My Lovely Man

 ぐずぐずとした天気が数日続いた後で、とりあえずは空が機嫌を少しだけ治したように、曇り空だけれど、もう雨は降らないと天気予報が保証してくれた週末、体育祭の当日だった。
 仗助と連れ立って学校へ向かう背中に、朋子の、
 「お昼には行ってるから!」
と言う明るい声が掛かる。それはありがたいことに、億泰にも向けられた言葉だった。
 学校へ向かうジャージ姿の生徒たちの数が増え、だらしなく校庭に整列し、特にありがたくもない校長の励ましの言葉を受けて、曇り空の下、締まりのない様子のまま、体育祭が始まる。
 喫煙はしない仗助や億泰は関係ないけれど、始まった途端に校舎裏へそそくさと姿を消す上級生たちは、それでもきちんとジャージ姿の律儀さだ。それを見送る視界の端に、ちらりと承太郎らしい姿が引っ掛かって、おう、と億泰は少し頓狂な声を出した。
 承太郎のあの長身は隠れようもないけれど、傍らの木の陰には、ジョセフらしい丸まった背が見える。億泰に見つかったことに気づいたのか、ジョセフはにこにこと手を振る。それでも姿はなるべく隠したままだった。
 仗助に見つかりたくはないのかと、億泰はそっと手を振り返しただけで、仗助にはわざとふたりのことは言わない。
 康一はがっちりと由花子の傍に引き寄せられているし、間田がその近くを、面白くもなさそうな顔でうろついている。グラウンドの片隅で、自分の出番を待って仗助と一緒にいると、驚いたことに露伴の姿も父兄の中に見つけた。
 いつの間にかやって来て一緒に腰を下ろした──ふたりの、いわゆるヤンキー座りを真似て──未起隆は、うるさいほど細かく、仗助に体育祭について質問し始める。
 億泰はふたりのやり取りを聞きながら、ほとんど上の空だった。
 2年生の女子たちが、100mをものすごい勢いで駆けてゆく。迫力満点だ。あそこに飛び込んだら、あっさり跳ね飛ばされるだろうなと、地響きを立てて走る彼女らの、存外逞しい腿の辺りばかり見て、億泰はぼんやり思う。
 そんなことになったらきっとまた兄貴に怒鳴り飛ばされるんだぜ。しっかりしがやれ億泰って。
 3年生になれば話は別だけれど、こうして全校生徒が集まると、体格も表情も、いちばん幼いのは1年生の男子たち──つまり億泰たち──だ。
 承太郎とばかりいるとあまり感じないけれど、3年生と並ぶと、ひょろりひょろりと、まるで小学生のように見える。仗助はさすがに、3年生と並んでも遜色はないけれど、それでもやはり顔つきは子どもっぽい。
 オレなんか、もっと情けねー顔してるんだろうな。
 頬杖をついて、億泰は思った。
 だからオレなんか、兄貴に怒鳴られたって仕方ねえんだよな。なー兄貴。
 自分の子を応援する父兄たち、並んで微笑んでいる父親と母親。一緒にいる、弟や妹たち。祖父母らしい姿もちらほら見えて、空模様とは裏腹に、広い校庭は大盛況だ。
 首を回して視線を巡らせると、写真を撮ったりスケッチを取ったり、父兄席最前線で大忙しの露伴が見え、ふたりの世界に浸り切っている康一と由花子とすぐ傍で苦り切っている間田が見え、それから、相変わらずこちらを見ているけれど姿は隠したままの承太郎とジョセフが見える。仗助は相変わらず未起隆の質問攻めにあって、ジョセフがいることには一向に気づいていないようだった。
 生徒たちの笑い声、時々交じる教師の怒鳴り声、小さな子が泣く声とそれをたしなめる母親らしい声、そのひとつびとつを、億泰はつまらなそうに聞いている。
 何で来ちまったんだろうなオレ。結局のところ、根が小心な億泰──そしてもちろん、あらゆることに几帳面な、形兆の厳格だった躾のせいもある──は、体育祭をさぼるなんてことは最初(はな)から思いつきもせず、あくびを噛み殺しながら、時々、父兄席の家族の姿にそうとは気づかないまま目を凝らしていた。
 やっと1年生男子の番がやって来て、だらだらと入場口へ集められ、体力勝負のスウェーデンリレーが始まる。
 バトンを受け取るのが苦手だと何度も言ったのに、担任は聞いてくれずに、億泰は3番手だ。不幸中の幸いに、バトンを渡す相手は仗助だったから、最悪の場合はスタンドを使っちまえと、そんなことも考えていた。
 並んで自分の番を待つ生徒たちは、そわそわと落ち着きがない。視線をしきりに父兄席へ向けて、家族が自分の晴れ姿をきちんと見ているかと、気になって仕方がないのだ。
 億泰はちょっと肩を落として、不貞腐れた表情で前を見ているだけだ。
 これの後に、1年生女子のダンスとやらがあって、それが終わったら昼休みだ。朋子が持って来てくれるだろう弁当の中身だけが、今の億泰の関心事だ。
 リレーは、そう悪くはなかった。億泰は2番手でバトンを受け取り、そうして、父兄席にいちばん近づいたところで、突然転ぶまでは、色々と順調だった。もちろんわざとではない。単なる事故だ。ひとりで突然足を絡ませて転び、根性でバトンは落とさなかったから、すぐに立ち上がってまた走り始めた。その時には3番手に抜かれ、4番手がすぐ後ろに迫っていた。
 周囲の声が大きくなる。ひときわ大きく、仗助の声が前方から聞こえた。
 億泰は必死に走って、3番手は守ったまま、何とか仗助にバトンを渡し、その場に転がって後を見送ることもしなかった。心臓がはち切れそうで、それどころではなかった。逆さになった視界の中に、力強く走り去る仗助の、運動靴の底が見えた。
 滑るように校庭を走ってゆく仗助は、そのまま2番手を抜き、高くなる歓声とともにスピードを上げて、ゴールのはるか手前で1番手も抜いた。そうして、トップでゴールを走り抜け、今日のクラスのヒーローになった。
 億泰も、ゴールの仗助へ、精一杯の声援を送った。抜かれる心配は多分なかったけれど、それでも仗助が転んだりしませんようにと、億泰は誰ともになく祈っていた。
 リレーが終了して、仗助の周りをみんなが取り囲み、褒めそやす言葉が次々と浴びせられて、うれしそうな表情の仗助が、当然のように傍の億泰の肩を抱き寄せる。
 「億泰ゥ、血ィ出てんぞォ。」
 指差されて見下ろすと、泥まみれの膝から、血が垂れていた。もう少しで靴下のゴムの辺りを汚しそうだ。
 「治してやるよ。」
 クレイジーダイアモンドを、仗助が呼び出そうとするのを、億泰は止めた。
 「いいぜェ別にィー。洗って舐めときゃいいだろこんなの。」
 今日のヒーローに、傷の手当てをさせるのが、何となく気が引けた。
 そのまま、まだ皆に取り囲まれている仗助の傍を離れて、億泰はひとりで、校舎入り口近くの水道まで行く。ついでのつもりで、顔も洗い、埃だらけの靴も靴下も脱いで、怪我をしている足を洗った。固まりかけている血が、水の流れに負けて、排水口へ流れてゆく。
 「億泰サン。」
 突然、後ろから声がした。
 水の流れに紛れて、聞き間違いかと驚きながら、億泰は声の方へ振り向いた。
 「大丈夫デスか。」
 にっこりと笑うトニオがそこに立っている。この間見たように、今日はシェフの白衣ではなく、普段着だ。相変わらずかっこいい、と億泰は思った。知らずに、頬が赤くなっていた。
 「え・・・なんで・・・?」
 妙にうろたえて、水を止めるのを忘れた。
 「転んだの、痛いですカ? 億泰サン、かっこよかったデス。」
 いや、かっこいいのはアンタだろう。ひとりごちてから、リレーを見られていたのだと気づくのに、4秒掛かる。今度こそ、顔が全部真っ赤になった。頭が沸騰したみたいだった。
 「何だよ見てたのかよ人悪ィよトニオさん。みっともねえ。痛くねェよ大丈夫だよ平気だよこれくらい何でもねェよ。」
 無様に転んで、抜かれて、それを見られていたのだと思ったら、穴を掘って生き埋めになりたいくらいに恥ずかしくなった。トニオはきっと、あれを見て笑ったろう。他のみんなが笑ったに違いないのと一緒に、億泰を笑ったろう。
 誰もオレなんか見てねェ。そう思っていたのに、急に、周囲の視線──あの時浴びていた視線──を感じて、億泰は下を向いた。それから、渋々という所作で、流れっ放しの水を止めた。
 靴と靴下を取り上げてから、タオルがないことに気づく。びしょ濡れの足を拭けない。まだ血が流れているから、そもそもそれを拭うのが先だと言うのに。
 オレ、ほんとにみっとねえ。なんでこんなに要領悪くてバカなんだろう。兄が言っていた通りだ。億泰は舌を噛みたい気分だった。こんなところにこんな風に突然現れたトニオを、理不尽に恨む気持ちが湧いたところで、トニオが、持っていた紙袋から取り出した真っ白いタオルを差し出してくれる。
 「使ってクダさい。」
 相変わらずにこにことトニオが言う。
 「・・・汚れちまう。せっかく真っ白なのに。」
 白すぎて、新品に見えるタオルに恐れをなして、億泰はいっそう惨めな気分になり掛けた。
 「洗えばイイです。億泰さんのために持って来まシタ。使って下サイ。」
 強引に、億泰の手に渡したりすることはせず、それでも確固たる態度で、トニオは億泰の前にタオルを差し出したままだ。
 濡れた足を軽く持ち上げた片足立ちのまま、億泰はついに根負けして、そのタオルを受け取った。
 「ありがとよォ。」
 靴下と靴を元通りに履きながら、オレのためっつった?と、億泰は自分の聞いたことを反芻する。ほんとうにトニオがそう言ったかどうか、確信が持てない。それでも、聞き間違いだとあっさり思うのも、何となく癪な気もする。
 「あ、洗って返すから。」
 使い終わったタオルを返さすに言うと、またトニオはにこにこと、いつでもいいデスよと言う。
 いつの間にか惨めだった気分が消えて、リレーで転んでしまったことも、どうでも良くなっていた。トニオに見られて恥ずかしいと、その気持ちは消えなかったけれど、消え入りたいような気分は、風に吹き飛ばされたように跡形もない。
 「なんでトニオさんいんの?」
 もう、校庭では女子のダンスが佳境だ。トニオはそちらには興味もないようで、億泰だけを見ている。
 「ジョースターさんに、内緒で仗助さんにお弁当頼まれマシた。でもお弁当、仗助サンのお母サンが作ると思ったのデ、デザートにしまシタ。億泰サンも一緒にと思って、億泰サンにお弁当作って来まシタ。」
 「え、オレ?」
 自分を指差して訊くと、またにっこりトニオがうなずく。
 「サンドイッチです。ガーリック入りのサラミです。チーズのたくさん入ったサラダも作りました。ドレッシングはちょっとレモンが多めデス。冷たいソースのパスタもアリます。脂身の少ない挽き肉たくさんデス。」
 ちょっと気取ったレストランで、身なりの素晴らしいハンサムなウェイターが恭しく、今日のスペシャルとやらを、テーブルについた客に向かって滔々と、なぜか誇らしげに述べる、そんな映画だったかテレビだったかで見た場面を、億泰は思い出していた。聞いているだけでよだれが垂れそうになる。
 トニオの後ろで、ひときわ高い歓声が上がる。女子のダンスが美事に終わったらしかった。トニオの笑顔にふさわしい、素敵な昼食のタイミングだった。

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