第1話 by mm
しっとりとした大気が肌に吸い付く。この時期独特の湿り気を帯びた空気には少々うんざりだ。
6月は憂鬱だ。雨は多いし、太陽も雨雲に翳ったままでこちらを見ようともしない。北欧では冬になるとうつ病患者の数が増えるのだという。輝くばかりの太陽が見られないその冬は、日本の梅雨と酷似しているのだろう。ならばこの時期、気分が沈むのも無理はない。
モスグリーンの傘を差して、花京院はとぼとぼと予備校からの帰路に着く。
国民の休日の無い6月に学校を建てるという偉業を成したことを、創立者が生きていれば褒めてやりたい。部活をしない生徒たちは皆、創立記念日にかこつけて休日を謳歌しているだろう。
本当なら承太郎と遊びに行くことも考えた。花京院の上級生である彼は、いまや地元の大学で生物学を専攻している。
自分の卒業した学校の創立記念日など知っていて当然だとでも言うように、昨日、誘いの電話はあったのだ。しかし、花京院はそれを断らなければならず、平日となんら変わらない時間に登校して、まっすぐに美術室を訪れていた。
花京院は帰宅部であったが、3年になって初めての美術の授業でその才能を見初められ、美術部と同じように夏のコンクールに出展してみないかとの話があったのだ。
自分の好きな分野で認められるのは嬉しいことだった。彼は二つ返事でそれに応じ、教師はその日の放課後に美術室へと案内した。
夏休み明けに開かれるコンクールを目標に、美術部員が必死に作品に打ち込む姿は、見ていて壮観だった。部員でもない彼が顧問に紹介された時こそ奇異の目で見られはしたが、今はすでに慣れ、空気のようにこの空間に溶け込んでいる。
スケッチブックにデッサンを施し、キャンバスに描くイメージを固める。キャンバスへの下書きはB6辺りの柔らかい鉛筆や、または木炭で行うのだが、花京院はいきなり筆を滑らせ、それを油絵の具で行った。
教師も部員も、それを見て彼は素人ではないのだと知った。
鉛筆や木炭は何度でも修正できるため下書きに向いているが、柔らかすぎるため筆を重ねるごとに絵の具に溶け込み、色が濁ってしまうのだ。
それを知っているということは、彼が過去何度も油絵を描いていたということだし、指導などは彼にとっては口煩いだけだろうと理解する。
室内用のイーゼルは大きな作品向けにどっしりと安定するように設計され、物によってはその重量のために車輪までついている。まるで対面型の鏡のように平坦な形で、屋外用とは違って3本足のピラミッド型ではない。椅子に座り、イーゼルに向かえば自然と足は90度近く開き、その姿勢は実に男らしい。残念ながら一部の女子もそうやって足を開くので、やや、上品さに欠けるのだが。
普段は落ち着いていて、話しかければ柔らかい物腰でそれに応える花京院だったが、キャンバスに向かうその眼差しは真剣で、外野の声も耳に入らないような集中力を見せた。
足を広げ、眼光は鋭く、彼の周りの空気だけが梅雨の湿気などは感じさせない、清涼なものへと変わる。
引き締まった表情も、ぴんと伸びた背筋も、絵の具で汚れたエプロンも、夏服のワイシャツから延びる形の良い腕も、パレットや筆を持つ指やせわしなく動く手首は、見る者によってはそれだけで美しい獣のように見えた。絵を描くことを愛する、野生の生き物。
若い筋肉の躍動が、彼の姿で見て取れる。うつくしいものを描く者なら、その姿をキャンバスに閉じ込めておきたいと思うだろう。
それほどまでに彼の姿は芸術の世界に溶け込んでいた。
昼食の時間を前に、ようやく花京院の集中も途切れたようで、さっさと道具をしまい、キャンバスごとイーゼルを日陰に寄せてエプロンを椅子に掛けると、今日こそはお弁当タイムに誘おうと意志を固めていた女子生徒や、この後ゲームセンターに誘おうと待ち構える男子生徒ににこやかに微笑んで
「お先に」
言うなりさっさと美術室を後にした。正規の部員ではないから、いつ帰ろうとも自由なのだ。
4月からずっと微笑むだけで彼らの誘いを無下にしているのだが、それでも諦めることを知らない彼らは立派だと思うし、子供の頃と同じように友人を作りたがらない自分も少し滑稽に思う。
承太郎が卒業してしまった今、気の置けない友人の一人や二人作っても良さそうなのだが、意外に転校生というのは不利に出来ているものだし、なんとなく、彼との関係が友情の延長にあったものだから、彼以外の者に心を許したくないとでも思っているのかもしれない。
昇降口への途中、コンクールに誘ってくれた美術教師が手を振って寄ってくるのを軽く会釈して迎える。
「もう帰るのか?」
「予備校に行くので」
「3年は忙しいな」
美術教師の言葉に心の中で「承太郎に会えないくらいにね」、と呟いてから
「コンクールのお誘いも頂きましたしね。忙しくて目が回りそうです」
にっこりと微笑む。
「毒吐くなァ」
美術教師は頭を掻き、そんなやり取りも楽しそうに笑った。
「期待してるよ」
「お応え出来ればいいのですが」
花京院は再び一礼すると、軽く手を振る顧問に見守られてその場を後にした。
「雨・・・」
誰もいない昇降口で頭上を確認すると、仕方ないな、とでも言うように傘を広げた。彼はモスグリーンのそれを気に入っていた。鉛色の空より、この色のほうがはるかに良い。
そういえばグラウンドから運動部の声など一切しなかったというのに、それすら気づいていなかった。
我ながらその集中力には呆れてしまう。だからこんなに疲れるのか、と首を回し、肩を鳴らす。とても一七歳とは思えない肩の凝りようだ。
予備校でもやはり、集中しすぎていた。二教科終わってさらに肩は硬くなった気がする。雨は幸い小降りになっていたが、それでも傘を差さなければ濡れてしまうだろう。
こんな使い方もどうかと思ったが、こっそりとハイエロファントを呼び出して凝りに凝った肩に指を当てさせる。
家に帰っても誰もいないけれど、早く帰ってシャワーを浴びて、父のマッサージチェアを陣取り、できれば承太郎に電話をしたかった。
互いに環境が変わると、特に花京院は自分の我儘で彼を振り回すことは避けてきた。
大学という未知の場所に馴染むのにはどれくらいの時間が掛かるのか見当もつかない。もし、サークルなどに入るのならその付き合いもあるだろう。
恋人同士であるというのに、進級してから数えるほどしか会えないで居たのを紛らわすために絵や受験勉強に打ち込んでいるのか、それとも絵や受験勉強のために彼と会えないことを気にしない振りをしているのか、いつの間にか解らなくなっていた。
承太郎を思うと幸福な気持ちになる。それは今も変わらない。しかし、環境があまりにも違いすぎた。死線を潜る戦いの日から日常への切り替えは二人一緒だったからか上手く出来たものの、承太郎がいない日常に慣れるまで、まだ少し時間が掛かりそうだった。一人では何も出来ないのだろうか。彼は一人でも上手く一般の人間に溶け込むのだろう。
雨のせいで憂鬱になると、自然に足取りも重くなってしまう。
とぼとぼと疲れた足を引きずるようにし、やがて鐘の音が鳴り響いていることに気づく。そういえば予備校からの帰り道に小さな教会があったはずだ。平日なのにミサだろうか、ふと目の前を見ると、石壁が連なる教会の扉である鉄柵の前に、女性が一人佇んでいた。
薄いピンクの傘を差したその人は、女性にしては背が高く、足元のスニーカーを見れば、長身にコンプレックスを持っているかもしれないと、憶測する。
赤の他人だ、無関係だとその背後を通ろうとしたが、花京院の姿が目に入ったのか
「6月の花嫁ってどう思う?」
声を掛けられていた。
なるほど、この鐘の音はどこかのカップルがこの教会で式を挙げているのか、彼女はそれを皮肉っているのだろう。残念ながら宗教に一つも興味の無い花京院にはこの教会がカトリックなのかプロテスタントなのか、どうでも良かったが結婚自体はめでたい話だと思う。しかし、今日はあいにくの雨であり、この陽気では幸せな二人の門出を祝うような空模様ではない気がする。
それに、日本という国は6月になれば梅雨前線が発達し、天気は崩れ、空は雨模様に・・・と毎年やっているのだからこの月に結婚式をするなどどうかと思うのが正直な感想だ。
「日本では不向きですね」
ぽつりと言ったその言葉にピンク傘の女性はくるりとこちらを向き
「でしょう!」
花京院の意見が自分の思うものと同じだったのか、その顔はやけに明るかった。
「梅雨なのよ、梅雨。そんな日に結婚?初夜?カタツムリかっつーの」
今時結婚するまで貞操を守る人もなど居ないと思うけれど、とは面倒くさいことになりそうなので黙っていた。
「いっつも話していたの。6月に結婚なんてするもんじゃないよね、ヨーロッパの風習でしょ?あっちは乾燥してるからいいの。ここは日本なんだから真似すんな、ってね」
「・・・はぁ」
一体何の話だろう。花京院は目を丸くし、けれど話し相手を見つけて嬉しそうな目の前の女性を一人きりにすることは出来ずにいた。
「なのに結婚、しちゃうんだもんなぁ」
好きな人が今ここで式を挙げているということだろうか。式に呼ばれていないということは好きな人、とはいっても相手の男性は彼女に面識は無いのだろうか?職場の同僚なら呼んで当然だと思うし、呼べないならば、元恋人?それとも二股でもかけられていた?
いずれにせよ彼女は興奮気味で、下手なことを言えば火に油を注ぐようなことになりかねない。花京院は女性から目を離し、鉄柵の中に目をやった。
敷地内には様々な植物が植えられており、それらは雨に濡れ、静寂な光を放っていた。花京院はさほど花に詳しくは無いが、それでも家人が育てる花と同じものがあれば、名前くらいは判る。
細い木に下向きの赤い花を咲かせているのはざくろ。鶏のとさかの意を持つデイゴはさらに目が覚めるような赤をしていた。魔よけの像に飾られていたというビョウヤナギは飴細工のようなおしべを持つ黄色い花だ。低木ではあるけれど、その花がまるで天使のラッパのようだと名づけられたエンゼルトランペットは教会に相応しく、楚々とした白い花ながら、たわわに実る果実のように連なり咲き誇る。
けれど花京院は鮮やかな花や、ボリュームで目を惹かせるような花よりも、少し地味ながら、青い花に目を奪われた。
青い色は花嫁を祝福する色だ。青いものを手にした花嫁は幸福になれるのだという。
紫陽花も、花壇に植えられたサルビア・グアラニチカや、ベロニカ、アイリスはきっと花嫁がその近くを歩くだけで純白のドレスを彩るのだろう。
良く手入れされた庭だと思う。良く見ればすでに花を落とした草花も、つぼみを持つ木もあり、庭内は一年中花を咲かせるのだろう。
学校からは離れているから予備校に通うようになるまでは知らなかった場所だが、花好きの人にここを教えたら喜ぶかもしれない。
教会という場所柄、ひょっとしたらホリィも承太郎も知っているかもしれないが。
花々に見とれるうち、教会の扉がゆっくりと開き、スーツやドレスの男女が雨を気にしながら階段の中央を空けるように両端へと移動する。式が終わり、新郎新婦はこれからハネムーンに行くのだろうか。それとも二次会に移行するのだろうか。
話しかけてきた女性の体に一瞬だけ緊張が走ったのが解る。
やはり、昔の恋人が結婚するのだろう。唇をきつく噛みしめ、その目にはやり切れない色が見て取れた。
新郎も新婦も白い衣装をまとい、しかし雨など気にする様子も無く、参列者に笑みを向け、祝福を一身に浴び、その姿は本当に幸せそうで、思わず花京院も幸福を分けてもらったような暖かな気持ちになった。
新婦はどちらかといえば幼い顔立ちで、傘の女性のほうがよほど美人だと感じた。そのくせ、彼女を振ったであろう新郎の顔立ちはぱっとしない、意外にも平凡な男だった。
自分だったら、きっと隣の女性を選ぶ。けれど結婚とはそんな簡単なものでないことも解っている。顔ではない。相手の性格や、相性だ。そして妻に癒されるかどうかが結婚の決め手だ。生涯愛し合えるか、それが重要だ。
教会の職員が鉄柵を開けにこちらへ来るのを、花京院は「おめでとうございます」と、一礼した。
職員はにこやかに「ありがとうございます」と、応える。路上にはすでに送迎の車が停められ、運転手は後部座席のドアの横に立っていた。
「あの、どいたほうが」
女性はしかし、動かず、二人をじっと見詰めていた。
どんなに恨みがましい顔をしているのかと、彼女を見たが、しかし彼女はそんな感情などは無かったように傘の柄を握り続けていた。
花京院はだから、彼女の視線を追ってしまった。熱心に見つめるその先を探し、それが新郎ではなく新婦の姿を追っていることに感づいてしまった。
若い夫婦ははゆっくりとこちらに近づき、そして自分たちを見つめる人間がいることに気が付く。
新婦は驚いたように傘の女性を見つめ、女性もまた新婦を見つめていた。
だから、花京院は気が付いたのだ。
二人の表情は決して、一人の男性を取り合った憎しみの顔はしていなかったことに。
互いが慈しむ様に、その目に優しさの涙が湛えられていたことに。
駆け寄る新婦を受け止め、傘の女性はしっかりと共に手を取り合い、抱擁を交わしていた。
「幸せに」
「ありがとう」
二人は何度も手の位置を直し、深い友情を確かめ合うように抱き合っていた。
けれど、友人同士だと思っていたのは周りの人間達だけだったろう。
花京院は気が付いていた。この人たちは僕たちと同じだと、そう、直感していた。
自分自身が男性である承太郎を愛しているように、二人は同性で、愛し合っていた仲なのだろう。
二人の抱擁は、つまりはその類のものだと見て取れた。
たった今、女性同士のひそやかな情熱の結末を見てしまった。
新しい門出を発つ、一組の夫婦の幸福な姿を見てしまった。
優しく髪を梳く傘の女性も、それを甘んじて受ける新婦も、覚悟を決めた表情だった。
「さようなら」
二人は同時に離れ、新婦は夫のエスコートで車へ乗り込んでいた。
それはあまりにも静粛で、身に詰まる光景だった。
結婚という幸福に満ちた出来事に、その影で一つの恋が終わりを告げた。新婦は別れた相手に招待状を贈るような嫌味な性格ではなかったのに、未練が二人を引き合わせてしまった。
けれどその別れは清々しく、美学さえ感じた。
花京院は肩を震わす女性を見、自分を重ね、そして、承太郎に会いたいと、そう強く思っていた。
昨日、彼からの誘いを断ってしまったが、怒っていないだろうか。気晴らしにとどこかに行ってしまっては無いだろうか。
不安だ。けれどそれ以上に承太郎が愛しくて仕方が無い。
一目会いたい。言葉を交わしたい。触れて、抱きしめて欲しい。
恋人に会いたいと願うのは決して我儘なことではないと、今ならそれが解るのだった。
2009/5/28
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