郎を招き入れるように背中を向ける。
 互いの部屋の合鍵は持っている。だから花京院がここにいるのに、何の不思議もない。けれど今承太郎は、何の屈託もなさそうな花京院の口調と振る舞いに、ひどく救われた気分になっていた。
 勝手知ったる他人の家で、花京院はさっさと中へ戻り、その途中で承太郎へ振り向いて、
 「実家に戻ったら、母さんが煮物を作り過ぎたって持たせてくれたんだ。ついでにって、豚の角煮までだよ。こっちは、言わないけど君用に決まってる。だから夕飯を一緒にと思って──」
 コーヒーはどうだと、カップを持つような仕草を見せる。
 卒論の苦労はまだ1年先の花京院を、うらやましいと妬むよりも、同じ時に脳味噌を絞り上げるような羽目にならなくて良かったと、承太郎は思った。
 まるでどこかで通じ合っているかのように、自分のほしいものを的確に差し出してくれる花京院の心使いを、他のどの時よりもありがたいと今思いながら、コーヒーの誘いへ向かってうなずく承太郎の、額から険のある深いしわがいつの間にか消えている。
 学生の間はまだ親の庇護から抜け出せず、だから住む場所をひとつにしてしまおうと言う話はしないことになっている。大学を終え、無事に自分の口は自分で養えるようになったら、その時はと、何となく夢物語のように語ることはふたりの間で何度かあった。
 そして今、卒論の締め切りを鬱陶しく重荷に思いながら、それを通り抜ければ、花京院との暮らしに一歩近づくのだと、承太郎は痛いほど感じて、その頃には花京院の両親と電話でそれなりに普通の会話もできるようになっているだろうかと、続けて考えた。
 「お袋さんに、角煮の礼を言わねえとな。」
 キッチンへ入る花京院の背中を追いながら、ちょっと神妙に言ってみる。
 「はは、空条の名前でお中元でも送るかい。」
 冗談交じりに、そうするならそれを実際にやるのは自分だ、と言う風に花京院が言う。
 ホリィが必死に学んだ日本のやり方に、承太郎はさらに疎く、その承太郎の代わりに、承太郎の振りをして花京院が義理を果たしておくと言うのは合理的ではある。
 けれどそうではなくて、承太郎はできれば花京院の両親に、彼らの息子である花京院と出逢えて自分がどれほどそのことに感謝しているか、いつかきちんと自分のやり方で伝えられたらと、そのための言葉が今はまったくうまく浮かばないのには焦れながらも、心の中はほのかにあたたかいまま、ふっと心の端をかすめて行ったことをそのまま口にした。
 「・・・おれとてめーの名前で、贈るか?」
 コーヒーのための湯を沸かすためにシンクの前に立った花京院が、驚いたように承太郎をまじまじと見て、
 「・・・母さんが、びっくりして電話して来るな。」
 笑いを混ぜるべきか、それとも真剣に受け止めるべきか、或いは少し気が早いとたしなめるべきか、どれとも決めかねた曖昧な口調と表情で、花京院の声から朗らかさが少し失せる。
 見つめ合って、沈黙がそこに落ちて、花京院はふっと微笑んでから自分の手元へ視線を戻し、ガラスのポットへ水を入れ始めた。
 「──いつか、ね。」
 蛇口をぎゅっと締める、その仕草の合間に差し込むようにさり気なく言って、花京院がもう一度承太郎へ向かって微笑んで見せた。
 喉の辺りに詰め込まれたような苦味が、溶けてどこともなく消えてゆく。卒論を書き終えて提出すれば、そのいつかへ確実に近づくのだ。だから、こめかみ辺りを絞り上げられるような痛みに耐えても、それを書き上げる価値はあるし、書き上げなければ、今承太郎が夢見ている花京院との未来は遠ざかるばかりだ。
 「おれとてめーが、一緒に暮らし始めたらな。」
 頭の中にばらばらと埃のように浮かび泳いでいる言葉たちを、何とか繋ぎ合わせようとしながら、承太郎は少し真剣な声で言った。
 そうだなと言うように、花京院がうなずいた。承太郎はキッチンの中へ足を進めて、花京院のうなじへ長い腕を伸ばす。
 ばらばらの言葉たちが整然と紙の上に並ぶ様を想像して、明日にはその一部が実現するはずだと、花京院を抱き寄せて承太郎は思った。
 手にしていたポットを、花京院が静かにカウンターの上に置き、揺れた水の中に現れた泡がふた粒、ポットの口でひとつになってそして音はなく消えた。

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