期間限定花京院誕生日祭り


(20)

 どうせ暖かいだろうと油断していて、承太郎は思わずコートの襟を首に巻きつけるように片手で立てた。
 さすがに息が白いとは行かないけれど、久しぶりの、湿気の高い寒さに、そしてすっかりあちこち新しくなって見違えるようになっている空港の中に目を見張った後で、やっと日本に戻って来たのだと、懐かしさを隠せない。
 ほんとうに久しぶりに、同じ見掛けばかりの人間たちに囲まれ、無礼ではないけれど不躾けな好奇の視線をちらちらと浴びて、ああ確かにここは日本だと、承太郎は胸の中でひとりごちる。
 公共の交通機関も久しぶりだ。切符を買う機械に戸惑い、日本の硬貨の手触りにも戸惑い、時差ぼけよりも、日本人に戻り切れない方がもっと問題のように思えた。周囲の会話を聞き取るのに、少しばかり集中力がいる。
 空港から真っ直ぐに、ホリィの待つ実家に戻っても良かったけれど、駅から少し離れたそこへは抱えた荷物の大きさが面倒で、例の祖父のジョセフの持ち物である、最寄り駅に近いマンションへまず戻る方がずっと気が楽だった。
 ジョセフにはすでにその旨を伝えてあり、
 「なんじゃ、ホリィのところへはすぐには戻らんのか? 車なんぞ空港で借りてそのまま乗って行けばよかろう?」
 日本の──特に、大都市周辺の──道路事情に疎い祖父のその提案を鼻先で受け流して、マンションの部屋へは事前に人を送って、とりあえずすぐに寝起きできる程度──電気やガスや水回りの準備──にはしておいてくれると約束させた。
 やたらと背の高いビル、圧迫感のある、どこまでも延々と続く町並み、見上げる空はぶつぶつと切り取られて、青もくすんで見える。それでも、物静かな人たちと、控え目なその態度に、どこか承太郎はほっとしている。喧騒も、その騒がしさの質が、外の国とは少し違うように感じるのは、やはり承太郎がここで生まれ育ったからなのか。
 承太郎の背の高さと、抱えたスーツケースと、両方をじろじろと眺める視線も多かったけれど、疲れているにも関わらず、うっかりそれに微笑を返してしまいそうになる。
 日本に久しぶりに戻って、心中ひそかに浮かれているのだと思うと、そんな自分がおかしかった。
 今夜の食事をどうするかとぼんやり考えながら、車窓に見える街が、少しずつ見覚えのあるそれに変わる。変わっているようで変わっていない、変わっていないように見えて、それでもやはり変わっている、覚えのない店の看板や、ビルや、あるいは、ああと思わず懐かしさのため息をこぼしそうになる色の屋根も見つけた。
 やっと着いた駅は、改札が新しくされて、流れてゆく人込みの中には派手な色合いが増えているように思えた。とても日本人とはすぐには見分けられない顔立ちもあったし、若い女の子たちのスカートの丈は、覚えているよりも確実に短くなっている。
 承太郎は、うっかりそれに顔をしかめて、駅員のいる改札を通って、スーツケースを引きずりながら駅の外へ出た。
 幸いに、駅前はほとんど変わった様子はなく、ここまで出て来れば、どこかで食事をするのには困らなさそうだ。
 今すぐどこかへと首をめぐらして、けれど重いスーツケースつきでこれ以上動き回る気はなかったから、とりあえずはマンションへ戻ろうと、承太郎はタクシー乗り場へ足を向ける。
 そばに立つと、すぐに開く自動のドア。そうだ、自分で開ける必要はないんだったと、中から振り返って来る運転手がきちんと制服を着ているのに、承太郎はまぶしげに目を細めた。
 運転手は承太郎の荷物に気づくと、すぐに外に出て来て、特に必要はなかったけれど、一応手を貸す素振りを見せる。その、本人たちはまったく自覚のないだろう日本人らしさに、承太郎はやっと地にしっかりと足が着いたような気がした。
 丸3年、半分以上は海の上だった。人数の多い調査チームがそこそこの簡便さを求めて、滞在していた町はそれなりに人も物も多かったけれど、24時間必要な時にいつでもすべてに手が届くというわけでは当然なかったし、そもそもそのすべてすら、承太郎の感覚から言えばずいぶんと怪しかった。
 当然ながら、ありがちな嗜好品の類いはたいてい我慢を強いられて、手持ちの荷物以外に増えたものと言ったら、山ほどの紙類と、後から取り寄せた本、それからそこで新たに手に入れたわずかな衣料品ばかりだった。
 ここでは、欲しいものが欲しい時に手に入る。食事の味に不安はないし、誰かに後ろから殴り掛かられることを心配しなくてもいい。現金を剥き出しにしていても、それに目を光らせる誰かも見当たらない。そう言えば、ここはそんな金を使いたいと思うものが溢れている。滞在した町には、そんなものすら滅多となかったのだ。
 1メーターを少し越えるだけの距離を、運転手は嫌がる素振りも見せず、後部座席の真ん中にやっと背中を伸ばした承太郎を、すぐ上にあるミラーの中に確かめた後は、滑るように雑音もなく走る車の中はすぐに静かになった。
 窓の外に、覚えている店があるかどうか、横目に確かめる。今度も、長く戻って来たわけではないけれど、たまに寄っていた本屋やレコード屋──CDしか置いていないのに、いまだそう言う──や、コンビニに小さなレストラン、立ち飲みのようなコーヒーショップも、元の場所にそのままあるなら、それに越したことはない。
 新しいコンビニが、マンションのさらに近くに1軒増えているのを見て、承太郎はそこで初めて疲れを覚えて、帽子のつばを軽く引き下ろした。
 やれやれだぜ、と小さく呟いたのが運転手の耳に届いたのか、もうマンションがそこへ見え始めて、初めて承太郎の方をちらりと振り返る。
 マンションの入り口で、タクシーは静かに停まった。
 また小銭に戸惑いながら示された金額──チップがないというのはこんなにも気楽だ、心の中で、うっかり笑みをこぼす──を渡し、今度も運転手は、わざわざ外へ出て来て、手を貸す準備はあると、スーツケースを後ろのトランクから出す承太郎の手元を見守っていた。
 ついぎこちない仕草で、中に戻る運転手に軽く頭を下げ、走り去る車を後ろに、承太郎は目の前の白い建物を見上げた。
 懐かしいとかやっと戻って来たとか、そんな感覚はここでは湧かず、ここはただ、今夜荷物を下ろして寝るための場所で、極めて事務的に立ち寄っただけだと、それでもついに長い旅が終わったのだと、思わずにはいられなかった。
 さて、今夜の食事をどうするか、また考えながらエレベーターを出て廊下を進んだところで、いちばん手前の角部屋になるそこの玄関に、なぜか明かりがついていた。
 廊下の天上の電灯かと思ったけれど、光は中からこぼれている。
 もしかして、先に部屋の準備をしてくれた誰かが、ひとり恐らく暗くなってから戻って来る承太郎に気を使って、そこの明かりを点けっ放しにしておいたのかもしれないと、ポケットの中の鍵を探りながら思う。
 ドアに鍵は掛かっていなかった。そして、承太郎が鍵をノブから外した音と一緒に、内側からそのドアが開いた。
 「お帰りなさい。」
 承太郎よりは目線は下だったけれど、玄関のドア枠いっぱいを塞ぐように、学生服を着た、確かに見覚えがあるのに違う顔立ちの誰かが、にっこりと微笑んでそこに立っている。
 「早かったですね。僕もついさっき来たばかりです。」
 記憶を揺さぶるけれど、誰と聞き覚えのない声だった。
 それでも、瞳の表情と、顔の右側へ軽く垂れた前髪のひと房と、横に広い唇の端が奇妙に無邪気に見える上がり方が、確かに承太郎が覚えているそれだった。
 「・・・花京院か。」
 自分の声が、驚きに震えているのにさらに驚いて、今呼んだ名が、日本語の発音がきちんとしていたかどうか、まず気になったのはそのことだった。
 「あはは、わかりませんか。背も伸びたし、声も変わりましたから。」
 するりと体をひるがえし、その拍子に、膝に届く制服の長い裾が、承太郎の視線をとらえた。
 「コーヒーでも淹れましょうか。台所はすぐ使えるようになってます。」
 まるで自分の家のように、花京院は先に立って中へ向かう。数瞬呆けていた承太郎は、やっと我に返って、スーツケースをとにかく上に上げると、そこに残したまま、自分だけ花京院の後を追った。
 そう言った通り、花京院は馴染みきったようにキッチンに立ち、承太郎が置いたままにしておいたコーヒーメーカーに、たった今開けたらしい袋から、コーヒーの粉を移そうとしているところだった。
 「なんでここにいる。」
 承太郎の方は見ずに、忙しげに手を動かしながら、花京院が微笑みを浮かべたまま答える。
 「ここには、月に何度か来てたんです。風を通したりとか、変わったことはないか点検したりとか、たまには本も読んで行ったり。楽なバイトだったな。」
 「じじいが、おまえに頼んだのか。」
 「・・・ちょっと違う、かな。」
 視線はそのまま、顔だけこちらに向ける。気を引くような言い方と仕草が、信じられないほど大人びて見える。以前は、そうすると、歳と不釣合いに見えて痛々しかったのに、今ではこちらをどぎまぎさせるほど板についている。
 「父が、お礼を言う間もなかったから、その代わりにって。バイト云々は、ホリィさんから話が行って、ジョースターさんが税金対策だって。」
 おかしそうに笑って説明しながら、自然に承太郎の母親の名前を口にする。ホリィはこの3年何も言わなかったけれど、承太郎に知らせないだけで、それなりに親しく行き来をしていたらしいと、それで知れた。
 その交友関係に、まさか祖父のジョセフが含まれているとは、思いも寄らなかったけれど。
 コーヒーがもう、いい匂いを立て始めていた。
 「背が伸びたな。」
 まるで、数日留守にしていただけのような、埃くささも湿ってよどんだ空気の匂いもない部屋の中で、ふと、あのまま時間が止まっていたのだという錯覚を覚えながら、承太郎はやっと言った。
 そんなはずはない。花京院は見違えるほど成長しているし、承太郎は今では30を過ぎている。滞在先へはギターを持って行かなかったから、指先は海水に触れ過ぎたせいで少し荒れているけれど、弦を常に押さえていた時の固さはない。まだひげらしい影のない花京院のつるりとした顎の線は、けれど骨の形が今ははっきりと見て取れる。
 皮膚1枚脱ぎ去ったように、あの子どもじみた少年は、もうどこにも見当たらない。それに戸惑いながら、承太郎は今の花京院に向かって、まぶしげに目を細めている。
 「まだ180cmには全然足らないけど、車椅子に手を出しても断られなくなりました。」
 「おれみたいになると、後で苦労するぞ。」
 「もう靴のサイズが大変だって、母に言われてます。」
 そう言われて、床の方へ視線を落として、花京院の手足の大きさに驚く。まだ身長は伸びそうだなと、今花京院はいくつになっているか、誕生日を思い出そうとしたけれど思い出せなかった。
 高校3年だ、それだけはきちんと覚えていた。会わない間、学年だけはきちんといつも意識していた。
 「受験生がこんなところでのんきにしてていいのか。」
 照れくささを隠して、ちょっとだけ咎めるように言うと、花京院がいっそう大きく頬をゆるめて、いたずらっぽく笑って見せる。
 「中学の時の家庭教師のおかげで、いまだに成績だけはいいんです。」
 さらりとこんなやり取りができるようになった花京院に、また小さな驚きを感じながら、花京院が急激に成長した3年を見失ったことをかすかに後悔して同時に、3年前のことが今も花京院の中にしっかりと根付いたままであることに、承太郎は単純な喜びを隠せない。
 日本をほとんど切り捨てたように、海とだけ向き合っていた3年間に、それでも花京院のことはいつも気に掛けていて、それは花京院も同じだったのだ。突然姿を消した承太郎を、それでもいずれここに戻って来るからと、ひとり待ち続けた花京院のまだ幼い姿が、部屋の隅に見えるような気がした。
 最後に見た花京院は、抱えたギターのケースの重みに、まだ押しつぶされてもおかしくないように見えたのに、今では悠々とキッチンの戸棚の最上部へ腕を伸ばし、伸びた喉や広い肩幅の線は、すっかり大人のそれになっている。
 それでも、横顔には確かに承太郎の覚えている花京院がいて、
 「すいません、牛乳やクリームは買ってないんです。」
と、カップを取り出しながら言う。
 「明日からのことがわからなかったので、すぐ腐るものは買わない方がいいだろうと思って。」
 「いい、ブラックでいい。」
 心底申し訳なさそうな表情が、ふと14の時に戻る。
 湯気の立つコーヒーを受け取りながら、承太郎は、ここにいた頃に使っていた口調を思い出しながら言う。
 「その敬語、やめろ。おれ相手に。」
 細い、形のいい眉が上に上がる。
 「あ、すみません、いつもの癖で。」
 まだ敬語を消さずに言う。それから、まるでほどけかけた花の蕾のような、どこか壊れそうなあやうさを含めた表情で、
 「・・・何だか、まだ勝手がわからない。どうやって話したらいいのか、よくわからない。」
 声の底に、懐かしさやうれしさや戸惑いや、急に何もかもがあふれだした感情が、一緒くたに波打って広がったのがわかる。声変わりのすっかり終わった、大人の男の声でそう言われると、承太郎も戸惑いを感じて、今は正面に向き合った花京院を、まともにまっすぐ見つめて、17の自分が顔を出そうとするのを、そこで押しとどめた。
 花京院も、砂糖を入れないコーヒーの口をつける。
 確かに過ぎた3年間は、花京院の身長や声変わりや、そしてコーヒーの好みにも現れている。今はどんな本を読んで、どんな音楽を聴いて、そしてどんな友人がいるのかと、聞きたいことは山ほどあるけれど、今はそれを口にするには、心の中が波打ち過ぎていた。
 なぜかそこに立ったまま、ふたりで向かい合ってコーヒーを飲みながら、しばらくの間、互いに言葉を探す風に、けれど沈黙が雄弁に、離れていた3年間を伝え合っていた。
 「大学はもう、決めたのか。」
 高校受験のことを訊くのは、もう遅過ぎるだろうかと思って、承太郎はそろりと探りを入れる。
 持ち上げたカップに口元を隠したまま、花京院の目元の表情が一瞬で変わる。してやったりと言うような、ちょっと茶化すような、何かを期待する面白そうな目つきをして、横に広い唇の端でおかしそうに笑ったのが、カップの陰から見えた。
 「大学受験はないんです。」
 まだ敬語のまま、表情も変わらないまま、けれど口調が少し幼くなった。
 「推薦なのか。」
 「違います。」
 当ててみろと言わんばかりに、そこで言葉を切って、また面白そうに承太郎を上目に見て来た。
 「専門学校にでも行くのか。」
 違う、とさらに首を振る。花京院が相手でなければ、とっくに質問をやめているところだけれど、承太郎は好奇心を募らせて、花京院が続きを言うのを待った。
 そして冗談で、絶対にありそうもないことを、花京院がつられて白状するのを期待して口にする。
 「親父さんのコネで、裏口入学でも決まったか。」
 「・・・そんなところかもしれない。」
 さらりと言った花京院に向かって、承太郎はコーヒーを吹き出しそうになった。
 「おい冗談だろう。」
 自分で言ったくせに、少しばかり声を高くして、そんな承太郎に向かって、花京院の方がまるで年上のように、なだめるような視線を送って来る。
 それから、手元のコーヒーに視線を落とし、何か言い迷うような素振りを見せてから、深く肩をすくめた。
 「・・・もっと後で言うつもりだったけど・・・まさか、戻って来たその日に言うつもりじゃなかったけど・・・。」
 ひそめた声が深刻に聞こえて、承太郎は思わず身構えた。
 2拍分うつむいて、上げた花京院の顔には、大事な秘密を打ち明ける時の子どもの表情が浮かんでいた。
 「ボストンの大学に行くんだ。来年5月から始まる英語のコースをまず取って、それからきちんと入学するつもりでいる。」
 決心したことを、勇気を奮って打ち明けるように、一気に花京院が言って、今度は承太郎が驚いて黙り込む番だ。
 「ジョースターさんが、ひとりでは大変だから、何でも助けるって。多分承太郎も戻って来るから、何なら一緒に暮らせばいいじゃないかって。」
 ジョセフのいるところだ。日本人も多い。学生の街で、物価の高さにさえ目をつぶれば、誰でも居心地のいいところだろう。承太郎が博士課程のために籍を置いているの大学もそこにあり、そして今度の調査チームの、海洋学側のリーダーだった教授も、ボストンの大学に勤めている。
 自分のいない3年間の間に、知らないところでいろんなやり取りがあったらしいと、静かに悟る。ひとりきりの孫を手元に置いておきたい、これはジョセフの策略に違いない。
 どちらが先だったのだろう。居心地の悪い日本を出て、自由にやりたいと花京院が言ったのが先だったのか、それともジョセフが、アメリカは自由でいいぞと先に言った──そそのかした──のか。あるいは、承太郎に会いたいと言った花京院に、ここに来れば会えると、ジョセフが、自分自身の思いも込めて言ったのか。
 仲立ちをしたのは、間違いなくホリィだろう。明日実家に行って、いろんなことを全部聞き出しておこうと、承太郎はひそかに心の準備をする。
 「・・・じじいが、おれに家を買えとやたらと言ってたのはそういうことだったのか。」
 承太郎がそう言った途端、花京院が慌てたようにカップから片手を離し、顔の横で激しく振った。
 「それは知らないよ。ジョースターさんはただ、部屋はいくらでもあるから、心配ならしばらく自分のところにいたらどうかって・・・。」
 一度言葉を切って、声を低くして続けた。
 「・・・その頃には多分、承太郎もいるだろうからって。」
 調査チームの教授が、今回の調査結果をまとめるのを、全面的に承太郎に手伝って欲しいと頼んで来たのが、完全にジョセフの思惑の外だと、どんどん信じられなくなって来る。もうイエスと答えてしまった後だ。きっと関係ないだろうと、とりあえずこの場では思い込むことにした。
 「・・・どうやら、ふたり掛かりでじじいを問い詰めた方が良さそうだな。」
 「え?」
 怪訝そうな顔をした花京院に笑い掛けて、承太郎はテーブルの上に空になったカップを置く。
 「大学で何を勉強するんだ。」
 「コンピューター。」
 「何だ、海洋学じゃねえのか。」
 「ドイツ語を勉強する気はないんだ。」
 ぞんざいになった承太郎の口調と一緒に、花京院の言葉遣いも砕けて、ふたりはそれを同時に笑った。
 「夕飯は、もしまだなら、母さんが持たせてくれたんだけど。」
 コーヒーをもう1杯どうだと目顔で訊きながら、花京院が冷蔵庫の方を指差す。
 「ああ、まだだ。」
 お代わりのために空のカップを手渡す時に、偶然指先が触れた。
 まだ肉体労働には縁のない、ひたすら滑らかな感触だった。花京院はもう14歳ではなく、それでも17や18というのはまだ充分に子どもなのだと思って、急にこみ上げて来たいとおしさを止められずに、承太郎は両腕を伸ばして、花京院を抱きしめた。
 驚いて体を縮めた花京院は、もう承太郎の両腕の輪をしっかりと満たすほど厚みを増していて、強く触れれば壊れそうだった、あの少年の様は、もうどこにも見当たらない。首を伸ばせば、承太郎の肩にあごが乗りそうだった。背伸びの必要は、もうなさそうだった。
 ただいまと、考える前に口をついて出ていた。胸の間にカップを抱えていた花京院が、片腕だけをそこから抜き取って、承太郎の背中を叩く。
 「お帰りなさい。」
 制服の下の肩の硬さが、承太郎の脇の下に当たる。
 ジョセフが言った通り、アメリカに戻ったら家を探そうと思った。自分だけのためではなくて、他に誰か、一緒に住むための家をだ。
 研究のためにあちこち飛び回り、家に帰るたびに、誰かが中からドアを開けてくれる。明かりがともっていて、コーヒーの香りのする、そんな家に帰るのだと、承太郎は思った。
 話したいことも、聞きたいことも山ほどあった。3年分の話を、これからゆっくりしよう。それから、今度こそきちんと、戻って来たこと──またじきに、旅立ってしまうけれど──を花京院の両親に挨拶しに行こう。
 ジョセフの家に残して来たギターのことを思い出して、ろくに触れなかった弦は、きっと錆びてしまっているだろうと思った。
 まずはあれは張り替えて、それからジョセフも交えて、花京院と一緒にギターを弾こう。
 天国への階段のソロは、まだきちんと弾けるだろうか。きっと無理だ。花京院が苦笑いしながら、こうだと弾いて見せてくれるだろう。そうやって、3年分を埋めてしまえばいい。
 今度は、花京院が承太郎にギターを教える番だ。


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 2006年に、突然モルさんとキティさまと一緒にやろう!ということになった花京院誕生日企画でした。これにてやっと終了。
 そもそもきちんと連載とか考えてなかったせいで、とりあえずは完結させようと思ったのはわりと最近だったというのは超内緒です。
 完結が承太郎の誕生日期間というのも偶然にしてはいい感じかと、関係ないところで自画自賛しつつ、最中にいただいたコメントに深く深く感謝しつつ、一緒に企画を始めてくれたモルさんとキティさまに、最上級の感謝を。
 最後までお付き合い、ほんとうにどうもありがとうございました!
2010/1/31