雰囲気的な10の御題/"哀"@loca
2) 拒絶の言葉と@
もう、何度たどったか、覚えてすらいない道筋だ。
エジプトで仮死状態になって、SPWが預かる形になった後にようやく会えたのが、あれは1992年の夏だったか。あれから丸6年だ。その間にアメリカ在住になった承太郎は、時間を見つけては、SPWの本部に通った。眠ったまま、何の変化もない花京院に会うために、彼がまだ眠っているだけで、死んでなどいないことを自分の目で確かめるために、辛抱強く、通い続けた。
その6年間に、承太郎は大学院を卒業し、その後はイルカやサメの研究のために、あちこちの海に出る生活をしている。そうしながら、花京院を待っていた。いつか目覚めると、何の保証もなかったけれど、待ち続けていた。
やっと、ともう何度目か、承太郎は口の中でつぶやく。花京院が目を覚ました。まだ信じられない。電話は、確かにSPWの、ちゃんと顔も名前も知っている研究員からだった。ろくでもないいたずらという可能性はない。それでも、まだ信じられない。
あきらめたことは一度もない。いつか必ず目を覚ますと、そう心の底から信じていた。承太郎にできるのはそれだけだったから、この10年、自分の生活-- -ごく普通の、平凡な---の中に埋もれながら、けれどいつだって、頭の中を占めていたのは花京院のことだった。自分が生きている間に会えるだろうかと、ふと思ったこともある。
日本で大学に入った時に、ほんとうなら、その翌年に花京院も受験をすませて進学したはずだと、散る桜を見上げて、思った。成人式のために空条の実家へ戻った時も、同じことを考えた。進級のたびに、自分を追う誰もいない背中が薄寒く、大学卒業はただ、アメリカへ行くための通過地点でしかなかった。少なくとも、アメリカへ行けば、花京院により近くいられると、そればかりを考えていた。
あの時でさえ、それからさらに5年もかかるとは、思いもしなかったけれど。
最後に会ったのは、3ヶ月ほど前だ。今年は海に出る機会が多くて、去年や一昨年よりも、SPW財団本部へ行く回数が少し減っていた。クリスマスの頃にでも、少し長くいようかと、そう思っていた矢先だ。
あの時、何か花京院に変化があったろうかと、必死に思い返す。何か変わったことがあったのに、それを見落としたのだろうかと、指先を噛む。
死人の顔色で眠り続ける花京院は、承太郎の掛ける声に応える様子はなく、触れて冷たいのも、もうずっと同じだった。ハイエロファントグリーンも、スタープラチナにちらりと気配を感じさせただけで、特に変わった様子はなかった。
何でもいい、行けば、会えばわかることだ。
承太郎は前だけを向いて、大股に歩き続けた。
もう何年も前に特別に発行され、毎年更新されているSPWの身分証を手に、見慣れた建物の中に入る。受付を、一瞥もくれずに通り過ぎて、エレベーターで上へ向かう。花京院がいるのは5階で、病室へは、けれど指紋認証をするゲートをくぐり抜けなければならない。そこへ行けるのは、一部の研究員たちと、そして承太郎だけだ。
今目の前に誰かが歩いていたら、そのまま突き飛ばしてしまいそうな勢いで、承太郎はそこへ向かっていた。
カードの差込口に、身分証を差し込んで、そして人差し指を、小さな画面に押しつける。数十秒後に、ようやく開いたゲートをくぐりながら、承太郎はごく自然に、背後にスタープラチナを呼び出していた。ハイエロファントグリーンの気配が、はっきりとそこにあったからだ。
ゲートが、自分だけを招き入れて再び閉じたことを確認してから、また足早に病室に向かう。
花京院の目覚めた病室へ向かいながら、無人の廊下の白さが、今はやけに目にまぶしく映る。
視界の白さに、思わず目を細めた。
突き刺すような白さは、けれど慣れれば、清潔さを保つためだと知れて、瞳だけを動かして辺りをうかがった後で、ようやく首を回す。ごりごりと骨の鳴る音がした。そのひどい音に眉をしかめて、体を起こそうとした。
手を動かしてみる。爪先を動かしてみる。顔を少し上げて、足元の方を見て、自分がベッドに寝ているのだと、ようやくきちんと認識する。
どう見ても病院だ。
簡素なベッドは、けれど汚れも錆びも見当たらず、見下ろすシーツに染みなどない。比較的まともな病院のようだと、それをありがたくも不思議にも思いながら、ようやくのろのろと体を起こした。
皮膚と筋肉がこすれ合って、ぎしぎしきしんだ。それだけのことにひどく骨が折れて、ベッドの上に坐るだけに、ずいぶんと時間がかかった。
体がうまく動かない。痛みはない。ただ全身が硬張っていて、背中や肩がひどく突っ張っていることに気づいた。そのせいで、軽く頭痛がする。
うなじに手をやって、自分の頭を撫でる。そうしてから、素肌にじかに着けている薄い術着の下から、色のついたコードが何本も垂れているのを目にとめた。大仰な機械が数台、規則正しく、何かを測定しているらしい。ひとつは、少なくとも心臓の音だろうと、そう思った時に、あちら側にあるドアの向こうで、ばたばたと騒がしい足音がした。
そちらに顔を向けて身構えた瞬間に、目の前に、ハイエロファントが出現する。
白いドアが大きく開いて、白衣の男たちが数人どやどやと入ってくる。彼らはひどく驚いた様子で、英語で話しかけてきた。
ハイエロファントを、自分の背中の後ろに隠して---見える気遣いはなさそうだったけれど---、素直に面食らった。
ここはどこだ。エジプトじゃないのか。日本でもないのか。どうして、僕に英語でなんか話しかけるんだ。
ベッドを取り囲んだ男たちは、どう見ても医者にしか見えず、混乱していてよくわからない言葉のことは、今は捨て置くことにして、脈を取ったり、胸に触れたりする彼らの手には逆らわないことにした。
彼らの言葉はよくわからなかったけれど、それぞれが口々に、何度かジョウタロウと言ったからだ。
ここがどこで、なぜここにいるのかは、よくわからないままだったけれど、じきに承太郎がやって来ることだけは、確実に思えた。
承太郎と、まだうまく動かない舌で、花京院はゆっくりとその名を呼んでみた。
うっすらと微笑んだ花京院を、まるで守るように、あるいは祝福でもするように、ハイエロファントが後ろから抱きしめていた。
病室のドアの手前で、長い髪を首の後ろで1本に縛った、承太郎よりも少し年上の女性研究員が、承太郎を認めて、軽く会釈をする。
「中に?」
自分を待っていたのだろう彼女に、承太郎はほとんど表情も変えないまま、簡潔に質問した。
「ええ、簡単な検査は大体終わりました。精密検査はこれからですから、なるべく手短にお願いします。」
「・・・そうしよう。」
研究員というのは、得てしてこういうものだと、自分の愛想のなさを棚に上げて、ここで顔見知りの研究員たちの、自分たちスタンド使いを研究対象としてしか扱わない態度を、いっそ見事だと思いながら、けれど今はよけいなことに心乱されるのがいやで、彼女から視線を引き剥がすと、承太郎は、白いドアの前で、一度足を止めて、深呼吸をした。
空港から真っ直ぐ来た姿のまま、急な数時間のフライトで、少しばかりくたびれて見えるかもしれない自分の姿を少しだけ気にして、そして、自分が、少しだけ怯えているのに気づく。
花京院は、ちゃんと動けるのだろうか。すべてを憶えているのだろうか。おれだと、すぐにわかるだろうか。
スタープラチナは後ろにいる。それにちらりと振り返ってから、承太郎はようやくドアを開けた。中へ開くドアと一緒に足を踏み込んで、そして、その向こうに、ベッドの端に、所在なさげに腰掛けている、花京院の姿を認めた。
ドアを閉めたのが、自分だったかスタープラチナだったか、承太郎は思い出せない。ドアのそばに、手にしていたカバンが放り出されていたから、きっとそこで一度立ちすくんだ後で、考える前に体が動いていたのだろう。
承太郎は、ベッドに向かって走っていた。長いコートの裾が、足にまとわりついて邪魔だった。腕を伸ばして、自分を見て驚いて立ち上がった花京院を、物も言わずに抱きしめていた。
「承太郎!」
先に名前を呼んだのは、花京院だった。背伸びする暇さえ与えずに、花京院の頭を両手でしっかりと抱え込んで、少しの間戸惑ってから、花京院がようやく自分を抱きしめ返すのに、ようやくすべてが現実だと信じられて、花京院のそこだけは冷たい耳の辺りに頬をこすりつけると、承太郎は、止める間もなく泣き出していた。
涙が、後から後からあふれて、背中で簡単に結ぶだけの、花京院が着ている薄い術着の肩を濡らして、承太郎は、声も出さずに泣いた。泣きながら、花京院の名前を呼んだ。
抱けば、抱き返してくる腕と、呼べば、答える声と、何よりも、確かなあたたかさと、これは花京院だと、何度も胸の中でつぶやいて、承太郎は花京院を抱いている。
触れる首や肩の辺りが、薄く細くなったように感じられるのは、気のせいなのだろうか。
容赦もない承太郎の腕の力と、少しばかり高すぎる背に、必死で添おうと爪先を伸ばして、花京院がじたばたともがくのに構いもせず、承太郎は、そのまま首の骨でも折りそうに、花京院を抱き寄せていた。
そのうちあきらめたらしい花京院が、まだ泣いている承太郎の背中を、なだめるように撫で始めて、そうして、小さくくすくすと笑い始める。
「承太郎、泣くなよ。」
同じ声と調子で、花京院がそう言った。あの時聞いたそのままを、花京院が言った。あの時承太郎はまだ17で、花京院は16だった。そして花京院は、今もまだ16のままだ。16の花京院は、17の承太郎に言ったと同じことを、今は28になっている承太郎に、同じ声で言う。
10年だ。10年も待った。こうやって花京院を抱きしめるために、承太郎は辛抱強く待ち続けていた。
まだじっくりとは眺めていない花京院の顔も、やつれたようには見えなかったような気がして、もうこれで大丈夫だと、一体何が大丈夫だと思っているのか自分でわからずに、承太郎は安堵の息を大きくもらす。
花京院が、また承太郎の背を撫でた。
「承太郎、君、案外泣き虫だったんだなあ。そんなこと、知らなかった。」
当たり前だ、おれが泣くのは、おまえのせいだ。おまえがおれを置いて、こんなところで眠り続けていたせいだ。
そう言ってやる代わりに、出てくるのは言葉ではなく涙ばかりだ。
こんなに泣いたのは、ずいぶんと久しぶりだと、また花京院を抱きしめて、思う。
「花京院・・・。」
何もかもをそこにこめて、もう一度呼んだ。深い声の語尾が、少しかすれた。
「承太郎。」
応えて、花京院が呼ぶ。その声を、ずっと聞いていたかった。
「・・・もっと呼べ。」
「承太郎。」
「ずっと呼べ。」
10年間、応えてはくれなかった分を、今、と無茶なことを考えながら、花京院の柔らかな髪に指先を差し込む。
「承太郎。承太郎。承太郎。承太郎。」
記憶のままの花京院の声が、承太郎の名を繰り返す。
これが夢ではないことを、心の底から祈りながら、承太郎は、普段はその存在すら思い出すことのない、神だとか、そんな形のないどこかに在るらしいものに、感謝の言葉を捧げそうになった。
名前を呼び合って、抱き合い続けているふたりの頭上で、主たちを見習ったように、ハイエロファントとスタープラチナも、互いの肩に腕を回して、久しぶりの再会を喜んでいる。
遠慮がちにドアが叩かれるまで、ふたりとスタンドたちは、そうして抱き合ったままでいた。
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