第2話  by きみお


 降り注ぐ雨は、やさしく彼女と花京院に注いでいた。
 彼女は去って行った車の姿が見えなくなるまでその場に佇み、見えなくなってもなお、新婦を抱きしめた時にずれた傘の位置のまま、立ち尽くしていた。
「さて。」
 ふ、と大きく息を吐いて、彼女が花京院に振り返る。
「もう、帰らないとね。」
 振り向いた彼女の頬は濡れていたが、微笑むその瞳は流した涙に潤んで美しかった。


 傘を差し直して、彼女が花京院に背中を向ける。
 細い身体は凛として、一つの愛を終わらせた女性の、愛する人を送り出した事への誇りを表すかのように清々しかった。
 花京院は彼女を見送り、人のいなくなった教会を見つめる。
 雨にけぶる教会の白い壁は、薄墨を引いた雲の下でぼんやりとした印象を受ける。
 この教会はこうして、何人の人々を送り出していったのだろう。
 今のような物語も、また語られることのなかった物語も、送りだした人々の数だけ、物語はあるのだろう。
 今、一つの物語が終わり、花京院は図らずもその物語の終末に遭遇し、劇中の役者の一人となった。
 一瞬重なった物語は、次の物語を紡ぐ、プロローグとなるのだ。
 けれど人の数だけ愛があるように、彼女の愛もまた、他の誰とも異なるものだ。
 花京院の愛もまた、彼女のように、性を同じくした人を愛したものだけれど。
 彼女の愛と、自分の育む愛はまた、違うものなのだ。
 たとえばいつか、自分か承太郎か、どちらかが互い以外の人を愛したとして。
 そして互いの幸せのために、今目の前で完結を迎えた物語のように、繋いでいた手を離すことになるのだとしても。
 それでも彼女の愛と自分の、自分達の愛は違うのだし、結末もまた違うのかもしれない。

 ―――承太郎。

 長雨に濡れる教会に寄り添うように伸びる樹には、雨宿りに集まった鳥たちの声が囀っている。
 見れば揺れる緑の枝葉の下、鳥たちの群れから離れて、一番いの小鳥たちが、身を寄せ合って留まっていた。
 小さな白い身体をお互いの身体に擦り寄せ、時折滴る雫に羽を濡らし、番いの鳥は互いの嘴を触れ合わせながら時折囁き合うように鳴いて、互いのぬくもりを分け合っているように見える。

 ―――承太郎、君に。

 ぱらぱらと傘に雨粒が滴って、音をたてた。
 傘から滑り落ちる雫が、番いの鳥を見上げる花京院の頬に零れ、涙のように滑り落ちる。

 ―――君に、逢いたいよ。

 珍しく焦燥に駆られる自分がいるのだと、どこかで自嘲しながらも、枝葉の先で寄り添う小鳥達を酷く羨ましいと思うほど、今ここに居ない彼の声を聞きたいと、肌に触れたいと切に願う。
 握りしめた学生鞄は酷く重く感じるのに、浮足立つ身体は落ち着きをなくし、今すぐ彼の元へ駆け寄りたい衝動に駆られる。
 花京院は何度も瞳を瞬かせて、教会から目を逸らすと、どこかに電話をかけられる場所はないかと瞳を彷徨わせる。
 せめて声だけでもと、自分から予定を断ったのだから、必ず逢おうなどと傲慢な事は考えなかった。
 ただ声だけでもいいからと、半ば縋るように首をめぐらせば、灰色に染まる街並みに、人影が見える。
 思わずとくりと跳ねた鼓動の赴くままに、そっと目を凝らすと、濃い藍色の傘をさしたその人影はゆっくり花京院へ近づいて来る。
 近づく足音が聞こえてきて、はっきりとその人の姿が花京院の見開いた瞳に映る頃には、彼の瞳は滴る雨でできた、一筋の涙を零していた。
「……よう。」
 その人は花京院に気付くと、わずかに傘を持ちあげて目を細めてみせる。
 普段は人を寄せ付けない静かだが威圧感のある視線はそうすることでなりを潜めて、どことなく柔らかな印象を受ける。
「―――承太郎。」
 花京院に微笑みかける承太郎に、花京院は傘を放り出して駆け寄った。
 今にも泣きそうな顔をして飛び込んできた花京院に、承太郎は僅かに目を見開いて驚きつつも、しっかりと彼を受け止める。
 腕の中に収まった花京院が、承太郎の胸に額をそっと擦り寄せるのを、抱き締めた背をゆっくりと撫でることで許せば、顔を上げる彼を覗き込んだ。
 泣き顔を曝していると思ったその顔は、泣きそうではあったけれど笑っていて、承太郎は傘を差し直して雨から彼を守ると、額を寄せる程に近づいて、囁きかける。
「どうした。何を泣いている。」
 そっと眉を上げて言葉を促してやれば、花京院は濡れる頬を手の甲で拭う。
 うっすらと赤くなった目尻に溜まる涙を拭うそぶりをしてみせ、『泣いてなんか』とはにかんでみせながら、それでも潤んだ瞳を隠そうとはせずに、ひたと承太郎に身体を寄せたまま彼を見上げた。
「…僕は、幸せだと思って。」

 ―――君が今、此処に居ることに。

 見えぬ未来に想いを馳せるより、今見える姿に幸福を感じたいのだと、それこそが自分たちの愛なのだと、語る事なく承太郎を見つめれば、彼もまた小さく頷いて、同じ言葉を繰り返す。
 雨に濡れた花京院の頬に手をやって、親指で拭ってやれば、花京院は『泣いてないって』と尚も繰り返し、今度は困った顔をして笑った。



「それにしても君、こんなところで会うなんて。」
 『何処かに出かける予定だった?』と、傘を並べた花京院が承太郎に問いかければ、承太郎は傘を持ち直して喉の奥でくぐもった声を上げる。
 彼にしては珍しく聞きとりづらい声と、何より肯定とも否定とも付かない態度に花京院が怪訝な顔で彼を見上げれば、承太郎はガリガリと首筋を掻いてみせる。
「ちと、役所に用があってな。」
 視線を向けないまま呟く承太郎に、花京院の胸が跳ねた。
 先ほどの、式を垣間見た所為か、役所という言葉に、いつも以上に意味のある響きを感じ、自然高鳴る鼓動に、僅かに視線を泳がせる。
 まだ承太郎も花京院も学生で、成人すらしていないのだ。それなのに役所に用があるなど、そうそうあるわけではなく、また役所に赴く用事など、思いつくものと言えば引越しの時に移す住民票か、冠婚葬祭くらいしか思いつかない花京院は、大学に入った今も、母独りを広い屋敷に残してはおけないと同居を決めた承太郎のよそよそしく感じる態度に、自然後者に思いが傾いてしまって、『あるわけがない』と思いながらも、短く刻む鼓動を落ち着かせることができないまま、何とか唇を開くと、薄く開いた口の端から、掠れたため息のような声が漏れて、酷く弱弱しく情けなくも感じつつも、問いかける言葉を飲み込むことはできなかった。
「いや、パスポートが切れたんでな。」
 『あの旅で有効期限ギリギリだったらしい』とばつの悪そうに目を逸らした承太郎は、そんな花京院の不安など気づくはずもなく、顔を顰める。
 互いが心の最も近い位置にいる分、交わす言葉に偽りや余計な気遣いとは遠ざかっているから、きっと承太郎はそんな自分のらしくない迂闊さに、苦笑しつつも辛口の言葉を投げかけられるのだと思っているのだろう、くいと唇を引き結んで渋顔を作ってみせ、『お前に言われるまでもない』と既に花京院の弁を待っていて、どこか愛嬌のあるそのしぐさに、花京院は思わず笑みがこぼれる。
 くすくすと肩を震わせる花京院に、承太郎はくしゃりと崩した顔を一層に顰めて、
「おい、笑うな。」
 精一杯低い声ですごんでみせるけれど、花京院の笑い声が絶えることはなかった。
 それは承太郎の思うように、案外うっかりとした処があるのだと承太郎を笑ったわけではなく、彼の何気ない一言に必要以上に狼狽して、一人で一喜一憂している自分が可笑しかったからなのだが、当の承太郎が気付くはずもなく、それこそ承太郎に話す事などできない話だと、余計に花京院は笑みを深くする。
「承太郎、雨の日にわざわざ?」
 未だ震える声でそれでも何とか笑った意図をそっと口にすることで承太郎を笑ったのではないとフォローしてやれば、承太郎もその意を汲みとったのか、それまでの顰め面を解いてみせて、降参したように、ふっと息を吐き出してみせる。
 肩を下ろしたすきに傘の位置が下がって、花京院の傘に触れる。
 パラリと傘に乗る雫が跳ねて、二人の間で重なり、零れ落ちた。

 雨の日に、わざわざ役所へ遠出したのは、急を要するほどパスポートが必要だったからでなく。
 電話口で誘いをかけた花京院に断られた事に拗ねていたからでもなく。
 きっと、彼が雨の中、独り帰ってくるのだろうと、どんよりと曇る空を見ているうちに、靴が雨に濡れるのも構わずにいられなくなったのだと。
 ついでに用事を済ませて、とりあえずの言い訳を用意しながら、承太郎もまた花京院と同じように、彼に逢いたくなったのだと、そう告げているのだ。
「…雨の中散歩すんのも、そう悪くねぇじゃねぇか。」
「……そうだね。」
 それでも苦し紛れの言い訳をして、自分の感情には素直なくせに、変なところで照れて臍曲がりなところのある承太郎だから、苦笑しつつも囁けば、花京院もまた、俯きながら微笑んで、そんな承太郎の優しい嘘に、騙されたふりをする。
 傘の所為でいつもよりも二人並ぶ距離が遠のいて、何となく寂しい気がするものの、だからこそ、適度な距離を保って、微笑ましい嘘も、そんな嘘への穏やかな盲目も成り立つのだと、二人は言葉を交わすことなく歩けば、心地よい沈黙に、雨の音はやさしく降り注いで、傘で覆いきれずに濡れる指先が触れあうのに、絡め合うこともなく、かすかに移る温もりを楽しんでいた。


 角を曲がれば、花京院の家と承太郎の家は反対方向で、このまま、何も言葉を交わさなければ、そのままお互いが背を向けて家路へ着くことも可能になる。
 下手な嘘と騙されたふりをした二人は、その所為で曲がり角を横切る前に、今さらのように一緒に居るか、それともそれぞれ家に帰るか選択を迫られることになってしまい、やはり嘘は吐くものではないと、二人同時に苦笑しながら顔を見合わせれば。
「来いよ。」
 見上げた花京院の唇が、一緒に居たいのだと紡ぐ前に、承太郎の方から想いを告げる。
 それは酷く何気なく発せられたもので、もう何度も思いなおした『嘘など吐くものではない』という言葉に素直に従った結果、至極自然に告げられた言葉に、むしろ少しだけ気圧されて、花京院が目を見開く。
「来いよ、花京院。」
 ポケットに手を突っこんだまま、既に爪先は家路に向きながら、振り向きざまに微笑む承太郎に、言葉はただ、承太郎の家に寄って行く、それだけなのに、彼の言葉がまるで、これから共に時を重ねていこうと告げているように聞こえ、思わず花京院は即答できずにいた。
 けれど、雨の音が一瞬遠ざかった耳に、また元のように響いてくる頃には、彼は一度大きく頷いて。
破顔した。


2009/5/29