My Lovely Man

 無事に朋子とも出会え、億泰とトニオも一緒に、校庭の隅の大きな木陰に運良く場所を見つけて、ピクニックシートを2枚敷いて、4人で昼食になった。
 朋子の品書きは、あれこれ具の入った海苔を巻いたむすびと、もちろん卵焼きに豚肉のショウガ焼きを食べやすく小さく切って、筑前煮とほうれん草の白和え、上品に炊かれた筍まで入っていた。
 トニオが広げたメニューも一緒に、4人が好きなところへ手を伸ばし、箸など使う礼儀は今日は無礼講で、仗助と億泰はもっぱら何もかも手掴みだ。
 さすがに、トニオのサラダとパスタは、これもトニオがきちんと用意してくれたフォークと小振りの皿でややおとなしめに平らげて、筑前煮の作り方をトニオが朋子に訊いているそばで、料理は素早く片づいて行った。
 うまいうまいと、すべてに感動しながら、億泰と仗助が何もかもを平らげてゆく。あらかた皆──主に、育ち盛りの高校生男子ふたり──の胃に収まった辺りで、トニオが別の容器を差し出した。
 平たい蓋つきのガラス製らしいその中には、小さく焼かれたパイ──タルトと言うのだと、後でトニオが言った──がずらりと並び、色もとりどり、蓋を開けた瞬間に漂った甘い匂いに勝てずに、まず手を出したのは朋子だった。
 レモンといちごとブルーベリーとキャラメルと胡桃とバターの香りと、それから、これは少し趣の違う、中国の菓子を真似たのだと言う卵のタルトも混じって、どれもこれも指先につまめるだけの大きさがひどく可愛らしい。
 すでに満杯のはずの胃に、このタルトも次々に収まってゆく。
 「アンタたち、午後からまだ競技が残ってるんでしょ。」
 朋子が呆れたように言うけれど、少年たちの手は止まらず、そう言う朋子自身も手を止めない。先を争うようにして、今度は仲良く大体3等分に、タルトはそれぞれの胃の中に収まった。
 タルトがなくなると、朋子は我に返ったように自分が持って来た分を片づけ始め、
 「台所メチャクチャなまま来ちゃったから、もう帰るわね。」
 頑張って、と仗助と億泰の頭を交互に撫で、トニオにごちそうさまとやけに心のこもった礼を言い、それから立ち上がる前に、もう一度億泰の方へ声を掛けた。
 「億泰、アンタ、今日晩ゴハンどうするの? ウチに来る? 体育祭の後で疲れて作るの面倒でしょ。」
 あーと、億泰が数拍困惑した表情を浮かべてから、
 「あーいいっス、晩メシくらいオヤジと一緒に食べてやんねーと。」
 そう言った億泰を、朋子はちょっと微笑ましそうに眺めてから、息子の仗助の方へちらりと視線を流して、この子がこのくらい親思いだったらと言いたげにちょっと唇の端を下げ、それから大荷物を軽々と──実際に、もうすっかり軽い──持ち上げて、笑顔を残して立ち去った。
 それを潮に、ふたり揃ってトニオに向かって手を合わせ、
 「ごちそうさまっした!」
 声も合わせて小学生のように礼を言うと、
 「お粗末さまデシタ。」
 一体誰が教えたのか、トニオもいかにも日本的に返礼する。
 「ねーねー、お粗末とかねー、仗助のカーチャンのもだけど、オレこんなうまい昼メシとか学校で食ったの初めてだよ! いいよな仗助はよォーこんなうまいもん毎日食えてよォー。」
 「オレだって毎日食ってるわけじゃねェよ。」
 忙しく軽口を叩き合いながらも、手はトニオと一緒に動かして、空になった容器をまとめるのを手伝う常に騒がしい高校生ふたり組の後ろで、体育祭の後半が始まると知らせる教師たちの声が、あちこちから聞こえ始めた。
 「午後も頑張って下サイね、仗助サン、億泰サン。」
 トニオが、にっこりとふたりに向かって言った。


 午後の部にはあまり1年生たちの出番はなく、朋子がもう帰ってしまったので、仗助は、やっと遠慮がちに姿を現したジョセフの傍にいて、その傍らでふたりを見守る承太郎は相変わらず無口なまま、何となくへらへらと一緒にいるのが気が引けた億泰は、家族水入らずを尊重して、結局は人込みの中に頭半分抜けたトニオをまた見つけて、3年生男子の応援合戦や、2年生全員のマーチングを、肩を並べて眺める羽目になった。
 どんなバカなことを言っても、トニオは兄の形兆のように、億泰を怒鳴ったり殴ったりしない。半分はきっと、トニオの日本語のせいもあるのだろうけれど、それだけでもないような気が、億泰はした。
 心根が優しい男なのだろうと、にこにことグラウンドと億泰を交互に見ているトニオを見て思う。言われなければ人とも思えない父親の姿をちらりと見ても、眉も寄せなければ視線をそらすこともせず、いつもの笑顔──たとえ、仕事用のそれだとしても──を崩さないまま、コンニチワ、と丁寧に声を掛けてくれた。
 父親が、家族以外の言葉を聞き分けることができず、怯えたように億泰の後ろに隠れても、それに腹を立てた様子もないまま、ワタシの料理がお口に合えばいいのデスガ、と言っただけだった。
 トニオの料理で、父親の状態が少しでも良くなればと、そう思ったわけではなかったけれど、食べた後も何の変化もなく、それでも料理の美味さはわかるのか、トニオのところから何か持ち帰るたびに、父親はひどく機嫌がいい。
 それで充分じゃねえか。億泰はひとりごちた。
 父親は多分一生あのままだろう。億泰よりも長生きしそうだと、先回りして考えたらしい承太郎から、すでに何かあればSPWが責任を持って父親の面倒は見てくれると、口約束だけはされていた。
 形兆のいた頃は、ふたりで食卓につき、形兆の作った食事をふたりで食べた。父親へは、上へ食事を運んで行って、部屋に置いておくだけだった。
 形兆がいなくなってから、父親の部屋へふたり分運んで、家具など何もない部屋の床に直に座って、がつがつと行儀も何もなく食べた。形兆が見たら死ぬまで殴られるだろうなと、億泰は、父親の胸の食べこぼしの跡を見ながら思った。
 トニオの店から時々食事を持ち帰るようになってから、ある日ふと思いついて、父親を下へ呼び、台所できちんと食卓につかせ、温め直したトニオの料理を、きちんと皿に盛って出し、軟体動物のような手触りのその手に、フォークを握らせてやった。
 匂いや見た目で、いつもの食事──億泰は、残念ながら料理向きのタイプではない──と違うと悟ったのか、父親は久しぶりに触れただろうフォークの感触に戸惑いながら、お世辞にもきれいとは言えない食べ方で、トニオの料理をとても喜んだ。
 空になった皿を嘗める勢いで、億泰も父親と向かい合って自分の分を食べながら、今は父親の座る椅子に、この間まで座って自分に小言ばかり言っていた形兆のことを、思い出さずにはいられない。形兆を失ってひとりきりになり、この父親と、ふたりきりになってしまったのだと、心の底で思い知った瞬間だった。
 食事は家族一緒にするものだと、それが持論だった形兆に倣ったこともひとつ、ひとりで座る食卓があまりに淋しかったこともひとつ、それから、せっかくのトニオの料理に、敬意を払うべきだと思ったことがひとつ。そうやって幾つか理由を挙げて、億泰はいつも父親と食卓を囲む──と言うのは少々無理はあるにせよ──ことを習慣にして、自分の作った不味い料理に週の大半は顔をしかめ、時々朋子が差し入れてくれる料理にふたり──父親は、後でこっそりと──で礼を言い、さらにもっと時々現れる、億泰が持ち帰るトニオの料理は、父子の間でのささやかな贅沢になった。
 食べながら、父親が聞いているかどうかには構わず、億泰は学校であったことを話す。反応があろうとなかろうと、一方的に報告し、感想を述べ、最後は必ず、
 「ま、どうでもいいんだけどよォー。」
としめて、空になった皿に手を合わせて、父親にも同じ仕草をさせ、近頃では、言わなくても後片付けを、不器用に手伝ってくれる父親だった。
 トニオさんのおかげだよなー。
 今はグラウンドを熱心に見つめているトニオの横顔を盗み見て、億泰は思った。
 ありがと。日本語で胸の中でそう言ってから、イタリア語では何っつーんだっけ?と、薄い記憶をたぐるために、人混みの中に露伴の姿を探そうとした時、観覧席から一斉に歓声が上がり、億泰の思考が途切れた。
 楽しいですネと言いたげに、トニオがこちらも見て、相変わらずにこにこしている。つられて、億泰も笑った。


 最終種目の、男子全員参加の騎馬戦は、開始早々億泰たちの馬は潰されて端で応援に回り、仗助が乗った馬は最後まで残ったものの、強面で有名な3年生に組み掛かられて、挙げ句組み合う内にすっかり乱れてしまった髪のことを言われたとか何とかで仗助がキれ、3年生を馬から蹴り落とし──もちろん反則だ──、後は地面で乱闘になった。
 いわゆる不良連中が乱闘の中心になり、普通だけれど正義心の強い生徒たちがそれを止めようとして、残りはとばっちりを恐れて観覧席近くへ遠巻きに避難し、真ん中では多勢対仗助の形だったので、当然ながら億泰は中心に何とか潜り込んで仗助の加勢に参加した。
 教師たちにも乱闘は止められず、彼らはともかくも父兄の安全を最優先に行動して、そうして、15分ほど喧嘩が続いたところで、これを止めるべく動いたのはやっぱり承太郎だった。
 スタープラチナが時間を止め、今にもクレイジーダイアモンドを呼び出しそうだった仗助と億泰を真ん中から引きずり出し、康一が、なるべく広範囲に、ニコニコと言う字を辺り一面に大量に降らせ、時間が戻ってまだ暴れる仗助を、ハーミットパープルとスタープラチナとザ・ハンドで何とか押さえ込み、その間に露伴が、仗助に、"喧嘩なんかしなかった。仗助の顔を見た瞬間、みんな喧嘩のことはきれいさっぱり忘れる"と書き込んだ。
 それから、仗助はその場にいる全員に顔を見せるために、グラウンドを3周ほど走る羽目──康一がそう頼み、その後ろで由花子が、鬼の形相で髪を逆立てていた──になって、騎馬戦の最中にけしからんと、教師に怒られたのはそのことだけですんだ。
 何が起こったのか、誰しもあやふやなまま、騎馬戦は強面3年生がいた組が勝ちと言うことになり、仗助たちの組は負けて、体育祭はついに終了した。
 解散しながら、一部の生徒はひどくアザだらけなことを不審に思いながら、けれどきっと騎馬戦のせいだなと、みんな三々五々足跡だらけの埃っぽいグラウンドを後にする。
 仗助は、有無を言わさず承太郎に首根っこを引っ掴まれ、ジョセフと一緒に帰ると言う名目で、夕闇の迫る杜王町の西側へ引きずられるように消えて行った。康一を間に挟んで、由花子と露伴が火花を散らしながら姿を消し、未起隆と間田は、それぞれ自分の家族たちと一緒に下校する後ろ姿があった。
 ひとりになった億泰の傍にはトニオがいて、
 「帰りまショウ。」
 今日1日で、1年分見てしまったような笑顔を、また億泰に向ける。
 それが当然のことだと言うように、億泰と一緒に父兄用の駐車場──今はすっかり空っぽだった──へ行き、あの日本車の助手席へ億泰を座らせ、また、うっとりするほどなめらかな動きで車を動かす。
 体中が痛い億泰は、遠慮する体力もなくシートにだらりと体を伸ばして、このまま眠ってしまいたいと、つらつらと考えていた。
 「チョット、店に寄ってもいいですカ。」
 ふたつ目の交差点を流れるように通り過ぎながらトニオが訊く。億泰は無精に視線もそちらへ返さずに、えー、と軽く唇を突き出した。
 「オレ、疲れてんだよなァ・・・。」
 「エエ、だからカプチーノでもゴチソウしましょうカ。」
 億泰の反応に気を悪くした風もなく、トニオがにっこりと言う。
 「カプチーノ!」
 現金に、急に声が元気になる。
 まだ、完全に暗くなるまでには少し時間があったし、トニオの口振りから、店に寄ってそれからまた家まで送ってくれるのだろうし、それなら30分くらいはまだ大丈夫だと、珍しく素早く頭を働かせて、億泰は、
 「行く!行く!」
と、はしゃいだ調子で返事をした。
 デハ、とトニオが小さく口の中で言ってから、不意に横顔に真剣な色を浮かべると、アクセルを踏み込んでわずかに車のスピードを上げた。
 何の魔法か、そこから先は1度も赤信号に引っ掛からず、前を横切る歩行者にも他の車にも会わず、曲がり角でちょっぴり速度を落とした以外は、スムーズな走りはほとんど妨げられないまま、これもまた映画で見るような美しい動きで店の駐車場に入り、車から出てやっと、トニオがいつものあの笑顔を浮かべた。
 閉店の札の掛かったドアを開け、そこへ億泰を待たせてトニオがキッチン近くで店内の明かりを一部だけつけ、そうして、キッチンにいちばん近いテーブルを示してから、自分は今日の荷物を抱えて奥へ姿を消した。
 体育祭で暴れて汚れたままなのに、真っ白いクロスの掛かったテーブルに座るのには少し気が引けて、椅子を遠くへ引いたまま、億泰はそこへなるべく浅く腰を掛ける。
 5分もせずに、濃いコーヒーの香りが漂い始め、牛乳に熱い湯気を通す音が、耳に心地良く流れ込んで来る。
 コーヒーの匂いに刺激されて、胃がぐーっと鳴った。
 昼にあれだけ食べたと言うのに、すっかり腹が空いている。今夜は何にしようかと、どう頑張っても貧弱なままな冷蔵庫の中身を思い浮かべて、億泰は一瞬うんざりした気分を味わう。
 でも、オヤジが待ってるしよォ。
 自分の作った何かを、一緒に食べてくれる誰かがいると言うのは、それだけでありがたいことなのだと、形兆が死んでから思い知った億泰は、今日は息子──だと覚えているなら──はどこへ行ったのだろうと考えて、人待ち顔になっているはずの父親のことを思い出してから、うんざりした気分を振り払おうとした。
 冷蔵庫を開け閉めしている音が聞こえて、それから、かちゃかちゃと涼やかな陶器の触れ合う音と一緒に、トニオが奥から出て来た。
 片手に、器用にカプチーノを2杯分いっぺんに載せて、もう一方の手には持ち手のついた茶色の紙袋をぶら下げて。
 まずは紙袋が億泰の向かいに置かれて、それからカプチーノが、とても丁寧にテーブルの上に置かれた。
 トニオがそっと置いたその表面には、白い泡で大きなハートが描かれ、そのハートには、香りからするとチョコレートらしい優しい目鼻が、にっこりと億泰に微笑み掛けている。
 「お疲れサマでしタ、億泰サン。」
 今日聞いた、どの時よりも優しい口調が、濃いコーヒーとミルクとチョコレートの匂いと一緒に、億泰の中になだれ込んで来る。
 それがきっかけのように、億泰は我慢できなくなった。何を耐えていたと自覚もなかったけれど、何かが喉の奥からせり上がってきて、目の裏が熱くなって、もう耐えられなくなった。
 「・・・オレ、こーゆーの弱いのによォ・・・。」
 そうだと感じる前に、涙がこぼれていた。あごに滴ってからそうだと気づいて、億泰は慌てて埃だらけのジャージの袖で顔を拭った。
 トニオはうろたえもせず──もう、こんな風な億泰に慣れてしまっているので──に、またあの笑顔でにこにこと、
 「コレも持って帰って下サイ。夕飯にドウゾ。今日のタルトも入ってまス。お父サンが喜んでくれるといいデスが。」
 テーブルに置いた紙袋を指差し、それから、この上ない慈愛に満ちた仕草で、まだ泣いている億泰の背中を撫でた。
 せっかくのカプチーノが冷めてしまうと、億泰は必死で涙を止めて、それでもまだしゃくり上げながら、やっとカップに口をつけた。
 「うめェ・・・。」
 カップを離すと、唇の上に丸く泡が残る。それを行儀悪く、けれどトニオはチャーミングだと思っているらしい仕草でぺろりと舐めて、億奏はもうひと口、とカップにまた唇を近づけた。
 「トニオさんのカプチーノは絶品だよなァ。こんなうまいの他じゃ飲めねーよォ。」
 他ではコーヒーなど、飲むことも考えない億奏は、けれどまったく世辞ではなく本音で言う。テーブルに片肘をついてそこに頬を乗せて、トニオは微笑ましげに億奏を見ていた。
 「喜んでもらえたら何ヨリです。喜んでもらえるのが何ヨリです。もっと美味しいの作る気になりマス。」
 「あーそうだよなーオレもオヤジがちゃんと食ってくれるから毎晩メシ作る気になるんだもんなー。」
 そう言ってから、億奏はカップを一度皿に戻して、両手を膝の間に差し込んだ。子どもっぽい、ためらう仕草でちょっとうつむいて、横目にちらりとトニオをすくい上げる。
 「・・・オヤジが、トニオさんの料理持って帰るとやたら喜んでよォー何かその顔見てるとオレもうれしくなるんだよなー。オレ料理ヘタだし、もう兄貴いねえしよォ、オヤジとふたりで食べてて、ひとりじゃないだけいいよなって思うんだけど、オレがいなくなったら今度はオヤジがひとりでメシ食うんだよなー。そしたら誰がオヤジのメシ作ってくれんのかなって思うんだよなー。」
 こんなことを、誰かに話すのは初めてだ。仗助にさえ打ち明けたことはない。疲れて飲む、濃いカフェインのせいだろうと、億奏はよく回らない頭で思う。酒を飲んで大人たちが管を巻くのは、大方同じような心持ちだからだろう。
 いつだって天使のように微笑んでいるトニオも、こんな風に愚痴をこぼしたくなることがあるのだろうか。
 「ヒトリじゃないかもしれマセンよ。億奏さんにステキな人がデキて、その人と一緒に暮らせば、ふたりじゃなくて3人になりますネ。」
 彼女すらできたことのない億奏は、ちょっとびっくりしてトニオを真っ直ぐ見つめた。
 「・・・でもよォーオヤジのこと受け入れてくれるかなァ。」
 それ以前に、大事な人が現れるだろうかと思いながら言葉を継ぐ。
 トニオの微笑みがいっそう深くなった。
 「大丈夫デス。億奏サンを好きな人なら、億奏サンのおトーサンのこともきっと大事デス。」
 「・・・ならいーけどよォー。」
 半信半疑のまま、億奏は相槌を打つ。無理に決まってるじゃないかと心の片隅で思うくせに、トニオの言うことがいつか現実になると、なぜだか信じる気持ちも一緒に湧いた。
 ああそうか、家族は増えるものなのだと、今まで考えたこともなかった億奏は、自分とあの父親と、一緒に食卓を囲んでくれる誰かのことを想像する。それはまだ影でしかなく、髪の長さも身長も定かではなかったけれど、その人はきっと、このトニオと同じように、この上なく優しく微笑んでいてくれるのだろうと思えた。
 テーブルの上に腕を乗せて、トニオが少しだけ億奏の方へ体を近づけて来る。
 「今度、億奏サンの家で何か作りまショウ。」
 「え、ナニ、オレん家来てくれんの? 出張?」
 「新しいメニューを考えてるのデス。味見をしてくれマスか。」
 味見、と聞いた瞬間に口の中がよだれでいっぱいになる。億奏は今すぐにでもそれを試したいという表情で目を見開いた。
 「するするする! 味見くらいいくらでもしてやるぜェ、トニオさん!」
 「チャンと、カプチーノも作れるように準備して行きマスネ。」
 「オヤジも、トニオさんのカプチーノ好きかなァ。」
 微笑んだまま、ドウでしょう、と言う風にトニオが首を傾げる。それにつられて視線を動かしながら、トニオの仕草を、億奏はとてもチャーミングだと思った。
 頬が赤くなり、億奏は慌てた仕草でカプチーノの残りを全部飲み干して、残った白い泡まで舌を伸ばして全部飲んでしまおうとした。残ったチョコレートの香りに、一瞬だけうっとりしてから、
 「・・・オヤジの分にも、泡で顔みたいなのやってくれる・・・?」
 カップを両手で持ち上げて、とても喜ぶ父親の顔が浮かんだ。
 「いいデスよ。億奏サンとおとーサンにはいつでも特別デス。」
 トニオの笑顔につられて、億奏はついに同じような微笑みを浮かべた。そうせずにはいられなかった。
 皆が家族と一緒の体育祭の日に、億奏のためにやって来てくれたトニオに、どうしたら礼を返せるかと考えながら、形兆がいればそんなことも怒鳴りながらでも教えてくれたのだろうと思って、けれどなぜだか悲しい気分にはならなかった。
 カプチーノは空になり、外もそろそろ暗くなり始めていた。そんなことには気づかない風に、億奏はいつまでもトニオの笑い顔を、微笑んだままじっと見つめていた。

- 了 -

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