The Needle Lies



B

 薄暗い部屋で、ただ貪るように抱き合う。
 昨日も今日も明日も、どこが境目とも定めずに、邪魔をするなとドアに記して、ふたりは、しわだらけのシーツの海に溺れ続けていた。
 潜り、沈み、浮き上がり、跳ねて、飛んで、そしてまた潜る。底なしに求め合って、その底のなさに、ふたりで恐れを感じながら、その恐怖から目をそらすた めに、また互いを抱きしめ合う。
 何かを埋め合わせるよう---それは恐らく、互いの胸の中にある、がらんどうのうろなのだろう---に、どちらがどちらで、誰が誰なのか、現実も夢もご たまぜにして、ふたりは皮膚をこすり合わせ続けた。
 果てのない抱き合い方は、まるで永遠に続く野原のようで、歩いても歩いても、どこへも行き着かず、時折、小さな森や茂みに出会い、あるいは、木も草もな い剥き出しの土に、素足の裏が触れることもある。頭上に鳥の唄を聞くこともあれば、虫の声に耳を澄まし、あるいは、ふと足元を這って行った小さな虫や大き な蛇に、うっかり驚いて飛び上がることもあった。
 それでも、ふたりの繋がった手が離れることはなく、それだけがこの世で今ただひとつ確かなことだったから、ふたりは指先をしっかりと絡め合わせて、躯の どこよりも近く強く、そこを結び合わせていた。
 触れ合い、疲れれば眠り、目を覚ませば、また互いに触れる。ひとりだけが先に目を覚ましたなら、まだ眠っている相手に、起こすつもりが半分で、腕を伸ば して絡めてゆく。眠っている時も、体のどこかが触れ合ったままのふたりだった。
 覚醒と覚醒の合間に、承太郎が、時折ベッドを下りて姿を消す。なるべく、花京院が眠っている時を見つけて、承太郎は、残り少ない、これが最後だと思い決 めた薬を、少しずつ自分の体に入れていた。
 外から聞こえる---滅多となかったけれど---足音や、人の気配や、車の音に、びくりと体が硬張る。ふたり一緒に、躯の動きを止め、息を止めて、それ が何事もなく去ってゆくのを待つ。追っ手は、まだやっては来ない。永遠にやって来ないかもしれない。けれどまだ、ふたりは外へ出ることができず、そうして 閉じこもる間、できることと言えば、ほとんど言葉も交わさずに抱き合うことだけだった。
 空腹を、承太郎は薬で忘れ、花京院は、承太郎と自分の熱さでごまかす。頭の片隅が真っ白に濁るのは、体の中にめぐる血が薄くなりつつあるせいだろう。文 字通り骨身を削って、ふたりは抱き合い、求め合っている。
 もう、夜も昼も、この部屋の中には存在しなかった。


 さっきから延々と、花京院が、承太郎の両脚の間で、顔を動かし続けている。
 どれだけ努力しようと、反応するはずもないのに、花京院は両手を添えて、ひどく熱意を込めて、承太郎のそれを、愛撫し続けていた。
 腕を伸ばせば届く位置に投げ出された花京院の足を引き寄せ、承太郎は、花京院に応えるつもりで、爪先や甲やくるぶしを、ずっと舐めている。
 承太郎の躯よりも、花京院の足の方が反応が早く、爪先が曲がり、反り、足全体に、筋肉の線が浮き上がる。腿や膝が、すり合うように動くのに合わせて、腰 が揺れているのが見えた。
 張りのない、けれど敏感な皮膚を、花京院の熱い舌が舐め上げる。見せつけるように、舌を伸ばして、唾液が糸を引いているのさえ、はっきりとわかる。唇と 舌が、血の紅さをそこに添えるけれど、そこへ血が流れ込むことはなく、だらしのない姿のまま、花京院の掌の中にあるだけだ。
 張り出した輪郭を、まるでかじり取るように、白い歯の先がつついた。伝わる刺激だけは、まるで火のように神経を伝わって脳を焼くけれど、そこから返って くる信号は、どこかで途切れたままだ。
 形にならない熱さが、背骨の奥を融かしているのは確かだったけれど、形にならない限り、果てることもなく、ただ拷問のように、ほとんど痛みのような快感 だけが、終わりもなく続いてゆく。心地良さだけは確かにあったから、やめろとも言わずに、承太郎は花京院を眺めていた。
 目を細めて、舌がなぞる輪郭を、視線で追い、どこか切なげに、自分の努力が徒労に終わる様を、花京院は見つめ続けている。それでも、そこから手や唇を離 すことはせずに、まるでそれが、飢えを満たしてくれる大事な何かであるかのように、何も起こらないとわかっていて、求めることをやめない。
 口を開いて、中に飲み込んで、動く舌の上で、頼りなく右や左に揺れるそれを、花京院の粘膜がこすり続ける。そこには、混じり合わせる体液すらないのに、 それを待っているかのように、花京院の舌先が、時折先端を抉るように動いた。
 花京院の爪先を、口の中に入れて、噛む。小さな爪が圧迫に歪んで、その後で、詫びるように舐める。それを繰り返して、承太郎は、足裏に唇を移した。土踏 まずに軽く歯を立てると、承太郎から唇を外して、花京院が小さく声を立てる。その声を聞きながら、少し強く、ぎりぎりと歯を食い込ませた。
 承太郎のそれ越しに、花京院が承太郎を見ている。潤んだ茶色の瞳が見える。承太郎を見たまま、舌を伸ばし、挑発するような動きで、また承太郎を舐める。
 喉の奥まで飲み込まれて、熱さに包まれて、濡れた音が漏れ聞こえて来る。花京院の舌の動きを真似て、承太郎は、花京院のふくらはぎを舐めていた。
 どこも、唇が触れていないところはない。何もかも、しゃぶり尽くして、それでも足りずに、承太郎は舌と唇に、花京院の骨と筋肉の形を覚えこませようとし ていたし、花京院は、承太郎のそれの形を、視覚と触覚の両方で憶えていようとしていた。
 伸ばした舌が滑る。指が、起こるはずのない昂ぶりの気配を、決して逃すまいと、柔らかいままの皮膚に触れたままでいる。唇の間に消えて、その中で濡れ て、また外に現れ、半開きの花京院の目元に、かすかに失望の色が見えるような気がしたけれど、承太郎は花京院の足に触れるのに集中して、それからは目をそ らした。
 花京院の頬や首筋が赤い。あちこちにまだ残る傷跡が、そこもまた色を増す。
 濡れた唇の間から伸びた濡れた舌が、熱くはならない承太郎に触れて、横顔のその線が、思わず咎めたくなるほど淫らだった。
 花京院を見ているだけで、躯が熱くなる。こんな姿だけではなくて、ただそこに横たわっているだけでも、何かを取ろうと伸ばした腕にも、立ち上がるために 軽く曲げた膝にも、承太郎を見るためにねじった首筋にも、何もかもだ。見ているだけで、全部が欲しくてたまらなくなる。
 きちんと服を着けていようと、とりあえずは覆った半裸だろうと、あるいは、承太郎の上で求めるために揺れる全裸だろうと、どの花京院も、承太郎を強烈に 誘う。引き寄せて押し潰して、不自然に折りたたんだ躯のその内側を、裏返しにして、自分の皮膚に縫い合わせてしまいたいと承太郎は思う。切り裂けば流れる その血を、自分の流れる血と混ぜて、ひとつにしてみたかった。
 穏やかだったはずの熱が、沸騰し続けて、激しくなる一方だ。
 劇(はげ)しい触れ方ができずに、ふたりの間に生まれる熱はごくゆるやかでのどかですらあったから、それを補うように、躯の内側で荒れ狂う熱がある。そ れをどうすることもできずに、承太郎は、ひそかに自分の内で持て余し続けていた。
 やっと唇と掌を外して、花京院が承太郎にのしかかって来た。腹の間に、ふたりのそれが触れ合うように位置を整えてから、承太郎と胸と腹を重ねて、花京院 が躯を揺すり始める。
 肩の位置が、わずかに揃わない。全身を、ほとんどぴたりと重ねて、腿や膝の骨もこすれ合う。水から上げられた魚のように、花京院が、承太郎の上で、もが くように動き続けている。
 それだけで果てることはできずに、けれどそれが目的ではないと言い張って、花京院は承太郎の手助けを拒む。承太郎を溶かしそうに熱い躯を、承太郎にこす りつけて、熱を移そうとしているのか、それとも、承太郎の冷えたままの躯で、自分の躯を冷やそうとしているのか。
 自分の上で、花京院が苦しんでいるように見えた。承太郎は、花京院の下で、確かに苦しんでいた。
 花京院ばかりが動いているのに耐えられなくなって、腰の辺りに手を伸ばしながら、足の位置を少しずらした。互い違いになった脚の間に、膝を軽く割り込ま せて、骨張ったそこで、膝裏に触れる。肩を持ち上げて、花京院が承太郎を見下ろした。
 互いに、必死になっていることだけは確かだ。欲しがっても与えられない、求められても与えることのできない、手を伸ばす先は同じはずなのに、ふたりは、 別々の方向を見ていた。
 花京院の脚の間で、もっと高く膝を立てた。ふっと、熱さに触れて、もっと強く、押し当てた。
 唇を噛んで、噛んだところを、舌先が舐める。肩越しに、承太郎の膝の方を振り返ってから、花京院が、顔を隠すようにうつむいた。
 承太郎の胸に額を当てて、肩が落ちた代わりに、腰が上がる。承太郎の、ごつごつとしたけれど滑らかな膝の辺りに、花京院がもう我慢せずに、こすりつける ために腰を揺すり始める。
 正面の肋骨のくぼみに、花京院の吐く息が当たる。熱く湿っていて、体の中から吐き出したその息は、花京院の熱そのままのように思えた。
 喘ぐ花京院のために、揺れる腰に合わせて、脚を動かしてやる。逃げるように引くと、熱が、絡みつくように追いすがって来る。 
 いくら躯を揺すっても、それだけでは足りずに、花京院は自分に触れるために、そちらに腕を伸ばした。承太郎は、その手を引き止めて、一瞬、邪魔されたこ とに隠せない苛立ちを、眉の間に浮かべた花京院を無視して、体を起こしながら花京院を抱き寄せると、そのまま自分の下に敷き込んだ。
 脚を開かせて、腿の内側に掌を押し当てる。数瞬、もがいていた花京院が、やっとおとなしくなると、あごの下に唇を滑らせて、少しばかり強く歯を立てた。
 体の重みで、大きく脚を開かせたまま、花京院のそれを、自分の下腹辺りでこすり上げてやる。そうしながら、腿に触れていた手を、躯の線に沿って、奥の方 へ滑らせて行った。
 悟られて、拒まれるより先に、首筋と鎖骨の辺りを舐める振りをして、顔の位置を胸へずらす。もうずっと、承太郎の皮膚にこすれて、硬く自己主張をし続け ていたその尖りを、ためらわずに、痕を残すほど強く噛んだ。
 痛み---おそらく、それだけではなく---に、花京院の体が反り返る。承太郎は、歯列をそこに食い込ませたままで、奥深くへ滑って行った指を、埋め た。
 膝の辺りが硬張り、腰が小さく跳ねる。肩を押しつけて、無意識にずり上がろうとする花京院の体を止め、承太郎は、いっそう深く、指先を沈めようとした。
 湿った、包み込むような熱が、指先に触れる。熱それ自体は、まるでもっと奥へ誘い込むように、その指先に触れてくるのに、狭い筋肉の動きは、承太郎を拒 もうと必死になっている。
 それ以上進むことは諦めて、けれど指を外すことはせずに、浅いままのその場所で、承太郎はゆるくかき回すように、指を動かした。
 途端に、承太郎の下で、花京院のそれが反応した。伸び切った喉が、声も出せずに震えている。胸の突起も、承太郎の唇の間で、硬さを増したように思えた。
 反応の激しさに、一瞬ひるんで、けれど、自分が与えた刺激の正しさに励まされて、承太郎は指を動かし続けながら、花京院の真っ赤に染まった肌に歯を立て る。どこに触れても、全身が慄える。やっと漏れた小さな悲鳴が、苦痛を訴えているように聞こえた。
 上体を、無理に2、3度ねじるような動きをして、全身が硬直する。承太郎の指先も、痛いほど締めつけられた。それから、大きく吐き出した息に胸が上下し て、花京院は、死んだように全身を投げ出した。
 「・・・花京院・・・?」
 息をしているのを確かめようと、頬に手を伸ばすと、薄目を開けて、承太郎の方を見る。微笑もうとしたらしい唇の端が、上がりかけてから、叫ぶ形に変わっ た。承太郎の手を振り払った花京院は、大きく目を見開いて、承太郎を凝視している。唇は開いていたけれど、声は出さない。
 「・・・どうした?」
 何か見たかと、自分の後ろを思わず振り返って、何もない---あるはずがない---のを確かめた承太郎は、汗に濡れた花京院の腕を、そっと撫でた。
 「何でもない。」
 早口にそう言ってから、花京院はまた大きく息を吐き出した。
 もう、汚れた全裸を隠す仕草はなく、自分の吐き出したそれで汚れた承太郎の腹へ指先を伸ばし、拭いたいように目を細めてから、やっと体を起こす。
 「承太郎・・・。」
 両腕を首に回し、抱きついて、甘えるように、額を首筋にこすりつけた。
 汗に湿っているのは、自分の体だけだ。まだ熱い自分の躯をこっそり恥じて、花京院は、なぜかひとりになりたいと、その時突然思った。
 「シャワーでも浴びるか。」
 花京院の首を撫でながら、承太郎が訊く。
 「君だけ、先に浴びるといい。」
 一緒に浴びてしまうと、それだけではすまなくなるから、今は少し疲れていると言葉の外に言わせて、花京院はうつむいたまま承太郎から離れた。
 承太郎は素直にベッドを降り、床からさり気なく上着を取り上げて、バスルームへ消えた。
 薬が切れる頃だ。さらにやつれたように見える承太郎の裸の背中を目で追って、花京院は思う。シャワーを浴びて、あの白い粉を体の中に入れて、また承太郎 が戻って来る。
 あれは承太郎だ。自分に触れるあれは、承太郎だ。ベッドに坐り込んだまま、花京院は両手で目の辺りを覆った。
 自分の上にのしかかるあの重い体が、一瞬、誰かわからなかった。あの、躯が白く弾け飛ぶような感覚が、花京院の記憶を混乱させる。
 愛されているのだと、だから、あんなことをするのだと、そう思い込めば、痛みすら快感にすり替えることができた。感じてしまえば、花京院も同罪なのだ と、幾人かの男たちが、躯に叩き込んでくれた。
 彼らは、花京院を欲しがりながら、花京院も欲しがること---彼らよりも、もっと強く欲しがること---を望んで、これは悪いことでも何でもなく、欲し がるおまえの望みをかなえてやっているだけなんだと、ひどく甘い声でささやき続けた。
 信じがたいそのことを、信じてしまう方が楽だったから、彼らの言うことを信じることが正しいことだと思えるように、もう彼らは花京院を飼い慣らしてし まっていたから、花京院は彼らの思い通りに歪められ、欲望されることを強く望んで進んで受け入れる、いびつな脳を持った、穴だらけの肉の塊にされてしまっ ていた。そんな存在に、自ら進んでなったのだと、彼らは花京院に信じ込ませることができた。
 意思はない。名前も顔もなく、侵されるだけだ。花京院の中に、"アレ"を出し入れする男たちは、皆同じ顔と目つきをして、花京院に許されるのは、与えら れる刺激に、彼らの好むように反応することだけだ。花京院は、花京院ではなかった。ひとですらない、彼らに快楽をもたらす、ただの道具だった。
 男たちの記憶に、承太郎が混ざってしまう。
 承太郎は違う。あの男たちとは違う。けれど、何が違うのか、わからなくなってしまっている。
 ここに閉じこもって、抱き合うだけの時間を過ごして、それを拒むつもりはないのに、自分を使った男たちの記憶が、この部屋の澱んだ空気と、隔てもなく混 ざり合う。
 閉じ込められて、縛られて、何もかも、花京院の望んだことだと、彼らは言った。今こうしているのも、花京院が望んだことだ。
 何が違う?
 バスルームから聞こえる水音に耳を澄ませて、花京院は、聞こえないのを承知で、承太郎を呼んだ。
 その時ふと、あの男たちが、自分を道具扱いしたと同じように、自分も、承太郎を道具扱いしているのではないかと思いついて、その恐ろしい考えに、全身が ぞっと冷える。
 承太郎に触れたいのに、承太郎に、もう触れてはいけないような気がした。承太郎を貶めているのは、自分なのだと、そう思った。
 バスルームの水音はまだ続いている。ひとりきりになった自分の体を、花京院は両腕で抱きしめる。空腹すら感じない体からは、今は涙すら出なかった。


 承太郎が、バスルームにひとりで姿を消すことがなくなった。
 薬が切れたのだと、承太郎は言わない。けれどどす黒くなった目の周りや、真っ白に乾いてひび割れている唇や、何より、シーツが触れるのさえ痛がるのが、 明らかに禁断症状を示していた。
 一体どれくらいで、禁断症状がやわらぐものなのか、花京院は知らない。
 痛みに歯を食いしばって、寒気がすると、花京院にすがりついてくる。触れれば痛むとわかっているから、なるべくゆるく首の辺りに腕を巻いて、眠れずに震 えてばかりいる承太郎の傍で、花京院も眠ることができない。
 薬の中毒は、本人よりも、それに付き合う周囲の忍耐力に先に限界が来る。花京院も、例外ではなかった。
 これを乗り越えれば、少しはましになるのかもしれない。けれど、それを待つよりも、承太郎をいつもの状態へ戻す方が、結局のところは花京院にとっても楽 だったのだ。
 誰かがふたりを捜しているような様子はなかったし、近づく足音さえ滅多とない。だから、外へ出ても大丈夫だと判断したのも、理由のひとつだった。
 「承太郎、動けなくなる前に、どこかで薬を手に入れて来た方がいい。」
 自分が行ければ一番いいけれど、薬の売人など、どこで見つけるのか見当もつかない花京院は、ベッドに横たわって天井を見上げたままでいる承太郎の傍に、 ぺたりと坐り込み、半ば途方に暮れたように言った。
 いやだと言うように、承太郎の瞳が動く。
 「こんな状態じゃあ、身動きも取れないじゃないか。薬をやめるのは、ふたりでどこかに落ち着いてからでも遅くはない。」
 自分の言うことが、どれほど空しく響くか知っていて、花京院は精一杯の微笑みを浮かべる。ようやく、承太郎が花京院の方へ顔を向けた。
 「落ち着いたら、君はリハビリの施設に行って、僕は仕事を探すでも何でもする。それまでは、無理はしない方がいい。」
 ここも、いつまでいられるのかわからなかった。
 ふたりが行けるような場所はなく、ここを出たなら、まだ隠れる場所を探さなければならない。あるいは、ひと時だけという約束で、別々に行動した方がいい のかもしれない。
 追っ手---警察---の気配がないのにも関わらず、ふたりの状況は、悪くなる一方のように思えた。そこから目をそらすために、承太郎は、薬をやめると いうことにしがみつき、花京院は、外の世界で生き抜く術を知らないという理由を、表に立てる。
 現実という網の目からこぼれ落ちてしまっているふたりには、ごく当たり前の生活というものが存在せず、それをどうやって築けばいいのか、学ぶ前に機会を 奪われてしまっているふたりだった。
 どうしていいのか、わからない。花京院はただ、承太郎を普通の状態にしたいと、目先のことだけを考え、承太郎は、すでに手元には薬を買うような金がない という現実に、身動き取れなくなっている。
 あそこから逃げ出せば幸せになれるはずだと、そう思ったのは、わずか数日前のことなのに、その目論見は、とうに崩れ去ってしまっていた。
 ふたりはまだ、それを口にはせず、これはただ、すべてが上手く行くための、その過程に過ぎないのだという顔を取り繕って、互いを気遣い合っている。ま だ、そんな気遣いの残る余裕こそが、何よりも恐ろしいものだった。
 現実が、ふたりに追いつき始めている。薬にしか興味のないヤク中と、体を切り売りして生き延びて来た元神父と、ふたりの目の前には、もう暗い予感しかな かった。
 承太郎の手を取り、花京院は、それを自分の両手で包んだ。
 「君を見てるのが、つらいんだ。」
 承太郎の瞳が、また動く。乾いた唇が、億劫そうに開き、それから、花京院に手を取られたまま、承太郎がやっとそこから体を起こした。
 花京院の方を見ずに、のろのろと体の向きを変え、そのせいで離れてしまっただけだと言うように、自分の手を引き取り、花京院に背を向けた形で、承太郎は ベッドの端に腰掛ける。その、生気のない背中に、花京院はそっと体を寄せる。
 ふたりの体は、今は冷え切っていた。
 無言で、床を踏みしめ、やっと立ち上がる。眩暈に耐えながら、床に落ちた自分の服を、承太郎はのろのろと拾い上げ始めた。
 承太郎を見て、花京院もベッドを下り、ベッドの下に落ちて半ば隠れていた自分のシャツを見つけて取り上げ、素肌にそれだけ着ける。それから、着替えを手 伝うために、自分の服を集め終わった承太郎の手からそれを取り上げた。
 きちんと服を着ている承太郎を見るのは、久しぶりだ。それで少なくとも、生気のない体が隠れる。背中から、少し背伸びをして上着を着せかけると、裾の長 いそれの重さに、承太郎の体が傾いだように思えた。
 「すぐ戻る。」
 「ああ。」
 短い言葉には、感情は特に表れず、上滑りするそれは、何だか嘘のように、互いの耳に響く。
 無表情に自分に振り返った承太郎に、花京院は薄く笑いかけた。
 出てゆく前に、せめてしっかりと抱きしめようと、承太郎は腕を伸ばすタイミングを計っている。不意に、花京院が、顔を傾けて、耳の傍に両手を添えた。
 「これを持って行くといい。プラチナだと言っていたから、薬と交換できるかもしれない。」
 素早く外した十字架のピアスを、承太郎に差し出す。小さなそれは、承太郎の掌に、花京院のかすかな体温を伝えて来た。
 いらないのかとは聞かなかった。できれば、耳から引きちぎってやりたいと思ったこともあったし、それが、例のしるしのひとつだと知っていたからだ。それ に今助けられるのは業腹だったけれど、背に腹は変えられない。それに恐らく、それを外す言い訳を、花京院も探していたに違いなかった。
 肩の上に揺れるそれがない花京院は、素肌にシャツだけを着けて、花京院が語ったあの、飼われていた少年のままの姿に見えた。透き通るように存在感がな く、触れようとしても、腕が突き抜けてしまいそうだと、手の中にそっと渡されたピアスを握って、承太郎は目を細める。
 不安を覚えながら、半歩前へ出て、花京院を両腕の中に抱きしめる。その腕の中に、花京院が添って来る。
 「すぐ戻る。」
 「ああ。」
 同じことを繰り返して、互いに、それを信じていないことを、静かに感じていた。
 腕を放し、承太郎が肩を回す。長い上着の裾が軽くひるがえるその様を、花京院は目を細めて見送った。


 ここへ来た時に見た、ストリップ・バーを目指して歩き始めてから、承太郎は、すぐに足を止めた。わずかの間考えてから、向きを変えて、結局馴染んだ場所 へ戻ることに決める。
 足の下の地面が、揺れているように思えた。馴染みの売人のいるところまで、体が保(も)つかどうか怪しかったけれど、あそこなら故買屋も何人かいたし、 花京院のピアスを金に換えるのに、そう苦労はしないだろうと思えた。
 外はまだ明るいけれど、そろそろ夕方だ。息が白く、顔の周りにまつわりつく。寒さよりも、骨がきしむような痛さの方が気になって、承太郎は足を引きずり ながら歩き続けた。
 失くさないために、ズボンのポケットに差し入れた手の中に、花京院の十字架のピアスを握り込んでいる。強く握りしめると、小さなそれが、皮膚に食い込 む。その痛みが、承太郎の正気を保っていた。
 掌の中にあるのは、ピアスではなくて、花京院の体温だ。それ以外には、歩いているという感覚だけで、承太郎は、周囲の風景さえ、ろくに目に入れることも しない。
 道の端を歩き、よろけるたびに、建物の壁で体を支えた。前へ進めば、そこへ近づくのだと、自分に言い聞かせながら、前へ出る爪先をずっと見下ろしてい る。
 久しぶりに、野良犬のような姿で町中をうろつく自分を、歩きながら承太郎は嗤う。古巣へ戻ることに、なぜか安らぎのようなものまで感じ始めていた。
 売人たちのたむろう場所へ近づくにつれ、呼吸をすることが苦痛ではなくなり、丸まった背中のみすぼらしい姿が、気にならなくなる。負け犬たちの集まるそ こで、承太郎は英雄になる必要もなく、胸を張る必要もなく、力を振りかざす必要もない。薄汚れた姿を恥じる気持ちは失せ、クズのような自分を、素直に受け 入れられる、そんな気分になる。
 ここが自分にふさわしい場所なのだと、顔見知りのヤク中の中年男を見つけ、承太郎は、思わず全身から力を抜いていた。
 承太郎を覚えていた故買屋は、親切なことに、十字架のピアスを眺めた後で、盗品でないなら質に入れた方がいいと教えてくれた。
 通りふたつ先に、割と気のいい親父がいるぜ。あそこなら足元見られることもねえだろうよ。
 そのピアスが、割と品の良いものだと付け加えてから、承太郎に店の場所を示してくれる。
 こういうことには、信用が第一だ。承太郎から、盗品でないと知っていて安く買い叩いたと噂が立てば、男の商売にも響くから、それにきっと、そのピアスを 買い取れるような現金が、手元になかったのかもしれない。男の親切が、純粋に親切ではないことを理解しながら、承太郎は、男に丁寧に礼を言った。
 男が教えてくれたその店は、中は明るく、同じように明るく微笑む店主らしい老人が、ガラスの棚の向こうで承太郎の姿に顔色ひとつ変えない。春風に顔を撫 でられたような気分になって、承太郎は、思わず店主に微笑みを返していた。
 手が震えないように、力を込めながら腕を伸ばし、カウンターの上に花京院のピアスを出す。店主はそれをつまみ上げて、失礼、と言ってから奥へ姿を消し、 数分後にまた姿を現した。
 いくら欲しいかと訊かれて、そんなことは考えてもいなかったから、ちょっと途方に暮れたような承太郎の表情を、店主はまた笑って見上げ、このくらいなら と数字を出した。
 それでいい。薬を手に入れて、モーテルに金を払って、もう少しだけあそこに隠れていられる、そのくらいの金額だった。
 ふと、カウンターの上の小さな箱にざらりと無雑作に積まれた、おもちゃのようなアクセサリーが目に入る。子どもが喜びそうな、ちゃちなものだったけれ ど、いちばん上にあるガラス玉---に違いない---の鮮やかな赤に目を奪われ、安っぽい鎖に繋がった、小指の先ほどの大きさのその赤が、花京院の肩の辺 りに、十字架の代わりに揺れる様を承太郎はふと思い浮かべて、知らずに、口元をゆるめていたらしかった。
 束ねた小額の紙幣のいちばん上に、店主は、プラスチックの台に乗ったそれを乗せ、承太郎に差し出す。
 今日は結婚記念日でね、30年も連れ添えたのは神様の思し召しだね。あんたにも、神のご加護がありますように。
 店主の微笑みは、その幸せな日のせいなのか、それとも、信じる神がいるせいなのか。店主が口にした30年という時間は、承太郎には永遠のようにも思え、 その30年を越えた時に、自分は---そして花京院も---生きているだろうかと、そう思った。
 金と、おもちゃのピアスを、きちんと上着のポケットにしまい、良い1日をと言う店主に、礼と別れの挨拶を兼ねて黙って頭を下げ、承太郎は店を出た。
 道路の端から振り返ると、店主が、ドアのサインを閉店に替えるところだった。結婚記念日だという今日、家族と、あるいは彼の妻とふたりきりで、どこかへ 祝いに出掛けるのかもしれない。
 店主はあそこにいて、承太郎はここにいる。閉店という札の掛かったドアが、ふたりをはっきりと隔てている。陽のぬくもりを思わせた店主の笑顔を思い出し て、やはり自分はこちら側の人間なのだと、歩き出しながら承太郎は思う。
 春はまだ先だったけれど、そう遠い先でもない。上着の胸に掌を当てて、店主のくれたおもちゃのピアスが、そこにあることを確かめる。そうしながら、春ま でには、絶対に薬と手を切るのだと、承太郎は自分に誓いを立てた。
 春になったら。
 薄暗くなり始めた空を見上げ、今度は薬を手に入れるために、来た道をひとり戻り始める。神の気配のない自分の周囲が、他よりもひと色昏いような気がし て、承太郎は肩を縮めた。
 神はいらない。神は必要ない。花京院がいるからだ。花京院を踏みつけにした神なら、こちらから捨ててやる。
 よろめきかけた体が、駐車してある車にぶつかり、慌てて体を伸ばすと、承太郎は、物思いから心を引き剥がし、いつの間にか額に浮いている冷たい汗を、上 着の袖で拭う。肩まで、びりびりと痛みが走った。
 早く薬を手に入れなければ。まともに歩けなくなる前に。
 皮膚のすぐ下が、不快に波打ち始める。その波は、小さな虫の群れだ。叫び出しそうになるのをこらえて、袖の上から、自分の腕を掻きむしる。気持ち悪さ が、皮膚の下に膨れ上がる。真っ黒な虫が、体を食い荒らすでもなく、ただそこを走り回っている。皮膚の下はその黒い虫の群れに覆い尽くされて、小さな足の 動き回る感触に、承太郎は、皮膚を破るために、そこに爪を立てた。
 袖をまくり上げ、黒く汚れた伸びた爪で、腕の皮膚を、掻きむしる。掻きむしる一瞬だけ、虫たちがそこから消える。消えて、また現れる。また掻きむしる。 よろけて、歩きながら、すれ違う人たちが、たまに承太郎の妙な様子に、あからさまに眉をしかめる。それをどうと思う余裕もなく、承太郎は自分の腕を掻きむ しり続けていた。
 爪が皮膚を裂き、赤く染まる。腕はもう、傷だらけだ。
 馴染みの売人から、ひったくるように薬を受け取って、顔見知りの連中がたむろっている路地裏へ入る。人目を避けられる、ちょっとした建物の死角へ入り込 んで、そこにいるのが、もう誰かもわからないまま、血まみれの腕で道具と注射器を借りた。
 引き剥がすように上着を脱いで、ベルトを二の腕に巻きつけ、誰の血で汚れているかわからないその針を、ためらいもなく自分の腕に突き刺す。
 春が来るだろうかと、薬が効き始めるまでの、長い長い数分を耐えながら、思う。皮膚の下から、虫の群れが去ってゆく。全身に、血が巡り始めるのがわか る。心臓の音をはっきりと聞いて、承太郎は、やっと背を伸ばして起き上がった。
 そこにいた誰かの顔を見ることは避けて、足早にその場を立ち去る。
 路地を出て見上げた空は、もう夜空に近かった。
 春になったら。花京院とふたりで。
 その先を思いつけず、そのことを、今泣き出したいほど悲しく感じながら、承太郎はひとり、ざわめく街を歩き出した。
 

 モーテルの事務所で、もうしばらくいることを告げて金を払い、やっと部屋に戻る。
 ベッドサイドの明かりをひとつだけ点けて、花京院は眠っていた。
 静かにドアを閉め、チェーンを掛けてから、そっとベッドへ寄る。
 床に散らばっていた服は、チェストの上にまとめられ、よく見れば、例の銀の輪も鎖がついたまま、その傍にひっそりと置いてある。
 承太郎がいない間にシーツを取り替えたのか、ベッドもきちんと整えられていた。
 その中に、白いシャツを着た花京院が、手足を体に引きつけるようにして眠っている。横向きの顔が見える方へ行って、承太郎は、そっとそこへ腰を下ろし た。
 明かりの色のせいか、あまり安らかには見えないその寝顔をしばらく見下ろしてから、承太郎は、こめかみの辺りにひっそりと口づけを落とした。
 「・・・おかえり。」
 目覚めたばかりの、まだはっきりとはしない声が、頬に当たる。
 「起こしたか。」
 首を振って、承太郎に向かって両腕を伸ばして来る。その中に体を倒れ込ませ、体の重みも気にせずに、承太郎は花京院を抱き返した。
 「冷たいな、君。」
 承太郎の頬に、自分の頬をすりつけながら、花京院が言う。
 唇に触れる前に、首を撫でて、頬に触れようとしてから、承太郎は、ピアスのことを思い出した。
 「・・・大丈夫だったかい?」
 体を起こす承太郎に、声をひそめて花京院が訊いた。
 「ああ、一応な。」
 なるべく明るい声を作って応えながら、上着のポケットから、あのおもちゃのピアスを取り出す。指先につまんで差し出すと、まだ横になったままの花京院 が、怪訝そうな視線を、承太郎とそれに、交互に当てた。
 「ただのおもちゃだ。別に意味はねえ。」
 「・・・僕に?」
 手を伸ばし、赤い玉に触れ、はにかんだように笑う。その笑みにつられて、承太郎も薄く笑った。
 「つけてくれ。」
 手を動かして、髪をかき上げ、耳を承太郎の方へ向ける。
 承太郎は、もう少し花京院に近く寄り、プラスチックの台からピアスをひとつ外した。つるつると滑らかな耳朶を指先につまみ、一応は金色の足をそこへ通 す。まだ少し震える手が、小さな金具を落とさないように、慎重に、裏側から止める。かちりと小さな音がすると、花京院は照れくさそうに肩をすくめ、たった 今着けたばかりのピアスに触れる。それから、もう一方の耳も、承太郎へ向けた。
 「ありがとう。」
 両方が耳に収まると、ひどく深い声でそう言い、
 「別に大したもんじゃねえ。」
と、慌てて言った承太郎の方が、今度は照れる番だった。
 髪に紛れて、まがいものの金色の鎖と鮮やかな赤が、意外によく映えた。それにうっかり見惚れていると、花京院が小さくあくびをひとつする。
 「すまない、まだ眠いんだ。」
 承太郎が出て行った後で、ほんとうに久しぶりに、ひとりきりで夢も見ずに眠ったのだけれど、それでは到底足りず、今もできれば、このまま何もせずにまた 眠ってしまいたかった。
 もしかしたら、あのまま承太郎が戻って来ないかもしれないと、思ったことは口にはしない。承太郎は今目の前にいて、そのことに安堵してしまえば、襲われ る睡魔に、何の心配もなく身を任せてしまいたかった。
 「寝ろ。」
 うなずいて目を閉じた花京院を残して、承太郎はバスルームへ行った。
 上着を脱いで、ドアに掛け、それから、傷だらけの腕を洗おうと、洗面台へ寄る。指先も爪も、まだ血に汚れている。
 少しずつ熱くなる湯の下で、痛みにも構わずに、もう乾いてしまっている血を洗い流す。破れた皮膚が、流れる湯に、ゆらゆらと揺れているのも見えた。
 そうしながら、目の前の鏡に映る、顔色の悪い病んだ男の顔を見る。内側から蝕まれてしまっているのが、はっきりとわかる。乾いた皮膚、眼窩は落ち窪み、 目はどこか空ろで、死神であることをやめてしまった今は、己れの死を待つ死神を、その背に背負い込んでしまっている。
 春には、とまた思う。春まで保(も)つだろうか。
 濡れた腕を体の前に揃えて、見下ろして、また自分を見る。
 30年と、あの店主は言った。承太郎が生きて来たよりも長い時間を、あの店主は、大事なひとりの人間と過ごして来たのだ。その時間の長さをうらやましい と思いながら、それを恐らく許されない自分よりも、後にひとり残ることになるだろう花京院のことを、承太郎は心配する。
 ひとりで生きて行けるのだろうか。それとも、承太郎が死んでしまった後で、他の誰かを見つけるのだろうか。
 自分の空想に、胸が張り裂けるような嫉妬を覚えて、承太郎は、思わず鏡の中の自分を殴ろうと、傷だらけの腕を振り上げる。そうして、我に返って、冷たい 水で顔を洗った。
 誰にも渡したくない、誰にも触れさせたくない。しるしを着けて、縛って苛んで、花京院を所有していたスポーツ・マックスと同じように、ひとり占めにし て、どこかに隠しておきたい。見ているだけでは足りない。触れているだけでは足りない。抱きしめて、しゃぶり尽くしても、足りない。血肉を混ぜて、ひとつ にしてしまえないのはなぜなのだろう。
 皮膚で隔てられた、その距離すらもどかしい。これ以上近くなる術を、承太郎は知らない。
 傷だらけの腕を、また見下ろす。
 皮膚を剥いで血管を繋ぎ、筋肉を重ねて、神経を絡め合わせる。どれが誰のものと、そんなことはもうどうでもいい。ひとつになってしまえばいい。ふたりで ひとつのものと、境のない存在になってしまいたかった。
 それが無理なら、と、そこで考えるのを止めた。何か、恐ろしいことを思いついてしまいそうで、病み崩れた体の内側が、膿になって外へ流れ出した後に残 る、腐りかけた皮膚だけの残骸の化け物のような自分が、ほんものの化け物になってしまいそうだったから、承太郎は、そこで考えるのを止めた。
 バスルームを出ると、花京院はもう眠ってしまっていて、承太郎がすぐ隣りにもぐり込んでも、目を覚ます気配はなかった。
 眠る花京院と向かい合い、痛む腕を撫でさするうちに、ふと、花京院に触れたくなる。
 けれど触れてしまえば、それだけですむとも思えなかったし、久しぶりに穏やかな眠りを貪っている花京院を起こすことはできず、体温を感じられる近さに指 を伸ばし、触れないぎりぎりで、自分の忍耐を試すように、承太郎はストイックな拷問にひとりで耐えることにした。
 その我慢は長くは続かず、花京院の寝息を聞くうちに、その呼吸のぬくみに負けて、花京院に触れることだけは何とか避けながら、代わりに自分の躯に手を伸 ばす。
 こっそりとベルトを外し、ズボンの前を開いて、その中へ手を滑り込ませて、花京院の呼吸の音に、耳を澄ませた。
 目を覚まして欲しいと思う気持ちと、覚まさないでくれと願う気持ちと、その間で、自分の欲情に触れて、承太郎は短い息を必死で抑える。掌に触れる湿った 熱は、けれどそれ以上になることは決してなく、ただ柔らかいまま、花京院のぬくもりを、痛いほど欲しがっていた。
 眠る花京院の傍で、その寝顔を目の前に、自分を慰めている。触れたところで何も起こらない不能の自分の躯に、悲しいほど必死に、昂ぶりを呼び起こそうと している。
 徒労に終わると知っていながら、止めることはしない。花京院が貪る安らかな眠りを手元に引き寄せるために、射精の後の、あの真空のような疲れが必要だっ た。何も考えずに眠るために、それが起こることはないと知っていて、承太郎は、手を動かし続けている。いつの間にか、涙がこぼれていた。泣きながら、承太 郎は、眠る花京院の傍で、自分を慰め続けている。