Do Angels Die (by Manic Eden)
春も半ばになっていた。見上げてもなお高いフェンスの向こうにひたすら広がる芝生の、吐き気のするほど美しく整えられた緑の隙間に、必死さを剥き出しにして、黄色いたんぽぽが生えているのが見える。
その鮮やかに命の色を吹きこぼしている小さな花を、雑草と切り捨てるのは簡単なのだろうけれど、承太郎はフェンスに額を押しつけ、常にない熱心さで、そのたんぽぽを見つめていた。
凝らしたその瞳は、外にいた時とは別の色にぼんやりとして、頭上の透き通る青もあたたかな風の匂いも、届く前に身をかわしてしまうような、どこか膜のかかったような風情が見える。
定期的にやって来る大きな芝刈り機も、飲めば即死できるだろうかと思われる除草剤も、このたんぽぽはかろうじてそれを逃れて、こうして今、地上に頭を覗かせている。
小さなその姿の、けれど芝生の下の土にしっかりと根を張っているのだろう、痛々しくさえある強靭さを想像して、承太郎はそっと頭を垂れた。
次に誰かが手入れに訪れた時に、このたんぽぽは難を逃れることができるだろうか。ただひとつきり、仲間もなくかすかに風に揺れているたんぽぽを見て、考える。
きっと無理だろう。波打つことのない胸の中で、ひとり言のように思った。
どれほど承太郎の目に美しく映ろうと、結局は美しい芝生を荒らす悪でしかなく、悪である以上は、滅ぼされる運命だけが許されているのだ。
次の手入れの前に、綿毛に変わって、種をまくことができるだろうか。たんぽぽの短い命が、それまでもつだろうか。祈るように、承太郎は思う。ごく自然に、胸の前に当てた右手で、明るいオレンジ色の厚い生地を握り込み、そうする自分の姿が、神父服を着て十字架を下げていた花京院とそっくりであることに、承太郎はまったく気づいていなかった。
ここに送り込まれて、一体どれほどになるだろう。
同じ服装で、けれどそれぞれ好き勝手に着崩した男たちに振り向いて、承太郎はまたすぐたんぽぽへ向き直った。
ここへ送り込まれた理由のひとつに、結局花京院は数えられたままだ。
違う、おれはやってない、おれじゃない。繰り返し繰り返し主張したそのことを、件の弁護士さえ聞くことはせず、ほとんど承太郎のあずかり知らぬところで、何もかもが進められ、決定されてしまった。
承太郎の運命は、常にそうであったように、承太郎の手の中にはなかった。それは、承太郎の知らない、承太郎を知らない、どこかの誰かに委ねられ、彼らの好きな形にされ、声高にそれこそが承太郎の真の姿と言い立てて、そうして世界は回り続けてゆく。
承太郎ではない承太郎を含み、ほんとうの承太郎は遠く隔てられ、世界はいつだってあちら側に在って、こちら側からはひたすらに遠いだけだ。
そして、花京院は、そのどこにも存在しない。あちらにもこちらにも、花京院はいない。
ああそうか、と承太郎は思った。あのたんぽぽは、少しばかり花京院に似ている。必死に生きようとしているあのたんぽぽの小さな姿──弱々しいけれど、大きな世界に臆さず対峙する靭さを、秘めているように見える──が、承太郎に向かって笑った花京院の、いつだって淋しげだった表情を思い起こさせる。
フェンスの網目は小さくて、指を差し入れてそこに掛けるくらいのことしかできないから、そこから腕を伸ばして、たんぽぽに触れることはできない。そもそも、届くような距離に咲いているわけではない。
けれど、あのたんぽぽが綿毛を飛ばせるまで生き延びたら、このフェンスのすぐ傍、指先さえ差し出せば届くところへ、次のたんぽぽが咲くかもしれない。
悲痛な表情を浮かべていることに気づかずに、承太郎は、まるですがりつくようにその考えに固執した。
花京院。唇が、呼んだその名の形を作る。返る声はない。花京院はどこにもいない。
ただ必死に、生き延びようとしていただけだ。踏みつけられても踏みつけられても、手を伸ばせば何かに届くと、その希望を捨てれば、ほんとうに心が死に絶えてしまうから、それだけは大事に胸の奥深くに抱いて、ただ必死に守ろうとしていただけだった。
何だと問われれば、何だろうと、自問の湧く希望ではあったけれど、それでも、自分の指先さえ見えない暗闇の中で、行く方向を示してくれる、小さな小さな光だった。
あのたんぽぽも、土の中で、その暗闇を見たのだろうか。根を張り、根を伸ばし、水を吸い上げながらその時を待ち、盛り上がり割れてゆく土のその向こうに、あふれる太陽の光があるのだと、あのたんぽぽは知っていたのだろうか。そうやって首を伸ばせば、たちどころに切り落とされてしまうかもしれないと、それでも、地上に出て、陽の光にむかって頭を上げずにはいられなかったのか。
希望は時折、生きる糧でありながら、命よりも重くなる。そしてそれは、時折、絶望よりも深く、人の命をえぐり取る。
花京院の命を、根ごそぎ奪い、そうして、承太郎の命を、流れる血もないほど削ぎ落として行った。
ぺらぺらと頼りない、向こうが透けて見えそうな、まだ在ることが不思議な、承太郎の命だった。
たんぽぽの、小さな、けれどその力強さに、承太郎は心打たれている。それを見つめ続けずにはいられずに、そこに、確かに自分の内側にあった希望そのものを、重ねずにはいられなかった。
他人の欲望の餌食にされ、他人の祈りのために十字架に縛りつけられ、他人の救いのために生贄になり、最後の、ほんのわずか一瞬、花京院はそのすべてを振り捨てた。ゆこうと、伸ばした承太郎の手を取って、光が在ると、そう思った方向へ、歩いてゆくのだと、決めたのは花京院自身だった。
数歩も進まないうちにたどり着いた崖の淵から、落ちて姿を消したのは花京院だけだ。承太郎は空になった手を見下ろし、起こったそのことを把握もできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
それでも、と承太郎は思う。あれが花京院の希望だった。承太郎と歩いてゆくことが、それが破滅へしか向かわない道──と呼べるなら──だと知っていたとしても、そこへ承太郎がいるなら、それが花京院の、あの、十字架の下がった胸にひそかに抱いていた希望だったのだと、承太郎には信じられる。
承太郎は、花京院の希望だった。花京院は、承太郎の希望だった。だから、互いを信じることができた。どれほど足元の危うい、自力で立ち続けることさえ怪しい、そんな希望だったとしても、希望のない生よりは、ずっとずっとましだった。
だから、ふたりは、手を取って逃げ出した。奈落の底へ続く崖の淵に向かって、暗闇を走った。
あの暗闇の中で、どこかにあるかもしれない太陽の光を望んだふたりを、誰が責められるだろう。どこにもない太陽の光を、夢見ることさえ許されないなら、生きることに何の意味があるのだろう。
底なしの闇の中で、底なしの奈落へ、花京院はひとり落ちて行った。承太郎は、ひとり取り残され、今は底のある闇の中で、時折神の気まぐれのように与えられる光の中で、その明るさに頭を垂れている。
たんぽぽから視線を動かして、承太郎は、果てもなく続く青い空を見た。フェンスの内側の空も、外の世界の空と同じように青いけれど、ここから空は、さらに遠く高く見える。どれほど腕を伸ばそうと、端に触れることさえできない、永遠の距離に、ふと眩暈を感じた。
膝を折って、祈っていた花京院の姿を思い出す。地面に近くては、天国はますます遠い。花京院の腕は、空へ向かって伸びることすらなかった。花京院が腕を伸ばす先は、いつだって承太郎だった。
そうだ、あれは、空ばかりを仰ぐ誰かたちのために、ああやって地面に伏して、空に近づこうとする誰かたちのために、自分の身を地面に近づけ、そうやって、花京院は祈り続けていたのだ。いつだって、他の誰かのために。
世界は、花京院──と承太郎──を嘲笑い、踏みつけにし、そのために必要な人間も必要なのだとうそぶく。誰かの救いのために、誰かが犠牲を払うのだと、したり顔で言い続けている。生贄に選ばれたことを、この世界のために光栄に思えと、頭上のどこかから声がする。だからこそ、存在することを許されているのだと、額に見えないしるしを刻む。
奴隷であり、生贄であり、流す血は塩からく、流れる血は赤いとしても、ひと以下のそれから流れ出るそれらは、無色透明で匂いすらなく、流れ落ちた地面に、残る染みにすらならない。
花京院は、そういうものだった。承太郎も、そういうものだ。
だから、互いの中に、自分を見つけたのだ。花京院は承太郎であり、承太郎は花京院そのものだった。違う体と違う人生と、けれどふたりは、同じものだった。同じ、ただひとつのものだった。
承太郎は、花京院のために。花京院は、承太郎のために。そうして初めて、自分自身のために、何かを為そうとできる、それしか方法のないふたりだった。
花京院は、すべてを知っていただろう。口にはせず、明確な思考ですらなく、けれどきっと、心で感じ取っていただろう。十字架を握り締め、手の中に食い込むその痛みとともに、何もかもを悟り、理解し、そうして浮かべていた、あの微笑みだったに違いないのだ。
ずっと見つめていたつもりで、視界の中にたんぽぽは消えていた。ふっと頭を振り、黄色いたんぽぽを視界の中に取り戻して、承太郎は、フェンスに額を痛いほど強く押しつけ、そこで息を吐いた。
涙を耐えるように、湿った吐息だった。
この、背高いフェンスに隔てられて、たんぽぽはあちら側に咲いている。ここから出ることの許されない承太郎は、触れる近さにはないそのたんぽぽを、ただじっと眺めている。そこに重ねずにはいられない面影に、言葉を掛けるように唇が動く。
花京院の血にまみれていた手の中に降った雨のなまあたたかさが、ふと背中の辺りに甦った。
今日はとてもいい天気だ。
喉を伸ばして空を振り仰ぎ、その青さと高さに目を細めて、それからまた、たんぽぽに視線を戻す。
ふと風にゆれたたんぽぽが、承太郎の方へ向く。体を伸ばしたように見えたその動きに、承太郎、と呼ぶ声が聞こえたような気がした。
花京院。
たんぽぽに微笑み返し、そうしながら、頬に流れた涙に、承太郎は気づかなかった。