The Needle Lies C ほんのしばらくの間、薬の心配はなくなったけれど、承太郎の状態は、そう良くはならなかった。 路上で手に入れられるそれは、大抵混ぜ物で薄められていたし、その混ぜ物も一体何かわからず、そんなものを体に入れて---もちろん、ヘロイン自体もだ ---いいはずがなく、効いてくるのに時間が掛かり、効果は大して長続きもせず、そしてなるべく、使う量も回数も減らそうと努力していたから、承太郎はい つも禁断症状の手前のような状態で、気の休まる時など一時もない。 禁断症状だけではなくて、明らかに体がおかしくなっている様子も見えた。 不安気にしがみついて来る承太郎を抱いて、大丈夫だと髪や背を撫で続けながら、花京院は、もう少しましな薬を手に入れるために、その金を稼ぐために、自 分ができる唯一のことをするべきなのかと、考える。承太郎のために、外へ出て、自分を欲しがる誰かを探して、ほんの数時間の我慢で、こんな承太郎を見なく てすむようになるなら、それでもいいと、ふと考える。 神はまだそこにいるけれど、きっと自分はもう見捨てられているだろう。だから、恥じる必要も、罪の意識を感じる必要もない。ただ承太郎のために、ほんの 少しだけ我慢をして、自分のできる唯一のことをすればいい。 昔そのためにうろついたところを、まだ覚えているだろうか。あそこに、ちゃんとひとりで行けるだろうか。そうして、そこからここへ、戻って来れるだろう か。 汚れた金を懐ろに、承太郎のための薬を手に、承太郎の自殺行為を手助けするように、花京院は、確実に死に向かうその行為を、助けるために身を売ることを 厭いはしない。 承太郎に死んで欲しくはないのだ。けれど、苦しむ承太郎を見ていたくもない。薬を運んで来て、それを承太郎に渡し、ほんのひと時うっとりとした光を濁っ た瞳に宿らせ、承太郎はそうして、花京院に手を伸ばす。どこかの名もない誰かに躯を明け渡して来た---承太郎のために---花京院を、承太郎は、震える その腕に抱く。 それは一体、いつまで続くのだろう。どれだけ引き伸ばしても、最後に訪れるのは、承太郎の死だ。そう遠くはない未来に、花京院はそれを思い浮かべること ができる。 どうしたらいいのかわからない。承太郎を救えない。神への祈りは届かず、花京院の目の前で、承太郎は今死に掛けている。今死なせたくはなくて、薬を手に 入れたいと切実に思い、絶対に死んで欲しくないのなら、今すぐにでも薬と手を切らせるべきだと思って、けれど苦しむ承太郎を直視できない。 助けの手はなく、行く場所はなく、世界の片隅にぽっかりと浮いた、どこにも繋がらない空間で、ふたりは今途方に暮れていた。 死へ向かう承太郎の手を、花京院はそちら側へ引いている。そして、そちらへは行って欲しくはないのだ。 どこへも行けない。どこへもたどり着けない。どこかへ進んでいるのだ。この道は行き止まりではない。けれど、たどり着いたその先は、ぽっかりと闇の浮く 崖っぷちだ。足を滑らせて、落ちてゆくしかない。落ちてゆく承太郎の手を、花京院は離すことなどできない。けれど承太郎に、花京院の手を握り続けている力 が残っているかどうか、わからない。 承太郎だけが、先に行ってしまう。そんなことには耐えられない。ひとり取り残されることに、ひとり置き去りにされることに、見捨てられてひとりぼっちに なることに、花京院はもう耐えれらない。 もう、祈ることさえできない神を、心の中で呼ぶ。外してしまった十字架を、指先が胸に探る。祈ることしかできず、祈りは無力で、神に背を向けた自分が、 ほんとうに何もないがらんどうであることに気がついて、そこへ納まるはずの承太郎は、手足を縮めて、汗を流しながら、ただ苦痛に耐えている。 承太郎はそこにいる。触れることもできる。抱き合って、汗を混じり合わせて、できる精一杯の親(ちか)しさを躯で表しながら、けれど、承太郎が遠い。こ の狭い空間の中で、ふたりは一緒にいるにも関わらず、互いから、星よりも遠く隔たっていた。 どうしたらいいのかわからない。どうすることもできない。このままを続けることはできず、けれどこれ以外に何ができるのか、わからない。 ふたりで手を取って逃げ出して、そして、何かが変わるのだと思っていた。逃げ出しさえすれば、光のある場所へ這い出ることができるのだと、思い込んでい た。 何も変わらない。承太郎は薬と手を切れず、花京院はまた、路上へ戻る羽目になるかもしれない。そしてそう遠くない未来に、承太郎は突然心臓の動きを止 め、花京院の元から永遠に去ってゆくだろう。 承太郎を失くして、花京院は、光のない場所へ、永遠に閉じ込められるのだ。もう、助けは来ない。差し伸ばされる腕はない。永遠にひとりきり、承太郎の体 温だけを反芻して、衰弱してゆく心を抱えて、ただ生きているだけのひとの残骸に成り果ててしまう。 十字架を見つけられない指先を、花京院は、承太郎がくれたピアスへ伸ばす。耳から垂れる鎖の先の小さな赤い玉は、つめたくもなくあたたかくもなく、それ ぞれの耳朶にふたつ揃ったそれを、まるで自分たちのようだと、花京院は思う。 承太郎が、花京院の腕の中で、不意に激しく咳き込み始めた。 肺からではなく、肺そのものを吐き出しそうな激しい咳に全身を波打たせ、承太郎は、突き飛ばすように花京院から体を離すと、そのままベッドを飛び降り て、バスルームへ駆け込んでゆく。 その後を全裸のまま、花京院もバスルームへ追った。 トイレに覆いかぶさるように、承太郎がそこで激しい咳を繰り返している。裸の背中が丸まり、背骨も肋骨もあらわな姿に、皮膚の色がひどくくすんでいる。 盛り上がった肩甲骨がうねるのを見て、それを貝殻骨とも呼ぶのだと、日本にいた頃に習ったことを、花京院は不意に思い出す。 1枚とぴたりと合うのは、対になるただ1枚だけだ。自分たちを、そんな一対の貝殻のようなものだと思ったこともあったのだと、花京院は、苦しげに波打つ 承太郎の背を、ひどく遠くに見ていた。 「大丈夫かい。」 声も足音も気配もひそめて、その背に近寄り、吐き気を助けるために、胃の裏側辺りを強く押してやる。 潰れた声を吐いて、喉を何度も伸ばしてから、承太郎が、少し前にやっと胃に入れた固形物の、半ば溶けかけた液を、どろりと吐き出す。水に落ちたそれの匂 いに、さらに吐き気を誘われて、承太郎がまた咳き込む。 花京院は水を流してそれを目の前から消してやると、今度はもう少し優しく承太郎の背を押した。 水音にまぎれて、また、どろりと吐いて、胃液の味に承太郎が口元を歪めた横顔が、ちらりと見えた。口の周りを汚し、胃が空になっても、まだ咳は止まらな い。辛抱強く承太郎の背を撫でて、花京院は、いたわるように前へ垂れる髪をかき上げてやる。 吐いたものの中に、血が混じっていないことに安堵して、花京院はまた水を流した。 まだ荒く息を吐きながら、承太郎がやっと顔を上げる。汚れた口周りに手の甲を押しつけて、花京院の方はわざと見ずに、洗面台へ向かって立ち上がる。蛇口 を全開にして、水を飛び散らしながら手と顔を洗った。 口の中の胃液を洗い流し、濡れた顔のその中の、空ろな目の回りを覆うどす黒い隈に、嫌悪を込めて頬を歪めた承太郎の後ろへ、花京院も静かに立ち上がる。 鏡の中で、ふたりの目が合った。 「承太郎。」 目の周りを、花京院と自分自身の視線から隠すように拭う承太郎の背を、花京院はそっと抱いた。 全裸が触れ合っても、今は熱さはなく、自分の腰に回った花京院の腕に触れても、それ以上のことは、承太郎もしない。 「承太郎、頼みがあるんだ。」 背中を抱けば、ちょうど貝殻骨の間に、話しかける息が掛かる。さっき自分が感じたことを思い出して、何もかもが符牒なのだと、花京院は、不意にこみ上げ て来た切なさを隠せずに、承太郎の背に額をこすりつけた。 「何だ。」 鏡の中に、全裸のふたりが一緒に映っている。承太郎の腕は、注射の跡だけではなく、掻きむしって爪で裂いた傷だらけだ。痛々しいそれにそっと掌を乗せ、 あごを伸ばし、承太郎の肩越しに承太郎と目を合せると、花京院は、震える声を、喉から押し出した。 「僕を、殺してくれ。」 時間が、止まったような気がした。 鏡の中で、承太郎は動かず、花京院も動かず、浮かぶ表情もなければ、応える声もない。呼吸すら、気配を消したように思えた。 ただわずかに、花京院の手に触れた承太郎の指先に、そうとわかるだけの力がこもる。 「僕は、自殺はできない。君を、先に逝かせることもできない。僕を、置いて行かないでくれ。君が逝くなら、僕を先に逝かせてくれ。」 言いながら、承太郎を、強く抱きしめていた。 承太郎の背中に押し当てた額が熱い。今にもあふれそうになる涙を耐えて、花京院は、承太郎が何か言うのを待った。 花京院に触れていた手を離し、承太郎は、花京院の腕の中で体の向きを変える。鏡に映る自分を凝視したまま、想像していた最悪のことが、次々と現実に近づ いているのに、これはもしかして、薬のせいの悪夢か幻覚だろうかと、花京院の髪に触れて、その感触すら頼りないことに、けれど凍ったように気持ちが波打つ こともない。 冷静なのではない。心が、固まってしまっているのだ。 「・・・てめーが、おれに、それを言うのか。」 だらりと腕を下げて、花京院を抱き返す気にもならず、声にだけは怒りがにじむ。 上向いて、花京院が、唇を震わせている。 「頼む承太郎、僕をひとりにしないでくれ。もういいんだ、君は、できることは全部やったじゃないか。僕はもういい、君と最期に一緒にいられた、それだけ で充分だ。僕を、先に逝かせてくれ。先に行って、君を待ってる。約束する、君が来るのを、向こうで、待ってる。」 承太郎の右手を取って、花京院は、自分の伸ばした喉へ添えさせた。 「君なら、できるだろう、承太郎、君なら---」 胸の内を吐き出して、花京院がどこか安らいだ表情を浮かべた時に、承太郎は、顔をどす黒く染めて、怒りのために、こめかみに血管を浮かせていた。 弾き飛ばすような勢いで花京院の手を振り払い、花京院の頬近くを両手でつかむ。 「おれに何をさせるつもりだ?! おれが人殺しだからか? おれが人殺しだから、てめーも簡単に殺すとでも思ったのか!?」 首を折りかねない激しさで、花京院を揺すぶる。ほとんど床から足が浮きそうになって、花京院は、必死に爪先立って自分の体を支えた。 「ふざけるなッ! てめーを殺すために、あそこから連れ出したんじゃねえ、てめーを助けるためだ! おれに嫌気が差したならそう言え! ごまかすんじゃ ねえッ!」 「違う! そうじゃない、そうじゃないんだ承太郎。違うんだ、僕が言ってるのはそんなことじゃない。違うんだ承太郎ッ!」 頭を締めつけられ、激しく揺すぶられ、首の辺りに走る冷たい痛みに、吐き気がした。花京院は瞬きしながらそれに耐え、あえぐように承太郎に反駁しようと した。 承太郎の表情は変わらず、怒りに満ちた瞳が、今は薬のせいだけではなく血走っている。 ほんとうに、このまま殺されるかもと、花京院は思った。それならそれでもいい。けれど、承太郎を怒らせたことだけは、心の底から後悔していた。 承太郎にだから、殺して欲しいのだと、なぜ伝わらないのだろう。嫌気が差したわけではない。そんなことではない。承太郎を、こんな状態に繋ぎとめている のが自分だと知っているから、承太郎の重荷として存在することに、これ以上は耐えられないから、だから、承太郎のその手で、終わらせて欲しいのだ。 自分で終わらせることはできない。見捨てられ、自ら捨てた神ではあるけれど、自分の命を自分で断つことを、神は許してはいない。だから花京院も、それを 自分に許すわけには行かない。 だからこそ、承太郎に、その手で引導を渡して欲しかった。承太郎にこそ、自分を、殺して欲しかった。 自分を踏みつけにして、けれど殺すことは決してしなかった、病的なほど自分勝手な男たちと、承太郎は違う。承太郎は、花京院を貶めたりはしなかったし、 体温のある人形扱いもしなかった。だからこそ、承太郎なら、花京院を殺せるはずなのだ。花京院をひととして扱うからこそ、花京院を壊すのではなく、殺せる はずなのだ。 そんなことすべてを説明しようとして、胸の中に渦巻く言葉たちを、けれど花京院はつかみ損ねてしまう。 承太郎は、荷物のように、花京院をバスルームの狭い床に突き飛ばした。 唾を吐きかけてやりたいとでも言うように、数瞬花京院を見下ろし、怒りもあわらなまま、バスルームを出てゆく。 締めつけられたせいの痛みに、まだ頭が真っ直ぐに上がらない花京院は、のろのろと手足を引き寄せて、体を起こそうとするけれど、承太郎に追いすがれるほ ど早くは動けない。 「承太郎ッ!」 叫ぶように呼んでも、応える声はない。 ベッドの傍へ戻ると、承太郎は、花京院が拾い上げてまとめておいた自分の服を取り上げ、慌しく身支度を始めた。荒々しい手つきにも、血の出るほど強く引 き結んだ唇にも、現れているのは、ただただ激しい怒りだった。 花京院の体は連れ出せても、心は結局、救い切れなかった自分の無力さに、舌を噛み切ってしまいたかった。 そして、殺してくれと承太郎の手を取る花京院を、殺す力すら、自分にはないのだと思い知って、あの力---銃---を与えられて有頂天になっていた自分 の愚かさが、今ほどあらわになったことはなかった。 あの力は、承太郎のものではなかったのだ。花京院があの力を求めている今、承太郎は、ただただ無力だった。 汚水の詰まった皮袋でしかない自分には、殺してくれと懇願する花京院に、応える力すらない。大事な誰かを、こんな形ですら救う力もない。 春になったら、と思った。その春は、永遠にやって来ないだろうと、怒りの中心の、そこには何の動きもない凍った心が、もう終わりだと承太郎にささやいて いる。 「承太郎・・・。」 上着を手に取ったところで、花京院がおぼつかない足取りで、バスルームから出て来る。 肩越しに一瞥をくれただけで、承太郎は、部屋を出て行こうと歩き出した。 「承太郎、待ってくれ!」 走り寄ろうとしながら、引き止めるために、花京院が届くはずもない腕を伸ばして来る。 すがるようなその声に抗い切れずに、足を止め、承太郎は後ろを振り返った。 足を止めた承太郎に、ためらいを見せた後で、花京院が悄然とした姿で、承太郎の上着をつかもうとして来る。少し距離が足りずに、その指先は宙で空回っ た。 「戻って来るんだろう? ここに戻って来るんだろう、承太郎?」 たたみ掛けるようにそう問われて、承太郎は、すぐには答えない。答えられなかったのだ。 「承太郎・・・?」 ほとんど哀願するように、花京院が承太郎を見ている。見捨てないでくれと、その瞳が言っている。何もかもを奪われて、失ったままでいるしかなかった少年 の、絶望よりも深い淋しさに震える姿が、承太郎の目に映った。 答えることができなかった。承太郎にも、その答えがわからなかった。 黙って背を向け、承太郎は部屋を出た。ドアを閉めて、振り返らなかった。 ひとりで、することなど何もない。 時間を確かめるような気にもならず、拾い上げたシャツだけを身に着けて、花京院はベッドに横たわっていた。 明かりを消してしまった部屋で、音もない部屋で、承太郎の気配のない部屋で、承太郎はもうここには戻って来ないのだろうと、そんな予感がした。 承太郎ひとりでなら、きっと逃げ切ることもできるだろう。その前に、薬で命を落としてしまわなければいいと、また思う。あるいは、花京院と切れてしまえ ば、また組織が承太郎を拾い上げるかもしれない。そうすれば少なくとも、苦しまない程度に薬が与えられ、きちんと生きているという程度には、扱ってもらえ るはずだ。 出逢う前の承太郎のことは、何も知らない。知りたいと思ったことはあったけれど、知らなくてもかまわないとも思っていた。 ただひとつ確かなのは、自分に出逢ってしまったことで、承太郎は、生きるということの底辺に、予定よりももっと早くたどり着いてしまったということだ。 そこから、承太郎ひとりなら、きっと這い上がれるだろう。さまざまなものに縛りつけられていた自分と違って、承太郎は少なくとも、自分の足で立ち、動き 回るという自由を、自分で獲得していた。だからきっと、承太郎なら大丈夫だ。花京院は、ベッドに手足を縮めて、そう自分に言い聞かせ続けている。 また、置き去りにされた。また、見捨てられた。自分が悪いのだと、花京院は思う。ひとは何かを花京院に求めて、そして花京院がそれを持たないことに気づ き、落胆して去ってゆく。それは彼らのせいではないのだ。それを持たない、花京院のせいだ。 無知で不完全で、誰かを満足させることすらろくにできもせず、与える何も持たないくせに、与えたいという気持ちばかりが、気持ち悪くあふれている。求め られなければ何の価値もなく、かと言って求められるものなど何もなく、自分が、穴だらけの肉の塊まりとしか扱われなかったのは、つまりはそれだけの価値し かなかったからだ。正しい価値を見出され、正しく扱われて来たに過ぎない。承太郎は、それ以外の何かを花京院に見出そうとして、そして、そこに何もない、 ただがらんどうのうろを見つけた。承太郎はただ、花京院の真の姿を見てしまっただけだ。 失望して、傷ついた承太郎のことを、かわいそうだと花京院は思う。知らずに傷つけて、そしてその傷を癒す術を持たない自分を、今は憎む気力すらない。 十字架の代わりのように、すでにその仕草が癖になっている、耳のピアスを、花京院は指先にいじる。あたたかくもない、つめたくもない、正確に自分の体温 を伝えているそれが、承太郎の手から与えられたのが、ずいぶんと昔のように思えていた。承太郎、と口の中で、思わずつぶやいていた。 いつだってそうだ、見捨てられて、置き去りにされる。こんなことにも、いつか慣れてしまう日が来るのだろうか。 自分を痛めつけて、承太郎から与えられた痛みを、忘れようとしている。 承太郎が悪いのではない。悪いのは自分だ。それは正しい。それでも、承太郎が自分を見捨てたのだという痛みに、花京院はひとりでは耐えられない。だか ら、自分を痛めつけて、その痛みを忘れようとする。 何もかも、自分が悪い、自分が蒔いた種だ。自業自得だ。求めてはいけない。けれど、求めずにはいられない。求められたのは、自分に何か価値があるからな のだと、また勘違いしてしまっただけだ。価値などない。無価値ですらない。生きて呼吸をするだけで、この世を穢している。 自分に触れて、承太郎も汚れてしまった。 そう思ってから、そう思うことすら傲慢だと言うことに思い当たる。 ほんとうに、承太郎を傷つけてしまったのだろうか。承太郎に、痛みを与えられるような、そんな存在なのだろうか。 虫を踏み潰すことにさえ、心を痛める人たちのいるこの世の中で、花京院は、その虫ですらない。 意味も意義もない存在には、重さも軽さもなく、厚みもなければ、透明ですらない。花京院はただ、この世界にいるというだけだ。どこにも繋がらず、ただふ わふわとただよう、小さな気体の粒のようなものだ。それに触れたからと言って、承太郎が汚れるはずも、傷つくはずもない。触れたという感覚すら、きっとな いはずだ。 存在はしているけれど、最初からいないと同じことだ。花京院は、そういう存在なのだ。誰の目にも見えず、誰にも触れず、そこにいるということは、認知さ れることはない。存在しないと同義の、ほんとうに、ただそこにいるというだけのことだ。 部屋の空気に、いつの間にか溶けてしまっていた。 真空になった頭の中には、もう重苦しい白い靄すらなく、手足の感覚は消えうせ、人の形をした影が、そこに横たわっていたのだという気配だけが、わずかに 残っている。そんな気がした。 承太郎がここに戻って来ても、花京院を見つけることはないだろう。空気に溶けて、花京院は、承太郎の目の前から消え失せてしまうのだ。元あるべき姿へ戻 る。誰にも見えず、誰も触れない、ただそこにいるだけの存在へ戻る。 承太郎が、花京院に、色と形を与えてくれた。熱を与え、熱を注ぎ込み、ひとの姿を与えてくれた。そのことに感謝しようと、花京院は思う。 ひとの形はない。空気ですらない気体の小さな塊まりが、どこにあるとも見分けもつかずに、溶け込んで消え失せてゆく。承太郎の腕が、それを抱くことは、 もうない。 足音がした。忍ばせているというわけではない、大きな歩幅の、きちんと静かではあったけれど、背高い体を思わせる誰かの、足音だった。 花京院は、まどろんでいた脳を一瞬で覚醒に切り替え、ベッドの上に体を起こした。 部屋の前で止まる。ドアに触れている音がする。 承太郎、と心の中で叫んで、花京院はドアへ駆け寄った。 外から開くよりも先に、中からドアを開いて、花京院は全身に喜びの笑みを浮かべて、そこへ立つ影に向かって、腕を伸ばそうとした。 花京院に向かって、長い腕が伸びて来る。笑顔を浮かべたままの花京院の首に、革手袋らしい感触の指先が触れ、呼吸を止めはしない程度に、けれど声は出せ ない強さで、しっかりと花京院の喉を締め上げる。 ぶ厚い影が、花京院を押し込みながら部屋に入って来て、後ろ手にドアを閉めた。 「ひとりか。」 革手袋の手を、何とかゆるめようと、そこに両手を当てて必死になっている花京院は、これも必死に、影に向かってうなずいた。 影が動いて、ドアの傍の明かりのスイッチを入れる。 突き飛ばすように首から手を離したのは、相変わらず表情のない、けれど明らかに、ここへ不穏な目的でやって来たことを隠さない、ヴァニラ・アイスだっ た。 「あの男はどこだ。」 喉を撫でながら、やや背中を丸めている花京院に、地を這うような低い声が訊く。 部屋の真ん中で向き合って、花京院は、これから起こることを正確に予想しながら、けれど不思議なことに、恐怖はどこからも湧いて来ない。承太郎がここに はいないことに、ただ心の底から感謝していた。 「出て行きました。どこに行ったのかは知りません。」 プッチに会いに来たDIOの運転手として、ヴァニラには何度かあったことがある。神父服以外の姿で会ったことはなかったから、裸同然の今の姿と、明らか に同衾の結果を示して乱れているベッドを交互に見る視線に、花京院は身を竦ませた。 「ひとりだな。」 確認するように、ヴァニラがまた言う。花京院は、それにはわざとうなずかない。 花京院に視線を据えたまま、ヴァニラが素早く部屋の中の気配を探り、花京院の後ろへ見えるバスルームの入り口へ一瞬目を走らせてから、黒いスーツをぶ厚 く盛り上げている胸の奥から、ゆっくりと銃を取り出す。 無駄口は一切叩かないらしいこの男の、無表情とその口調と態度から、これはただの振りだと、花京院は読み取っている。 承太郎のことを訊いているのは、これはただの確認だ。この男は、承太郎がいないと知っていて、花京院を目当てにここにやって来たのだ。と言うことは、い つからかはわからないけれど、この部屋はずっと見張られていたということだ。閉じこもるふたりを、一体どういう意図か、ただ見張り、外へ出て行った承太郎 を追うこともせず、そして今、ヴァニラが銃を手に、花京院の目の前にいる。 彼らの目当ては、承太郎ではないのだということに、花京院は心の底で安堵していた。 よく見れば、ヴァニラの銃には見覚えがある。これは、承太郎が持っていた銃だ。 なぜその銃をヴァニラが持っているのか、そして、なぜその銃で花京院を撃とうとしているのか、先の問いの答えはわからなかったけれど、後の問いの答え は、明らかだった。 そうか、と花京院は、胸の中でひとりごちた。 「僕だけですか、それとも、承太郎もですか。」 臆することはなく、丸まっていた背を伸ばし、承太郎と身長の変わらないヴァニラを見上げ---その角度を、心のどこかで、今いとおしんでいた---て、 花京院は質問する。 狙いを定めた銃口はぴくりとも動かず、その向こうから、ヴァニラが表情と同じほど無表情な声で答えた。 「おまえだけだ。」 そうですかと、花京院は口の中でつぶやいた。 「命乞いか祈りのために時間が必要なら、それくらいは待ってやる。」 ヴァニラにそう言われ、それが、この場での、彼なりの優しさの現われだと思って、花京院は思わず微笑んでいた。 ナイフで切り取ったような線の硬いヴァニラの頬の辺りが、訝しげに、一瞬揺れる。 「どちらも、僕には必要ありません。」 微笑んで、花京院はゆるく首を振った。前髪と一緒に、耳の赤いピアスが揺れた。かすかに頬の辺りへ触れるその感触が、承太郎の、優しい指先を思い出させ た。 ヴァニラに向けたその微笑みが、慈愛の笑みなのだと、花京院は気づかない。すべてを許し、すべてを受け入れた者だけが、そうやって浮かべることができる 微笑みを、皮肉なことに、花京院自身が見ることができない。 神に祈る気などない。すでに、天国へ行けるわけもないけれど、祈りが届いて天国へ送られてしまっては、承太郎に会えなくなる。人を殺してしまった承太郎 がゆく先は、残念ながら天国ではない。天国ではない場所で、承太郎を待とう。そこへ、いずれやって来るだろう承太郎を、ひとりで待とう。 怒りも悲しみも、死が浄化してくれる。もう一度だけ、微笑み合いたかった。それがかなわないなら、今微笑んで殺されよう。 承太郎は、生き延びることができるのだ。少なくとも、そのチャンスが与えられたのだ。そのことを、花京院は静かに喜んでいた。 ヴァニラが、銃の引き金に掛けた指先に力を込める。 「ひとつだけ、お願いがあります。」 穏やかな、けれど断固とした声で、花京院が言った。 「顔や頭は、撃たないで下さい。これ以上傷が増えると、承太郎が可哀想だ。」 ヴァニラから視線を外して、その足元の床辺りに向かって、花京院はまた微笑んだ。唇や目許に傷のまだ残るそこへ浮かんだ微笑みには、まったく自己という 色がなかった。 踏みにじられ、踏み潰されて、花京院自身という価値ある玉は、確かに粉々に砕かれてしまっていたのだ。承太郎の手の中には、そのかけらすら残らない。 それでいい。その方がいい。次に会える時を待って、今はもう、承太郎の元へとどまることはしない。 殉教者たる承太郎が浮かべるべきだった微笑みを、今花京院が浮かべている。慈愛も、許しも、それが花京院自身へ向けられることはないまま、花京院は、そ れを、残してゆく承太郎へ贈るために、今ここで、顔一杯に浮かべている。 ヴァニラが、銃を構えたままで、音も立てずにベッドの方へ寄った。今にも床へ滑り落ちそうになっていた枕を取り上げ、それから、花京院の前へ戻って来 る。 「すぐに終わる。」 一言、まるで慰めるようにつぶやいて、その枕へ銃口を押し当てて、こもった音が鈍く響いた。 激しい衝撃に、胸から体が後ろへ跳ねた。手足は力なく揺れ、ぐにゃりと傾いた体が、床に倒れて、ひどく頭を打ったけれど、花京院はもうそれを感じること はない。 血と体温が、一気に体の外へ流れ出す。まるで空気の抜けた風船のように、体が凄まじい勢いで縮み、大きさも厚みも失くして、消え失せてしまったように感 じた。 息をしようともがいた喉が、ふくれて広がったけれど、空気を吸い込む力はない。 のろのろと瞳だけを動かして、床に、銃と穴の開いた枕を置いたヴァニラが、明かりを消して部屋を出てゆく後姿を見た。 自分を殺したその手が、承太郎のものでなかったことだけは、最後に残念だと思って、花京院は、投げ出すように目を閉じた。 承太郎、ありがとう。 つぶやいたつもりの唇は動かず、浮かべたままの微笑みは消えずに、白い闇にすべてがまぎれてゆく。 何もかもが、それで終わった。 |