第7話  by 綾音


 承太郎の声が、胸の中に一滴の雫となって、静かに落ちた。
 緑の瞳は、一瞬も揺らぐ事も無い。
 天からの風が、霧雨をふわりと持ち上げ、見つめ合う彼らの睫毛をしっとりと濡らした。紫陽花の紫が溶け込んでいる微かに甘い、不思議な香りのするぬくもり。
 包み込まれて、このままどこかへ行けそうな浮遊感に襲われて、頭がふわふわしている。
 音が遠い。
 視界も、ぼんやりと滲んでいる。
 ただただ紫陽花の香りと、強い意志で光る承太郎の瞳だけが、花京院の世界の全てだった。


 熱い国で獣を狙う肉食獣のような彼に惹かれた。
 ハイスピードで気持ちは高鳴り、太陽の熱さか、逞しい身体から感じる熱で熱いのか、あの時の彼にはもう区別がつかなくなっていて、『非日常』の中の“非日常”に、いつしか依存していた。
 それはこの『日常』に戻ってきても、奥底に住み着き、時折どうしようもないくらいの熱を連れてくる。
 今まで生きてきた中で、こんな感情になったことなんてなかった。
 同時に『どうして同性に生まれてきてしまったのだろう』と、花京院は自分を責めた。
 己の存在が、彼の輝きを奪うのではないか。

 凝り固まった感情に、承太郎はとっくの昔に気がついて、しかし、触れず、ただただじっと、待っていてくれた。
 弱い一面は誰にでもある。
 花京院典明という人間は、上手にそれを隠し、今まで生きてきたのだろう。
 繊細で堅牢な鉄格子は、力でどうにかなるものではないと、聡明でやさしい承太郎は知っている。
 じわりじわりと、そっと傍まで近づいて中を覗き込むと、幼い彼が膝を抱えて泣いている。
 音に怯え、耳を塞いで、いったいいつからそうしていると、問う事も出来なかった。

 紫陽花が、6月のこの優しい雨が、少しだけ彼らに力を貸してくれた。

 大海に一滴ずつ、蒼いインクを垂らすように、ゆっくりと、しかし確実に花京院の心の奥底の鉄格子を溶かしていた承太郎の言葉や、感情、肌、体温の全て。
 最後に必要なものは、他ならぬ花京院自身が持っている。


「…泣いてんのか」
「……え…っ…?」
 しっとりと濡れた睫毛は、涙でも濡れていた。
 重力に逆らわず、頬を伝い、地面へと落ちる。承太郎はそれを、何か高貴なものを見るような目でじっと見ていた。
 涙を流す当人も、拭う事はせず、感情の赴くままに泣き続ける。声も出さず、承太郎に抱きつく事もしないけれども、充分過ぎるほどに、花京院の心が伝わる“儀式”だった。
 世界は今ここだけが切り取られている。
 枯れる事を知らない涙に、困ったように眉根を寄せ、首を傾げる花京院の亜麻色に濡れた瞳を、そっと承太郎の大きな手のひらが覆い、そのまま、そっと、触れるだけの口付けを交わした。


「………ありがとう」
「別に、礼なんかいらねえ」
「僕が、言いたいんだ…ありがとう、承太郎」
「…………礼なんざいらねえ、その代わり」
「その代わり?」
「一生俺の、傍にいろ」
 答えは、承太郎を抱き締めることで、精一杯伝えよう。言葉なんかいらないなんて、今まで夢物語だと思っていたけど現実に存在すると、今、理解できたよ。
 君を愛する事に誇りを持ちたい。今すぐに胸を張っては、そう言えないけれども時間はたっぷりと、ある。


「ちょっと、手ぇ貸せ」
「?」
「いいから」
 疑問符を浮かべる花京院の手を無理やり取ると、承太郎は少しだけ横を向いて左手の薬指を付け根を、自らの人差し指でくるりと、一周なぞった。
「承太郎」
「…指輪は…まあ、いつか、その時に」
「なんだよ、それ」
「笑ってんじゃねえ…!泣いたり笑ったり、忙しいな、お前は」
「誰がそうさせてるんだ」
 笑いながらも乾かない涙を、ようやく花京院は拭った。それでも後から後からあふれ出る涙は、心の地面にしとしと降り注ぐ。
「まあ、なんだな。笑ってる方が、ずっといい」


2009/6/9