触れ合いたい2人に10のお題@空色アリス

10) ふたり


 息をしようとして、代わりにひどく咳込むと、いやな音を立てて、喉から血があふれてきた。
 生暖かい血が唇から流れてあごを汚し、学生服の高い襟の下へ流れ込む。きっちりとボタンをかけたシャツの喉元が、血で染まるのがわかる。そこからさらに、皮膚の上を、大量の血が流れてゆく。
 血があふれるのは、口からだけではなく、腹に空いた大きな穴の方が、むしろ出血の量は多いようだった。
 体が引き裂かれたようなショックは覚えている。けれど、痛みを感じないのはなぜなのだろうか。
 ひどい傷だと、のろのろと手を持ち上げて、生暖かく血に濡れた腹の傷を探った。
 背中が冷たいのは、吹き飛ばされた先の給水塔を突き破ってしまって、水が流れているせいだ。水と血を、勘違いしているのだろうかと、自分の腹の方へ首を折って、けれど温度の違いを間違えるはずもなく、流れているのは確かに血だと、かすむ視界に確認した。
 できることはすべてした。後は、この最期の時間を、静かにやり過ごすだけだ。
 日本に帰る話ばかりしていたなと、思わず、うっすらと苦笑がわく。
 帰れないかもしれないとは、一度も思わなかった。それはきっと、承太郎のせいだろう。一緒にいれば、何があっても大丈夫だと、根拠もなく信じられた。
 久しぶりに会えたというのに、ゆっくり一緒に過ごせる時間もなかった。
 目の傷は、視力には影響はないと診断されて、安心したばかりだというのに、最期に承太郎に会えないままかと、こんな時だと言うのに、言いようもない未練がわいた。
 切られて痛む目を包帯で覆われて、何よりも不安だったのは、これきり承太郎を見ることができなくなるかもしれないと、そのことだった。
 声と気配と匂いと、承太郎の居場所を常に確認していなければ不安だった。
 承太郎も、同じ不安を抱いているのが感じられて、目が見えないという口実があったから、ふたりはいつも近くにいて、肩を寄せ合っていた。自分の肩を支えるように抱く承太郎の手に、いつもよりも力がこもっているのを感じて、そのぬくもりを失うことが何よりもおそろしいのだと、思わず口にしてしまいそうで、何度も唇を噛んだ。
 あれは、予感だったのだろうか。
 見えなくても、承太郎のことは覚えている。触れる何もかも、すべてを覚えている。承太郎もそうだろうかと、思って、力なく指先が震えた。
 それでも、これから先のことはわからない。これからの承太郎のことは、わからない。
 まだ、何も描いていないのにと、そのことばかりを考えている。
 これからの承太郎が、自分の中から失われてしまう。今までの、この50日足らずの承太郎なら、すべてを覚えている。けれどこれから先の承太郎のことは、記憶にすら残らないのかと、不意に、胸が塞がれそうな悲しみに襲われて、血に濡れて動かない唇の中で、舌が不様にもつれた。
 流れきった血のせいで、涙すら出ない。
 抱きしめた承太郎の、骨の形と筋肉の動きと、あたたかな膚と、触れれば何よりもやわらかな唇の感触を、鮮やかに思い出している。それが、記憶通りであることを、最期に確かめたいと、強烈に思った。
 記憶だけが、残されたものだったから、それを、できうる限り鮮やかに、深く、確実に、自分の中に刻みつけたかった。
 承太郎の声、微笑み、瞳の色、絵には表せないものもすべて、何もかもを、すべて。
 あんなに、近く体を寄せ合って、誰にも言えないほど親密に、ぬくもりを分け合ったのに、こんな時にはひとりきりなのかと、冷えてゆく自分の体がひどく頼りなく思えて、今すぐここに来て、抱きしめてくれないかと、どこにも今は姿の見えない承太郎に向かって、思う。
 寒い。寒くて仕方がない。承太郎と一緒の夜は、いつも、あんなに、熱ばかりがあふれていたというのに。
 ずいぶんと、長い時間が経ったように思えた。夜だというのに、周囲は白っぽく見えて、何もかもを見ておきたいと思う瞳の上には、力なくまぶたが落ちかけている。目を閉じてしまえば、二度と開くことはないだろう。
 どうにかして、そこにもう一度だけ、承太郎が現われてくれないかと、おそらく無駄だと思いながら、何度も願う。
 会いたい。声が聞きたい。抱きしめたい。触れたい。もう一度、微笑みかけて、そして、笑いかけられたい。もう一度。もう一度。最期に、もう一度だけ。
 薄れる意識が、翠の光に包まれ始めていた。
 ハイエロファントグリーンと、どんな時もいつも自分のかたわらにいた友人(とも)の名を、小さくつぶやいた。つもりだった。
 翠の姿はいっそう濃さを増して、その光が自分を包むのに、不思議なあたたかさを感じて、どこまでが自分自身で、どこからがスタンドなのか、よくわからない辺りにまで、意識が溶けてゆく。
 絵を描きたい、承太郎を描きたいと、自分の中で声がする。それを聞きながら、花京院は、長い長い眠りに落ちて行った。


 水に濡れ、血にまみれた体を抱きかかえて、まるで眠っているような安らかな口元に向かって、何度も何度も呼びかける。
 白い頬に血の気はなく、あまりにも大量の血が流れすぎてしまったのだと、腹の傷を見なくても、はっきりとわかる。
 手遅れだと、理性が告げていた。けれど、感情がわめき散らしている。まだだ、まだだと、叫び続けている。
 そんなはずはない。ひとりで先に逝ってしまうことなど、ありえない。根拠のない確信は、目の前に横たわる事実---らしく目に映るもの---を否定して、そうして抱きしめていれば、体温がうつるとでも言うように、肩を揺すぶることをやめられない。
 そのうち、目を開いて、きっと言うだろう。ああ、ひどい目に遭った、そう言って、血まみれの唇で、薄く微笑むのだろう。いつものように。
 肉づきが薄いのは、どこも全部だ。柔らかさなど微塵もないくせに、優雅に動く、手足。しっかりと筋肉に覆われた骨は、けれど自分に比べればずいぶんと華奢で、ひどく抱けば折れるかもしれないと、何度か思った。それでも、守られることなど必要としない強靭さを秘めていると、きちんと知っていた。
 力なく揺れるだけの体を、見下ろして、守られていたのは自分の方だったのだと、今さら気づいてみる。背中を預けることに、何のためらいもなかった。いつだって、ひとりではなかった。
 いつだってと、思って、抱き合った夜のことを思い出す。まだ、伝えていないことが、数え切れないほどある。伝えていないことばかりだ。何もかも、始まってさえいなかった。
 砂漠で切り裂かれた傷が、まぶたの上に残っている。うっすらと赤いその傷跡は、いずれ目立たなくなったのだろうかと、すでに過去形で物事を考え始めている自分を、口汚く罵りたくなった。
 いつだって、自分の信じた通りに進んできた。それなら、信じればいい。ひとりで先には逝かせない。まだだ、早すぎる。日本に帰ったらと、何度も言った。旅はまだ終わっていない。何も始まってはいない。だから、終わらせるつもりはない。
 ひとりで日本へ帰る気など、毛頭なかった。
 あの時と同じだと、肉の芽を抜き取った時のことを思い出しながら、スタープラチナを呼び出した。そうして、その薄青い手を、微動だにしない胸へ伸ばさせる。制服の、上から3つ目のボタンの辺りへ、ずるりと指先が沈み込んだ。
 かすかにぬくもりの残る皮膚と筋肉の感触を越えて、血の流れる気配のない血管の束のそばを通る。そうして、ふと、そこにある翠の光に気がついた。
 何もかもが、翠の光に包まれ、輝いている。かすかなぬくもりを発しているのは、その光だ。
 慌てて我に返ると、目指していた心臓へ指先をたどり着かせて、そして、静かに握り込もうとした。
 承太郎。
 スタープラチナの指先に、声が伝わってきた。
 翠の光が、いっそう強さを増す。その翠が、スタープラチナの指先を包んで、まるで溶け交ざるように、色を変える。
 かすかに、ほんとうにかすかに、心臓はまだ動いていた。
 ハイエロファントだ。思わず声に出して、主を救おうとしている翠に輝くスタンドの姿は、けれどはっきりとは見えない。同化してしまっているのだと、スタープラチナが感じていた。
 一体何が起こっているのか、わからなかった。
 死んではいない。終わってはいない。まだだ。まだだ。
 スタープラチナの手に触れるのは、確かにハイエロファントの感触だった。まるで手を繋ぐように、ハイエロファントが、そこでスタープラチナに触れている。
 「・・・花京院。」
 ふたつのスタンドの、色違いの手が、どちらがどちらともわからずに、交じり合っている。その中で、花京院の心臓が、弱々しく動いている。人間には感じることさえできないだろう微弱さで、けれど確かに動いている。
 呼吸はない。目は閉じられたままだ。逝ってしまったのだとしか思えないのに、けれど、確かに、花京院は生きている。
 「花京院。」
 呼びかけに応える様子はない。それでも、名前を呼ぶと、胸の中で、ハイエロファントがスタープラチナの手を握ってくる。
 血と埃に汚れた頬を、両手ではさんで、鼻先の触れる近さに顔を寄せた。その唇が動かないかと、目が開いて、自分を見つめ返して来ないかと、長い間、待ったような気がした。
 ハイエロファントはそこにいるのに、花京院は今どこにもいない。どこかにいるのかもしれない。けれどここにはいない。還って来ない。
 「花京院、起きろ。目を覚ませ。花京院。」
 気がつけば、涙が、花京院の頬に滴っていた。まだ熱いままの涙が、花京院の皮膚の上で乾き始めていた血を溶かして、薄赤い筋をつくって、乱れた髪の中へ流れてゆく。
 「花京院、起きろ。どこへ行きやがった、花京院。」
 色のない唇へ、呼吸を吹き込むことは思いつかず、ただ見つめたまま、涙を流し続けた。
 「花京院、戻って来い。とっとと目を覚ませ。」
 スタープラチナは、まだ花京院の心臓のそばで、ハイエロファントに触れている。ハイエロファントは、色も失わずに、花京院の中にいる。滅多と自分でしゃべることのない翠のスタンドは、必死さだけを、スタープラチナに伝えてくる。
 ハイエロファントが、花京院を繋ぎ止めている。それだけは確かだ。けれど花京院は、まだ目を覚まさない。
 「花京院。」
 何度目だったのか、かすれた声で呼んだその時に、不意に、ハイエロファントの姿が、目の前に現われた。花京院の胸から這い出るように、輝く姿を現して、そして、表情などないはずなのに、ひどく悲しそうにスタープラチナを見つめて、そして、主である花京院がまれに見せた、戸惑うような仕草で目を伏せて、また、花京院の中に姿を消した。
 なんだと、思った時には、もうスタープラチナさえ気配を感じないほど深く、花京院の中に潜り込んでしまっていた。
 「花京院!」
 ハイエロファントは、もう応えない。
 代わりに、声がした。
 承太郎、ごめんよ、眠いんだ。とても。
 スタープラチナが聞き取ったその声は、とてもかすかで、小さかった。
 少しだけ、眠らせてくれ。少しだけ。
 花京院の唇は、まだ動かない。呼吸も止まったままだ。それでも、その声は、確かに花京院のものだった。
 「花京院・・・。」
 涙がまた、頬を伝った。
 今は重ねることのできない唇の代わりに、指先で、動かない青白い唇に触れた。
 冷たいその唇に、うっすらと微笑みが浮かんでいるように見えて、おれの声が聞こえるのかと、もっと確かなしるしが見たいと、まだやわらかなまぶたを撫でる。
 そうして、応える声が、もう一度聞こえた。
 泣くなよ、承太郎。ちょっとの間だけだ。目が覚めたら、君を描こう。約束通り、君の絵を描こう。
 それきり、もう何も聞こえなかった。
 動かない花京院を抱きしめて、何度も何度も、色のない頬を撫でた後で、白くすりきれた制服の袖でごしごしと涙を拭う。
 花京院の、その深い眠りを妨げないように、傷ついた体をそっと抱き上げて、承太郎はもう一度だけ、名前を呼んだ。応える声はなく、だらりと、地面に向かって伸びた花京院の指先から、涙の代わりのように、まだ乾ききらない血が滴る。
 50日の旅が、終わろうとしていた。


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