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雰囲気的な10の御題"在"("here")@loca

10.交差点にて

 試験中で、学校が午前中で終わってしまった午後、駅の向こうの本屋まで出掛けた帰り、花京院は家まで後5分と言うところで、白い杖をついた老人と行き合った。
 すれ違った瞬間思わず足を止め、くるりと向きを変えて彼へ走り寄り、
 「どこまで行かれますか。」
と声を掛けていた。
 「いや、駅まで・・・でも今そっちから来たんじゃ・・・。」
 花京院の声を追って彼の顔が動くけれど、真っ黒のサングラスのせいで視線の位置は見えない。
 「今、まだ別の用があったのを思い出したんです。同じ方向なら、ご一緒しましょうか。」
 あくまで快活に軽く言って、ご迷惑でなければとしっかり付け加えて、見えないと思いながらも、同時に笑顔を浮かべるのは忘れない。
 彼はしわだらけの口元でにっこり笑って、花京院の方へ手を差し出して来た。
 車道側に立って、老人を歩道の内側へ行かせて、彼が自分の腕を取ったのを確かめてから、花京院はできるだけ小さな歩幅で歩き出した。
 「学生さんかね。まだ、昼を過ぎたばっかりじゃなかったかな、学校は?」
 花京院の声の若さを聞き取ってか、ちょっと冗談めかして老人が訊く。
 さり気なく後ろを軽く振り向いて車の動きを確かめながら、
 「今は試験中なんです。だから学校は今は午前中だけなんです。」
 「ああ試験か、学生さんは大変だ。」
 大変、と言う言葉に、妙に実感がこもっているのは、見えずに歩く外のことと重ねたからなのかどうか。
 花京院は笑ってそれを流して、彼の足元に遮蔽物がないか気をつけながら歩いている。
 時々無雑作に置かれている自転車があって、杖の先が車輪の中へ引っ掛かりそうで見ていて案外ひやひやする。駅に近づくにつれ、自転車の数は増えるし、駅前の道路はバスやタクシーのためかやたらと広く、もちろん人通りも多いから、青信号で渡り切るのは、見えなければ相当難しいだろうと花京院は思った。
 目の怪我で一時視力を失った時に、見えないと言うことがどれだけ不便か我が身で思い知っている花京院は、それでも慣れれば何とかなるのも人間だと知ってもいて、この老人も見えないなりにこうしてひとり外出しているのだから、いちいち気にしていては何もできないと楽観しているのだろうと思った。
 老人の歩みに合わせて、いつもの倍近い時間を掛けて駅前へやって来ると、他よりも倍は幅の広い道路を渡る交差点へ着き、信号はちょうど赤になったところだった。
 何気なくそのまま駅へ入る正面を見ていると、改札から出て来た大きな人影がのっそりと足を運びながらポケットから煙草を取り出したらしい仕草を、同じように信号待ちの子ども連れの母親らしい女性に気づいて途中で止め、ばつが悪そうにポケットへ手を戻すのが見えた。
 承太郎だった。スポーツバッグを手にしているところを見ると、大学のある街から空条家へ戻って来たところのようだ。
 私服で、老人連れの花京院に、承太郎は向こうからは気づかないらしい。すぐ傍の子どもを気遣って歩き煙草を諦めた承太郎に向かって、見えてはいないと思いながらも浅くうなずいて見せるのを止められず、花京院は知らず微笑を浮べている。
 左折の車の列を先に行かせるために、歩行者用の赤信号が長い。すでに待ちくたびれたらしい子どもが、承太郎を見上げて何か言っている。好奇心に抑え切れずに、花京院はハイエロファント・グリーンをこっそり向こう側に飛ばした。
 「おにいちゃんおっきいね。」
 母親が、子どもの馴れ馴れしさ──よりによって、相手はハンサムだけれど剣呑な雰囲気を隠さない大男だ──をたしなめるように、こらっと小さく言って腕を引くけれど、男の子の方は承太郎を見上げるのを一向にやめない。
 「ぼくもおにいちゃんみたいにおっきくなるかな。」
 「やめなさい、知らない人に──すいません。」
 母親はさらに腕を引いて、息子と承太郎の間を空けようとする。承太郎はその仕草にちょっとかちんと来たのか、わざわざ体を半分折るようにして、男の子と顔の位置を揃えようとした。
 「こんなデカくなっても、めんどくせぇだけだぞ坊主。」
 「そうなの? でもおにいちゃん背がたかくてかっこいいよ。」
 同じ年頃の女の子たちにかっこいいと言われ馴れてはいても、子どもからこんな真っ直ぐな賞賛の言葉をもらったことはないらしく、承太郎はちょっと面食らった後で、ちらりと母親が、明らかにふたりの会話の続くのを迷惑がっているのを見て、
 「──心配すんな、坊主もかっこ良くなるぜ、お袋さんが美人だからな。」
 「おふくろ?」
 まだそんな語彙は知らないらしい男の子が、素っ頓狂に訊き返した時、信号がやっと青になった。
 子ども相手にはちょっと砕け過ぎた言葉遣いと、美人と、世辞ではあっても承太郎のような相手に言われたことの両方で、一体どういう顔をすべきか迷ったままの母親に、承太郎はひそかに満足してから体を起こし、さっさと信号を渡り始める。
 「ばいばい、おっきくてかっこいいおにいちゃん。」
 男の子が、歩き出した承太郎に向かって小さな手を振る。母親は、それで我に帰ったように、承太郎からは逆に遠ざかるようにしながら、やっと信号を渡り始めた。
 「おう。」
 承太郎はちらりと、男の子だけを振り返って、手をひらひらさせた。
 それをすべてハイエロファント越しに見ていた花京院も、うっかり青信号に2拍遅れ、自分の連れのことを思い出して慌てて、けれどそっと足を前に出す。
 「──何か、面白いものでも見えたかな。」
 隣りの老人が、触れた腕から気持ちが伝わりでもしたように、ほのかに笑みを含んで言った。
 「いえ、別に。」
 見えないにも関わらず全部ばれていると、なぜか分かって、花京院は曖昧に言葉を苦笑に紛らわした。
 歩幅の大きな承太郎の方が、真ん中を過ぎるのが早い。こちらに気づいて、ちょっと驚いた顔をしたので、花京院は笑って見せてから、待っててくれ、と口だけ開けて言う。
 ──急ぎじゃないなら。
 すれ違いながら、ハイエロファントに声を掛けさせると、おう、向こう側でな、とスター・プラチナが応えて来る。
 こんなところで誰と何してやがる、と、言葉ではなく承太郎の思念がスタンド越しに伝わって来て、答えを返そうとしてから、それは後で直接でいいと、隣りの老人の方へきちんと意識を集中させた。
 手前で赤信号になってしまったけれど、車は彼らふたりが渡り切るのを待ってくれ、花京院はそのまま老人を駅の中へ連れて行き、行き先の切符を買うまで付き合った。
 「ご親切に、ありがとう。」
 「いえ。」
 ありきたりのやり取りの後、老人が軽く頭を下げて、
 「──あれはご友人かな、一緒に、良い1日を。」
 背を向ける直前に明るい笑顔を浮べて、杖をつきながら、流れるように改札を通り抜けてゆく。その背に、花京院は掛ける言葉を咄嗟に思いつけず、見えない──振り向いても──彼に向かって、自然に軽く会釈を送っていた。
 分かりやすい親切だけではなく、世界は意外な優しさに満ちている。承太郎が、あの男の子とその母親に見せたように。そして今、あの老人が、花京院と承太郎の両方に示してくれたように。
 彼を見掛けなければ、駅まで戻って承太郎と行き会うこともなかった。承太郎をここで見掛けなければ、あんな風に子どもに向かう無邪気な様子を、眺めることもなかった。
 老人の残して行った笑顔をそっくり写して、花京院は再び駅の外へ向かう。信号はまた赤だ。花京院を認めて、承太郎が向こう側で微笑んだのが分かる。それもまた、花京院の笑みをそのまま写したようだった。

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