The Mission



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 きちんと正面から向き合うようには置かれていない椅子に坐って、いつもぶ厚いカーテンが引かれたままの薄暗い部屋の中で、執 事も部下もなく、ふたりきりだった。
 ふたりとも、紅茶にはミルクしか入れない。そしてコーヒーにはクリームだけれど、間違ってクリームを入れられてしまった紅茶は、この世の何より邪悪だ と、そんな風に思っている。
 テレンスが運んで来た紅茶は、いつだって文句のつけようがなかったから、ふたりはその香りの完璧さ具合を楽しむ間、華奢なカップ越しに時折見つめ合う以 外は、しばらく言葉も交わさない。
 カップを、傍の小さな丸テーブルに置いて、DIOが頬杖をつく。膝の上に乗せた皿にカップを戻して、プッチがDIOを見返した。
 「君の大事な教会を、私は汚(けが)しているのかな。」
 言っていることの深刻さとは裏腹に、DIOの口調は揶揄めいていて、にやりと上がった唇の端を真似て、プッチも微笑みを浮かべる。
 「そんなことは、ありえない。」
 似たような笑みが、対角線気味に、向かい合った。
 「きみはただ、迷える魂を、わたしのところへ送り込んでいるだけじゃないか。」
 再び持ち上げたカップに唇を近づけながら、揶揄ではない調子で、プッチが言い返す。
 さらに深々と椅子の中に体を投げ出し、頬を支える指先に、もっと体を傾けて、DIOは上げたままの唇の端を下げようとはしない。
 「まよえるか、さまよえるか、どちらかは、私には判断がつきかねる。」
 「それはきみの範囲じゃない。神が見ていて下さるさ。」
 「そうだろうとも、君の麗しい神だ。君の神はいつだって何もかもお見通しだ。」
 皮肉な口調の挑発に、けれどプッチは涼しい微笑みを、変わらずに浮かべているだけだ。
 「神はいつだって、ありとあらゆる人間を救おうとなさっている。どんな人間でもだ。ロクでなしのヤク中だろうと、ひとでなしの人殺しだろうと、救いよう のない売春婦だろうと、天国の門は、万人に向かって開かれているんだ。だが、天国に相応しくない人間は確かにいる。神はその、あまりの懐ろの深さゆえに、 いつだってすべてを受け入れようとされるが、そのために善人たちが後回しになるのは、大きな間違いだろう? だから、誰かが神のために、骨身を削って働か なければならない。天国へやって来ようとする、我勝ちの人間たちを選別して、誰が天国の門をくぐることができ、誰ができないのか、神のために決めて差し上 げなければならない。神はいつだってより善い人間たちを救うのにお忙しいのだ。その忙しさを分かち合いたいと思うのが、使徒たる者の務めじゃないか。」
 なめらかに、プッチが言う。淀みのないその口調は、彼がもう何年も、同じ事を考え続けていることを示していて、DIOもまた、同じ事を繰り返し繰り返し 耳にしてきたのだと、眉ひとつ動かさないその表情に現れていた。
 プッチの言うより善い人間とは、プッチ自身のことであり、神の第一の使徒たる者も、もちろんプッチ自身であり、そして天国へ行くに相応しい人物というの は、この場合はDIOを指している。何の迷いもなく、プッチはそれを口にする。
 信仰など、とうに捨てたというDIOと、神父であるプッチの、けれど神の意志とやらを間に置いた奇妙な友情は、天国へ行くべき者という概念に表現されて いる、そのままの姿でそこに在る。すなわちふたりとも、神の意志の元に選ばれた人間であり、その意志がふたりを引き合わせ、神の意志を実行するために、ふ たりは神への愛---DIOのそれは、プッチのそれよりもあからさまではない、というだけの話だと、プッチは理解してる---をその拠りどころとして、奇 妙な友情を結んだ仲だった。
 DIOの皮肉めいた口調と、プッチの物静かな、けれど狂信者的な胡散臭さを隠し切れない---そして驚くべきことに、プッチ自身にその自覚は皆無だ!- --切り返しと、ふたりの会話はいつだって殺伐としていて、傍で聞いていれば胸が悪くなることに間違いはなかった。
 そもそもプッチを気に入らないDIOの部下たちは、ふたりの間柄に興味を持ちながらも、決してふたりきりの時に傍へ寄ろうとはしない---テレンスは何 度かそれを試みて、とっくに挫折している---し、自覚のある邪悪と、無自覚の邪悪が出会い、化学反応を起こし、同調を繰り返して、それぞれの存在を保ち ながら、同時にまったく異質の邪悪さを発生させるその過程には、さすがの彼らも吐き気を催すらしく、ただの神父であるプッチは、DIOとはまた別の意味 で、DIOの部下たちから恐れられていた。
 DIOに魅かれながら、DIOに魅入られることのないプッチの強固な意志---あるいは、揺るぎない神への愛、唯一の愛---は、DIOに対して邪まな 胸騒ぎをいつまで経っても止められない部下たちにとっては、確かに脅威だった。
 極めて奇妙なことに、DIOとプッチは互いに敬意を抱き合い、互いの考えの正しさを表現する方法がたまたま同じだったという点で、ただ互いを利用し合う 仲というだけではなく、深く結ばれていた。悪は必要悪とうそぶいて悪を為すDIOと、悪すらも神の正しさのために為されるなら善だと信じるプッチと、彼ら は、まるで場所と時を違えて生まれた双子のように、決して似てはいないのに、よく似た空気を身にまとっている。
 「それで、あれは君のところへやって来て、どうしている?」
 紅茶のカップを、また持ち上げる。声が、弾んだ調子に、少し高くなる。
 プッチは表情を特に変えずに、皿に戻した膝の上のカップに向かって、少しだけ目を伏せた。
 「シャワーを浴びて、食事をして、眠って、起きたら薬を打って出て行く、その繰り返しのようだ。初めて会った時に話をした以外は、特に彼とは顔も合わせ ていないよ。」
 「君と話すことも、向こうには特にないだろう。あれに必要なのは、神の導きなんかではない。」
 ふふっと、赤い唇と青い瞳が嗤う。
 「あれが君のところで、きちんと世話を焼いてもらえるなら、私が心配することは何もない。」
 世話を焼く、というところに、微妙なニュアンスを込めて、その時だけはプッチに目を凝らして、DIOがおかしそうに言う。プッチはその視線を横目に受け 止めながら、カップの取っ手を指先でいじっていた。
 「世話なら、わたしのところのあれがきちんと見ている。今のところ、ただそれだけのようだが。」
 「急ぐことはない。どうせそのうち、何かが起こる。」
 ふたりの間でだけ通じる曖昧な言い方をして、DIOは舌なめずりでもするように、下唇に舌先を滑らせた。
 「お似合いじゃないか、世の中の悪を掃討しようとしているヤク中の殺し屋と、世の中の悪を押しとどめるために生贄にされる神父と、どう転ぼうと、悲劇に 向かってまっしぐらだ。わざわざ、我々がお膳立てするまでもない。」
 「われわれはただ、正しいことをしようとしているだけだ、DIO。」
 右手を宙に振って、まるで演説のように声を張るDIOに、低く静かな声でプッチが応える。
 「・・・その通りだプッチ。もちろんそうだとも。」
 まだ上げていた腕を膝の上に戻して、DIOが大きく息を吐いた。投げ出していた足を高く組んで、ふらふらと爪先を揺らした後で、まるで指差すように、革 靴の爪先をプッチに向ける。
 黙ってプッチを見つめていると、しばらくした後で、プッチがカップを取り上げながら、血色の良い桃色の唇をゆっくりと開いた。
 「この世には、生きる価値のない人間、神の罰にさえ値しない人間というのが存在する。そんな連中は、神の手を煩わすことなく、お互い同士が滅ぼし合えば いい。魂は、天国ではなく地獄へまっしぐらだ。天国の門は、いつだって込み合っている。そんなところに下らない魂なぞ、送り込むのも汚らわしい。下らない 魂どもは、地獄へさえ落ちずに、どこかで消滅してしまえばいい。選ばれた者だけが、清らかな世界で息をすることが許される。誰かが、その者たちを選ばなけ ればならない。神は、いつだってお忙し過ぎるのだから。」
 プッチは、あまり自分の考えというものを、表立っては口にしない人間だった。あまりにも神への愛が深すぎるゆえの自分の考えが、受け入れられ難いものだ という自覚はあったからだ。
 神の愛と懐ろは無尽蔵に深いと、誰かは言う。それは正しい。けれどその神の、海よりも深い愛に甘えることが、神を信じるということなのか。否。プッチは 胸の中でつぶやく。神を愛するということは、神の考えを悟り、受け入れ、助け、必要なことはすべてためらいなく実行するということだ。聖書で禁じられてい ることさえ、神のためなら、破ってしまえる、それがプッチにとっての神への愛というものだった。
 所詮聖書なぞ、ちぎれ破れる紙に印刷された、文字の羅列に過ぎない。そこに書き連ねてあることが、一体どれほどのものだと言うのか。神とは、紙の束でも 字の連なりでもない。神とは、今この瞬間に、世界のあらゆる場所に存在し、あらゆる人々を見守り、あらゆる思考に影響を及ぼし、すべての人を導く存在なの だ。そんな存在が、あんなちっぽけな本1冊に収まるわけがない。
 神とは、何もかもを超越した存在だ。だからこそ、プッチは神を愛し、神はプッチの愛に相応しい。
 紅茶を、また一口飲んだ。
 世の中はあまりに乱れ過ぎていて、正しいことではなく、声の大きな者の意見が通る世界になってしまっている。
 プッチが信じている神以外の、何か邪悪なものを神と称して、多くの者たちが祀り上げられている。どれほど声を枯らして、それが間違いだと叫ぼうと、プッ チの声はどこにも届かない。何とかしなくてはならないと、どれほど祈っても、プッチの神は沈黙でそれに応えるばかりだった。
 なぜ、と思った。なぜ神は、この世界を乱れるままにしているのか。プッチやDIOのような、正しく神を理解し愛そうと努めている人間たちが踏みつけにさ れ、神なぞ存在した試しがないと言い切る愚か者たちが、大手を振って我が物顔で世界を荒らし回っている。
 そうして、ある日当然気がついた。これこそが、神の選択なのだと。この荒れ狂う、正しいものが虐げられる世界こそが、神の望んだ世界の姿なのだと、プッ チは唐突に悟った。
 神は、自分を信じない愚か者たちが、互いに滅ぼし合うのを待っているのだ。滅ぼし合って、愚か者ゆえの限度のなさで、いずれ滅びてしまうだろうその時を 待っているのだ。
 愚かではあっても、自分の足元で生きる人間たちを、神自身の手で葬り去るわけには行かない。神自身の手を汚すわけには行かない。
 愚か者同士は愚か者同士、滅ぼし合えばよい。そうして、残った人間たちで、天国を目指すのだ。神の輝く手に導かれて、清らかな天国の門を、胸を張ってく ぐるのだ。
 そのために、神の計画を一歩でも前に進めるために、プッチはDIOと出会い、愚かな人間たちをひとりでも、神の手を煩わせずに減らすために、精一杯力を 尽くしている。
 神のために。神への愛ゆえに。神に忠実な使徒となるために。そして、神の手が清らかであると同様に、その使徒であるプッチ---とDIO---の手もま た、清らかでなければならなかった。
 プッチがどんなことを言おうと、DIOは驚かない。軽蔑の表情を浮かべたことすらない。DIOの口にすることやることすべて、プッチはそのまま受け入れ ている。互いの意見と行動に敬意を払い、神の計画のために協力し合うふたりは、今ではまるで頭の中を共有しているように、何もかもをいちいち説明する必要 すらない。
 DIOに語りながら、プッチは、自分の神への愛と理解のあまりの深さに、こっそりと身震いする。神と直に、体のどこかが繋がっているような、そんな錯覚 さえ覚える。それを不敬とは思わない。これほど神を愛している存在がこの地上に在ることを、神はむしろ歓んでいるはずだった。指先ひとつ動かす必要もな く、神が為すべきことは、プッチの手を通して為されるのだ。神の手はつまり、プッチの手だった。
 空いた方の掌を膝の上に軽く開いて、プッチはそれを見下ろした。唇よりもふた色軽い、桃色がかった肌色の、ふっくらとした、荒れのない美しい手だった。 穢れになどまだ触れたことはない。血にまみれたこともない。ただひたすらに、美しく清らかな、神の使徒であり代理人である、プッチの手だった。
 ゆっくりと握る。まるで神がたった今そうした動きが伝わって来たのだとでも言うように、プッチは自分の手が動くのを、じっと見下ろしている。
 握り込んだその中に、神との絆があるのだ。神と繋がっている。神の意志がプッチの意志であり、プッチが為すことが、神の為すことなのだ。
 ひとり物思いに沈んでいるプッチを、何も言わずに眺めていたDIOが、音を立てずに椅子から立ち上がった。
 一歩半で、滑るようにプッチの前へ足を運んで来て、プッチが膝の上に抱えたままのカップを、そっと取り上げる。
 「チェスでもしないか。」
 ささやくような声に、顔を上げて、プッチは不意に目の前に現れたDIOの白い美しい顔に、ふっと目を細める。
 「いいとも。」
 かちんと、隣りの丸テーブルに置かれたカップが、可愛らしい音を立てる。
 プッチの、軽く握られた方の手を取って、DIOがまるで、女性の手に口づけでもするような仕草で、うやうやしくプッチの腕を引き寄せた。
 「テレンスに、お茶のお代わりを頼もう。」
 言いながら、立ち上がったプッチの肩に腕を回し、ぴたりと体を寄せる。聖職者に対するそれにしては、どこか目のやり場に困る親密な仕草で、けれどプッチ はむしろDIOの肩へ向かってもっと近く頭を傾け、ふたりは静かな足取りで、ドアへ近づいて行った。