My Lovely Man
1
トニオの作ってくれるカプチーノは絶品だった。もちろん、他の場所でそんなものを飲んだことはないし、普通のコーヒーにも砂糖とクリームを入れなければ飲めない億泰に、ほんものの味がわかるはずもなかったけれど、トニオが作ってくれるなら絶品に違いないと億泰は思う。今日は、仗助が、何か用があると早退してしまったので、ひとりぷらぷらと帰る放課後を持て余し、何となくトラサルディーに来てしまった。来てしまってから、父親の夕食を作る──もちろん自分の分もだ──のが面倒くさくなり、今ではそれをしてくれる、あるいは食事を抜きにするのを咎めてくれる兄の形兆はおらず、何にしマスカとにこやかにトニオに問われてから、億泰は、
「・・・持ち帰りとか、ありっスか?」
トニオが少しの間戸惑って考えて、それからさらににこやかに微笑むと、イイデスヨ、と答えてくれた。
「億泰サンには特別デス。」
「あの、オレの分だけじゃなくて、ウチの親父の分も・・・。」
図々しいかと思いながら、恐る恐る付け加えた。父親の分がなければ、意味がないのだ。
「もちろんデス。」
そうしてトニオは一度キッチンへ引っ込んだ後に、待っている間にと億泰にカプチーノを出してくれて、また奥へ引っ込んでしまった。
とても清潔で、何もかもが真っ白で、物静かなこの店で、いつも自分は場違いだと億泰は思うのだけれど、トニオのこの店が、億泰は大好きだった。
こうしてひとりきり放っておかれても──トニオのせいではない──、ちっとも退屈ではなかったし、キッチンの方から聞こえてくる物音で、トニオが今何をしているのか想像するのが楽しくて仕方がない。
時々、料理に入り込もうとしたらしいパール・ジャムを、トニオが慌てて止めているような声も聞こえて、億泰はひとりで笑いを噛み殺した。
コーヒーすら滅多と飲んだことのなかった億泰──形兆が、ガキが飲むもんじゃないと言ったからだ──が、今ではエスプレッソさえまれに注文することがある。
指先に小さなカップをつまみ上げて、ちょっと唇をとがらせて、気取った仕草で、その恐ろしいほど濃いコーヒーを飲む。たまにこっそり仕込まれているパール・ジャムのおかげで、飲みながら涙が止まらなくなったり、口の中から大量に唾液があふれて来たり──あれは口内炎がひどかった時だ──と、油断はならないけれど、それでもここで振る舞われるトニオの料理は、億泰には充分魅力的だ。
町中の顔見知りのスタンド使いたちが、何となくここへ立ち寄っているらしいと、康一から聞いた。由花子とここへやって来た時には、本と紙の束でテーブルいっぱいにした承太郎がいたし、別の時には仗助が、スケッチブック片手の露伴に行き合ったそうだ。噴上裕也は取り巻きの女の子たちに、ケーキやパイを山ほど振る舞っていたと、トニオが教えてくれたこともある。
形兆が生きていたら、こんな風に放課後ひとりでふらふらすることもなかったろう。真っ直ぐ家に帰って、父親の相手をして、食事を作る形兆を手伝って、夕飯の支度をする主婦たちに混じって頼まれた買い物をして、学校のことからあれこれすべて、形兆に小言を言われながら食事をすませて学校の宿題をして、父親を寝かしつけてから自分も寝る。形兆はそれを見届けてから自分もベッドへ入る。それが虹村家の1日だった。
放課後誰かとふらふらしたり、カフェへ寄ったり、トニオのところへ寄ったり、そんなことは形兆がいたころはまったく許されていなかった。
両親がいないも同然で、形兆が一から十まで面倒を見てくれていたのだから、兄に逆らうなど思いもしない億泰だったし、兄の言うことは何から何まで絶対だと、素直に信じてもいた。
今は、と億泰は思う。今だって、形兆がいれば、形兆の言う通りに行動するだろう。
カプチーノをひと口だけ最後に残して、カップを皿に戻す。形兆のことを考え始めると、いつもこんな風に気が滅入る。らしくもなく、物思いに沈んで、珍しく少し暗い瞳をして、億泰は形兆に会いたいと、そう思った。
兄貴にも、食べさせたかったよなあ、トニオさんのスパゲッティー。もっとも、気に入っても素直にそう言う兄ではなかったから、トニオがスタンド使いとわかれば余計に、この店には近寄るなと言ったかもしれない。
億泰はテーブルに頬杖をついた。手持ち無沙汰に、真っ白いテーブルクロスの裾を、指先につまんでいじる。
それでも多分、億泰はトニオに会いに、この店へ来たろう。こっそりと、形兆に嘘をついてでも、この店へこんな風に通ったろう。兄のことを思い出して、億泰はそんな風に思った。
あー、きっとバレたらブン殴られたろうなあ。バッド・カンパニーでめった撃ちにされたかもなあ。
殴られた痛みさえ、今はあたたかい思い出だった。
「お待たせしまシタ。」
茶色の紙袋を片手に、トニオがキッチンから出て来た。
慌ててカプチーノの最後のひと口を飲み干して椅子から立ち上がり、億泰は受け取った包みのかさにちょっと驚く。
「なんか重いッスよこれ。」
「デザートも入ってマス。食べるまで冷蔵庫に入れておいてください。」
デザート、と聞いて億泰は目を輝かせ、まるで守るように包みを胸の中に抱え込んだ。
払いをすませて、それじゃ、と店を出ようとする。ドアを開けると、外は薄暗くなっていて、雨が降っていた。
「ヤベー、全力疾走だぜこれは。」
「ア、待ってくだサイ、億泰サン。」
薄い学生かばんと包みを一緒に抱きしめて、雨の中を駆け出そうとした億泰を、トニオが店の中から呼び止めた。
「濡れるといけまセン。家マデ送リましょう。」
え?と素っ頓狂な声が出た。
億泰のテーブルを片付けていた手を止め、トニオはその場で前掛けを取り、シェフ用の白い上っ張りも脱いでしまった。
ベージュのカーゴパンツに鮮やかな青のポロシャツのトニオは、白いシェフ姿を見慣れている億泰の目には、まるで別人のように映る。億泰は、普段着になるといかにもイタリア人らしく堂々としたトニオの姿に、数瞬見惚れた。
億泰を呼び止めたまま、一度キッチンへ戻り、小さなホワイトボードを手に戻って来たトニオは、億泰の荷物と引き替えにそれを手渡して、
「30分デ戻リマス、書いてくクダさい。」
ドアにこれを掛けて行くのだと悟って、億泰はまずい字で、戻るという漢字をちょっと考えて2度書き直して、トニオの言う通りをホワイトボードに書いた。
「自分で書けねーの?」
「日本語読み書き、難しいですネ。ワタシも早く、こんな風にすらすら書けるようにナリタイです。」
億泰の書き文字を見て、決してお世辞ではなさそうにトニオが言う。億泰はちょっと照れて、そして内心ちょっと得意に思った。
「行きまショウ。」
紙袋は自分で持って、トニオが億泰の背中を押す。まるで手品師のようなスムーズさで、車の鍵が手の中に見えた。
猫の額のような駐車スペースの片隅、裏口へいちばん近い辺りに、トニオの車はあった。型の古い日本車だ。それでも車の中も外もぴかぴかで、慣れない仕草で助手席に乗り込むと、億泰は、トニオがとても"カッコいい"動作でなめらかに車を発進させるのを、ちょっとどぎまぎしながら見つめた。
「なんでイタ車じゃねーの?」
前を見たままトニオが苦笑する。
「ワタシみたいな若造に、イタリアの車は無理デス。日本車の方が安くて長持ちしマス。」
「ふーん。」
「イタリアにいた頃も日本車に乗ってまシタ。ワタシの友達もミンナ日本車のファンでしタ。」
トニオにそう言われて、日本人の億泰はちょっとうれしくなったけれど、トニオが友達と言ったことに、少しだけ引っ掛かった。
イタリアからやって来たトニオは、いずれその友達のいる自分の国へ戻るのだろう。今はこの杜王町で皆の舌を楽しませてくれるけれど、いずれはトニオもこの町から去って行ってしまうのだ。承太郎やジョセフがそうであるように。
去って行って二度と戻らないなら、それは死んだ兄の形兆と同じだと思った。
何となく、膝の上のかばんと紙袋を胸の前に抱きしめるようにして、億泰は不意に淋しくなる。薄暗い雨の町を車の中から眺めていると、余計に淋しい気分に拍車が掛かる。
ヤな気分だぜ。億泰は胸の中でひとりごちた。
「億泰サン、体育祭って何ですカ?」
突然トニオが訊いた。赤信号で、前に車が4台ほど停まっている、大きめの交差点だった。
「体育祭? あー来週オレらの学校であるんだよ。」
「学校でなにするんですカ?」
「何って・・・走ったり飛んだり競争したり。」
「学校のオリンピックみたいなモノですか。」
「そうそうそうそうそう、そんなモン。」
そこでオリンピックとすらっと出て来るトニオの感性に驚く。
「体育祭がどうしたって?」
「承太郎サンとジョースターサンが、仗助サンを見に行こうかって、相談してたのを聞きまシタ。」
仗助はいまだジョセフと完全に打ち解けた様子がないから、きっとこっそり体育祭を見に来ようと、そんな話をしていたのだろう。
「億泰サンのところは誰が見に行くんですカ。」
また、見ていて気持ちいいほどなめらかな走り方で、トニオの車が交差点を通り抜けてゆく。ほとんど振動がない。
「あーオレん家は、親父が来るわけにも行かねーし、兄貴ももういねーから、オレだけかな。多分、仗助のお袋さんが弁当とか作ってくれるんじゃねェかなあ。」
「ソーなんですか。」
文章の真ん中から終わりにかけて、上げ気味にトニオが訊く。
「オレ別に走るの早いわけじゃねーし、何やってもすットロいから誰に見てもらうってモンでもネーし。」
言えば言うほど言い訳めいて来るのに、言っている億泰本人は気づかない。誰に来てもらう必要もないと言うのは本音ではあったけれど、片親であっても母親がいて、今では父親のジョセフが現れて──甥の承太郎もだ──体育祭にこっそりでも顔を出してくれるつもりらしい仗助を、億泰はうらやましいと思った。
仗助は、億泰がそこに混ざることを、母親の朋子とともに当然だと思ってくれるだろう──さすが親友だぜ、と億奏は思った──し、誰もが家族と昼の弁当を囲む時に、億泰をひとりきりにさせておくわけはないとわかっているけれど、それでもその場で、自分は家族の一員と言うわけではないのだと、億泰はきっと思い知るだろう。それは仕方のないことだったけれど、やはり淋しいと、億泰は思った。
「仗助のために、ジョースターさんが来れるといいなあ。」
取ってつけたように、億泰はそう言ってその話を終わらせようとした。
「・・・ソウですネ。」
無理矢理浮かべたような笑みで、トニオが言った。
古い車とも思えないスムーズさで車は進み、水の上を滑るような走りのまま、億泰の家の前で停まったのも、いつブレーキを掛けたともわからないほどなめらかだった。
「助かったぜ、トニオさん、サンキュー。」
「どういたしましテ。」
荷物を両腕に抱えて、片足だけ車の中に残したまま、億泰は、
「イタリア語でなんつったっけ? グラーチェ?」
露伴が確かそう言っているのを聞いたことがある発音を、何とか思い出しながら口移しにしてみる。
車の中で、トニオがにっこりと微笑んだ。
「億泰サン、ciao。」
とてもチャーミングなその言葉が、どういう意味かわからなかったけれど、億泰は何となく頬を染めて、またなめらかに走り去ってゆくトニオの車を、見えなくなるまで家の前から見送っていた。
抱きしめた紙袋はまだあたたかく、家の中に入って、デザートを冷蔵庫に入れながら、トニオがなぜ自分の家までの道順を知っていたのかと、億泰は初めて気づいて驚いた。