触れ合いたい2人に10のお題@空色アリス

9) 溶けて混ざって


 いつもと、変わらない夜だというのに、何となく離れがたくて、承太郎にしがみついていた。
 承太郎は、それをいやがる素振りも見せずに、片腕を花京院に預けたまま、煙草を喫いたいのか、唇の辺りをずっと触っている。
 サイドテーブルに煙草は見当たらないから、おそらくそれは、承太郎の制服の上着のポケットに入ったままなのだろう。承太郎の上着は、多分廊下へ出るドアの傍の、クローゼットの中だ。
 起き上がって、クローゼットまで歩いていくのが面倒くさいのか、それとも、抱え込んでいる腕を離せと、花京院になかなか言い出せずに、タイミングを計っているのか、どっちだろうと思いながら、花京院は、承太郎から離れる気はまだない。
 承太郎と一緒に裸でいるのにも、すっかり慣れてしまった。
 同じベッドで眠るのも、いつのまにか当たり前のようになって、朝にはわざわざ、使わなかったベッドを一応乱しておくという小細工までしている。
 誰も知らないことだ。知らせる必要もない。それでも、少しずつ、それが難しくなっていることに気づいている。
 昼間承太郎が見せる表情に、互いにだけわかる色合いが浮かんでいて、きっと同じように、誰かが見えればそうとすぐに悟られるような、熱っぽい瞳で、自分も承太郎を見つめてしまっているのだろうと、思っても、それを止める術をふたりは知らない。
 これはもしかして、最初から恋だったのだろうかと、物騒な考えまで浮かんできて、最初に承太郎に対して抱いた好意の種類を見極めようと、自分の胸の内を覗き込んでみる。一体どこから、いつ、どんなふうに、こんな胸をしめつけられるような想いに変わってしまったのかと、花京院は、また承太郎の腕を、力を込めて抱き寄せた。
 相手に、じかに触れたいと、こんなに強く思うのは初めてだ。
 もっと深く触れたくて、いっそもう、ふたりではなくひとりになってしまえればいいと、そんな不可能なことまで考える。躯を繋げるということが、そこまで重要ではないとしても、できることならいつかそうなれたらと、言ってしまえば承太郎は驚くのだろうか。
 今は無理だ。踏み込むには状況が悪すぎる。第一、承太郎が自分のことを、一体何だと思っているのか、確かめたことすらない。
 すでにわかりきっているような気がして、けれど、それは誤解かもしれないと、思う自分がいる。肌を重ねるということがつまり恋だと、直結できるほどに若くて、ふたりはけれど、恋を知らない程度に、まだ幼い。
 旅はまだ半ばだ。日本へ帰れるのがいつなのか、はっきりとはわからない。帰国すれば、何かが変わるのかもしれない。望む方向へか、望まない方向へかは、誰にもわからないことだ。
 何もかもが非日常の旅の中で、これも、それに含まれることのひとつに過ぎないのか。命の危険にたびたび晒されているというのに、それに対する恐怖はなく、ただ、ささやかに紡ぐ承太郎との時間が途切れることだけが、今は何にも増して、花京院の心を騒がせる。
 承太郎もそうなのだろうかと、思って、それに確信が持てないことに、ひとり焦れていた。
 何もかもを知っているような気になって、けれどふとした瞬間に、実は承太郎のことなど、何も知らないことに気づく。出会って一月とちょっと、その間に、何か話でもしただろうかと振り返るけれど、特には何も浮かばない。
 元々話好きというふたりではなかったから、仲間の中で、歳が近くて日本語を話すという気安さゆえに、話しかけるなら互いがいちばん多い道理だけれど、かと言ってあれこれ細かいことを語り合ったという記憶は特になく、たとえば子どもの頃の話だとか、何が好きだ嫌いだという他愛もない話題だとか、誕生日がいつだとか、友人というなら必ず知っていそうなことを、実はあまりよくは知らない。
 躯を重ねて、そうして、相手を深く知った気になる。肌から伝わる情報は、言葉よりももっとくっきりと鮮やかで、深遠な親密さを生み出すけれど、もっとわかりやすいことは、何ひとつ伝わらない。
 言葉で語り合うことと、躯で知り合うことと、それはおそらく、同時に進行すべきことなのだろう。片方が欠けているのは、何だかひどく居心地が悪い。
 肌が語ってくれる以上のことを知りたいと思うのは、何か特別なことなのだと、それだけは鋭く感じて、花京院はあと一歩が踏み出せずに、これから一体自分たちがどこへ向かうのかと、その行く先を知りたがっている。
 とっくに越えてしまっている、承太郎との友情という域を、すでに恋しく思うことはなく、今はただ懐かしいと感じるばかりだ。
 承太郎が、ちょっと肩を揺すった。
 ついに耐え切れなくなったのか、離せという合図を送ってきたのだと気がついて、花京院はようやく腕の力をゆるめると、そっと体を起こして、承太郎から離れた。
 承太郎は、すっと顔の位置をずらして、クローゼットの方を向くと、のそりとベッドから足を抜き出そうとする。ベッドの中で脱いで、床に落とした下着を探しているのか、大きな背中が花京院の方を向いて、少し丸まって動く。
 「・・・承太郎。」
 ささやくように、その背に呼びかけた。
 なんだと、まだ目指すものを見つけられないまま、承太郎が肩越しに振り向いた。
 花京院は、承太郎に向かって、うっすらと微笑んで見せた。
 「そのまま、立って、こっちを向いてくれないか。」
 怪訝そうに、瞳だけを動かして、承太郎は、少しの間、考えるような表情を口元に浮かべていた。それから、花京院が言った通りに、ベッドを揺らさずに静かに立ち上がると、そのままくるりと花京院の方を向く。
 花京院は、上掛けから手を離して、シーツの上に膝を滑らせると、承太郎の目の前に腰掛ける位置で、ベッドの端に寄った。
 軽く開いた膝の間に両手を組んで投げ出してベッドのふちに坐ると、承太郎もまだ何も身に着けず、花京院も、裸を覆わないまま、上からと下からで、視線が合わさった。
 広い肩、厚い胸、太い二の腕、そこだけは、けれどバランスを崩さずに薄い腹と、筋肉の線ばかりが目立つ脚、花京院のよく知っている承太郎が、目の前にいた。
 「・・・君の絵を、描きたい。」
 いつそんなことを考えていたのだろうか。いつも考えていた気がして、けれど特定の時を思い出せず、今自分がそう口にしたことが信じられずに、花京院は、確かめるように、承太郎の腹の辺りに手を伸ばして、触れた。そのまま、唇を動かし続けた。
 「描こうと思えば、今だってきっと描ける。君のことは、よく知ってる。形とか色とか硬さとか、全部、よく知ってる。君の絵なら、きっと見なくても描ける。」
 浮かされたようにしゃべる花京院の手を、承太郎が取って、握る。
 「でも、僕は、君のことを全然知らない。君が、どんなふうに世界を見て、どんなふうに知覚して、何を考えてるのか、僕は全然知らない。君のことを、こんなによく知ってるのに、でも僕は、君のことを全然知らない。」
 花京院は、承太郎の手を握り返した。
 「いくら描いても、きっと君は、紙1枚になんかとてもおさまらないだろうけど、それでも、そんな形ででも、僕は、君を自分のものにしておきたい。だから、僕は、君を描きたい。」
 そのつもりはなかったけれど、口から出てしまえば、精一杯の告白になった。こんなことを臆面もなく言ってしまえるほど、花京院は分別を失くしている。そして、信じられないことに、一片の後悔すらなかった。
 目の前で、平らなままだった承太郎の腹が、ゆっくりと動いた。
 「・・・日本に帰ったら、いくらでもてめーの好きに描け。何枚でも、てめーの気がすむまで付き合ってやる。」
 いつもの、とてもぶっきらぼうな口調だ。けれど、今では承太郎のどんな声音の変化も聞き逃さない花京院には、それがこの場だけの、口先だけの言葉ではないと、ちゃんとわかる。
 握った手を見つめたまま、そこからまた、承太郎を見上げた。承太郎は、瞳すら動かさずに、花京院を見つめている。そのまま、背中まで貫かれてしまいそうなその強い視線には、見覚えがあった。
 初めて会った日だ。額から、肉の芽を抜き取ろうとしていた、スタープラチナの薄青い指先のその向こうに、承太郎がいた。みじろぎもせずに、まっすぐにこちらを見ていた。あの瞳に宿っていた、おそろしいほどの強さに救われたのだと、そして、あの時にはもう魅かれてしまっていたのだと、花京院はようやく気づいていた。
 ああ、悔しいなと、急に笑い出したい気分に襲われて、花京院は、それをかすかな苦笑に表した。
 「ほんとうに、君を描いても、いいのか。」
 握った手に力を込めると、応えるように、承太郎が握り返してくる。
 「てめーの好きにしやがれ。」
 スケッチブックが、何冊も簡単に埋まってしまうだろうと、そう思いながら、承太郎を見つめたままで、花京院はゆっくりと立ち上がった。
 空いている手を承太郎の頬に添えて、それから、胸と肩の位置を、承太郎と無理に揃えるために、軽く背伸びをした。
 それを待ちかねたように、承太郎の唇は、もううっすらと開いている。
 唇が触れて、舌先が触れた。
 繋いでいた手が離れて、承太郎の腕は花京院の腰に回り、花京院は、頬に添えていた掌を首筋に滑らせると、空いた手はだらりと体の横に投げ出した。
 かかとはすっかり床から離れて、爪先だけが体重を支えている。承太郎の唇には、これだけ背伸びをしないと届かないということを、今初めて知ったというのも、おかしな話だと思いながら、深くなる接吻に従って、花京院は、承太郎の首に両腕を回す。
 裸の胸や肩や腰が、ぴったりと重なっていた。
 覆わない体は、今は平熱に戻って、けれど皮膚の内側で、静かに生まれるものがある。どこへもたどり着かない口づけを続けながら、承太郎の掌が、花京院の裸の腰を撫でた。
 口づけの長さに、ついに耐え切れずにかかとを床に下ろしながら、花京院は、承太郎の頭をそのまま自分の方へ抱き寄せて、髪の中に両手を差し込むと、いたずらめいた仕草で、くしゃくしゃにかき回す。汗にかすかに湿ったその髪から、煙草の匂いがして、花京院は微笑みながら目を細めた。
 背中から下る急な線が作るくぼみに、ちょうどよく収まる自分の腕を、おとなしくそこに憩わせて、承太郎は、唇が離れた後も、花京院を抱いたまま、首筋に顔を埋めた。
 「・・・承太郎。」
 「・・・花京院。」
 名前を呼んだのは、ふたり同時だった。
 ふたりは、ふたりのままだったけれど、今はひとつだった。溶けて混ざったのは、汗や熱だけではなく、もっと別の、何か色も形もないものが、どこかでひとつになろうとしていた。
 もう2、3度、別々に名前を呼び合って、ふたりは闇の中で抱き合ったままでいる。これからどこへゆくとも知れないまま、ただ今は、離れがたく、ふたりは確実に結びついていた。


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