Operation:
Mindcrime 背を伸ばして歩く。道の端ではなくて、真ん中を。承太郎が人をよけるのではなくて、他の皆に、自分をよけさせて。 元々、人並み外れて大きな体だ。そうと無理にしなくても、いつだって人たちは承太郎を見上げて、こんな生活に落ちた後でさえ、羨望らしい眼差しを浴びた ことも、たまにはあった。 薄汚れてみすぼらしくても、その整った顔立ちと、長い手足と、均整の取れた体つきは、承太郎が特別な人間であることを、そうとわかる人間に伝えるには、 充分にまだ魅力的だった。 ヘロインの作用が、承太郎の内側と外側を、はっきりと蝕んでいる。承太郎をやつれさせ、血の色を失わせ、目から光を奪い、わずかな時間の昂揚感---今 では、それですらまれだ---のために、承太郎の内臓のことごとくは、あの白い粉に汚染され、すでにまともに機能はしていないことに、承太郎も気づいてい た。 これは、緩慢な自殺行為だ。ゆっくりとじわじわと、承太郎は自分を殺そうとしている。 自殺を忌み嫌い、自殺した人間を、恐ろしい殺人者だと暗に見なしているこの社会で、承太郎のその行為は、もちろんあの、社会に必死に抵抗するという崇高 な意志の表れのひとつに過ぎない。 承太郎の何もかもが、無言の、無力な、嘲笑だけを与えられる---誰も、承太郎の意志など理解はしないから---レジスタンスだった。 今は違う。 大きく腕を振って歩きながら、承太郎は誰からも目をそらさずに、真っ直ぐに歩き続けていた。 承太郎は、力を得たのだ。とても具体的な力を。 承太郎の意志はそうと認識され、受け入れられ、ひそかな計画の中で、気高く輝いている。生き生きと、まるで生まれたての赤ん坊のように、内側から希望を 溢れさせている。 今の承太郎自身もそうだ。 承太郎は、生まれ変わったのだ。 わざと踏みつけにされることで、踏みつける人間たちを腹の底で嘲笑うという、惨めなばかりの抵抗だけを続けていた承太郎は、もうどこにもいなかった。薄 汚れた姿は変わらないと言うのに、今では承太郎の濃い深緑の瞳は、怯まずに人たちの視線を受け、そうして、睨むように彼らを見つめ返している。 おまえたちは愚かだ。承太郎は、彼らに、そう告げたくて仕方がなかった。 自分が誰なのか、この空条承太郎という人間が、何のために今ここに存在しているのか、思い知らせてやりたかった。 彼らはまだ何も知らない。これから何が起こり、何がどう変わり、そうして、彼らはその時ただ立ち竦んで、己れの足元を見下ろすだろう。ただ呆然と、承太 郎へ向けていたあの嘲るような視線を、今度は己れ自身に向けるのだ。 今はまだいい。今はまだ、そうやって安寧と生活の中に溺れ込んでいるがいい。今日は昨日と変わらず、明日もそうだろうと、何の根拠もなく信じ込んで、た だ漫然と歩き続けるがいい。 おれは違う。 承太郎は、胸の中でつぶやいた。 承太郎はもう二度と、意味も意志も目的もなく歩き続けることはないだろう。承太郎は、昨日に警告し、今日を破壊し、明日という日を変えるそのために歩い ているのだ。 背を伸ばし、頭を上げて、もう何にも怯えず、不安もなく、承太郎が見つめているのは、前だけだ。今までとは違う明日があるだろう、その先だけだ。 承太郎は今、ひとりの道を歩いていた。承太郎が踏み出し、踏み固め、突き進んで、承太郎が作る、違う明日へ向かう一本道だ。 その道を他の誰かが後ろから着いてくることを、今はまだ望んではいない。道はあまりにも細くかすかで、進む承太郎が、どこへ向かうのを確実には知らない 道だからだ。 けれどいつか、人たちはその道に従うだろう。道は人々の足の下に広がり、固まり、巨大な、この世でただひとつ必要な、人々へ示す生き方の道標(みちしる べ)になるのだ。 そこには希望がある。 誰も踏みつけず、誰にも踏みつけられない。弱者も強者もない、勝者も負け犬もいない、ただ人たちが、幸せに暮らす、そんなところへたどり着くのだ。 天国、という言葉が、ふと頭の中に浮かんだ。 短いこの言葉は、ひどく甘ったるく陳腐に響いたけれど、承太郎の描く理想郷に、とても相応しい気がした。 天国へゆくのだ。この地の天国へ。 死ななくてもそこへゆける。ヘロインがなくてもそこへゆける。 優しさと穏やかさと思いやりばかりがあふれた場所だ。空条承太郎という人間が、健やかに呼吸のできるはずの場所だ。 そこへ、人々を導くのだ。承太郎が、彼らの目を覚まさせ、そこへ連れてゆくのだ。 ゆっくりと、長い足を前へ踏み出す。姿勢の良いその姿は、浮浪者同然の承太郎を、今確かに超然と見せていた。 おれは救世主だ。 口の中でつぶやく承太郎の鼻先に、どこからか、甘い花の香りが流れてくる。 香りのただよって来た方へ首をねじると、小さな女の子が母親らしい女に手を引かれ、もう一方の手に、華やかに開いた薔薇を持っているのが見えた。 少女は、不意に足を止めて自分を振り返った承太郎をきょとんと見て、それから、固い花の蕾がほどけるように、無邪気な笑みを承太郎に投げかけてくる。 その少女の無邪気さが、DIOの笑みを思わせて、承太郎は思わず少女に笑い返していた。 「あれは、どうしている。」 紅茶を運んで来た秘書のテレンスに、DIOは読んでいた本から顔を上げずに、静かに訊いた。 ひとり掛けのソファにゆったりと大きな体を収めている主人のために、テレンスは音もさせずにカップを置いて、椅子の傍のその小さな丸いテーブルの上にか すかに見える、落ちた水滴の乾いた後に、DIOには見られないように素早く、かすかに眉を寄せた。 「順調です。驚くほど上達が早い。こちらがうまくお膳立てさえすれば、確実にやるでしょう。」 「それは良かった。」 DIOはぱたんと本を閉じて、にっこりとねぎらうような笑みで、テレンスを見上げた。 「珍しく骨がありそうだ。ンドゥールの酷評にも、黙って耐えているそうじゃないか。」 「日本人の血が混じっているからではありませんか。」 肘をつき、ゆるく握った拳であごを支えて、DIOは必要もなく笑みを蠱惑的なそれに変え、いつまで経っても主人のそんな振る舞いに慣れずに、テレンスが かすかに頬を赤らめるのに、さらにひと色笑みを深くする。 「そうかもな。」 テレンスに同意を示して、それきり本へは熱意を失ってしまったように、膝の上に放り出した---指先は、読みかけのページの間だ---まま、薄暗い部屋 のどこかへ視線を投げて、唇に浮かぶ笑みだけは消えない。 「あれは、私の影のようなものだ。私が動くように動けばいい。影が本体に逆らうはずはない。そんなことは許されない。」 冷えた声が、床を這うように響いた。ひとり言のようで、あるいはテレンスに同意を求めているのか、主人の声音を正確に読み取ろうと、テレンスは痛いほど 神経を集中させて、結局は無難な相槌を打つだけにとどめる。 「左様で。」 この、人並みの体格と人並みの容貌---鼻の辺りに乗せた奇妙な化粧があってさえ、充分に魅力的ではあった---を持つ青年は、承太郎同様、DIOに見 出されて拾われた形で、もう短くはない間、上の兄と一緒にDIOに仕えている。 激情を抑えるのに、どこかのネジがわずかにゆるんでいるような兄のダニエル・ダービーとは違い、弟であるテレンスは、目の前でその兄がなぶり殺しに遭っ ても、決して泣いて許しを請うようなことはしないと思わせる、決定的に人間味の欠けたところがあった。 そこにDIOが魅かれたのは、必然のようなものだった。 そのテレンスさえ、DIOが微笑めばうろたえたように頬を赤らめ、そして、突然現れた空条承太郎という、また主人がどこからか拾って来た男に、かすかに 嫉妬もしている。 テレンスだけではない。護衛のついでに運転手もしているヴァニラ・アイスもそうだ。 喜怒哀楽の一切ないように見える---DIOとふたりきりの時だけが例外なのだそうだ---ヴァニラは、車の中で承太郎とふたりきりになる時が、苦痛で 仕方がないようだけれど、さすがにそれを口にすることはない。どうやら今現在の、気まぐれではあっても、主人のいちばんのお気に入りらしい誰かの陰口など 叩いて、愛する主人の不興を買うような愚かな真似を、ヴァニラがするはずもない。 人一倍人の心に機微に聡いテレンスの性格が、何より主人に気に入られた理由なのだと、もちろんテレンスは悟っていて、それでもそのテレンスが必死になら なければ読めない、DIOの心の内だった。 盲目の人であるンドゥールは、承太郎に対して何か感じることがあるようだけれど、これもまた、滅多と自分の感情など人に悟らせる人間ではないから、 DIOの部下たちは皆、一様に互いに牽制し合い、同時に、そこに突然現れた空条承太郎という乱入者を、主人の寵愛を奪う共通の敵として、奇妙に一致団結し ている風もある。 DIOは博愛の人だったから、誰かを重宝することはあっても、誰かひとりを特に甘やかすということもなく、そして失敗には容赦がない。微笑んだまま誰か をくびり殺すことなど、何とも思わない人間だ。そして、自分では絶対に手を汚さない。汚させることなど、周りの誰ひとりさせない。 何を考えているのか、テレンスの運んで来た紅茶にはまだ手をつけず、DIOはじっとどこかを見つめたままだ。 テレンスはそれに口を差し挟むことは当然せずに、ただ黙って、そこへ立っている。 「マライヤとミドラーはどうだ。興味を示したか。」 DIOの問いに、テレンスはまず首だけを振って応えた。 「いえ、銃を長い間撃った後は興奮しますから、それが過ぎて目にも入らなかったのか、それとも単に薬のせいかわかりませんが、壁にくれるような一瞥、そ れだけです。」 早口にそう言ったテレンスに、そうかと、DIOは短くつぶやく。 「あの手の連中は、往々にして薬以外のことには興味を示しませんから。体だって言うことを利かないでしょう。若さも見かけも充分過ぎるくらいだというの に、気の毒な。」 後半の部分は、自分でそう思っていると言うよりも、本か何かを音読しているような、平たい声になった。DIOがそれに気づいて、ちらりとテレンスを見上 げ、若い乙女のように美しく微笑む。 動揺など、母親の腹の中に置いて来たと、そんな風に見えるテレンスの、可愛らしい焼きもちを、DIOはひとりで笑う。笑われても、テレンスはそれを顔に は出さず、いっそう表情を、主人のために整えるだけだ。 「おまえはダービーと違って、ヤク中どもが嫌いだったな。」 少し下品な言葉遣いで、DIOがテレンスをからかうように言う。ようやく不快を目元に浮かべて、テレンスが珍しく言い返した。 「わたしは、兄のように、あの類いの人間を観察するのも人生の勉強になるなどと、悪趣味なことは思いませんので。」 美しい大事な主人の傍へ、薄汚れた薬物中毒患者など、置いておきたくもないという本音が、うっかりあらわになった。兄と比べられるのも不愉快だった。 テレンスにこんな物言いをするのは、この世でDIOだけだ。他の誰にも、絶対に許さない。それほど、テレンスにとってDIOは至上の存在だったけれど、 それがあの承太郎によって汚されるような気がしてならない。 一瞬後で、主人に口答えをしたのだと気づいて、テレンスは静かに足を後ろに引くと、そこでそのまま深々と体を折った。 「・・・申し訳ございません。」 姿勢を変えないまま、DIOはおかしそうにテレンスのそんな態度を眺めている。日頃は、DIOの前では仲の悪さを必死に隠して、互いをひそかに嫌い合っ ている部下たちが、承太郎の存在に素早く反応し、動揺し、一緒にうろたえて彼を何とか排除しよう---もちろん、そんなことは不可能だ---としている様 子が、DIOにはおかしくてならない。 何もかも、DIOにとっては、自分が楽しむための戯れ事に過ぎない。 戯れ事は、楽しめれば楽しめるほどいい。 承太郎は、そのための駒だ。 舞台へ上げて、踊らせてやればいい。永遠に続く、ひとり芝居の主役のソロだ。 楽しみだと、テレンスから視線を外して、DIOはにやりと笑った。 紅茶はすっかり冷めてしまっている。それを無視したまま、DIOは勢いをつけて椅子から立ち上がった。読んでいた本を、自分のぬくもりの残る椅子の中へ 置いて、まだ頭を下げたままのテレンスに、もういいと言うこともせずに、ぶ厚いカーテンのかかった窓の方へ歩いてゆく。 「プッチに、連絡を入れてくれ。」 そう言った途端に、テレンスが、驚いて顔だけ上げた気配があった。 「プッチ神父に、ですか。」 「そうだ。」 即座に答えて、DIOは窓枠に手をつき、そこで上半身だけで、テレンスの方へ振り向く。 窓の外から入り込む人工の光に、DIOの顔半分だけが白く見える。目や唇は溶けて、まるで造りかけの面のようなそれに、テレンスは、主人の邪悪さを正確 に見て取って、うっかり満足の笑みを浮かべてしまった。 主人の思惑が気に入らなかろうと、テレンスは、彼のこの上ない邪悪さを、心から愛していた。 「見ていろテレンス、面白いことになるぞ。」 DIOが言った。明日見る芝居に、心を浮き立たせているような、そんな何気ない口調だった。 |