The Mission A 汗が、滝のように流れ落ちていた。 拭っても拭っても、だらだらだらだらと、こめかみからあごを伝い、地面に落ちてゆく。時折、古ぼけて傷だらけの靴の爪先に、もうそうともわからない染み になることもある。 こんな症状は久しぶりだ。あまりに長い間、DIOから充分に薬を与えられていたから、禁断症状のことなど、すっかり忘れかけていた。 DIO---花京院の手---から渡される薬は、いつだってどこから手に入れたのかと思うほど上物で、路上で買えばいくらするどころか、見つけることさ え不可能ではないかと、承太郎はいつも思っていた。 今回のは違う。まるで、小麦粉か砂糖のまがい物だった。一体何が入っていたのか、混ぜ物でひどく薄められていたことだけは確かだ。でなければ、こんなに 早く切れるはずはない。 いつもなら、あの小さな袋が、1日分にほんのわずか足らないだけだ。今日はまだ、新しい袋を開けてから、半日と経っていない。それなのに、袋はもう、 白っぽく粉の残骸をこびりつかせただけで、空になってしまっている。 まだ、倒れずに歩けるだけましだ。歩けるうちに、教会へ行かなければと、承太郎はそればかり考えている。 こんなところで行き倒れるわけには行かない。救急車でも呼ばれれば、ポケットの中のヘロインの袋---空だけれど、何が入っていたかくらいは誰にでもわ かる---と、ついさっき発砲したばかりの銃が見つかる。警察が呼ばれるだろう。そんなわけには行かない。 5人目と、まだそれほど離れたわけではない。死体と、承太郎が倒れていた位置と、この銃と、警察はすぐに、承太郎がやったことだと悟るだろう。 捕まるわけには行かない。事はまだ、始まったばかりだ。まだ、たった5人だ。 爪先とかかとに力を入れて、承太郎は歩き続ける。 今夜はそこへ、ひとりで行った。低所得者---承太郎のような人間よりは、多少ましな人生を歩んでいる人たち---の集まる住宅街の裏手にぽつんとあ る、もう使い道もなく放置されている小さなトンネルは、昼間は子どもたちが遊び場にしているのか、明るい時なら、キャンディーやチョコレートの包み紙があ ちこちに捨てられているのが見えたろう。 男は黒っぽい姿で、どうやらそう言われた通り、きちんとひとりでいた。他に誰かがいたところで、心配することはないと思っていたから、とにかく手っ取り 早く済ませようと、いつものように何も言わずに、男の頭を狙って撃った。1発目は、ひどい外れ方をして、男の肩をかすった。ここへ来る時から、もう薬が足 らなかったことに気づいていた。 震える手を必死で押さえて、流れる血を手で押さえて逃げようとする男を追いながら、急いで2発目3発目と、立て続けに撃った。 腰の辺りに当たったらしく、致命傷にはならなかった。それでも動けなくなった男をまたぎ、両手で銃を構えて、今度こそ後頭部へ2発。 そこへ長く居過ぎた。弾も使い過ぎた。来た方向とは逆に走って、承太郎は逃げた。小さな通りでは目立ち過ぎるから、息を切らせながら、よたよたと、明る い大通りまで走った。 ずっとどこか遠くに、パトカーのサイレンを聞いたような気がしたけれど、振り返らなかった。 誰にも見られなかったし、誰の足音も聞かなかった。大丈夫だ大丈夫だと、自分に言い聞かせながら、辺りを見回して、自分の位置を確かめる。 薬が切れかかっている。汗が止まらない。これは、人を殺したばかりのせいではない。薬が切れかかっているせいだ。水を浴びたように、全身がびっしょり だ。 教会へ向かうしかない。明日の朝まで、耐えられそうにはなかった。 また汗を拭う。濡れた手を振って、水滴を払いながら、承太郎はふらふらと歩き続けた。 そう言えば、今日は日曜だ。日曜には、教会に来てはいけないと、花京院に言われていたことを思い出した。そうだ、だから金も薬も、いつもより多く手渡さ れたはずだ。それとも、自分の勘違いだろうか。気づかずに、いつもより多く量を打ってしまったのか。けれどそれなら、こんなに早く切れるわけがない。考え ても考えても、混乱するばかりだ。今日がほんとうに日曜なのかどうかすら、きちんと思い出せない。最後に花京院から薬と金を受け取ったのが、今日だったか 昨日だったかも思い出せない。それともあれは、おとといのことだったろうか。 噴き出す汗が冷えて、背筋に悪寒が走る。まるで、背骨が全部氷に変わってしまったようだ。 両腕で自分を抱いて、震える体を押さえつけようとする。ふらつく足を、きちんと地面に運ぶだけで精一杯だ。まだ歩ける。まだ大丈夫だ。教会はまだずっと 先だったけれど、承太郎はぶつぶつと口の中で、自分を励まし続けている。 あそこへ行けば、何とかなる。来てはいけないとは言ったけれど、行ってしまえば、何もせずに追い返すことはしないはずだ。さっさと薬を受け取って、その ままきびすを返せばいい。ただそれだけだ。中へ入る必要もない。ただ裏口へ立って、花京院から小さな袋をこっそり受け取ればいいだけだ。それだけだ、5分 も掛からない。 できれば、少しばかりの間、地下の部屋で花京院と話をしたかったけれど、今日はきっとずっと忙しいのだろう。それなら仕方がない。明日出直せばいい。明 日また、花京院に体を洗ってもらい、着替えさせてもらい、眠るのを助けてもらえばいい。 眠りに落ちながら、不安だったと、正直に言ってしまえばいい。薬が切れて、手が震えて、うまく撃てなかったと、狙いを外して、5発も撃たなければならな かったと、パトカーの音を聞いて、心臓が止まりそうだったと、素直に言ってしまえばいい。花京院はきっと、承太郎の髪を撫でながら、情けないその有様を 黙って聞いてくれるだろう。人ひとりまともに殺せない殺し屋の承太郎を、鼻で笑ったりはしないだろう。この先一体何人殺せばいいのか、考えるだけで泣きた くなると、そう言ってみようか。救世主がどうのという御託は建前だ。ほんとうは、薬欲しさに人を殺しているだけだ。 薬がない苦しみには耐えられない。あの、体中の骨を叩き壊されるような、関節という関節を、すべてねじ壊されるような、あの痛みを思い出すだけで、もっ とひどい寒気がする。 足はまだ、ちゃんと前に向かって動き続けていた。顔を上げて、方向を確かめて、通り過ぎる道の名前を確かめる。大丈夫だ、ちゃんと教会に向かっている。 そして、パトカーはどこにも見当たらない。 もうすぐだ、もうすぐだと、手近にある何でもいい、壁でもベンチの背でも、そんなものにすがって歩きながら、いよいよとなったら這うさと、増す苦しさの あまりに、思わずにやりと笑った。笑うと、あごの辺りを、ハンマーで叩かれたような痛みが走る。汗は止まらない。うつむいて、滴る汗を見ながら、足を前に 進める。 吐き気がして、胃がせり上がって来るような感覚があったけれど、朝から何も食べていない胃は、ただ一瞬うごめいただけだった。みぞおちの辺りを押さえ て、また歩き続ける。 もう少しだ。あの角を曲がって、そのまま真っ直ぐ。道の終わりの少し手前、あの、夜は暗い道を行けば、目指す教会だ。 ふと、教会のある方向に目を凝らして、2階建ての家並みに紛れてしまうその黒い輪郭を見つけながら、今夜のいつか警察に見つかれば、明日花京院に会うこ とができないのだと、承太郎は考える。それならなおさら、今夜どうしても会いたい。薬も欲しい。何より薬が欲しい。けれど、花京院にも会いたい。 ずるずると引きずる足に体の重みを乗せて、承太郎は必死でそこまで歩いた。 背中を丸め、まるで闇に紛れるように、足音を忍ばせる気遣いは忘れずに、裏口へゆく。窓から漏れる薄明かりを確かめて、ドアを叩いた。 「・・・花京院?」 反応はない。誰かが気づいてやって来た様子はない。また、今度は少し大きな音で、ドアを叩いた。そうして、叩いたドアの揺れ方で、鍵が掛かっていないこ とを悟る。 こんな時間だと言うのに、裏口は開いたままだ。日曜の忙しさに紛れて、閉めるのを忘れたのだろうか。 泥棒のように、そっとドアを開けて、中へ滑り込む。ドアの近くにはちゃんと明かりが点いている。けれどしんと人の気配がない。 「花京院・・・?」 小さな声で呼んだ。 このまま地下の部屋へ勝手に行って、薬を探そうかと思ったけれど、それには気が引けて、とりあえずここへ無事に着けた安堵で、承太郎はひとつ大きく息を 吐いた。 花京院と、また呼びながら、いつもいる、そこからは3つ目のドアを叩く。返事はない。部屋の中は暗いようだ。 そうして、また数歩足を先に進めたところで、承太郎は声を聞いた。 何を聞いたのか、一瞬わからず、思わずそちらへ耳を向けて、それが礼拝堂へ続く、ドアの向こうからやって来るのだと悟るまで、数瞬かかった。 これも禁断症状のせいかと、思う。思って、確かめずにはいられない。爪先を滑らせて、承太郎は、足音を消した。ノブをそっと握り、できるだけ静かに回 す。音をさせずにわずかに開いたドアのその隙間から見えるのは、人工の明かりではなく、いくつもともされた蝋燭の火だった。 小さな階段を上がる祭壇の上、そこを、3列目のベンチに坐ったプッチが、つまらなそうに見ている。蝋燭の赤い火の揺れるその瞳には、距離のせいかどう か、表情が見えない。 祭壇の上で、何かが動いている。何かが、声を上げている。 床に這って反る背中に、肘近くを縛られた両腕があった。顔は、プッチの方を向いている。後ろから揺すられるたびに、うめく声がもれていた。承太郎が聞い たのは、その声だった。 その場の誰も、承太郎に気づかないらしく、儀式が中断されることはない。 心臓の音が、大きく響いていた。祭壇いっぱいに広げられた黒い布の上に、白い躯が押し潰されて、侵されている。必要なだけはだけた服をまとわりつかせ て、唇を卑しげに歪めて、男が、白い躯を後ろから侵していた。 男は、へらへらと気持ちの悪い笑い方をして、一度躯を引くと、押し潰していた白い躯を乱暴に持ち上げて、まるで荷物のようにひっくり返す。放り出され て、頭が階段を落ち、首が反る。目を閉じたままの顔が、承太郎へ向かってあらわになった。 ひとふさだけ長い前髪が、そちらに投げ出された木の十字架と一緒に、階段に散っている。 承太郎は、思わず足を後ろに引いて、ドアの中へ身を隠した。 あれは花京院だ。 声が、いっそう高くなる。痛みを訴えるような響きに、我慢できずに、またドアの隙間から覗いた。 開いた足が、男の腰の両側で、力なく揺れている。男は、花京院の腹の辺りで、何かを引っ張るような仕草を繰り返していた。そのたびに、突き上げられる動 きと一緒に、花京院が悲鳴を、必死で飲み込もうと、喉を痙攣させているのがわかる。 プッチは相変わらず、面白くもなさそうに、祭壇の上の儀式を眺めている。 何が起こっているのか、わからなかった。 なぜあんなところで、花京院が、あんな真似をしている---させられている---のかわからない。なぜあれを、プッチが黙って見ているのか。あの男は一 体誰なのか。 音をさせずにドアを閉めて、承太郎は、窓際の壁に寄りかかった。吐き気のする口元を掌で覆って、禁断症状の苦痛に耐えながら、今目にしたものをきちんと 理解しようと、回らない頭を酷使し始める。 あれは何だ。あれは何だあれは何だあれは何だ。 説明できない。ここは教会だ。プッチも花京院も神父で、そこは礼拝堂だ。神父がそこに立って、説教をする場所だ。信者が神を見上げて、神に愛されている ことを確認するための場所のはずだ。 ドアの向こうで、布のこすれる気配と、足音がした。 こちら側に開くドアの陰に、背を伸ばして立つ。どうしようと思ったわけではなかったけれど、先に体が動いていた。 長い間のように思えたけれど、ついに、ふたり分の足音が、ドアへ向かって来るのを聞いた。静かな足音と、ひきずるような足音と、乱れるように一緒にやっ て来る。ドアが開き、承太郎には当たらずに、先に、男の方が廊下に出て来た。続いて、プッチの横顔が通り過ぎようとする。 閉まったドアを背にして、承太郎はプッチの肩を掴んだ。 驚いて振り向くプッチの首を締め上げて、傍の壁に押しつける。音に気がついた男が足を止め、ふたりの方へ振り向いた。 「・・・てめえ・・・。」 鼻先の触れそうな近さで凄んだ声を出しても、プッチは驚いた様子も浮かべない。 「なんだ、来ていたのか。」 自分よりも頭半分以上高い承太郎に向かって、あごを斜めに突き出すようにしながら、軽蔑し切ったような視線を浴びせてくる。 「神父さまッ!」 承太郎の形相にひるんだように、一瞬遅れて、男がふたりの間に割って入ろうと腕を伸ばして来る。承太郎はプッチの首に右手だけ残すと、素早く左手を背中 に回し、そこから引き出した銃を、ためらわずに男に向けた。 「近づくな、このゲス野郎。」 銃を持つ手が震えている---しかも左手だ---が男にばれなければいいと、ちらと思う。思いながら、男をにらみつけた。 「なんだオメーは!」 男は懐ろに手を差し入れようとした。 「やめろ、スポーツ・マックス!」 プッチの、厳しい声が飛ぶ。スポーツ・マックスと呼ばれたその男は、心外だと言わんばかりに唇を歪め、まだ未練がましく腕を上げたままでいたけれど、 プッチにもう一度低く名前を呼ばれて、ようやく両手をだらりと下げた。 「おまえはもういい、とっとと立ち去るがいい。」 銃を取り出した承太郎に、何の恐れもないように、野良犬にでもするように、プッチがスポーツ・マックスに向かってあごをしゃくる。でもと、スポーツ・ マックスが、承太郎をにらみつけながら反駁するのに、氷のような視線を当てた。 「同じことを二度言わせるな。」 承太郎すら、その冷たさに肩が震えるような、プッチの声だった。 スポーツ・マックスは、奥歯を噛みしめて、こめかみに血管を浮かべながら、そのまま後ろへ足を引き始めた。承太郎が自分を撃たないように、あるいはプッ チが、少なくともこの瞬間無事であるように、裏口のドアへ向かって後退る。 承太郎は、まだ銃を構えたまま、スポーツ・マックスが完全に姿を消すのを見送った。 「銃をしまえ。わたしの教会を汚(けが)すことは許さない。」 矛盾だらけなくせに、凛としたその言葉には、なぜか逆らえない響きがあった。プッチは正面から承太郎を見据えて、決して目をそらさない。承太郎は、震え る手を隠すために、言われた通りに、銃をまた背中の方へ差し込んだ。 改めて両手でプッチの襟元をつかんで、承太郎は、怒りに震える声を、いっそう低める。 「一体全体、何をしてやがる。花京院を、一体・・・」 「わたしはただ、多数を幸福にするために、小さな犠牲を払っているだけだ。」 「犠牲だと・・・?」 「そうだ、わずかな犠牲で多くの人間たちが幸せになれるなら、わたしは喜んで目をつぶろう。幸せとは、犠牲なしには成り立たない。人は、犠牲なしには決 して幸せにはなれない。」 「それとこれと、花京院のことが、何の関係がある。」 「あれはその、尊い犠牲だ。神の選択だ。神がわたしに、あれを犠牲にせよとおっしゃった。あれはそれを受け入れた。ただそれだけだ。」 「"あれ"じゃねえ! 花京院だ!」 声を荒げて、いっそう強く、神父服の固い襟をつかみ上げる。プッチの平然とした表情は、承太郎がいくら怒り狂おうと変わらず、今では憐れな虫でも見るよ うに、プッチが軽く首を振った。 「同じことだろう。おまえも、わたしと同じことをしている。わたしは少なくとも、人殺しではない。」 人殺しと、言われて、承太郎はその言葉の冷たい響きに、心臓をわし掴みにされたように感じて、思わず指先の力をゆるめた。 「わたしから、その汚らわしい手を放せ。」 凍るような視線と声が、承太郎を動かした。硬張った指をばらばらにして、プッチの首元から、やっと手を外す。 承太郎を恐れる様子はまったく見せずに、プッチは、まるでただ風で髪が乱れただけだとでも言うように、襟元を直し、うなじを撫でて、その間ずっと、自分 の前で肩を震わせている承太郎に、蔑みの視線を投げ続けることをやめなかった。 「・・・承太郎。」 声の方へ振り返ったのは、ふたり一緒だった。 花京院が、血の気のない顔で、ドアから体半分だけ廊下へ出て、そこで立ち止まっていた。 冷静であろうと、必死になっている口元が、何か言いかけたままで、動かない。視線をうろうろと泳がせて、黒いローブの襟元を、爪が食い込むほど強く握り しめている。 祭壇に広げられていたのは、その黒いローブだったのかと、今はゆったりと花京院の全身を覆っているそれを、承太郎はふとぼんやり眺めた。裾から覗いてい る素足が、縛られていた腕と白い背中を思い出させて、承太郎も、言葉もなく、苦しげに視線をさまよわせた。 「何か、用があるそうだ。」 役者も舌を巻く見事さで、プッチが、花京院に向かって微笑みを浮かべた。慈愛に満ちた、神父の貌(かお)だ。こんな表情で、あの祭壇に立って、信者に向 かって説教を行うのだ。同じ顔で、同じ場所で、花京院が侵されるのを眺めるこの男を、承太郎は背筋が凍るほど憎んだ。 「わたしは部屋へ戻る。」 唾でも吐き掛けたそうな表情で承太郎を見上げて、短く言い捨てて、何事もなかったように、プッチはふたつ向こうのドアへ消えた。 静かになった暗い廊下に、承太郎と花京院が取り残された。 「・・・どうか、したのか。」 ようやくドアを通り抜けて、恐る恐る花京院が近づいて来る。 床を見つめたまま、承太郎は花京院を見ることができずに、 「・・・薬が、欲しい。」 言いながら、顔を向こうに向ける。 「下へ行こう。」 ついに自分の傍へ立った花京院を、避けるような拒むような態度を、どうしても隠せなかった。 だらりと下げていた手---ずっと震えている---を、飛び上がるような仕草でズボンのポケットに差し入れ、肩を丸めた。花京院から顔を背けたまま、先 に立って、ゆっくりと歩き出した背中を、ちらちらと見ながらついてゆく。 足を運ぶたびに揺れるローブの裾から、思ったよりも筋肉質の、けれど細い足が見える。 なぜ、とそればかり頭の中に浮かぶ。 地下へ下りる階段に、またふらつき始めた足を何とかしっかりと乗せて、花京院の背中を追う。承太郎が、花京院を拒みたい気持ちを隠せないと同じに、花京 院の背中もまた、承太郎の問いを拒んでいる。何も訊くなと、背中の硬い表情が言っている。それを見つめながら、承太郎は、プッチの言ったことを反芻してい た。 いつものように部屋に入り、承太郎は真ん中辺りに突っ立ったまま、花京院が薬と金の入った封筒を、引き出しから取り出すのを待った。うつむいて、丸まっ た背中が小さく動くのに、悲鳴を噛んで慄えていた白い喉を思い出す。東洋人らしい、男ではあっても細い首に回った、十字架の簡素な鎖。あの首を、いっそ絞 め上げてやればいいと、ふと思った。 「だから日曜にはここに来るなと、おれに言ったのか。」 背中が伸びて、承太郎の方へ振り向く。花京院の顔は、相変わらず紙のように白いまま、表情は、特にない。 承太郎に封筒を差し出して、上向く視線は、どこか遠くを見ているようだった。 まだ差し出された封筒を受け取らずに、承太郎の両手はポケットの中のままだ。そこで握りしめた拳が、ずっと震えていた。 「・・・言ったじゃないか、他の誰かが傷つくなら、それをどうにかして防ぐのが、僕らの役目だって、そう言ったじゃないか。」 唇を動かして、かすかに浮かんだ表情が、ほんとうに薄い微笑のように見えて、承太郎はそれに傷ついた。ほんとうに、芯から花京院に拒まれた---先に拒 んだのが、承太郎なのだとしても---と思って、また拳を強く握り込む。 「・・・傷ついてるのは、てめーだけじゃねえか。」 花京院の唇が震えている。必死に、傷ついた表情を隠そうとして、けれど笑うことができずに、そこに浮かんでいる感情のひとつびとつを、承太郎はきちんと 拾い上げることができずに、そのことにもっと怒りが湧いた。 ローブの前を合わせて、決して開かないように左手で握り、素足から、承太郎が見た時のまま、その下が全裸のままだろうことは容易に想像がつく。なぜ、と また思った。 「ここは教会で、てめーは神父で、その神父が、一体何してやがる。なんでてめーが、あんなことをする必要がある。」 低い声が、ところどころかすれた。 花京院は、承太郎を見上げたまま、問いには答えない。答える気はないように見えた。 一度、壁の方を向いて視線をそらし、花京院を見ずに、承太郎は封筒を、ひったくるように取り上げる。そのままくるりと背を返して、部屋を出て行ってしま いたいと思いながら、まだ足が動かない。胃の辺りの鋭い痛みと吐き気は、禁断症状のせいばかりとも思えない。承太郎は、ぎりぎりと奥歯を噛んだ。 教会という場所が、そこに関わる人間たちも含めて清らかな場所なのだと、どこかで思い込んでいたことを思い知る。必ずしもそうではないと知っていなが ら、それでも、教会という場所を、心のどこかで信じていた自分に、承太郎は驚いている。だから、こんなふうに今、失望と落胆に苛まれて、花京院を責めたく て仕方がないのだ。 わかっていたはずだ。人殺しの承太郎を受け入れて、薬まで手渡している神父のいる場所が、清浄なわけもない。そして、清浄でないものが悪だとも限らな い。正義を貫くために、血や泥にまみれる手もある。 おまえも、わたしと同じことをしている。プッチが言った言葉が、また耳の奥に響いていた。 プッチは、花京院に淫売の真似をさせ、承太郎は売人の真似事をさせている。確かに、同じかもしれない。自嘲気味にそう思いながら、それでも、少なくとも 自分は、直接花京院を踏みにじるようなことはしていないとも思う。けれどそれも、果たしてほんとうかと、問いかける声が、頭の中に聞こえた。 なぜ、とまた思う。答えは、どこにも見つからない。 世の中を変えるのだと、DIOは言った。承太郎がそれをするのだと。そして確かに、承太郎の世界は変わりつつある。まるで想像もしていなかった方へだ。 世界を救うために、人たちを導くために、片手を高々と上げている。その手は、血に汚れている。死体から流れた血の河を越えて、承太郎は、天国を目指してい る。 世界のためにだ。そして不意に、その世界とやらに、花京院が含まれていないような気がして、承太郎は右手を伸ばした。 承太郎が触れようとした肩を、花京院が後ろに引く。触るな、触られたくない---誰にもか、承太郎だけかはわからない---と、口元に拒絶の表情が浮い た。 「答えろ花京院、このままずっと、あのゲス野郎に好き勝手させるつもりか。」 「僕に、選択なんかないんだ。」 子どもがいやいやをするように、花京院が首を振る。 凶暴な衝動に背中を押されて、承太郎は花京院の両腕をつかんで揺さぶった。だたがくがくと首を揺らす花京院に顔を近づけて、さらに言い募る。 「プッチか、あいつの命令か?」 違う、と顔を背けながら言うけれど、口調が答えを裏切っていた。 「やめてくれ承太郎。」 必死に、片腕だけで承太郎の体を押し返しながら、花京院の声が弱く届く。 腕はまだ放さずに、うつむいてしまった花京院の顔を覗き込んで、承太郎は何もできない自分に歯噛みする。 世界を救おうとしているのに、花京院ひとりを救うことができない。承太郎が手に入れた力は、ここでは何の役にも立たない。承太郎が目指す天国は、多くの 人々を救っても、目の前のたったひとりを救うためには存在しない。ふと、ひどく静かな殺意を感じた。ごく個人的な殺意だ。世界のためではなく、花京院のた めに、プッチとあのスポーツ・マックスと呼ばれていた男を殺す。誰でもいい、花京院を踏みつけにする誰も、死んでしまえばいい。殺してやる。 それなら真っ先に、自分が死ぬべきだと、そろそろまともな思考のできなくなっている頭の隅で、光が閃くように思った。 承太郎の腕を外そうと、そこに花京院の手が掛かる。ざらついた指先の冷たさに我に返って、承太郎はまた指先に力を込めた。 「僕は、自分がすべきことをしてるだけなんだ。君の目にどう映ろうと、僕はただ、自分の役目を果たしているだけだ。」 感情のこもらない、表情のない声が、虚ろに響く。同じように、花京院の表情からも、一切合財が消えていた。 そうして、花京院がずっと握っているローブの前の合わせは、その中にあの十字架がくるみ込まれていることに、突然承太郎は気づいた。 息がかかるほど近くにいても、その十字架がふたりを阻んでいる。どれほど近づこうと、十字架を盾にして、花京院は承太郎を近寄らせない。神と呼ばれるも のの存在を、承太郎はその時本気で憎んだ。花京院のことを、神の選択だと言い切ったプッチを、八つ裂きにしてやりたいと思った。 「神がどうのの御託はもういい、そんなもんじゃねえ、てめーの言葉で言え。てめー自身の言葉で、おれに説明しろ!」 花京院の手を、十字架から外させようと、握りしめたその手の中に、指先を無理矢理差し入れようとする。それを、花京院は強硬に拒んだ。 「やめろ承太郎!」 そうするつもりはなかったけれど、もみ合ううちに床に倒れ、花京院を自分の下に敷き込む形になる。承太郎にのしかかられて、重みにどこかが痛んだのか、 花京院が小さく呻く。 承太郎は容赦はせずに、花京院の両手をまとめて床に縫いつけ、開いた片手で、十字架を首からちぎり取るつもりで、すでにゆるんで開きかかっているローブ の前を、完全に開いた。 いつもは神父服にきっちりと覆われている、初めて見る、花京院の素肌だった。 あまり日に当たらないせいか、どこも色が薄い。胸や肩の筋肉が痛々しく見えるほど、引き伸ばされたような、薄い皮膚だった。 十字架に、手が伸びなかった。 自分の体を見下ろしている承太郎を、顔を背けて横目に見ながら、花京院は暴れるのをやめた。承太郎が目にしているものが何か、何に承太郎が驚いているの か、承太郎の、濃い深緑の瞳に映っているそれから、花京院は目をそらそうとしていた。 銀色の輪。胸にふたつ。見下ろす下肢にひとつ。あの時祭壇で花京院を正面から侵しながら、あの男は、これに通していた鎖を引っ張っていたのだと、めまい とともに悟る。 自分の体を飾るために、わざわざこんなことをする連中がいることは知っている。けれど花京院のこれは違う。誰かが、花京院に、消えないしるしをつけたの だ。所有のしるしだ。花京院が、誰かに所有されていた、あるいは今も誰かが花京院を所有しているという、これはそのしるしだ。 誰だと、承太郎は吐き気をこらえながら、小さく声に出していた。 あちこちに無数に残る歯型の跡は、銀色の輪に比べれば、大したことではないように思えた。ほとんど黒に近い、赤紫の、あるいはすでに黄色に薄まった、力 いっぱい噛まれた跡は、全部あのスポーツ・マックスが残したものだろうか。 それ以上、花京院に触れていることも、花京院を見続けることもできず、承太郎はふらりと上体を揺らして、花京院から手を放した。 腰の辺りをまたいでいた足をどけて、そのまま床に坐り込む。ちくしょうと、噛んだ奥歯の後ろから、思わず声が出た。 「ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!」 叫びながら、拳で床を叩く。 大きな体を折り曲げて、承太郎は床を叩き続けた。叫び続けた。叫びながら、泣いていた。 「承太郎・・・。」 いつもの、心配そうな花京院の声が、背中に近づいて来る。ローブの前をまた合わせて、たった今見られた無残な傷---と、他のもの---を隠して、花京 院は、承太郎の丸まった背中を抱こうと、腕を伸ばしてくる。 それが、自分に触れる一瞬前に、承太郎は立ち上がり、部屋を走り出ていた。追って来る花京院の声には、振り返らなかった。 教会を出た途端、突き上げてきた吐き気に耐え切れずに、舗道の端で体を折る。空の胃に吐くものなど何もなく、喉をあえがせた後で、唾液交じりの胃液をよ うやく吐き、涙に濡れた頬ごと、手の甲で汚れた口元を拭った。 闇に紛れて、ふらふらと歩き出す。頭を撃ち抜いた自分の死体を想像して、口元に薄笑いが浮かぶ。気味の悪い笑い声が、後から後からあふれて、止まらな かった。 |