期間限定花京院誕生日祭り


(1)

 「ギター、弾くのか。」
 2Pほど終わった数学の問題集を答え合わせしながら、承太郎がぼそりと訊く。
 花京院は、勉強机の椅子に横向きに腰掛けて、自分のベッドに、何となくそぐわない様子で腰を下ろしている承太郎に向かって、ちょっと驚いて目を見開いた。
 「少しだけ・・・。」
 そう言ったのは謙遜ではなく、中学に入ってから聞き始めたPoliceのStingに憧れて、珍しく両親にねだってギターを買ってもらったのが去年の冬だ。残念ながらエレキギターというわけには行かず、ただのアコースティックギターだけれど、柔らかい指先を硬い弦に滑らせて、ひとり悦に入っていた。
 とは言え、初心者に弾き通せる曲など、Policeにはなく、耳で音を拾うということも、今まで音楽をきちんと勉強したことのない花京院には至難の業で、もっと幼い頃にピアノのひとつも習っておけば良かったと、後悔してもすでに遅い。
 それでも、たまにケースから出して、音を整えてから、覚えたコードのいくつかを指先で弾き下ろす時の気分は嫌いではなかった。
 答え合わせの終わった問題集をまだ膝の上に開いたまま、承太郎がちょっと目の色をなごませて、広い肩を少し丸めて、花京院のギターケースに視線を当てる。
 狭くはない花京院の部屋を、立てば半分埋めてしまえるように思える、承太郎の長身が、その一瞬だけ溶けて空気にまぎれてしまったように思えた。
 まだギターを見ている承太郎へ腕を差し出して、花京院は問題集を返してくれるように促して、そうしてようやく、我に返ったように承太郎が、また背筋を伸ばして家庭教師の貌に戻る。
 「ギター、弾きたかったらどうぞ。あんまりうるさくされると困るけど。」
 ベッドから立ち上がらないまま、長い腕を伸ばして問題集を差し出す---もう次のページが開かれている---承太郎に、花京院は無表情に言った。
 「いいのか。」
 床を滑った爪先が、そう訊きながらもう、壁際の本棚の端に立てかけてあるケースの方へ向かっている。花京院は、受け取った問題集の陰で、口元にだけ注意深く苦笑を刷いて、しっかりとうなずいて見せた。
 「少しくらいの音は、気になりませんから。」
 14歳になったばかりとも思えない、花京院の大人びた口調や態度に改めて驚きながら、承太郎は、ベッドから軽く腰を浮かせた。
 机に向き直り、問題集に軽くうつむいて、体の大きさに似合わない静かな足運びで、承太郎がギターをケースから出す気配に、花京院は背中でだけ神経を集中させている。
 6弦から1弦をゆっくりと弾いて、音を確かめている。花京院もいつも同じことをする。チューナーは使わずに、耳だけでとりあえず調音しているのだと、振り返らなくてもわかる。誰かが弾くギターの音を、こんな間近で聞くのは初めてだ。花京院は、ちょっとだけわくわくした。
 鉛筆の端を唇に当てて、4問目を解きながら、承太郎が、小さな音で何か曲を弾き始めたのに、花京院はもう止まらずに、そっと椅子を回す。
 2mを越えようかという長身がギターを抱え込むと、ずいぶんとギターも小さく見える。ネックを握る手も、こうして見ればやはり大きい。フレットの上にその指を伸ばせば、少しばかり厄介な---花京院の、まだ大きくはない掌には---コードも、楽々押さえてしまうだろう。
 ネックの中ほどを、左手の人差し指で全部押さえてしまってから、他の指の位置を整えて、それから、ようやく承太郎の右手の指先が弦を鳴らし始める。小指以外の全部の指を使って、聞こえてきたのは、覚えのあるメロディーだ。
 「・・・Led Zeppelinだ。」
 うっかり承太郎の方を向いたままで、花京院はつぶやいた。
 花京院が、問題集をそっちのけにしているのを咎めもせずに、承太郎はそのまま曲の最初の部分を弾いて、メロディーが変わる辺りでようやく手を止める。
 「知ってるか。」
 「・・・ラジオで聞いて、その曲だけテープに録った・・・。」
 承太郎が、自分の倍も年上の大人だということを一瞬だけ忘れて、花京院は同級生に使うような口調で答えた。自分の好きなものを他の誰かが好きだなんて、生まれて初めてだったから、そのせいでついうっかり、承太郎に見せてしまった、珍しい気安さだった。
 承太郎の方も、頬と唇の辺りをなごませて、今が勉強中だということを忘れきった表情で、花京院に微笑みかけている。
 会って間もないとは言え、いつも仏頂面で無口で、花京院が打ち解けた態度を見せないと同じほど打ち解ける様子のなかった承太郎が、花京院のギターを抱えて、うっすらと微笑んでいる。
 大人が、そんな表情を浮かべることがあるのだと、花京院はもうすっかり承太郎を真正面に見て、また、手すさびのように動き出した承太郎の指先に、うっとりと見惚れる。
 数学は好きだけれど、承太郎の弾くギターの音色の方が、今はずっといい。
 そこから先は少し曲調が激しくなる、という辺りで止めて、承太郎が、とても優しいメロディーを、2度繰り返して弾いてくれた。
 「アルバムは持ってるか。」
 「持ってない。」
 ちょっと唇をとがらせて首を振る花京院を、承太郎が笑った。
 「・・・次の時に、テープ持って来てやる。」
 椅子の背を両手で持って、花京院はこくこく何度もうなずいた。そこだけ長い前髪が揺れて、その奥で、少し色の薄い茶の瞳がどれだけ輝いているか、花京院自身は気づいていなかった。
 「だからとっととその章終わらせちまえ。」
 またこくこくうなずいて、慌てて机に向き直って、承太郎が突然乱暴な口調になったのに驚きもせず、花京院は5問目までしか終わらせていない問題集の方へ、言われた通りにうつむき込む。
 鉛筆を動かしながら、おそるおそる、承太郎に言った。
 「・・・ずっと、聞いててもいい?」
 瞳だけ動かして、見えるはずもない背後の承太郎が、またギターの弦を1本だけ弾いた音を聞く。
 「おう。次も間違いがなかったら、10分休憩してやる。」
 休憩の間は、承太郎のすぐ傍に坐ってギターを弾くのを見ていてもいいということだと、そう解釈して、承太郎が静かに弾く柔らかな音に耳を澄ませて、花京院はじっと目の前の字と数字に集中した。


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