第8話  by みの字


 「笑うのが苦手で悪かったな。」
 君のせいだぞと、半ば照れ隠しを含んで、つい突っかかるように言う。
 こんなに、心の内側が揺れるようになってしまったのは、承太郎に会ってからだ。こんなにも、誰かに魅かれてしまえるのだと、知ってしまったのは承太郎のせいだ。こんなことは、もう二度とごめんだ、だから責任を取れと、うっかり冗談のように思って、そう思った自分の心の向いた方に、思わず恥ずかしくなって頬を赤らめた。
 他の誰かを、こんなに激しく求めることなど、考えられなかった。青臭い、子どもっぽい考え方だとわかっていて、けれど真実だと確信がある。10年経てば、雨を眺めながら起こったこんな些細なことなど、笑い話にもせずに、穏やかに思い出せるようになるのかもしれない。思い出す自分のその隣りに、承太郎の姿が、ごく自然に思い浮かんだ。
 その一瞬のうちに、承太郎を好きだと言うことが、絵を描くことやスタンド使いであることと交ざり合う。花京院典明という人間の一部として、それはただそうだというだけのことだと、そんな風に、すとんと花京院の心の中に収まってしまった。
 特別なことではない。野蛮である必要もない。高過ぎる志しもいらない。ふたりが出会って魅かれ合い、少しばかり子どもっぽいやり方でこの先を約束しようとしているのは、何の不思議も変哲もない、ごく当たり前のことだと、なぜか花京院には素直に考えられた。
 それもきっと、承太郎のせいだ。
 親指の爪の先で濡れた頬を拭って、今感じたそのままを表すために一生懸命微笑んで、花京院は承太郎の手に自分の手を伸ばした。
 大きな左手の甲の骨の形を指先でなぞった後で、たどり着いた薬指を、さり気なくそっと握る。さっき承太郎がそうしたのを真似て、その指の付け根を指先で、何度も何度も撫でた。
 「本物はもうちっと待て。学生結婚も悪くないが、てめーは受験だからな。」
 いやに承太郎が真面目に言うのがおかしくて、花京院はやっと声を立てて笑った。
 「おい承太郎何言ってるんだ。学生結婚って、そんなこと──」
 「心配するな、てめーの親と揉めるのは、てめーが大学受かって授業料が振り込まれてからだ。」
 「おい承太郎!」
 花京院を笑わせるための冗談かと思っていたのに、承太郎は至極真面目だ。承太郎の、常軌を逸した行動力にはそう言えば冗談は通じないのだと思い出して、花京院はやっと慌て始める。
 「待ってくれ承太郎、ここは日本で、僕らは男同士だ。僕はまだ高校生だぞ。」
 「18になりゃ結婚できるじゃねえか。てめーの誕生日は8月だろう。」
 「僕が18になることと、僕らが結婚できるかどうかは、全然関係ないだろう。承太郎、何度も言うが、君は野蛮人に見えるが実際は野蛮人じゃないし、僕らがいるのは日本だぞ。それとも僕が知らないだけで、男同士が結婚できる法律でもできたのか、SPWの差し金で。」
 最後の一言は、言いながら思い当たったことだった。
 案の定、承太郎が、言われた瞬間にぐっとあごを引く。思わず肩の力が抜けた。同時に、握っていた承太郎の指からも、するりと手が離れそうになる。その花京院の手を、承太郎が慌てて握り直した。
 「てめー、この先ずっとおれと一緒にいるのがそんなにいやか。」
 「いやだなんて一言も言ってないだろう? 僕はただ、結婚なんてできるわけないのに、一体何を言ってるんだと、そう言ってるだけだ。」
 「じゃあ、おれとずっと一緒にいるんだな?」
 たたみ掛けるように承太郎が訊く。まるで、花京院から言質を取るために、わざとおかしなことを言ったのだとそう信じそうになる。緻密に見えていたって衝動的な承太郎だから、きっと何も考えていない。結婚を口にしたのは、それをごく当たり前のことと承太郎が信じているせいだ。
 その、承太郎の恐ろしいほどの真っ直ぐさを、花京院は心の底からいとおしいと思う。自分が魅かれたのは、間違いなくこんな承太郎だ。
 そんなばかばかしさに、一生付き合うというのもまた面白そうだと、思って承太郎の手をまた握った。
 「……君から、今さら逃げられるもんか。」
 「おう、地の果てまで追いかけてやる。」
 「……SPWに応援を頼むのか。」
 また図星だったようだ。承太郎がちょっと視線を泳がせる。
 まったく、と思いながら、茶番にもならないこの冗談──と、承太郎は思ってはいないようだ──にとことん付き合うつもりで、花京院はゆったりと承太郎の肩に頭を乗せた。
 「どうせ僕らは普通じゃないんだ。好きにすればいい。もしかしたら、僕らが普通に結婚できるようになるかもしれないし、子どもだって持てるかもしれない。先のことは、誰にも──SPWにも──わからないよ。」
 やみそうでやまない雨を見つめて、ひとり言のように言う。こんな風に、誰に目も恐れずに承太郎に触れることができる日が、いつかやって来るかもしれないと、そう思うことは花京院の胸の内をあたためた。
 雨のせいで少し湿った花京院の髪に、承太郎が頬ずりする。
 膝に置いた紫陽花の陰で握り合った手には、いつの間にか力がこもっていた。
 雨の降るその隙間に、わずかに差す陽の光を感じて、花京院は目を細める。
 どこにも行かない。どこにも行かせない。ひとりではない。他の誰の思惑も必要ではなく、ただふたりがそうだと思ったことだけを大事にすればいい。
 唇が、考えるよりも先に動いていた。
 「承太郎、君が好きだ。」
 ためらう間など一瞬も置かずに、
 「おう、おれもだ。」
 承太郎が応えた。
 普通とは言えないふたりの、普通ではない想いだったけれど、誰に恥じることもない、ごく普通の、互いを求め合う気持ちだった。
 やっと雲が切れ、切り裂いたようなその間から、まだ弱々しい光が差し始める。その明るさが真っ直ぐに花京院の膝の辺りへ届いて、小さな露にまとわりつかれたままの紫陽花をまぶしく照らした。
 少し紫の入ったその青みとは違うけれど、結婚の時には青を求めるという承太郎の話を思い出して、花京院はスタープラチナの、薄青い膚色のことを考える。それから、突然、承太郎の絵を描きたいと思いついた。
 美大を受けるのなら、と美術教師が言った。時間内に絵を仕上げる試験がある。完成に近ければ近いほど、もちろん点数は上がる。だから、まずキャンバスを塗りつぶすのだ。真っ白なキャンバスをすべて塗りつぶし、その上に絵を描く。別に珍しい手法ではない。その塗りつぶしの色に、わざわざこだわる画家さえいる。よほど気をつけても見えないと言うのに、それでも、その色に何か思いを込められずにはいられない。
 それこそが、ひとらしさと呼ばれるものなのだろうと、花京院は思った。
 承太郎を描く時には、キャンバスを青で塗りつぶそう。スタープラチナの膚よりもふた色濃く、唇──本体である承太郎にそっくりの形の──の色を思い出しながら、真っ白いキャンバスを塗ろう。そしてそこに、承太郎を描こう。できれば、スタープラチナも一緒に。
 いつか描き上げるその絵を飾る家のことを思った。どこにある家かわからない。確かなのは、そこにはきっと承太郎が一緒にいるに違いないということだ。
 ごく自然にそう思って、空いた方の手で、紫陽花の花びらを撫でた。
 「君と一緒なら、一生退屈しないですみそうだな。」
 「おれの台詞を取るんじゃねえ。」
 言うなり、重なっていた手が外れ、あごをすくい上げられた。
 承太郎に向かって体が伸び上がった拍子に、思わず振った手に当たって、紫陽花が膝から滑り落ちる。ばさりという音に眉を寄せたけれど、花京院は承太郎の唇を拒まなかった。
 承太郎の首に両腕を回し、自分から胸を添わせて、その時、後ろでかすかな足音がした。
 声はなく、素早く止めた爪先を、また新たに滑らせた気配は、やって来た方へ去ってゆく。ホリィに見られたのだと思ったのに、動揺はなかった。そのまま、花京院は承太郎を引き寄せて続けていた。
 少しずつ、隠し事が減るといい。ゆっくりでいい。急ぐことはない。ふたりはたった今、一生の約束をしたのだから、時間だけはたっぷりある。
 滑るように唇が外れた時に、珍しく頬を赤らめた承太郎が、つぶやくように言う。
 「……婚姻届を、もらって来たんだがな、今日。」
 額をすりつけながらそう言うけれど、さすがに声が照れていた。
 「別に今すぐってわけじゃないが……。」
 「君は一生黙ってるといい、承太郎。」
 唇の端だけで微笑みの形を作った一瞬後で、また承太郎を引き寄せた。
 花京院との連名でない限り、承太郎の頼みは一切聞き入れてくれるなと、SPWに、ジョセフから頼んでもらった方がいいと真剣に考える。
 ああ、ほんとうに、一生退屈しないですみそうだ。
 こんな人間を野に放ったら、とんでもない迷惑になる。だから、自分がしっかり承太郎を引き止めておかなければと、生まれた時にきっと定まっていたのだろう自分の役割を、花京院は今正しく理解した。
 夕食の時に、ホリィに向かってどんな顔をすればいいかと、とりあえずは手近なことにわずかに悩み始めて、それすら楽しいことに、心が次第に浮き立って来る。
 互いに両腕を回したまま、その手のやり場に迷い始めているふたりを、雲の切れ目から覗く細い空が見下ろしていた。鮮やかに青い空だった。


2009/6/11 終了