第5話 by mm
「あら、承太郎帰ってたのー?」
廊下から聞こえるのは紛れも無い、ホリィの声だった。家事に精を出していたのだろうか、こんなに密接した場面を見られたらまずい。花京院は即座に体を離したが、手を離すことだけは承太郎が許さなかった。
「こ、こら・・・!」
咎めるような声を出したものの、にやりと笑う顔に何を言っても無駄なのだと観念する。
「おじゃ、ま、してます!」
廊下へ顔だけ向けると、勝手知ったる他人の家だとばかりに事後報告も忘れない。
「ご飯食べってってねー」
「あ、ありがとうございます」
声は足音とともに遠ざかり、これで今帰らなければならないという思いも消えうせた。また少しの間だけ承太郎と一緒に居れることが嬉しい。繋がった手を握り返し、彼に寄り添う。承太郎は空いた手で花京院の頬を引き寄せ、実にスマートな動作で唇を奪った。高貴な野蛮人、とは言ったけれど、事実、彼には英国貴族の血が流れている。こんな些細なエスコートも自然すぎて、彼の高貴な部分が見て取れた。そのくせ唇のように心も体も簡単に奪っていくのだから、本当に野蛮で、始末が悪い。
「無敵だなァ、君って」
怪訝な顔をする承太郎に、もう一度上目遣いのままキスをせがみ、唇をなぞってくる舌に、体を震わせた。
くすぐったさだけではない感覚が、指先に力を込めさせる。やがて唇を離してその頭に顔をうずめ、花京院の猫毛が承太郎の頬をくすぐるのを、彼は気持ちよさそうに受け止めていた。
「お前はあんな所で何してた?休みなのに制服で」
教会の前で立ち呆けていたことを問われているのだと気づくまでやや時間があり。
「学校で絵を描いていて、予備校に行って、その帰り」
花嫁と、傘をさした女性の抱擁がフラッシュバックする。
「結婚式をしていたんだよ」
愛し合い、潔く別れた仲なのだろう。
『さようなら』二人が同時に発した言葉は、もう二度と会わないことへの互いの誓いだったのだろう。たとえば神父の前でする結婚の誓いと同じように、彼女たちには強く深い意味があったのだろう。花嫁は生涯連れ添う男性を夫として選んだのだ。別れた女性からすれば、どんなに残酷で、太刀打ちできない現実だったのだろうかと考えると胸が痛い。
「花嫁さんの昔の恋人がいて」
「修羅場か」
「何で君、少し楽しそうなの・・・。いや、違うよ。祝福して、別れていった。潔かった」
「そうか」
「ほんとうは、少し羨ましかったんだ」
雨はやっと大地に注ぐことを止め、軒下はしずくがいくつか垂れていた。もう、夜も近く、薄暗い。このところ夕日らしい夕日など見ていなかった。
日中だってそうだ。重い雲に覆われて、空は太陽の姿など忘れたようにいつの間にか夜になっていた。だからこんなにも、心に澱がたまる。
「羨ましい?」
「一生好きな人と一緒に居られるなんてさ」
教会で式を挙げていた夫婦のことを思い出したのだろう。彼はずっと、夫婦の姿を思い描いている。
「ああ、すげーことだよな」
ちょっとだけ困ったように笑うのは、悲しいのを我慢するときの花京院の癖だった。
「君が、結婚するとき、僕もあんなふうにさよならを言えるのかな」
──ほら、例えばアメリカに留学とかしてさ、あっちで知り合った女性と──。
可能性としてありえない事ではない妄想は、いざとなっては言葉として口から漏れ出すことは無かった。言ってしまえば、現実にそうなりそうで怖いのだ。彼は日本を選んだのだから、きっとこのままここに居てくれる。そう思っても、彼からの言葉を貰ったわけではないし、彼にある可能性はきっと、自分たちが思うより無限に大きい。だからこそ、その将来は見たくもない。
「とか、言ってみたりして・・・」
「花京院」
やや強まった承太郎の声に言葉は遮られ、その声が強張ったものだったから、気を害したのだと思った。
「・・・ごめん」
今、彼と一緒にいられることが幸福だと知ったばかりだというのに。
心の雨は一体いつまで降るのだろう。
承太郎の目が、熱を帯びているのがわかる。
「ごめん・・・」
とんでもない事を言ってしまった。後悔などしても遅く
「ごめん」
しかし承太郎は、責めるでもなく強く花京院を抱きしめる。
その広い背中に手を回し、もう一度謝罪すると
「お前は何も解っていねぇ」
承太郎、と彼の名を呼ぼうと顔を上げると、彼は真剣に花京院を見つめていて
「お前がそうだと思う以上に、俺もお前をそう思っている」
あやふやな言葉など一蹴するかのように、その眼差しは真摯で、花京院は彼の言わんとしていることを言葉ではなく心で理解した。
「・・・そうだったんだ」
「ああ」
それが意外だとでもいうようにきょとんとする花京院の手を、少しだけ力を抜いた承太郎の手が奪い、白い手のひらに唇を当て、軽く音を立てた。
「君も僕のことが好きで堪らないんだ・・・?」
「ああ」
花京院も承太郎の髪に触れて、緩い波を描くそれを指に通しては指に絡めた。
「僕が思うように、君も僕を思ってくれているのか」
それだけが真実であるというように、その声は強かった。
「それ以上に、思っている」
もう一度抱き合い、互いを掻き抱く。
息が詰まるほどの抱擁に、花京院は少しだけ身じろぎして呟いた。
「君も、僕と一緒に居たい?」
「当然だろうが」
飾り気など無い承太郎の即答に、花京院は少し照れて嬉しそうに笑った。
「・・・お前は?」
笑顔を両手で包み込んでそれを聞けば
「・・・僕も同じ気持ちです」
再び、破顔する。
心の雨はすっかり上がっていた。
雨は上がったものの、しっとりと触れ合った肌は吸い付き、離れがたかった。
「ちょっと、いいか」
何かを思いついたらしい承太郎は、花京院から体を離して立ち上がる。座ったまま見送る花京院の視線も気にしないままサンダルをつっかけて庭先へと飛び出していた。
何をするのかと思えば、目の前にある丸のような紫陽花を花ごといくつも手折る。
「それ、大事に育てているんじゃあ」
ホリィがぷんすか怒る様子を想像して花京院は止めようとしたものの
「案外放っておいても育つもんだ」
気にもせず、驚くほどの花をその手のひらに束ねた。
花を濡らしていた雨水を切るようにして軽く振ると、全体の手直しを丁寧に施して、角度を変えてはそのバランスをチェックする。
「どうするんだい?飾るのかい?」
花を飾る趣味があるとは意外だな、と思いながらそれを見ていると、承太郎はサンダルを脱いで再び花京院の隣に陣取るとその花束を差し出してきた。
「おれは学生だし、まだまだガキだが」
「・・・はい・・・?」
「青い色は花嫁を幸せにするんだってな。ヨーロッパの風習だ。あのじじぃの言ったことをなぞるのは癪だが、おばあちゃんは幸せそうに見える。・・・だから正しかったんだと思う。・・・大人になったら、正式に申し込む」
「承太郎」
「結婚にブーケは必要だろ?」
「け・・・」
確かに、新郎新婦の姿を見て幸せそうだとは思ったけれど、あんな風に、一生彼のそばに居たいと思ったけれど、まさか結婚だなんていうとは思わなかった。
「君、飛躍しすぎ」
思わずクスクスと笑ってしまう。
──大体、日本のどこで結婚を許してもらうって言うんだ。
日本じゃ義兄弟になるのが関の山じゃないか。兄弟で愛し合うだなんて考えてみたらぞっとする。
批難したところで目の前の彼はそんなことお構いなしなんだろう。僕の望みを叶えることしか考えていないのだろう。
「・・・そうか?」
それでも承太郎は紫陽花のブーケを引っ込めることをしなかった。
この花束を受け取るのが花京院にとって、自分にとっても一番の幸福への近道だと信じる目をしていて、それは花京院の最も好む色をしていた。
そんな彼が好きだ。いつだって自信家で、でも、それを乱暴に扱ったりはしない。静かな主張のように、彼は自分自身を信じている。
思えば旅の間もずっと、彼と共に在った。アスワンでは一時離脱したけれど、ずっと彼のそばに居たのは、彼の正義を信じていたから。彼の正しさを知っていたから。
あの旅でハイエロファントを認めてもらえたような気がして、それが、ありきたりだが幸福だと知ったのだ。幸福とは心を許し合えることだと知ったのだ。
今の生活に満足しているかと聞かれればNOだと言わざるを得ない。承太郎が居ないということはハイエロファントが無と同じに扱われていると同じ。居ないものにされているのと同じ。彼らに出会う前の、誰をも寄せ付けなかった幼いあの頃と同じ。
彼と生涯共にありたい。同じ力を持つ彼と。
その手段が結婚しかないだというのなら・・・。
承太郎を見れば、その瞳の色は揺らぐことなく花京院を見詰めていた。彼もまた、同じように花京院を信じているのだ。それが解る。
解る、だからこそ、ゆっくりとだが紫陽花の花束に手を伸ばしていた。
2009/6/5
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