第6話  by きみお


 伸ばした指先は、しかし紫陽花に触れることはなかった。
 戸惑いを含んだ花京院の指先が、そっと花弁に触れ、まだ白の勝る青い花弁の一つに乗る雫をすくい取る。
 そっと握りしめた指先は淡く濡れて、滴る代わりに掌に隠れた雫は、承太郎の視線からのがれて俯いた花京院の、そっと吐きだしかけて堪えたため息のように、消えていった。

 差し出された手を、重ねる事が出来るなら。
 伸ばしてきた手を、握り返す事が出来るなら。
 それはどんなに幸福なことだろう。
 想いのままに寄り添って、共に歩もうと、二人の前に広がる世界に進んでいくのだと、希望だけを胸にすることができたなら
 どんなにか嬉しいだろう。
 けれど世界は、世間は、見えぬ未来を描くよりもあまりにも簡単に、現実の厳しさや残酷さを示して見せるのだ。

 醜聞に対する人の好奇の視線は、どのような高潔な意志も奇異の対象にしてしまう。
 自分たちがどんなに純粋な心持で互いを思い合っていようと、しょせん世間にとっては好奇心の対象以外の何物でもなく、宗教や法律や、倫理などといった、普段持ち出しはしない思想をここぞとばかりに掲げて好奇心の名の下に、どんな高貴な意志も汚泥にまみれて乱暴に引き裂かれてしまう。
 そしてこの手の好奇心というものに時効は成立せず、生涯偏見と奇異の目で見つめられ続けることになるのだ。

 花京院は俯いたまま、顔を上げることができずに、思いに沈んでいた。
 つむじに静かに注がれる承太郎の視線すら今は苦しく、彼が偽りなく自分を想っていてくれる、その意志が強ければ強いほど花京院を苦しめた。
 答えることのできなかった手を下ろして、代わりに承太郎の肩にそっと自らの額を押しつける。
 甘える事を怯えるように、触れた額を僅かに擦りつけて承太郎の方に首を傾けると、視線に青く束ねられた紫陽花の花が映り、花京院は痛みを耐える、歪な笑顔で囁いた。
「君が好きだ。」
 教会で抱き合っていた二人の女性の、離れ際に伸びた互いの指先が絡まり合うことがなかったのを思い出す。
 想い合っていながら、手を離した彼女たちの選択は、決して間違いではない。
 その理由を、花京院は分かっているのだ。
「君が好きだ。」
 掠れた声は涙を耐えているように弱弱しく、言葉尻はきっと花京院が承太郎の肩に額を押しつけていなければ聞き取れなかっただろう、それほどか細く消えていった。

 例えば情熱のままにこの手を取って。
 互いの想いだけを糧に共に歩むとして。
 その二人の意志を、世間は許すだろうか。
 当たり前のように祝福されるなど、端から思ってはいない。けれどせめてひっそりと、共に居ることだけでも許してもらえるのだろうか。
 法律においては同性の婚姻の認められていない国で、倫理においては非生産的だと一刀両断の下に切り捨てられ、世間においては少なくとも承太郎の家庭においては世界的に著名な音楽家である父を、更に世界に有数の不動産会社を経営している祖父を、嫌でも世間に注目される彼らを抱える一族に属している承太郎を、世間が野放しにしておくはずがないのだ。
 加えて保守的な家庭に育ち、『男子はかくあるべし』と育てられた厳粛な教育を受けた花京院の家族や、宗派はさあ何であるかは詳しくは知らないが、キリスト者である承太郎の母方の、宗教や習慣にあらがって、二人の関係を認めてくれるとは思いづらいのだ。

 今はいい。
 今は若さや愛し合っているのだという情熱が世の全てを敵に回しても構わないと思うだけの意志が自分達にはある。
 けれど時間は残酷で、熱した鉄は必ず冷めるように、二人の変わらないと思い続ける情熱が、いつま でも同じ強さを放つとは限らないのだ。
 世の奇異の視線も、一族の非難の目も、二人が同じ意志を持っている間なら耐えることもできるだろう。
 けれどその情熱が冷めた時、互いを支え合う力を無くし、身を刺す痛みだけが永遠に続くのだとしたら。
 はたして自分は、耐えられるだろうか。

 ―――何に?

 世間に、家族に、…承太郎に。

 自分独りが責められるのはいい。自分が終生恨まれ、憎まれ、そして痛めつけられるのは構わない。生涯のうち、例え一瞬となろうとも、身に余る幸福を手に入れられるのだから。今あるこの幸せが永遠でなくとも、今この瞬間に、生きながらえた事よりもずっと、大きな幸せを手に入れることができたのだから。
 けれどそんな自分の幸福の為に、承太郎が痛みを被るのだとしたら。
 一瞬の、自分の我儘の為に承太郎から無限の可能性を奪い、彼を日向から引きずり落とし、口汚い罵りや、軽蔑の視線、偏見の姿勢で汚してしまうのだとしたら。
 それこそ自分の為に、自分の最も大切な人を陥れることになるのではないか。
 自分の執着の為に、彼を最も不幸にしてしまうのではないか。

 ―――そんなことは。

 『できないのだ』と、それだけはできないのだと、花京院は知らず噛み締めた唇を僅かに戦慄かせながら、承太郎を見上げる。
 額が触れあうほどに近くにある承太郎の表情は、近すぎて今は見えない。それがまるで、思慕の念に浮かされて、容易に想像の付くであろう未来や現実に向き合うことのできない自分のようだと、花京院は胸の痛みを感じながら、そっと自分を哂う。

 押し黙ったまま承太郎の肩口に顔を埋めて、泣きそうな顔で彼を見つめる花京院を、承太郎はただ静かに見守っていたが、彼の思う処が手に取るように分かり、僅かに身じろぎする。
 後ろ向きな考えを続ければ、袋小路に陥って膝を抱えるくせに、そこから自力では抜け出せずに居る花京院の、もう癖のようになってしまった思考を、今更否定しようとは思わない。それが彼であり、その思いの大本が、承太郎を思って故のものであるなら尚更。
 けれど苦しいのだと泣く彼を、辛いのだと声の無い悲鳴を挙げる彼を、救うことができるのもまた、自分しか居ないのだと、わかっているから。
「…花京院。」
 長い前髪の一房が耳にかかって、覆い隠すのを鼻先でかき分けながら囁きかければ、彼は素直に応じて承太郎の肩から顔を離す。
 けれど俯いたまま目を合わそうとしない彼の両頬を包み込んで顔を上げるように促せば、花京院は逃げるように視線を泳がせて、長い睫毛の下の鳶色の瞳をいつまでも承太郎の膝の上に置いた紫陽花に向けている。
「花京院。」
 ひんやりと冷たい頬は露の冷気の所為で硬く、それは彼が思い沈むが故に強張った表情の為でもあるのだと知りながら、承太郎は掬いあげるように花京院の瞳を覗きこめば、そこでやっと彼はおずおずと承太郎に濡れた瞳を向けた。
「何を怯えている。」
「…怯えてなんか。」
 『いない』と口にすることはできず、花京院は悔しそうに唇を軽く噛み締める。
 承太郎が額を突き合せたまま眉を僅かに上げて言葉の先を促せば、花京院は沈黙するのを諦めたように重いため息を吐き出すと、乾いた唇を潤す余裕もないまま、嗄れた声でぽつり、ぽつりとつぶやく。
「きっと周りは僕らの事を許してくれはしないだろう。僕らの、事を、きっと皆知ったら…。僕ならいい。僕だけなら我慢できる。けれど承太郎。もし君まで…君まで知りもしない人から好奇心の目でじろじろ見られて、罵られたり責められたりしたら。僕はそれが耐えられない。君まで陥れられたら、僕は―――。」
「お前は、誰かに許されたい為に、俺を見限るのか?」
「違う…ッ」
 承太郎の言葉に、花京院は勢い付いて顔を上げる。頬を包む承太郎の手から離れて彼をみれば、承太郎は責めることも、怒ることもなく、ただじっと花京院を見つめていた。
 深い緑の瞳はいつもよりもずっと静寂に満ちて、透明な水鏡のように、花京院の怯えた顔を映している。
「いや……僕、は…許されたい。」
 途方に暮れた、子供のような顔をしたまま呟いた言葉に、花京院自身気付いて口元を指先で押さえる。けれど
 一度零れた言葉を言い繕うことはできずに、結局彼は一瞬承太郎から逸らした視線を、再び向ける事しかできなかった。
「許されたいんだ。僕は。…君を、好きだってことを。君を一瞬でも、自分の物にしていることを。だってそうじゃないか。ただ僕は君を好きなのに。ただ君を愛したいのに、どうして…こんな―――。」
 一度口を開けば、今まで押さえつけていた想いが一度に噴き出すように、言葉は後から後から喉をせりあがって漏れてくる。
 隠し通そうとした想いも、自分の胸に収めておこうとした想いも全て、吐き出せば楽になるのだと心よりも身体が知っていて、もう限界なのだと、沈黙しきれないのだと悲鳴を上げるように、彼の唇は言葉を紡ぎ続ける。
「どうして…責められるのが僕独りじゃないんだろう。僕はただ、君を幸せにしてあげたいのに。君を縛りたいわけじゃあないのに。どうして―――。」

 ―――彼女たちは、別れないといけなかったのだろう。

 教会で出会ったあの二人は、そのまま自分たちの未来に重なるのだと、彼女達と自分達は違うのだと思いながら、それは本当は『違うと信じたかった』のだとそのためにあえて未来に目を向けずに、今しか見ずにいたのだとまざまざと真実を突き付けられて、愕然とする。
 承太郎の将来を考えるなら、彼の幸せを考えるのなら、自分のとるべき姿は教会であった彼女と同じように、身を引くことなのだと、わかっているのだ。
 けれどそれがどんなに苦しいことなのかも、身を裂かれるよりも辛いことなのだとわかっているのだ。
 自分の愛情がそのままエゴになる前に、この想いを昇華させる方法が、彼女たちによって示されたのだと思い至り、ではせめて、承太郎を想う気持ちだけでも許されたいのだと、自分の承太郎への思慕の念が確かに此処にあって、存在しているのだと認められたいのだと、例え過去の産物として片づけられることになろうと、『あったのだ』という証拠がほしいのだ。

 堰を切ったようにあふれた言葉を吐露して、花京院は強く目を瞑った。はらりと耳から滑り落ちた髪が、花京院の表情を隠す。
 再び深く俯いて、足元にある紫陽花の青からも目を逸らす花京院を、承太郎はずっと見守り続けていたが、彼が小さく蹲るように頭を垂れたまま動かないのに、殊更にゆっくりとため息を吐き出すと、花京院の頬にそっと触れて、目尻を親指で何度も撫でてやる。
 武骨な指先が花京院の目尻に触れる度に、乾いた睫毛が揺れる。涙は流してはいない。泣くのとは違う。彼は諦めている、わけではないのだ。
「花京院。」
「………………。」
 承太郎の囁きに花京院は答えなかった。微動だにしない身体が酷く儚く見えるのは、自分を責めるからだ。そんな彼を愛しいと思う。
 だからこそ、伝えなければならない言葉がある。
「許してほしいのも、周りから守りてぇのも。」
 抱きしめて、自分が守るのだと、すべて引き受けて花京院も、彼の未来も自分が全て守ってやるのだと言うのは簡単だ。けれどそんな言葉を彼は望んでいないのだ。彼は、本当は。
「…全部、お前だ。」
 承太郎の言葉に、花京院は顔を上げて目を見張った。
 すぐ近くにある二つの視線が絡み合う。承太郎は花京院が息を小さく飲み、喉が上下する動きを見守ると、狼狽に小刻みに揺れる花京院の瞳を見据えたまま動かずに答える。
「世間だとか、俺の為だとか、そんなもんは言い訳でしかねぇ。お前は他の誰でもねぇ、自分に許して欲しいんだろ。」
「………………。」
 開いた唇は掠れた息を吐き出すだけで、言葉を紡ぐ事ができずにただ戦慄く。
 世間を思ってだとか、家族の目を慮ってだとか、そういうものはしょせん言い訳に過ぎない。自分の意志が揺らぐ事がなければ、周りの視線など意にすることなどありはしない。むしろ好奇の目すら原動力に変えて、一層強かに生きることすら、普段の花京院ならばやってのける。
 そうしないのは、彼自身が自分の想いに後ろ向きだからだ。人の目などはしょせん自分を映す鏡でしかなく、自分がそうと思いこめば幾らでもプラスにもマイナスにでもなる。またそう思えるだけの神経を、本来の彼なら持っている。
 そうしないのは、花京院自身が自らに枷を付けて、承太郎を想う事に後ろめたさを感じているからだ。
彼の思慕の念が、偽りなのだというのではない。またそれ以上に想っていると豪語する承太郎の言葉を疑っているのではない。
 自分の想いも、承太郎の想いも真実だから苦しいのだろう。自分の持つ思想やら倫理やら、彼を今まで構成してきた意識や意志というものが同性を、あるいは承太郎という存在を愛していることに、戸惑いや怯えを払拭しきれていないからだ。
「そ…う、僕は―――。」
 そして其れに、花京院も気付いている。
 彼の持つ潔癖が、世間の『常識』と思い込んでいた枠から外れることに怯えている。けれど誰を彼を責めることはできない。承太郎にだって責める事はできない。そんな潔癖や葛藤を内包するのが、花京院典明という人間なのだから。
「俺は、な。花京院。」
 戸惑いながら、自分の揺れ動く心に気付き、向き合おうとしている花京院に、承太郎はもう片方の手で花京院の頬に触れると、再び包み込んだ両手を添えたまま、花京院が俯くのをそのままにさせる。
「俺はテメェに惚れてると自覚した時に、覚悟を決めた。」
 揺れる瞳を覗きこみ、戦慄く唇を見守り、言葉を、ゆっくりゆっくりと、噛んで含むように囁きかければ、耳の端に引っ掛かった承太郎の声に、花京院がひくりと肩を揺らす。
「元々、男が好きなわけでもねぇ。誰の目を気にすることもなかったが…だがまぁ、男を抱こうなんて酔狂なことを考え付いた時には、とりあえずは思い直してもみた。」
 『何しろ仲間だと信じて疑わなかった奴に惚れたんだから始末が悪ぃ』と続ければ、花京院は不安そうな目を承太郎に向ける。
「男を抱けるかと、自分に問いただして、だ。答えは否と出た。そりゃあもう簡単にだ。だが、テメェを抱けるかと問いただしたら、答えは応と出たわけだ。あっけないほどすんなりとだ。男に惚れてる、何が悪い。抱きてぇ、何がいけねぇ。周りが何だとか、そんなもんは、伸しちまえばいいってな。」
「…………。」
「元々、ジョースター家ってのは、アホみてぇに単純な一族だからな。無駄に元気で前向きが取り柄な一族だ。じゃねぇと、吸血鬼だか先祖の因縁だか、わけのわからん事に巻き込まれて、『はいそうですか』と旅に出てDIOの野郎をぶっ潰そうなんぞ思いもしねぇ。自分がやられるとか、非常識だとかなんていう、くそくだらねぇモンに振り回されてたら、今の今まで生き残ってやしねぇ。だいたいジジィを見てみろ。あの野郎何度も飛行機墜落させるわ、吸血一族だか波紋だか、若いころからアホかつ非常識なモンに囲まれて、しかも今でもアホが治ってやしねぇ。ホリィにしても今じゃピンピンして俺らのスタンドに挨拶するような奴だからな。」
 花京院の表情は、不安から戸惑いに変わり、承太郎の言葉をいちいち汲みとっては、何度も瞬きを繰り返す。承太郎の、これほどまでに多くを語るのは珍しく、しかも何処か愛嬌を含んだ言葉に、眉をハの字に歪めたまま、それでも聞き続けるのに、承太郎自身『どこまでも甘いもんだ』と思いつつも、そこまでして、彼を手放したくはないのだと、触れあっていたいのだと再認識させられてしまう。
「そんな、一族そろって前向きな奴らの、その末裔である俺に、心底惚れられてんだ。テメェもさっさと腹ぁくくれ。」
「……………そ…んな、事―――。」
 途中で長々と説得するのを放り投げたように、承太郎が締めると、花京院は重ねていた額を離して、まじまじと承太郎を見つめる。呆気にとられた表情には僅かな逡巡は残るものの、少なくとも先ほどの悲観はなりを潜めているのに、承太郎は心の内でそっと喜びながら、『それでも』
「それでも、テメェが信じられねぇってんならだ。とりあえず、俺ら以外の身近な奴で試してみりゃあいい。」
 く、と顎をしゃくって、部屋の外、廊下に続く承太郎の家族の居る先を示せば、花京院は切れ長の目を見開いて思わずホリィの居るであろうキッチンへと視線を彷徨わせる。
「承太郎―――。」
「まぁ、アホみてぇに前向きなのは、お袋のが際立ってるからな。案外喜んで赤飯の一つなり炊くとか言いだしかねんが。」
「……………あ…。」
 わざとらしく肩をすくめて言い放つと、花京院の肩が下がる。呆れた顔を隠しもせずに承太郎をまじまじと見つめる花京院に、承太郎は改めて向き合うと、それまで冗談めかしていた顔を真顔に戻して、花京院に顔を寄せた。戸惑いながら顎を引いて、顔を突き付ける承太郎を見つめる花京院に、言い放つ。
「花京院、覚悟ならとっくに。」
 にやりと意地の悪い、むしろ自信に満ちた笑みを浮かべて、新緑の瞳が瞬いた。
「俺はできている。」


2009/6/8