The Needle Lies



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 花京院の話を請けて以来、DIOに対しては不機嫌を剥き出しに、滅多と薄い笑顔すら見せなくなっている承太郎だった。
 DIOは、そんな承太郎を見ても特に何も言わず、ただ黙って微笑むだけで、金と薬を渡し、さっさと立ち去る承太郎を見送る。
 けれどその日は、少しばかり様子が違った。
 DIOが、机に置いた封筒に、承太郎はまだ手を伸ばさず、そこに突っ立ったまま、机のどこかを見据えている。両手は、何かを拒むように、ズボンのポケッ トに入ったままだ。
 別にうろたえもせず、DIOは封筒と承太郎を交互に眺めている。
 少し経ってから、微笑みを消さないまま、DIOがゆっくりと紅い唇を動かした。
 「あの神父は、まだ元気で生きているようだな。」
 花京院に会ったことを知っていて、かまをかけているのだろうかと一瞬警戒したけれど、視線を上げてDIOをじろりと見て、そうではないらしいと思うと、 承太郎はまた机のどこかに視線を戻した。
 「どうやらそうらしいな。」
 まるで自分には何の関係もないことだという口振りで、応える。
 承太郎の様子を、いつものように、あしらうような素振りで受け止めて、DIOは机の上に両肘をつき、組んだ両手で口元を隠した。
 「警察が、君を捜して動いている様子はまだないが、早いに越したことはない。教会でやるのがいやなら、どこかへ呼び出せばいい。」
 まるで、犬か猫をどこかへ捨てに行くような、そんな素っ気ない言い方だ。
 自分に都合の悪い人間の命は、そこらに転がる空き缶よりも軽いのだと、今さら思い知る。その軽い命を、文字通りゴミとして扱い、ゴミとして処分するの に、承太郎は手を貸したのだ。
 何を信じればいいのか、いまだに確かではない。けれど人間は、自分を賞賛する美辞麗句よりも、自分の汚れた情熱を大事にする生き物だと、承太郎は思い 知っている。
 たくさんの人たちを救うのだという英雄譚は、承太郎の虫けらのような人生に意味と意義を与えてくれたけれど、それは文字通り与えられたものであって、承 太郎が自分で手に入れたものではなかった。お膳立てされたシナリオの中に放り込まれ、右も左もわからないうちに、手には拳銃があった。それは確かに力だっ たけれど、自分が守りたいものを守るための力ではない。誰かに都合の良い話を、都合良く進めるための力というだけだった。
 救世主でありながら、誰を取り除き、誰を救うのか、承太郎に決定権はなく、冷静になれば、誰かの手駒で動かされているとはっきりわかる己れの立場は、今 はひどく鮮やかに、滑稽だと理解できる。
 「断る。」
 短く、承太郎は言った。今はしっかりとDIOを見据えて、いつの間にかポケットから取り出した両手を、拳に握りしめて、今にも机を飛び越えてDIOに殴 り掛かりそうに、承太郎は、声の震えを隠そうと、腹の底に力を入れた。
 DIOが、面白い冗談を聞いたという表情で、片眉だけを上げて見せた。
 承太郎は、ことさら真面目な顔で、さらに言葉を重ねた。
 「おれは降りる。救世主とやらが欲しいなら、他で探せ。てめーの御託はもうごめんだ。」
 組んだ手の陰に隠れたDIOの口元が、苦笑にひずんだのが見える。簡単な芸を失敗した、犬を見下ろす飼い主のような表情だった。
 「ずいぶんと、あっさりしたもんじゃないか。君はもう少し我慢強い人間だと思ってたんだが。」
 「てめーのために、5人殺した。それで充分だろう。残りは他の誰かにやらせるんだな。」
 「こういうことには時間が掛かる。君が動いて、明日世界が変わるわけじゃない。私も、ずっと戦って来たんだ、長い長い間。」
 「おれの知ったことじゃねえ。おれは降りる。てめーのためには、もう指1本動かす気もねえ。」
 次第に声が高くなる。冷静に、承太郎を説き伏せにかかろうとするDIOに、神経が逆立つばかりだ。
 DIOは椅子から立ち上がることもなく、ただ組んだ手を外し、掌を合わせる形に変えて、相変わらず隠した表情を大して崩すこともしない。
 いきり立つ承太郎とは対照的に、まるでこんなことはとっくに予想していたと言わんばかりに、承太郎をなだめようとする態度を、静かに保ち続けている。
 「君は、君の救いを待っている人たちを見捨てるのか。君がいなければ、どちらへ進めばいいか一生わからないだろう人たちを、放って逃げるつもりか。彼ら は、それこそ一生君を待ち続けるだろう。君がとっくに逃げてしまったことにも気づかずに、君がやって来るのを待ち続けるだろう。」
 逃げる、という言葉が、否応なく胸に突き刺さる。耳触りのよい言葉を並べているだけだと思っても、散々救世主と持ち上げられた後で、負け犬呼ばわりされ るのは、心にひどくこたえる。またあの、無価値どころか、汚れたゴミ以下の存在として扱われるのかと思うと、そこへ戻るだろうこれからに、承太郎はわずか にひるんだ。
 「君は、そんなつまらない人間じゃないはずだ承太郎。」
 DIOが、承太郎の心の動きを読んだかのように、追い討ちをかけて来る。
 やっとの思いで、自分が立っているそこへ、承太郎は必死で踏みとどまった。
 また負け犬に戻るのだ。けれど、ひとりではない。ひとりではそこへは戻らない。少なくとも、救いたい人間がいる。救うことで救われれば、承太郎はもう負 け犬ではないのだ。
 逃げるのではない。別の方向を見出しただけだ。そこへ向かうように仕向けられた方にではなく、自らが選び、飛び出してゆく方向へだ。自分の足で立ち、自 分の足で歩き出す。ひとりではない。承太郎のかたわらには、もうひとり、誰かがいる。
 逃げるわけではない。自分自身を救うために、自分自身が救われるために、暗くうねった長いトンネルの先に、ようやく見つけた光を目指して、走り出そうと しているだけだ。光に向かって腕を差し出し、その手は血にまみれているかもしれないけれど、これ以上、死体の山を築く必要はない。そこへたどり着くのに、 これ以上の血も犠牲も必要とされない。
 誰かが、自分の後を追って来ることなど、必要ではないのだ。道はただ、承太郎のためだけにあればいい。その道は、承太郎が踏みしめ、その後ではかなく消 えてしまっても、それを嘆く必要はない。自分で選び取った道を、ひとりきり---誰かと一緒に---で進むことを、無謀で無価値だと思う必要はない。
 誰かのために生きるのではなく、自分のために生きるのだ。
 DIOの態度を、どうにでも好きに動かせる手駒に対する見下したそれだと思って、承太郎はやっと、完全に心を決めた。
 「てめーとはこれっきりだ、DIO。」
 突きつけるように、けれどもう荒げた声ではなく、承太郎は静かに告げた。
 DIOは、さあどうだろうなという表情を浮かべて、音も立てずに椅子から立ち上がる。肩をすくめて見せながら、両手を、承太郎がいつもそうするように、 ズボンのポケットに差し入れた。
 「じゃあな。」
 もう、どんな感情の色も見せない声で、承太郎はドアに向かって肩を回しかける。それを引き止めるように、DIOがまた声を掛ける。
 「それは持って行くといい。」
 体半分、まだDIOの方へ向いたまま、承太郎は前へ出そうとした足を止めた。
 机の上に放っておかれたままの封筒を指して、DIOが微笑む。
 「餞別だ。」
 おかしそうに、付け加える。
 最後の最後まで、尊大に、自分をからかうような態度をやめないDIOに、承太郎は腹を立て始めていたけれど、それが挑発だとわかっていたから、必死でこ めかみの辺りに浮き上がる血管を抑えている。DIOをにらみつけて、明らかに拒む態度で、両手はポケットに入れたままだ。
 「私と切れれば、君はまた、自力で薬を手に入れなければならなくなる。金はあった方がいいだろう?」
 白い歯列が覗く形に、DIOが笑う。獲物を飲み込もうとする、蛇の大きく開いた口と、ちろちろと出入りする長い舌が、そこに見えたような気がした。
 承太郎は、また机の方へ肩を回し戻し、DIOから目をそらしたまま、封筒を手に取った。
 「君の決心が、長く続くことを祈るよ。気が変わったら、いつでも戻って来るといい。」
 承太郎の言うことなど、まるきり信じていないという口調で、おかしそうにDIOが言う。もう、それをにらみつけることもせず、承太郎は今度こそ、部屋を 出て行くために爪先をドアの方へ向けた。
 これが最後だ。もう、薬は使わない。自分の道を切り拓くために、少しでも健やかさを取り戻すために、薬とは縁を切るのだと、ドアを出て行きながら、ずっ と考えていたことをまた頭の中で繰り返し、承太郎は改めて自分の中へ言い聞かせる。
 薄い封筒が、胸のポケットの中で、やけにかさばって感じられた。
 外へ出て、月も星もない空を見上げる。その空の昏さに、これからは、自分のために生きるのだと、誓う。
 一度きり、胸ポケットの辺りを上から押さえて、その感触を掌に数瞬味あわせてから、何もかもを振り捨てるように、承太郎はゆっくりと歩き出す。
 教会へ向かう足元に、風が吹いた。長い上着の裾を舞い上げ、それがまるで、黒い鳥の翼のように見えた。
 救世主であることをやめ、承太郎は今、死神になった。自ら望んで、日曜の今夜きり、承太郎は死神だった。


 そう思っていた通り、教会はひっそりと静まり返っていた。少なくとも、外からはそう見えた。
 心臓の音が、ひそめた足音よりも大きく聞こえる。緊張しているようで、ひどく落ち着いてもいた。これから起こることを、正確に予想しながら、鍵の掛かっ ていない裏口から中へ入り、ゆっくりと礼拝堂へ向かって足を運ぶ。
 まるで黒い影のように、承太郎は、引いて開けたドアの隙間から、そこへ滑り込んでいた。
 蝋燭の明かりが揺れる。息遣い。影。わずかな光に縁取られた、ひとの輪郭。不自然に白く浮き上がる、そこに横たわる誰かの姿。プッチはまた、つまらなそ うに、祭壇で行われている冒涜の儀式を、ベンチから眺めている。
 あの時と同じだ。これを待っていた。待ちながら、承太郎は、殺意を黒く固めたのだ。殺意は今、承太郎の指先から、粘りを持った液体になって、滴り落ちよ うとしている。
 命令されたのではない。これは、ごく個人的なことだ。自分自身のために、自ら選んだ残酷さだ。花京院へ向けられた残酷さとは、比べものにもならない、浅 薄な酷(むご)さではあっても、ほんのわずかでも、花京院の味わった苦痛を、分け与えてやりたかった。
 ゆっくりと深い息を吸い込んで、爪先を滑らせるようにして、承太郎は足音を消した。
 ふたりは説教壇の向こう側にいる。
 こちら側から祭壇へそっと上がった瞬間、そこへ向かって飛ぶように駆け出した。
 承太郎の歩幅で、3歩足らず。承太郎の動きに、蝋燭の炎が揺れ、影の形が変わる。音に気づいたスポーツ・マックスが、花京院に触れていた手を外し、まる で身を守ろうとするかのように、胸の前に上げた。
 まるで、薄闇の中の、ひと色濃いだけの影に見える承太郎に向かって、誰だと問う形に、唇が動いたのが見えた。
 承太郎の手には銃。弾は、まずスポーツ・マックスの右胸の端の方に当たった。衝撃で、花京院から躯が離れ、後ろへ吹っ飛ぶ。驚愕の表情で、花京院が、折 りたたまれていた体を半ば起こして、目の前の惨劇を呆然と眺めている。
 仰向けに倒れたスポーツ・マックスの傍へ行き、今度は腹へ1発。胸の傷を押さえていたスポーツ・マックスが、体をふたつに折り曲げて、潰れた声で悲鳴を 上げた。
 承太郎に表情はなく、体に震えもなく、凍るような冷たい瞳で、血を流すスポーツ・マックスを見下ろしている。
 プッチは、さすがにベンチから立ち上がったけれど、祭壇へ近寄ることはせず、承太郎を止めようともしない。
 撃たれた側の右半身が、痛みで動かしにくいらしく、スポーツ・マックスは、じたばたと血に濡れたそこで、陸に上がった魚のように跳ねている。
 何とか体勢を立て直して、承太郎から離れようとして、床を蹴るように動いている左足の膝に、また1発。
 体がまた一度跳ね、荒い息のまま、スポーツ・マックスは、やっとそこにおとなしくなった。
 薄気味悪い目で、承太郎を斜め上に見上げる。命乞いをしている色ではなく、死を覚悟した人間の眼でもなく、何が起こっているのか、正確に把握できていな い、ぼんやりとした表情がそこに見えた。
 痙攣するように、がくがくと小刻みに震えている血まみれの体を、承太郎は無表情に眺め下ろした。
 わずかに乱れた着衣の、そこだけ剥き出しになったところへ、視線が止まる。何に濡れているのか、かすかに光っているゴムの膜に向かって、承太郎は唇の端 だけひずめて、笑いかける。萎えて、きっといつもよりも、苦痛と恐怖で縮み上がっているだろうそこを、承太郎は唇だけで嗤う。感心なことだ。わざわざ、こ んなものを使うのは、花京院への気遣いか、あるいは、辱めか。
 承太郎の視線の先に気づいたのか、スポーツ・マックスが、そこを隠すように、右膝を立てて、それから体を右側にねじろうとした。
 その瞬間を逃さずに、承太郎は、正確に、そこを撃ち抜いた。
 肉片が弾け飛ぶのが、はっきりと見える。痛みか、撃たれた衝撃か、スポーツ・マックスは、血と砕けた肉の残骸に成り果ててしまったそこへいたずらに左手 を伸ばして、そのまま体の下に敷き込んで、うつ伏せになる。痙攣は止まらない。顔だけは承太郎に向いたまま、瞳孔の開いた眼に、今度こそ恐怖と憎悪がはっ きりと浮かぶ。
 ひどくゆっくり時間が流れているように感じられた。何もかも、何かを隔てたように遠い。手の中の、熱を持ち始めた銃さえ、現実味がない。
 「くだばれ、このゲス野郎。」
 こちらに向いたこめかみに、1発。血まみれの体が、今度こそ動かなくなる。
 やっと後ろを振り向くと、花京院が瞬きも忘れたように硬直して、自分を見つめている視線に出会う。
 それに微笑みかけるような余裕---あるいは、まともな神経---はなく、銃を持ったまま足早に、花京院の傍へ行った。
 両腕を、伸ばしたまま背中に縛られている。膝を立てて全裸を隠しながら、近づく承太郎に、花京院はいっそう小さく体を縮める。
 そこへ敷かれた黒のローブを踏んで、腰を下ろしながら、承太郎は銃を右手から左手へ持ち替えた。
 動く様子を見せないプッチに対して銃を構えて、なるべく手早く花京院の腕をほどこうと、片手で努力し始める。花京院を胸に抱き込むようにして、もたもた と、その拘束具についた、うんざりする数の金具を、舌打ちしながら引きちぎるように外してゆく。
 「祭壇を血で汚すとは、まったく愚かなことをしたものだ。」
 プッチが、自分をちらちらと見ながら、半ば手探りで縛めと外そうとしている承太郎に向かって、低く吐き捨てた。
 「てめえに何を言われる筋合いもねえ。」
 プッチをにらみつけて、承太郎は負けないほど凄んだ声を出した。
 指は引き金に掛けたままだ。動けば容赦なく撃つ気だと、薄闇の中でも明らかにして、承太郎はやっと、花京院の腕を自由にし終わった。
 「とっとと服を着て来い。」
 その場から少し動いて、踏みつけていたローブを取り上げると、花京院の体を包みながら、立ち上がれと腕を引く。
 「じょ、承太郎・・・。」
 何をするつもりだと、言いたいのに言葉にならず、愕きのせいで、動くのは唇だけだ。
 「早くしろ。てめーをここから連れ出す。おれと一緒に行くんだ。」
 どこへ、と承太郎の腕にすがりついて、花京院がまた唇だけを動かした。
 「早くしろッ!」
 体に巻きつけたローブから、けれど肩と足が剥き出しのまま、花京院は向こうのドアに向かって体を押され、よろけながらそちらへ向いた。
 ふたりのやり取りを見ていたプッチが、足を横に動かして、ベンチからわずかに離れた。
 「てめえはそこから1歩も動くんじゃねえ。」
 狙いを定めていた銃を、そのまま右手に持ち替えて、祭壇の上から、承太郎はプッチをにらみつける。
 「承太郎! 神父様を撃つのはやめてくれ!」
 行きかけた足を止めて、花京院が振り返る。承太郎へ向いた視線の端に、スポーツ・マックスの死体が映ったのか、怯えたように、体に巻きつけたローブを胸 の前で握りしめる。
 「てめーはさっさと行け! この野郎が動かなければ、撃つ必要もねえ。」
 背中を向けた瞬間に、承太郎が撃ってしまうと思い込んでいるように、花京院はこちらを向いたまま、後ろにあとずさるように、やっと祭壇を降りて行った。
 花京院が礼拝堂から姿を消すと、プッチが、その場からは動かずに、けれど怯んだ様子はまったく見せずに、承太郎に向かって嘲笑の表情を浮かべた。
 「愚かなことだ、よりによって、あれと一緒に逃げるつもりとは。」
 「"あれ"じゃねえ、花京院だ。ポン引きまがいの神父よりはマシだろうぜ。」
 「薬欲しさに人を殺す、おまえのような下劣な人間に、何を言われようと堪えはしない。」
 プッチの笑みは消えず、承太郎は、それに余計に苛立った。
 引き金に掛けた指に力が入る。撃ったところで、心が痛む相手でもない。それでも、撃つなと言った花京院の言葉を、何よりも尊重したかった。
 「なぜ、あれにそんなに執着する。あれはただの淫売だ。あれにできることと言えば、それこそ"アレ"だけだ。あんなもののために、崇高な意志を捨てるの か。人にはそれぞれ役割というものがある。おまえの役割は、世界のゴミを取り除くこと、あれの役目は、そのゴミどもの相手をすることだ。あれはゴミと同類 だが、おまえはそれよりも多少はましな存在のはずだ。」
 あんなもの、と言ったプッチの言葉が、ひとを指しているのではなくて、はっきりと物を指しているように、承太郎には聞こえた。
 どうしたら、こんなに人を踏みつけにした物言いができるのかと、自分を引き止めようとしたDIOの言葉を思い出しながら、背中に冷や汗が伝うのを感じ る。
 深みのある声と、よどみもためらいもない口調。ふと、何もかもが真実だと、丸ごと受け入れてしまいたくなる。弱った心に、間違った強さを与えてくれる、 毒に満ちた言葉たち。毒そのものになれば、恐怖を克服できる。怖いものなど何もなくなる。そして毒ゆえに、何にも触れることができなくなる。触れる片端か ら、何もかもが破壊されてゆく。
 承太郎がりっぱな毒になり損ねたことを、DIOとプッチは残念がっているけれど、毒ゆえの孤独を、毒になり切ってしまう前に気づかせてくれた花京院を、 承太郎は選んだのだ。その選択を、変える気はさらさらない。
 「そのゴミに命乞いされたてめえは何様だ。」
 自分が今立っている場に、しっかりと踏みとどまるために、承太郎は腹の底から声を出した。
 プッチが、わずかに表情を固くする。
 「花京院が撃つなと言った。だからてめえはまだ生きている。でなかったら、てめえもとっくに床の上で血まみれだ。」
 承太郎の斜め後ろに、プッチの視線が動いた。きっと、もう動かないスポーツ・マックスを見たのだろう。
 それでも、プッチの表情に恐怖が浮かぶことはなく、いつもと変わらない目つきで、承太郎を眺めているだけだ。
 「おまえに、教会で神父であるわたしを殺すような、そんな度胸はない。違うか?」
 挑発するようではなく、プッチが言う。静かな、承太郎の心の中などすっかり見通しているという、自信に満ちあふれている。それがまるで図星だったかのよ うに、承太郎は、一瞬指先から力を抜いた。
 「・・・ゴミはゴミ同士滅ぼし合う、いつの世も同じことだ。」
 尊大さが、ごく自然に口元に浮かぶ。さらりと言われて、それが侮辱だと、一瞬聞き逃しそうになった。
 「おれも花京院も、ゴミじゃねえ。」
 その反駁が、どれほど真実で、どれほど強いものであろうと、プッチの心をえぐることはできず、承太郎が必死になればなるほど、プッチの言葉ばかりがこの 世の真理のように思えてくる。そうだ、確かに承太郎は、汚物のような存在だった。以前も、そしてきっと今も。
 けれど、これからは違う。そう思いながら、承太郎は、引き金に掛けた指を外し、まるで胸を張るように、ゆっくりと銃を下ろす。
 「ゴミでないなら、そうだと証明して見せるがいい。」
 引き金の部分に指先を通し、嘲笑うようにそう言ったプッチに、もう撃つ気はないと、銃をふらふらと振って見せる。
 「てめえなんざ、わざわざ殺す価値もねえ。」
 プッチの頬の辺りが、明らかに線を硬くした。わずかでも、プッチを侮辱できたらしいことに満足して、承太郎はかすかに微笑を浮かべて、上着のポケットか ら、例の携帯を取り出す。両手に、銃と携帯電話を持って、プッチに見せながら、両方を説教壇の上に置いた。
 「おれにはもう必要ねえ。DIOの野郎に返しておいてくれ。」
 プッチが、肩をすくめたのが、ドアへ向かう承太郎の視界の端に見えた。
 後ろを振り返らずに礼拝堂を後にすると、ちょうど右側に伸びる廊下から、神父服姿に戻った花京院が小走りにやって来る。
 「神父様は?」
 「・・・撃ってねえ、心配するな。」
 青冷めた顔が、少しだけ安堵に眉を開く。花京院の腕を取って、承太郎は足早に裏口へ向かい始めた。
 「どこに行くんだ、承太郎。」
 怯えと困惑ばかりが声ににじむ。けれど承太郎には、安心させるようなことは何も言えない。
 外へ出て、誰かが見ていないかと辺りを見回しながら、承太郎は、初めての方向へ歩き出す。花京院の腕をつかんだまま、今になって汗が吹き出して来る。
 「承太郎・・・?」
 何度か後ろを振り返りながら、花京院がまた訊く。
 「・・・おれにもようわからん。」
 声が、ほんの少しだけ、隠せずに慄えていた。
 ふたりは、それきり口をつぐんだ。
 白い息が、足早に進むふたりの後ろへ流れてゆく。どこへとも知れず、ふたりのひとつになった影が、明かりのない家々の間をすり抜けてゆく。


 ひとりになったプッチは、教会の周囲が相変わらず静かなままなことを確かめてから、祭壇へ足を運んで、承太郎の残して行った銃と携帯電話を取り上げた。 銃は、慎重に、指紋を残さないように、上着の裾でグリップをくるむ。
 祭壇の片隅で、すっかり忘れ去られているスポーツ・マックスの死体に一瞥をくれて、相変わらず何の感情も表さずに、肩だけかすかにすくめる。
 それから、蝋燭の火を全部吹き消し、真っ暗になった礼拝堂を、何事もなかったかのように後にする。
 自分の部屋へ戻り、机の中に、銃と携帯をしまって、やっと椅子に腰掛けた。
 「まったく、救いようもないクズどもだな。」
 忌々しげにひとりごちてから、目の前の電話を取り上げる。繋がってすぐに、向こうで声がした。
 「やあDIO、さっき、スポーツ・マックスが殺された。」
 まるでわかり切ったことだとでも言うように、誰に、とは言わない。
 プッチの口調が、明日の天気のことでも話題にしているようなのと同じほど、応えるDIOの声も、むしろ愉快そうにに響く。
 「それはそれは。死体は今どこにある?」
 「祭壇に転がったままだ。面倒なことに、1発で終わらせずに血まみれだ。どうやら、我々が思っているよりもあれに対する執着は強いらしい。愚かなこと だ。」
 同意を示すことはせずに、電話の向こうで、DIOはただ笑い声だけを伝えて来る。
 「警察は?」
 「ここらの住人は、冬になると南の方へ出掛けてしまうのでね、家の半分は春まで空っぽだよ。少々聞こえたところで、まさか教会でとは誰も思わないさ。」
 「それなら、すぐに誰かを送って始末させよう。君の愛する教会を、傷めてしまったろうな。」
 「ああ、祭壇が血だらけだ。それに弾の痕もあるだろう。」
 「・・・いっそ、全部建て直してしまえばいい。」
 「それは困る、建て直しの間、わたしはどこへ行けばいい?」
 今度は、プッチが声を立てて笑った。
 何をしようと、咎められることはないと、心底思っているふたりは、血なまぐさい話を、さも面白そうに続けている。殺人すら、ふたりにとっては冗談にすら ならない。
 思い出したように、プッチが付け加えた。
 「ああ、銃と携帯を置いて行った。きみに返せと言ってね。」
 「銃を?」
 意外そうに、DIOが濃い眉を寄せた表情を、プッチは鮮やかに目の前に思い描くことができる。
 なるほど、とつぶやいて、しばらくDIOは考え込むように、言葉を止めた。
 「受け取りに行くまで、なるべくそのままにしておいてくれ。」
 「心配ない、指紋はつけていないよ。」
 「さすがだな。」
 ふたり一緒に、声を揃えて笑う。
 それから、ふっと声をひそめて、プッチが訊いた。
 「・・・何もかも、きみの筋書き通りかい?」
 まるで、自分の作品の出来を尋ねているような、そんな訊き方だった。
 何とも言えない満足気な笑顔の気配を、ちゃんと沈黙で伝えてから、DIOが答える。
 「私は何もしていない。あのふたりが勝手に踊っているだけだ。なかなかにドラマティックじゃないか。最後まで愉しませてくれることを祈ろう。」
 同意のしるしに、プッチは顔いっぱいで微笑んだ。
 椅子の中に体を伸ばし、ぎっと音を立てた椅子の背に、傾けた頭を押しつける。祭壇の血の汚れが、ちゃんときれいになるかどうか、それだけが気掛かりだっ た。スポーツ・マックスという人間が、この世界に存在していたことなど、とうにプッチの記憶から消え去っている。あそこにあるのは、ただの名もない死体 だ。じきにここから消え去り、関わりがあったことすら、思い出さなくなる。
 あんなものに関わりがあるわけがない。わたしやDIOの役に立って死ねたことを、ありがたく思うといい。
 神の計画に、こんな形ででも関われたということは、あの男も、つまりは選ばれたひとりだったということだ。
 天国の門に、たどり着くことさえできないだろうスポーツ・マックスの、いつも浮かべていた卑しい笑顔を、プッチはもう一度だけ思い浮かべた。