雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

1) 覚めない眠り


 花京院典明死亡。それが、SPW財団の医師達が公式に提出した書類に記された一文だった。
 機械さえ読み取れないほどの、微弱な花京院の心音を感じ取れるのは、承太郎のスタープラチナだけで、花京院の中に潜んだままのハイエロファントグリーンの気配を感じることができるのも、スタープラチナだけだった。
 蘇生したジョセフが、SPWの医師達を説得することに、承太郎以上に尽力し、花京院は仮死状態であると認めさせるのに、けれど少しの間時間がかかった。
 ハイエロファントがまだいるのなら、それが精神エネルギーの具現化である限り、本体である花京院は絶対に死んではいない。腹に空いた穴と、そこからの大量の出血は、どう見ても致命傷でしかなく、事実、花京院はその微弱な心音---スタンド使いだけに、感じることができる---以外に、生存を示す証拠は何ひとつなく、けれどこの旅の間に、ありえないことばかり目にしてきた承太郎とジョセフ自身、そしてSPWの医師達も、どういう理屈かはともかく、ようやく花京院が、少なくともまだ死んではいないのだという現実を受け入れるという結論に達した。
 旅の後始末のためだというSPW財団に乞われて、すべてが終わった後も、しばらくエジプトに滞在している間に、一体何が起こったのか、承太郎には一切知らされなかった。すべてのことは、ジョセフとSPWの間でだけ話がされ、花京院のこれからのことも、彼の行方を探しているだろう日本の家族をどう説得したのか、すべてはSPWに一任するという、結論のみが承太郎の耳には届いた。
 「骨だけ連れ帰るということにしたんじゃ。」
 「どこの誰の骨だ。」
 「ワシは知らん。SPWが何もかもうまく辻褄を合わせたんじゃろう。」
 承太郎は、思わず眉をしかめて、それでも、仮死状態の息子を眺めて泣き暮らすよりは、いっそ墓の下だと言う方が親にとっては気が楽なのかもしれないと、帽子のつばを引き下げながら思う。
 にせものの息子の骨を埋めて、彼らにとってはそれですべてが終わる。
 承太郎は何も知らない。ジョセフは、関係はしているけれど事情は知らない。そういうことで口裏を合わせてくれと、帰国の前に重々言い含められ、これから仮死状態の花京院の看護をしてくれる---はずだ---SPWに対して意見できることなど何もなく、ジョセフと承太郎は、フランスへ帰るというポルナレフと別れて、エジプトを後にした。
 その後長い間、どこへあるとも、その頃の承太郎は知らなかったSPWの本部の研究室で、花京院は眠り続けた。
 アメリカへ帰ったジョセフが、ハーミットパープルで何度か念写をして、ハイエロファントがまだ花京院の中にいることを確かめては、承太郎に連絡をしてくる他は、年に数度、SPWから直接、わけのわからない数字が並んだ書類が送られてくるだけだった。
 その数字が、花京院の血液の状態や、内臓の機能の具合や、脳波の変化や、そんなものを表しているのだとわかっても、一向に現実感はなく、花京院はこんな紙っきれの上の数字じゃねえと、ジョセフを通じてSPWに直接連絡を取ろうともしたけれど、SPW側は、承太郎との、それ以上の接触を完全に拒み、花京院の生存を、特に彼の家族から隠し切るために、今はまだ承太郎に動かれては困ると、これもジョセフ越しに、素っ気もない返事が返って来ただけだった。
 まったく変化はない。彼はあの時のまま、眠り続けているだけだ。そう言われることを信じるしかなく、少なくともジョセフが念写する、眠っている花京院- --と、かすかに写るハイエロファント---の姿は、その言葉通り、死者めいた青白い頬のまま、わずかな変化も見られない。
 花京院は、17の誕生日をまだ迎えないまま---その正確な日付けを、家族から聞き出してきたジョセフから、承太郎は知った---、承太郎は、ジョセフの勧めもあって、アメリカの大学院へ行くということを目標に、大学4年生の春を迎えようとしていた。


 承太郎のたびたびの要請に、ついにSPWが折れたのか、それともジョセフの口添えがあったのか、それとも単に、世界が花京院のことを完全に忘れ去るために、充分な時間が過ぎ去ったとSPWが判断しただけということなのか、SPW本部に直接出向いて、花京院典明の容態についての詳しい説明を求めたいならお好きにどうぞと、それまでは、よけいなものなど一切含まれていなかったSPWからの定期報告の書類の中に、SPW財団の本部の住所と電話番号が印刷された便箋が1枚、きちんと承太郎に宛てて、花京院の看護をしているチームの責任者だろうか、知らない名前がサインしてあった。
 あのエジプトの旅から、5年が過ぎていた。
 突然のことに、自分の目が信じられず、これは何かのいたずらだろうかと、らしくもないことを思って、それから、アメリカの昼間を待って、ジョセフに電話をする。
 「何か聞いてねえか。」
 「いや、ワシは何も知らん。一度会わせればおまえがおとなしくなると思っとるんじゃろう。」
 「本部の住所はテキサスだ。ジジイも一緒に行くか。」
 「ワシはやめとこう。最近心臓が悪くてな、飛行機に乗るのは医者に止められとる。」
 「寄る年波には勝てねえってことか。」
 「・・・相変わらず可愛げのないヤツじゃのう。」
 笑った声に力がないように聞こえて、承太郎は、少しの間黙り込む。
 ジョセフはもう、すっかり老人の声になってしまっていて、5年前には確かにあった若々しい張りは、その声からはもううかがえず、流れてしまった時間の長さを、承太郎は改めて思った。
 5年、60ヶ月、1800日、過ぎてしまえばあっという間だ。数日、数週間、長くてもせいぜい数ヶ月で目を覚ますだろうと、誰もが、ことに承太郎は、そう信じていた。
 少し眠るよと、あの時言ったのは、確かに花京院の声だったから、それなら待とうと、口には出さずにひとり誓って、そうして、気がつけばもう5年だ。1日も、花京院のことを考えない日はなかった。花京院が目を覚ましたと、そう連絡が来るのを、待ち続けただけの5年だった。
 花京院を置き去りにしたのか、花京院に置き去りにされたのか、少年から青年に変わる5年は、長く、そしてとても早い。ひとり、先に20を越えてしまった承太郎は、眠ったまま16から変化のない花京院のことを、想像した。
 目覚めた時に、花京院は、承太郎を憶えているだろうか。承太郎だと、一目でわかってくれるだろうか。
 今の承太郎から見れば、16歳の少年はとても幼く、歳よりもずっと大人びていた花京院とは言え、あの時のまま変わっていないのなら、子ども同然に思えて、そんな花京院が想像できずに、承太郎は悔しくて唇を噛んだ。
 その5年を埋めるために、眠ったままの花京院に会いにゆく。エジプトへの旅から、まだ戻っては来ない花京院の元へ、承太郎は飛んでゆく。
 何ができるわけでもない自分の無力さを思い知るだけとわかっていて、それでも、花京院に会いたかった。
 自分の覚えている花京院が、確かにそこにいるのだと、確かめるために、まだ失われてはいないのだと、きちんと自覚するために、花京院に会えるのだと、承太郎は自分の掌を見下ろす。
 自分の手に、スタープラチナの手が重なって見える。あの時、ハイエロファントが触れた手だ。青と翠が交じり合い、そして、花京院の声が聞こえた。花京院の心臓に触れた、スタープラチナの手だ。
 ハイエロファントは、姿を現すだろうかと、まるで主の不安を読み取ったように、スタープラチナが、承太郎を振り返った。一文字に結ばれた青い唇が、何か言いたげに見えた。


 そこまで行って、追い返されることだけは避けたかったので、承太郎は、事前に、受け取った便箋のコピーを財団本部にファックスで送り、訪れる予定の日時までをしっかり伝えて、さらにジョセフにも連絡を入れさせた。
 承太郎が花京院に会いに来ることに、まったく問題がないということはその当日まで変わらず、初めて目にするSPW財団本部の建物は、大きくはあったけれど目立つものではなく、あまり大きくはない街の郊外に、どこかの会社の持ち物だろうという程度の注意しか引かない程度に、ひっそりと建てられていた。
 受付らしいところで、守衛の白人の男に名前を告げると、どうやらすぐ奥で承太郎を待っていたらしい、白衣の男が、守衛の男が奥へ振り向くより早く、承太郎の前へやって来た。
 「ジョータロー?」
 40手前というところだろうか、欧米人の歳は、承太郎にはよくわからない。自分よりずいぶんと背の低い白衣の男を見下ろして、承太郎は、無愛想にうなずいて見せた。
 「ジョースターさんはお元気ですか。」
 奥のエレベーターへ承太郎を促して、にこやかに彼が訊く。承太郎のために、少しゆっくりと話してくれていることだけはわかる口調に、ようやく緊張を解いて、けれど肯定の返事を短く返した。
 エレベーターの最上階は8階らしく、男は5という数字を押して、笑顔を消さないまま、そばに立っている承太郎を見上げる。
 閉じられた空間の中で、眺めるものなど何もなく、男の顔は見ないようにしながら、白衣の胸についている名札に気がつくと、そこに、あの便箋に記されていたサインと同じ名前を見つけて、こんなに若い医者---なのだろうか---なのかと、承太郎は表情には出さずに驚いた。
 この男が、花京院を看ているのかと、どこかにその気配でもないかと、探るように視線を当てた時に、エレベーターのドアが開いた。
 「先に、彼に会いますか。それとも容態の説明を先に?」
 少しくすんだ白の壁と、上品なグレーのカーペットの床と、どこにも妙な雰囲気は感じられず、あれだけ自分を拒んでいた、ここがほんとうにSPW財団の本部なのかと、承太郎は彼の問いに答える前に、少し辺りを見回した。
 研究所だと言うから、もっと病院のような場所を想像していたけれど、ここはまるで、銀行の中か何かのように思えた。
 「容態を、先に。」
 なるべく彼の発音を真似て、繰り返す。ジョセフがいれば、言葉の心配は必要なかったのだと、少しだけ後悔しながら、聞くだけなら何とかなるだろうと、左に行きかけた廊下を、右へ方向転換した彼の後を、承太郎は静かについてゆく。
 角を曲がった、次の角の手前のドアを、彼が鍵を差し込んで開けた。
 広い部屋ではなかった。床から天井まで届く本棚に、びっしりと覆われた壁と、その間にようやく収まっている、これも紙やノートや本の類いでいっぱいの、大きな事務机と、承太郎の大学の教授の部屋よりも、それらしく見える部屋だった。
 白衣の男は、机の椅子を引きながら、すぐそばに1脚だけある、それなりに坐り心地の良さそうなひとり掛けのソファへ、承太郎を促した。
 椅子に坐ると、ようやくふたりの視線が合う。白衣の男は、机の上から書類の束を取ると、それを承太郎に手渡した。
 「まだ途中ですが、いちばん新しい定期報告の書類です。」
 見慣れた数字が、無機質に並んでいる。見てもよくはわからないけれど、ようするに、花京院の容態には特に変化がなく、仮死状態のまま変わらないということだ。
 面白くもなさそうに、一応はその数字を追っているふりをして、白衣の男が何か言い出すのを、辛抱強く待った。
 「仮死状態で、眠っているということですが、心音は相変わらず微弱のままです。脳は動いています。夢を見ているらしいのが、時々脳波に現われますが、呼吸もない、摂食もない、排泄もない、血管に血が流れているという形跡すらありません。我々にはわからないだけかもしれませんが。それでも、ジョースターさんによれば、彼のスタンドはまだちゃんといて、だから彼は生きているということです。5年前から、彼はそのままです。」
 「新陳代謝は?」
 できるだけ訊けることは訊いておこうと、きちんと辞書で前もって調べてきた単語を思い浮かべながら、承太郎は目の前の男に質問した。
 「ありません。しかし、彼の生命活動のレベルが、すべて我々にはわからないほど低いという可能性はあります。スタンドでしか感じ取れないレベルなのだろうと、我々は推測しています。残念ながら、スタンドを使える者はここにはいません。ですから、彼に何が起こっているのか、正直我々にはまったくわかっていません。」
 白衣の男は、承太郎の方へ乗り出していた体を椅子の中に戻して、背中を背もたれに寄せる。
 「非常に馬鹿げた言い方ですが、彼はただ眠り続けているというわけです。歳も取らないまま、何の変化もなく、眠り続けているだけです。もっとも、普通の設備では、彼が生きているということはまったく証明できないでしょう。彼の心音も脳波も、ここで特別に開発された機械でのみ測定可能です。普通の機械では、何も出ません。我々は、あなた方スタンド使いがおっしゃることを信じて、彼を生きているものとして扱い、いずれ目覚めるだろう時を、ただ待っているだけです。」
 少しばかり神経に障る言い方だと思ったけれど、ただ眠り続ける花京院を、辛抱強く見守ってくれているという点には感謝すべきだろうと、承太郎は白衣の男をにらみつけそうになって、やめた。
 手にした書類を、特にどうということもなく眺めていて、そう言えばとふと思い出した。
 「腹の傷は?」
 きちんと治療されて、治ったという報告だけは、送られてきた書類で読んだけれど、具体的にどの程度治ったのかを、訊いておきたいと思った。
 白衣の男は、まるで手を叩きそうな具合に、突然少し弾んだ仕草で椅子を机の方へ回すと、まとめてあったフォルダーの中からひとつを抜き取って、承太郎の方へ向き直りながら中を開いた。
 「内臓の損傷は、すべて復元していました。まったく元通りというわけには行かなかったようですが、手術を執刀した医師が驚いていまして・・・。」
 男が嬉々として---というふうに、承太郎には見えた---語ったところによると、すでに死亡状態だった花京院の、腹から背中に貫通していたあの傷は、応急処置のみでしばらくは放置されたまま、念のため感染症回避のための処置はしていたものの、普通には死体でしかない花京院の傷をどうするべきか、医師団にも判断がつかず、ようやく、とりあえずは普通に手術をと決まった後で、ちぎれた血管や裂かれた状態の内臓や筋肉組織が、なぜか再生中であることが発見された。
 死体であるはずの花京院の体が、あの致命傷からの回復中であることをはっきりと目にして、その時ようやくSPWの医師達は、承太郎やジョセフたちの言う、スタンドとともに生きているという花京院の状況を飲み込み、花京院の体の復元を助ける形で手術を行った。
 ハイエロファントだと、白衣の男の話を聞きながら、承太郎は思った。何の根拠もない。単なる直感だ。けれど、花京院を仮死状態に繋ぎ止めて、花京院の体を再生させたのはハイエロファントだと、承太郎は確信していた。そうでなければ、何も説明がつかない。
 スタープラチナさえ気配も感じ取れないほど、花京院の中へ深く潜って行ったハイエロファントの、最期に見せたあの悲しそうな表情は、死ぬほど傷ついてしまっていた、本体である花京院へのものだったのだろうかと、今さらのように思い出していた。
 花京院を救うために、生まれた時から一緒にいたはずの、本体である花京院を救うために、どれほど必死に、ハイエロファントがその力をふり絞ったのかと、血まみれだった花京院の腹の傷のむごたらしさを、承太郎は脳裏に思い浮かべている。
 そのために、途方もないエネルギーを使ったために、花京院は、ハイエロファントと一緒に眠り続けているのだ。もう、5年も。
 「跡は、前にも背中にも残っていますが、傷自体は完全に治っています。これも普通では、まずありえないことです。」
 男が、自分の腹と背中を指差して言うのを上の空で聞いて、承太郎はもう充分だと、持っていた書類を男の方へ差し出す。
 眩暈を感じながら椅子から立ち上がって、花京院に会うために、承太郎は白衣の男を促した。


 病室は、案外と広く、見舞いがいるとも思えないのに、それとも承太郎のために用意したものか、白いベッドのそばにはちゃんと椅子があった。
 何もかもが白い部屋で、花京院の顔も青白く、触れればやわらかな、色素の抜けたような茶色の髪も、何となく生気なく見える。
 ドアを静かに閉めて、足音を消して、ひどくゆっくりと花京院に近づいた。
 何のためかわからない機械が数台、ベッドの周りを取り囲んで、そこから伸びた色とりどりのコードの先が、花京院の寝ているベッドの中に消えている。
 見下ろして、そして、眺めた。
 「花京院。」
 ずいぶんと久しぶりに、声に出して名前を呼んだ。舌が少しもつれて、ぎこちなくなったのは、ここ数日英語ばかりに取り囲まれているせいだと、そう思うことにした。
 「花京院。」
 今度ははっきりと、きちんとした声で呼ぶと、自然に口元がほころんで、承太郎は、知らずに花京院に微笑みかけていた。
 椅子を引いて、音を立てないように気をつけて、腰を下ろす。体を前に傾けて、軽く開いた膝の上に肘を乗せ、ベッドの向けて両手を組んだ。そんなつもりはなかったのに、その手が、まるで祈りを捧げているようだと思って、承太郎はまたひとりで苦笑する。
 ほんとうに、そう告げられていた通り、何も変わらない花京院が、そこにいた。
 眠っているのだと言われなければ、死んでいるのだろうと素直に思える顔色の悪さが気になったけれど、こんなふうに5年間、眠り続けているのなら、心配することはないのだろう。
 エジプトで別れた時のままだ。血も埃も、あの時滴った承太郎の涙も、とっくにきれいに拭われて、それだけが変化のように、承太郎は、花京院の寝顔に、じっと目を凝らした。
 記憶の通りだ。何も変わっていない。ほんとうに、これは花京院だ。5年前のあの時のまま、これは花京院だ。承太郎の、花京院だ。
 承太郎は、ようやく花京院の頬に手を伸ばした。やわらかな皮膚の感触は、けれどぞっとするほど冷たく、どれほど長く見つめても、胸も喉も、呼吸に動くということもない。
 自分の目で確かめたくて、それが目的で、わざわざここまでやって来たのだと思いながら、承太郎は、スタープラチナを静かに呼び出した。
 スタープラチナは、承太郎と花京院の間に立つと、薄青い腕を伸ばして、花京院の胸の中へじかに手を入り込ませる。長くはかからずに、例の微弱な心音を指先に感じて、そうして、そこで待った。ハイエロファントが、何か気配を伝えてくるのを、承太郎とスタープラチナは、じっと待った。
 承太郎は、ベッドの中へ手を滑り込ませると、力なく横たわっているだけの花京院の手を取り出して、両手で握る。
 泥に汚れてもいない、爪も割れていない、傷も見えない、きれいな、花京院の左手だった。
 「来年、大学を卒業したら、アメリカで大学院に行くつもりでいる。」
 しゃべり出して、一度止めて、花京院の手を、強く握った。
 「そうしたら、ここにも来やすくなる。てめーにも、もっと会えるようになるな。」
 冷たい手だった。さり気なく探った手首に脈は感じられず、骨張った手の甲に、少し痩せただろうかと、しても仕方のない心配をする。
 スタープラチナは、まだ花京院の胸の中にいるままだ。
 「信じられるか、おれが大学生だ。しかももう4年だ。成人式もとっくにすんだんだぜ。」
 思わず引き寄せて、花京院の手の甲に、承太郎は額を押しつけた。
 「・・・なのに、てめーは何をしてやがる。とっとを目を覚まして、帰って来い。戻って来い、ジジイも会いたがってるぜ。」
 あの時と同じに、また涙が流れた。
 花京院の、体温のない冷たい手を、ぬるく涙で濡らして、承太郎はひとりしゃべり続けた。応えるはずもない花京院に向かって、話しかけ続けた。
 「5年も待たせやがって、おれが辛抱強いのを、ありがたく思いやがれ。とっとと起きて、戻って来い。」
 涙が止まらずに、あごを濡らして、着ているシャツの襟まで濡らし始めていた。
 花京院の手を離さずに、離したくなくて、承太郎は、まるで子どもように、その手に額をこすりつける。
 「花京院、早く目を覚ませ、これ以上、おれを待たせるな。頼むから、戻って来い・・・。」
 早く、とあえぐように言った時に、ふと、暖かな感触が、流れる涙を拭うように、頬に触れたのを感じて、承太郎は顔を上げた。
 スタープラチナが、驚いた表情でこちらを見ている。そして承太郎の目の前に、ハイエロファントの、翠の触手が光っていた。
 「花京院・・・。」
 ベッドの花京院は、相変わらず何の変化もなく、髪さえ動く様子はない。
 ハイエロファントは、すぐに承太郎の目の前から消えてしまい、スタープラチナが行方を追うように視線を動かして、そして花京院の胸の中を探ったけれど、気配はそれきり途絶えてしまった。
 「花京院・・・ッ。」
 握った手にぬくもりがないことに改めて気がついて、おそらくそれ以上は無駄だろうと、承太郎はスタープラチナを自分の中へ引き戻す。
 ハイエロファントは、承太郎に応えて姿を現したのだと、それだけは確かだった。
 花京院は眠り続けている。目覚める気配はないと悟って、承太郎は、唇を噛んだ。そして、花京院の手に、それが精一杯の仕草で、唇を押し当てた。
 色のない花京院の唇を、その指越しに見つめながら、承太郎は、自分の唇のあたたかさに、自分で驚いている。
 泣くなよ、承太郎。
 声が聞こえたと思ったのは、錯覚だったのだろうか。
 花京院の手を、きちんと元に戻して、静かに部屋を出てドアを閉めながら、それからさらに5年以上、花京院がそのまま眠り続けることを予想できるはずもなく、承太郎はひとり、長い廊下を歩き出していた。


 花京院がついに目覚めたと、ひどく興奮した様子の電話を承太郎が受けたのは、1998年の、冬の初めのことだった。


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