Suite Sister
Mary C 学校へ行くことはなく、ひとりで外出することもなく、男の自宅に閉じこもって、男の与えてくれる本やゲームにだけ囲まれて、 言葉にはそれほど不自由しなくなっていたけれど、外のことは一向に知らないままだった。 他の男へ貸し出されることは、まだそれなりにあったけれど、男と触れ合うことは、以前ほど頻繁ではなくなっていた。愛しているという言葉は変わらず、男 のいない日中は、男のために掃除をし、洗濯をして、食事の心配をする。ありとあらゆる何もかもすべてが、男のためだけにある花京院の生活だった。 その年の冬、花京院に早めのクリスマスプレゼントをそそくさと渡して、男はひとりで旅行に出掛けてしまった。 旅行の間は、別の男に預けられ、太い首輪と重い鎖を着けさせるのが大好きなその男は、全裸の花京院を檻に閉じ込めて、そのかたわらで自慰を見せつけると いう、苦痛はさほどないけれど、決してありがたくはない趣味の持ち主だった。 早く帰って来てくれないかと、クリスマスを一緒に過ごしてくれない男を、花京院は、檻の中で日を数えながら、ひとり恨んだ。 男の留守は思ったより長く、1日過ぎるごとに恋しさばかりが増し、こんなに男と離れているのは初めてだったから、心細さに、花京院は何度も泣いた。 泣いている花京院を見つけるたびに、預かり主の男は、花京院を慰めようとして、おろおろとあれこれ話しかけてくれるけれど、それすら男を思い出させるだ けで、何の役にも立たない。それでも、抱きしめられれば、ひとのぬくもりに、安堵はできた。ないよりましだと、膝の間に伸びて来る手を、自分から引き寄せ さえする。 花京院よりも背の低い、小太りのその預かり主に触れれば触れるほど、男との違いが際立って、余計に淋しい思いをするとわかっているのに、誰かの躯にすが らずにはいられなかった。それ以外には、淋しさをまぎらわす術を知らない花京院だった。 クリスマスも新年も過ぎて、ようやく男が、花京院を引き取りにやって来た。 それなりに優しくしてくれた預かり主の気持ちになど構いもせずに、彼の目の前で、花京院は男に抱きつき、口づけをねだった。会いたかった、淋しかった と、男の腕を放さずに、男と彼が交わす言葉など、一言も聞いてはいなかった。 車の中で、花京院は子どもっぽくはしゃぎ続け、どれだけ男が恋しかったかを繰り返す。男は、どこか上の空で、相槌を返すだけだった。 「家に帰ったら、僕の部屋のドアが閉まってて、鍵が掛かってたんだ。どうしてなのか、わからなかった。」 そこへ閉じ込められることなど、久しくなかったし、寝るのは男のベッドでだったから、その部屋は、花京院の部屋だったけれど、その頃にはろくに使われて はいなかった。いつだって開けっ放しのドアが閉じているのは、見慣れないというだけではなく、ひどく不気味に見えた。 男は、ちょっと困ったように笑って、待っておいでと花京院に言い、部屋の鍵を開けた。そして、中に入り、バスルームの方へ行った気配があって、それか ら、裸の少年が、男の背中に隠れるように、部屋から姿を現した。 膚の色は白かったけれど、髪の色も瞳の色も濃く、せいぜい10歳くらいのその少年は、男の手を両手でしっかりと握り、こわごわと花京院を見ている。 スペイン語の名前を告げ、男は、少年の頭を撫でた。 どこから買って来たのか、男の旅行は、それが目的だったのだと理解するのに、1分近くかかった。そう思い当たっても、そんなはずはないと、頭が答えを拒 み、きっとどこかの誰かから、いつものように借りて来た子なのだと、花京院はまだ思いたがっていた。 僕がいるのに。 自分の半分ほどしかなさそうな、その小さな少年を、花京院は知らずににらみつけていた。 男に、質問することは許されない。男が、話してくれるのを待つしかなかった。 男は、その子を部屋に戻し、またドアに鍵を掛けた。それから、また困ったような、照れくさそうな笑みを浮かべて、改めて花京院を抱きしめた。 会いたかったよ。男の言葉が空々しく響き、けれどその言葉にすがりつくしかなく、もう肩の高さもあまり変わらない男を抱き返して、花京院は、男の唇を塞 ぎに行った。 その日から、男のための生活が、男とその少年のために変わった。 男のために、少年の世話をし、何かあれば手助けをし、けれどそこには、一向に心がこもらない。決して話しかけず、話しかけられても、わからない---そ れはほんとうのことだったけれど---と首を振って、できる限り無視した。 花京院に言うのとは違う声音で、男が少年に愛しているよと言うたびに、胸を突き刺されるような痛みを感じた。 少年が、少しずつ男になつき、花京院が食事を作るすぐ後ろで、ふたりがまるでほんとうの親子のようにじゃれ合っている気配に、手にしているナイフを、ど こか---少年に向かって---に投げつけたい衝動を抑えるのに、ひどく手間が掛かるようになっていた。 ソファに並んで坐るのは、男と少年で、男と花京院ではない。それでも、男が夜を過ごすのは、花京院のそばでだった。 そうしてある日、男が、珍しく花京院を手元に引き寄せて、額を近づけながら、言った。 あの子を、躾けて欲しい。 男の言葉がまったく理解できずに、花京院は視線をさまよわせかけた。 あの子を、おまえと同じように、して欲しい。 同じように。つまり、ちゃんと男を満足させられるように、花京院が知っていることを、できることを、すべて教えろということだ。 どうやって、と最初に思った。 男を分け合うことさえ、できるとは思えないのに、あの少年に、男が自分にそうするように触れることなど、想像もできなかった。あんな小さな体に、一体何 をしろと言うのか。無茶だと思った。初めて、あの少年に対して、憐れみが湧いた。男を満足させることにだけ心を砕いて来た花京院になら、完璧にできるだろ う仕事だったけれど、そんなことを考えつく男の異常さに、花京院は初めて思い当たっていた。 男の首に両腕を回して、花京院は冗談にまぎらわそうと、笑いながら首を振った。 無理だよ、そんなこと。あの子にそんなこと、あの子が死んでしまう。 自分が味わった苦痛を思い出しながら、知らずに口元が歪む。 おまえなら、ちゃんと手加減できるだろう? 狡猾な、どこか媚びを含んだ表情が、男の目元に浮かんだ。 「それで、どうしたんだ。」 初めて、承太郎が口を開いた。花京院が、ちらりと承太郎を見て、ゆるく首を振る。 「何もしなかったさ。できるもんか、そんなこと。」 花京院の瞳が、いっそう暗い影を落とし、慄える唇が横顔に見て取れる。少年に、花京院が触れなかったということにだけは安堵して、承太郎はまた話の続き を黙って待った。 男に逆らったのは、それが初めてだった。男は、執拗にその望みにこだわった。ベッドの中で、いつも自分のためにしか動かない男が、花京院を必死で悦ばせ ようとしながら、同じ頼みごとを繰り返す。すぐに根負けするだろうと思っていた花京院が、強硬に、それだけは絶対いやだと言うのに、男はある日、ついに怒 りを爆発させた。 もうおまえじゃだめなんだ。おまえはもう子どもじゃない。おまえとは無理なんだ。 花京院の肩をつかんで揺すぶりながら、自分がどれだけ我慢して、花京院を仕方なく抱いていたかを、男は延々と怒鳴り続けた。 新しい少年の世話をさせるために、これからもずっとここに置いてやる。だから言うことを聞け。男の言うことは、つまりはそういうことだった。 それでも花京院は、首を縦には振らなかった。振ることができなかった。 愛する男を奪われるために、その準備と用意をすることなど、できるはずもなかった。 父さんと、泣きながらすがりつこうとした。その手を振り払われ、肩を突き飛ばされた。不様に床に倒れた花京院を見下ろして、おまえを愛してなんかいない し、おまえの父親でもない、男の声が、冷たく降って来た。 その夜、花京院は、居間のソファでひとりで寝た。男が、ベッドに入れてはくれなかったからだ。 不安に震えて泣き明かした翌日、男は仕事から帰って来ると、食事をすませた後で少年を部屋に閉じ込め、いつものようにどこへ行くとも言わずに、花京院を 外へ連れ出した。 ずいぶん走った後で、男がひどく淋しそうに、花京院を、どこかの男のところへ預けるのだと言った。 ひどいことを言った。しばらく頭を冷やしたい。少し時間をくれ。あの子の行く先を決めたら、すぐに迎えに行く。 悪かった、愛してるよとうなだれる男の膝に、花京院は思わず顔を押しつけた。 久しぶりに、ひどく愛しげに髪を撫でてくれる男の掌のあたたかさにうっとりしながら、男に逆らうことなど、これが最初で最後だと、心の中で誓った。 しまった、橋を渡るのに小銭がない。胸や腰の辺りを片手で叩きながら、男が不意につぶやいた。使用料のために、硬貨が必要なのに、それを置き忘れて来た らしい。 車のスピードをゆるめ、男は、すぐそこに見つけたコンビニエンスストアの駐車場へ入って行った。 両替して来てくれないか。だめだと言われたら、コーラでも買って来てくれ。紙幣を差し出して、花京院に言う。渡された紙幣を握りしめて、花京院は車を降 りた。 花京院が背を向けた途端に、車が動き出す。スピードを上げて、あっという間に走り去った。 「僕は、彼が戻って来るんだとまだ馬鹿正直に信じてて、そこでひと晩待ち続けたんだ。」 真冬の夜中を、外で過ごせるような服装ではなく、がたがた震えながら、時々立ち上がって走ったり足踏みしたりしながら、花京院は男を待ち続けた。 朝になっても、男は戻っては来なかった。 男が渡したのは百ドル紙幣で、手切れ金というにはあまりにお粗末だったけれど、その国の貨幣価値さえ知らないままだった花京院には、それさえ理解でき ず、金を残して行った男の最後の優しさに、感謝すらしたほどだった。 自分のいるところが、どこなのかわからない。男と住んでいた場所の、住所は覚えているけれど、どうやってそこへ戻ればいいのかわからない。人に話しかけ ることなど、恐ろしくてできなかった。 空腹を満たせるところ、どこか坐って休めるところ、とにかく暖かいところ、そんなところを目指して、歩き出した。 百ドル紙幣が、受け取る側にひどく嫌われるのだと言うことを知らず、コーヒーショップを何軒か追い出された。満員の小さな食堂で、親切なウェイトレスが 慎重に紙幣を調べた後で、小さな額に両替してくれた。そこで、やっと食事にありつけた。 店の中のざわめきが恐ろしく、優しく話しかけてくれるウェイトレスに、はかばかしい返事もできず、花京院はただ、肩を縮めて薄いコーヒーをすすってい た。 これからどうすればいいのか、見当もつかない。ここで食事ができることだけは覚えた。金もまだある。けれど今夜、一体どこで眠ればいいのだろう。夜を外 で過ごすことが、もうできそうになかった。 疲れと眠気で、まともに考えることもできず、男に捨てられたのだとわかっていながら、まだ男が自分を探しているのだという望みを断ち切れない。やはりあ の駐車場へ戻ろう、道はわかるだろうかと、考えるうちに、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。 肩を揺すって起こされ、あのウェイトレスが、申し訳なさそうな顔で、カップにお代わりのコーヒーを注ぐ。寝ちゃダメよ、追い出されるから。そっとささや く。ごめんなさい。目をこすりながら、そう返すのが精一杯だった。 眠らないためには、動き続けるしかない。とにかく、あの駐車場へ戻ろうと、花京院はコーヒーを終わらせて席を立った。ウェイトレスに会釈をし、店を出 る。来た方へ、戻るように歩き出す。暖かくなった体に、けれど風が、切れそうに冷たかった。 迷いながらも、置き去りにされた駐車場に何とかたどり着いて、花京院は男を待った。 丸3年一緒に暮らした男の、電話番号を知らない。電話帳で見つかるかもしれなかったけれど、男はもう仕事に出掛けてしまっていて、電話には誰も出ないだ ろう。男がどこで働いていて、どんな仕事をしているのかも知らない。 警察へ行けば助けてもらえるかもしれないと思ったけれど、自分たちのことがばれれば、男が捕まってしまうかもしれない。自分のために男が刑務所へ送られ てしまうなど、起こってはならないことだった。 まだ、現実を認めることができなかった。自分を愛していると言い続けた男に、ゴミのように捨てられたのだと言うことを、受け入れることができなかった。 男が愛したのは、花京院そのものではなくて、ただ少年だったというだけの、その時だけの花京院だったのだ。花京院である必要はなかった。男の好みに合っ た、少年でさえあれば良かったのだ。男が連れて来たあの子も、いずれは花京院と同じように、用済みになる時が来るのだ。 それを、まだ認めることができない。自分がもう、誰にも必要とされない人間なのだということを、見据えることができない。 男はまだ、花京院を探している。花京院を連れ戻しに、ここに戻って来る。そう思うと、寒さに凍えた口元に、かすかな微笑すら浮かぶ。 花京院は、楽しかったことばかり思い出しながら、男を待ち続けた。 男は、花京院を探しには来なかった。路上に放り出されて最初の数週間、花京院は、毎日あの駐車場へ行って、男を待った。男を信じていたし、男を信じた かったし、見捨てられた自分の惨めさに、耐え切れなかったからだ。それ以外に、することもできることもなかったからだ。 馴染むことはなかったけれど、少しずつ路上での生活に慣れるに従って、外で冷える体と同じに、心が冷え始めた。男が、もう絶対に戻っては来ないのだとい う現実が、生々しく背中を追って来る。それでも、半ば意地のように、男を愛しているのだと思って、その気持ちを忘れたら、ほんとうに自分はゴミになってし まうと、必死で唇を噛んだ。 男は、確かに自分を愛してくれたのだし、自分は今も男を愛しているのだと、そう思い込むことで、捨てられた惨めさから目をそらした。 男への愛ゆえに、何とか生き延びよう、生きていればいつか会えるかもしれない、そのためなら、少々の辛さには耐えようと、ある日そう心に決めて、すっぱ りと駐車場へ通って男を待つのをやめた。 疲れで倒れる前に、凍死体になってしまう前に、浮浪者用のシェルターがあちこちにあるということを学んだ。 教会で、衣服を分けてもらえるということも知った。 住む場所を持たない少年たちが、案外とたくさんいるということも、路上をさまよううちに教えてもらった。 寒さをしのぐために古着で着ぶくれ、食事を振る舞ってくれる教会や施設を渡り歩き、夜は、運が良ければシェルターでひと晩だけの寝場所を与えられる。運 の悪い晩は、同じ年頃の少年たちと数人で、ひと晩中歩き続けるか、誰かが運良く仲良くなった気の良い男や女のところへ、一夜限りの親友として一緒に転がり 込む。 少年たちは、あまりシェルターへは行きたがらなかった。未成年者は、彼らのための施設に収容されるか、家族の元へ帰されることになっているからだ。正式 な身分証明書などなく、ここへは偽造の書類でやって来たはずの花京院は、警察が調べたところで恐らくデータすらなかったろうから、訊かれればなるべく堂々 と成年であると名乗り、東洋人は若く見えるからなあという人たちの笑いに、つられた振りで笑うことができるほどのしたたかさを、いつの間にか身に着けてい た。 男のくれた金は、長く続くはずもなく、わずかな小銭だけが残った頃には、少年たちにささやかれて、金を得る手段も学んでいた。 明らかに未成年の少年や少女は、決まった場所にたむろう。わかりやすいサインを出して、声を掛けて来る大人たちを待つ。 金額によって、車の中で30分も掛からないこともあれば、薄暗い路地の奥へ、手を引かれて姿を消すこともある。あるいは、ごくまれに、安いモーテルで、 少しばかり長い時間を過ごすこともあった。 誰かに触れて、男を思い出すのがいやだったから、そうする時には必ず、何もかもを麻痺させた。悦ばせれば、約束よりも多く払ってくれることもあったか ら、感じている振りはいつだって忘れなかったし、求められたことには、それを愉しんでいる振りを大袈裟にした。 男との生活が、いつの間にか"本物"を見分けられるだけの目を与えてくれたのか、警察の囮に引っ掛かることもなく、ひとりの男に飼われるか、不特定多数 の男に躯を与えるか、どちらだろうと大した違いはないと言い聞かせて、花京院はその日その日を、必死で生き延びていた。 男に飼われていた間に経験したことは、役に立ちこそすれ、無駄になることはなかったけれど、男の世界に閉じ込められていたゆえの、花京院の歪んだ幼さ は、そうすればするほど、心も躯もすり切れてゆくことを、気づかせてはくれなかった。 体を切り売りする生活は、隠せずに表情や仕草ににじみ出すようになる。何度かシェルターで、一緒になった浮浪者の男たちに無理強いされそうになって、花 京院は寝場所を教会に探すようになった。手加減せずに、押さえつけようとしてくる薄汚れた男たちを、撲り返すのは気が咎めて、けれど自分の身は自分で守る しかなく、そうなれば、大抵の人たちが身を慎むだろう教会の方が、安全なように思えたからだ。 プッチに出会ったのは、そんな教会のひとつでだった。 プッチは、集まった人たちに、食事を振る舞う手伝いをしていたひとりだった。 こんな場所では東洋人は珍しく、花京院の若さ---幼さ---がいつも目立つことは、重々承知していた。浮浪者たちの間では、互いの個人的なことには触 れないという暗黙の了解があったから、誰も花京院に、どこから来たとか何があったとか、そんなことは訊かない。それでも、好奇の視線を浴びるのが常だった し、だからプッチが自分に目を留めたのも無理はないと、その時はそう思っただけだった。 皿を受け取って、部屋の隅のテーブルへついた自分の目の前に、プッチが後を追ってやって来たのに、花京院はひどく驚いた。 膚の黒い、明らかに黒人の血の混じっているこの神父は、もしかすると、見た目が違うということで、同じような自分に親近感を持ったのだろうかと、そう考 えた。 君は、ずいぶんと若く見えるが、いくつなんだ。 18です。表情も変えず、皿に視線を落としたまま、短く答えた。うそだと、ばれない自信があった、つもりだった。 食事を始めた花京院を見守って、プッチが、低い声で静かに言った。 ウソは、神がお許しにならない。 うっかり、スプーンを持つ手が止まった。 プッチが、ひどく美しく笑って、テーブルに乗っていた花京院の左手に、自分の手を乗せた。 膚の色の違う掌がふたつ重なったその様が、ひどく神々しく見えて、自分の薄汚れた指先と爪を、花京院は心から恥じた。 君の話を、ぜひ聞きたい。わたしの教会に訪ねて来るといい。 有無を言わせない強さで、プッチが花京院の手を握る。 その手のぬくもりに、冷え切っていた心が溶かされるような気がして、花京院は目の前のプッチに向かって、思わず目を細めていた。 それが、ふたりの出会いだった。 追い返されるかもしれないと思いながら、2日後、花京院はプッチを訪ねて行った。 気まぐれで掛けた言葉だったかもしれないけれど、それを真に受けたからと言って、今さらかくような恥もなく、日々生き残るため以外で人と会うことなど皆 無だったから、それが恋しくて、花京院は少しだけ心を浮き立たせていた。 決して期待はするなと自分に言い聞かせて、けれどいつもよりも軽い足取りを隠せない。 プッチがいるという教会は思ったより大きく、扉の前で、花京院は思わず足を止めた。 辺りを見渡しても、みすぼらしい姿の通行人はあまり見当たらず、ほんとうに来てよかったのだろうかと、花京院はまた思った。 礼拝堂の中にいたプッチは、花京院の姿を認めた途端、にこやかに微笑んで握手のための手を差し出してくれた。自分の冷たい---そして汚れた---手を 気にしながら、軽くその手を握り返し、花京院は精一杯、作り笑いではない笑顔を浮かべた。 はにかんだような、そんな笑みを浮かべたのは、一体いつ以来だったかと、プッチの後について、教会の奥へ入りながら考える。 天井の高い、扉のたくさんならんだ長い廊下を進んで、部屋のひとつに通される。学校で言えば、資料室や図書室のような場所なのか、中央に大きな卓と椅子 が並べられている以外は、すべて本棚だった。金箔の背表紙のタイトルは、明らかに花京院の知る言葉ではなく、こんなところに閉じこもって、本に埋もれてい たら、どんなに幸せだろうかと、上を見上げて目を細めた。 勧められて、やっと椅子に腰を下ろし、卓の角を囲む形に、プッチも椅子に腰掛けた。 外は寒かったろう。上着を脱がない花京院に、プッチが優しく言う。ええ、でも大丈夫です、歩いていれば暖かいですから。 椅子の中で、斜めに体をずらして、プッチが花京院と真正面に向き合おうとする。卓に肘を乗せ、やや前かがみに、花京院の方へ体を寄せて来た。 君は、ほんとうはいくつだ? 自分を真っ直ぐに見つめるプッチから、さり気なく視線を外して、花京院は真正面を向いた。窓の方を見ている振りで、素早く考えをめぐらせる。まだ成年で はないのだと、プッチにはばれている。たかが半年先だけれど、今18でないことはほんとうだ。教会という場所で、こんな、奥まった場所で、神父を目の前に うそをつけるほど、花京院はしたたかではなかった。 17です。この夏に、18になります。 17というのも、プッチには信じられなかったのか、濃い眉が寄って、窺うように花京院を見る。その視線を、今度は避けずに受け止めて、卓の上に出した手 を、拳に握りしめる。言い訳と取られるのがいやで、それ以上は言葉を重ねなかった。 椅子の背に体を戻し気味に、プッチが背中を軽く反らした。 学校は? 花京院は、また正面に視線を戻して、首を振った。行ってません。行ったことがありません。 プッチが、表情を消した。同情や憐れみや、あるいは嫌悪や、ありとあらゆる感情が、プッチの顔から消えた。花京院の言ったことを、聞いたそのまま受け 取って、それについての判断は表情には出さない、そう努力しているのが見て取れた。何事に対しても公正でありたいという、プッチの態度の現れだと思って、 そのことに、花京院はふと泣き出しそうになった。 自分から目をそらしてくれたプッチに感謝しながら、震える唇を噛んで、涙を耐えるために何度か瞬きする。花京院が落ち着くのを待ってから、プッチがまた 訊いた。 これからもずっと、こんな生活を続ける気なのか。 プッチの言うこんな生活が、浮浪者をしていることなのか、躯を切り売りしていることなのか、それとも両方なのか、よくわからずに、花京院は一瞬言葉に詰 まる。どちらも仕方のないことだったし、どちらかをしなくてすむという状態が、花京院には想像もできなかった。 路上をさまよいながら、男が自分を探しに来るのを待っている。他の誰かが自分を拾ってくれる---飼ってくれる---としても、それを受け入れるかどう か、わからない。花京院は、まだ男を愛していると思っていたし、その気持ちだけが、花京院をこの世にとどめている。 わかりません。短く、答えた。 膝の上に両拳を握って、花京院はうつむいた。 心のどこかで、ちゃんと理解している。男は、絶対に花京院を探しには来ない。もういらないと、捨てられたのだ。花京院の背が伸びて、すっかり大人になっ てしまったから、男は別の少年を見つけて来たのだ。どこかで見かけても、男はきっと、会ったこともないという顔をするだろう。おまえなんか知らない、する りと視線を外して、男は恥じた様子すら見せない。それが現実だ。 その現実から、花京院は目をそらし続けている。生き延びるのに精一杯で、そんなことを気に掛けている暇はないという振りをして、この世界にひとりぼっち になってしまったという事実を、ないことにしてしまおうとしている。 プッチが、花京院の横顔を、じっと見つめている。 花京院の心の中を見透かすように、その視線は真っ直ぐで厳しく、けれど穏やかに見えた。 卓の上に、手を伸ばして来る。花京院に向かって手を差し出して、ひどく優しい声で、包み込むように、プッチが言った。 話してごらん。今までのことを、すべて。心をほどかずにはおかない声音だった。 すべて、全部? 思わず顔を上げて、訊き返した。そうだ、全部だ。ためらいなく、プッチが促す。あんまり、いろいろありすぎて、どこから話せばいいの か。最初から話してごらん。ゆっくりでいい。時間はたっぷりある。何もかも、神さまが聞いて、受け入れて下さる。 思わず、差し出されたその手を、花京院は両手で取り上げた。暖かいその指先を自分の額に当てて、そのぬくもりに、花京院は涙をこぼした。 暴力や踏みにじることが目的ではない、ひとのぬくもりだった。 「誘拐されたことも、売られたことも、男とのことも、捨てられたことも、その後のことも、全部話した。両親が殺されて、家族がないことも、僕の身分が一 体どうなってるのか、皆目見当もつかないことも、全部話した。」 プッチは、時折激しく泣く花京院の、わかりにくい長い話を、辛抱強く最後まで聞いて、途中で2度、熱い紅茶をいれてくれた。 どちらかと言えば、不快になるだろう内容だったけれど、プッチは顔をしかめることはせず、咎めるようなことも言わず、ただ花京院の足りない言葉を補うた めに口を挟む以外は、黙って話の先を促すだけだった。 両親を失って、初めて、ひとりの人間として扱ってもらえたと、そう感じて、言葉は、後から後からあふれ出た。 男との生活では、問うことも語ることも求められてはいなかったから、誰かが自分の話に耳を傾けてくれるなど、想像したこともなかったし、そもそも、自分 にそんな価値があるのだと言うことを、すっかり忘れていたことに、話しながら気づく。 自分は、誰かの欲望のために使われるだけの人形ではないのだと、そう感じ始めていた。 やっと話し終わった花京院の手を取って、もう、どこにも行かなくていいと、プッチが言う。 苦難を乗り越えた人間は、だからこそ、他の人たちを救うことができる。君はそのために、選ばれた人間だ。神が、君を選ばれたんだ。わたしの許で、神の愛 を学ぶんだ。これからは、それが君の為すべきことだ。 まだ涙の乾かない頬で、花京院は、プッチの言葉をすぐには理解できずに、きょとんとした。 檻に閉じ込められて、躯を使われること以外、何も学べなかった自分が、神に選ばれたということが理解できず、花京院は本気で途方に暮れた。 君は、まだその男を愛していると言うが、人の心は移ろいやすい。そんな不確かなものにすがっても、不幸になるだけだ。けれど神は違う、神の愛は、永遠 だ、不変だ。君の、その男への愛が、単なる間違いだったと君に悟らせるために、神は君とわたしとを結びつけられた。君はもう、その男のことを忘れても大丈 夫だ。その男が、君を捨てたのじゃない、君がここへ導かれるために、わたしと、神の許へ来るために、君自身が男から離れることを選んだんだ。神が、君に苦 難を与えられた。君を強くするために、様々な傷をお与えになった。君は、その傷をすべて、神に深く愛された証拠だと、心から誇るべきだ。 言葉にしてしまえば、おぞましいとしか言いようのない経験すべてを、誇れと、プッチは真剣に言う。神が、花京院を愛したからこそ、そんな境遇に突き落と したのだと言う。それを生き延びた花京院は、選ばれた人間なのだと言う。プッチの言葉は、ひたすらに力強く、真摯だった。 自分の薄汚れた姿を、ほんの一瞬ではあったけれど、恥じる気持ちを失くした。 明日のことすら考えられない、光の差さない日々が、急に太陽の光あふれる、夏の日のように感じられた。目の前が明るくなり、それに向かって、花京院は思 わず目を細めていた。 愛を得られなかった花京院を、神が愛してくれるという。永遠に、不変に。花京院が誰であるに関わらず、花京院の過去がどれほど醜くても、神は、花京院を 受け入れ、導くだろう。 わたしの言う通りにすればいい。君はもうどこへも行かず、わたしの許へいればいい。 プッチの言葉に従って、花京院は、浮浪者の生活をやめた。わずかな金のために、路上にたむろうことも、もうしなくてすんだ。神を信じてさえいれば、その 日を生き延びるためのはかない望みなど必要なく、自分をプッチと出逢わせてくれた、自分を捨てた男にさえ、感謝できるようになった。 食べるものと寝る場所を心配する必要がなくなり、いつでも清潔でいられるようになり、ただ、神のことだけを考える日々が始まった。神のために祈り、神の ために働き、神のためだけに心を砕く。清らかな気持ちで、胸に下げた十字架に口づけながら、淀んだ沼の底のように濁り切っていた心の中が、健やかに澄んで ゆく。男のことも、その後の惨めな生活も、思い出せば胸は痛んだけれど、神に出逢うためだったのだと、胸を張れるようにすらなり始めていた。 その年に、プッチが、ある小さな教会を任されることになり、もちろんそこへは花京院を伴った。正式ではなかったけれど、花京院はプッチを自分の師とし、 プッチのような神父になるのだと心に決めていたから、誰もがそのことに異論を唱えることもなく、プッチを助けながら、花京院はプッチと神の教えに、もっと もっと深く傾倒して行った。 ただひとつ、花京院が知らなかったのは、プッチがDIOという人間と出逢い、選ばれた少数の正しい人間だけが天国へ行くべきなのだと言う、歪んだ考えを 胸に秘めていたことだった。 新しい教会へ移り、プッチも花京院も、信者たちには好意的に迎えられ、何もかも順調のように見えていた。 ある日プッチが、花京院に、大事な話があると言った。 花京院の目の前に新聞を投げ出して、人殺しや暴力事件で埋まっているその1面を見るように言った後で、頭を抱え込む仕草を見せる。嘆かわしいとつぶやく のに、花京院も、表情を曇らせてうなずいた。 記事を斜め読みする時間を与えた後で、プッチが、問い掛けるように言葉を始めた。 そういう人間たちを、憐れと思うか。思います。新聞を手にしたまま、答えた。罪を犯そうとしている人間を、救える方法があるとしたらどうだ? 戸惑っ て、どんな方法ですかと、小さな声で訊いた。 神がそれを求められているという前置きで、プッチの言葉が続く。ようするに、犠牲が必要だということだ。傷つけるための人間を用意すればいいと、ことも なげにプッチは言った。傷つけても構わない誰かがいれば、市井の人々が傷つかなくてもすむ。 神がプッチにそれを求め、プッチが花京院に求めている。例えば、誰かを殴りたいと思えば、ここに来て、花京院を殴ればいいということだ。殺さずに、病院 へ行く必要がない程度にと、ちゃんと言い含めればいいと、さらりと言う口調があまりに平坦で、教会の正面にある小さな花壇に植える花の話でもしているのだ と、錯覚しそうになる。 殴るという話は、すぐに、もっと下劣な方へ向かった。強姦したがるなら、させてやればいい。ひどくは傷つけるなと、そう条件をつけて、好きにさせればい い。女ではないから、妊娠の心配はない。それで、どこかの少女が助かるなら、それは英雄の行為だと、プッチの深い声が、いつもの力強さで言う。 なぜ、と思った。なぜ自分が、その"英雄行為"とやらのために選ばれるのかと、花京院は思った。思って、表情に出た。 おまえなら、少々のことになら耐えられるだろう。それに、その手の連中の悦ばせ方も、心得ているだろうし。 血の引く音が聞こえた。ひどく侮辱されたのだと、自覚するのに、数秒掛かった。それを言ったプッチは、それを侮辱などとは一片も思わず、侮辱と気づかな いプッチの傲慢さを、花京院は初めて感じた。感じて、愕然としながら、それでも師と思う人だったから、そう感じる自分の方を恥じてしまった。 男への愛は、すっかり風化してしまっている。神への愛が、それにすり替わり、結局のところ、真の解決にはなっていなかった。花京院は、神に仕えること で、自分の傷が癒されたと信じていたけれど、実のところ、依存する対象が、自分を飼っていた男から、神---プッチ---に代わっていただけだった。その ことに気づかず、自分の中に、相変わらず膝を抱えたままでいる、傷ついた少年がいることに知らん振りをして、その少年が今、逆らってはいけないと、花京院 に向かって叫んでいる。 逆らっちゃダメだ。愛してもらえなくなる。見捨てられる。言うことを聞いて、良い子にしていれば、愛してもらえる。良い子でいないと、捨てられる。もう 愛してないって言われる。逆らっちゃダメだ。大丈夫だから、耐えられるから、愛してもらえるなら、何だってするよ。愛してくれるなら、どうなってもいい。 右手に、十字架を握りしめていた。声が震えたけれど、めまいに負けずにかかとに力を入れて、わかりましたと、そう言った。 何でも、神父様のおっしゃる通りに。 プッチは、顔の前で両手を組んで、その向こうで鷹揚にうなずいた。 「これで、僕の話は終わりだ。神父様は、僕の恩人だ。裏切ることはできない。あの人に見捨てられたら、僕はほんとうにただの人間のクズだ。」 「てめーにそんな真似させてるあいつは、人間のクズじゃねえのか。」 承太郎が息荒く言うのに、花京院は黙り込む。 承太郎の目の前で、意図して十字架に触れまいとしているのか、組んだ両手は、力なく膝の間に垂れている。 「僕のしていることに、神父様は意義を与えて下さったんだ。僕は、欲のためにあんなことをしてるわけじゃない。どうせどこかで凍死でもするのが落ちだっ たんだ。神父様は、そんな僕を救って下さった。感謝しこそすれ、恨む筋合いなんてない。」 本気で言っているのかどうか、表情は読めない。けれど握りしめた手が震えていて、言葉と感情が、どこかでわずかにすれ違っているのだろうことは見て取れ た。 承太郎は、大きくため息を吐いた。 「日本に帰ろうと、思わなかったのか。」 うつむいて、即座に首を振る。 「・・・どうやったら日本に帰れるのか、わからなかった。日本に帰って、起こったことすべてを説明するのが怖かった。根掘り葉掘り訊かれるのが、心底嫌 だったんだ。」 苦しげに、口元が歪む。花京院のその表情に、承太郎の胸がさらに痛んだ。 重苦しい沈黙に襲われて、花京院はしゃべり疲れていたし、承太郎は聞き疲れていた。互いから視線をそらして、ふたりはもう、言葉を探す努力もしない。 「・・・帰るよ。」 不意に、花京院が椅子から立ち上がる。引き止めて欲しいわけではないだろうけれど、その場に立ったまま、承太郎を見ている。視線に誘われて、承太郎も立 ち上がった。 どちらからともなく、近づいて、腕を伸ばした。ゆるく抱きしめ合う。花京院の傷に障らないように、承太郎はただ、そっとその髪を撫でた。 帰るなと言いたい言葉を飲み込んで、もっと一緒にいたいという言葉を飲み込んで、ふたりは無言で抱き合っている。 光の射さない狭いトンネルの中を、這いずりながら手探りで進んでいるような、そこからふたりはどこへも進めない。進むためには、すべてを破壊する必要が ある。その力を、持たないふたりだった。 花京院は何も言わず、まだ立ち去ろうとはしない。その花京院を抱きしめて、承太郎は、口にはせずに、ある決心をしていた。 |