Eyes Of A
Stranger 「あの男を、ほんとうに生かしておくつもりか。」 テレンスが、さっき運んで来た紅茶に口をつけながら、プッチが、わずかに不審を含んだ口調で訊く。 DIOは、自分の紅茶には見向きもせず、窓の外を眺めて、明るい日の差し始めた空を、さっきからずっと見上げている。 「放っておけば、どうしようもない国選弁護士がついて、どれだけ言い訳を並べようとさっさと死刑だ。それをわざわざ、なぜ助けるようなことをする。」 今日はやや問い詰めるように並ぶプッチの言葉の連なりのその後ろに、合間を縫うように、弦を弾く音が交じる。メロディらしいメロディとも言えないその音 は、DIOが坐るはずの椅子から数歩離れた床の上の、ンドゥールの指先からこぼれ出ている。 軽くあぐらを組み、そこに、手製らしい小さな楽器を抱いて、骨の細い長い指が、3、4本の弦を弾いて、素朴な音を奏でている。ンドゥールは、DIOがわ ざわざ求めたその音を、ふたりの会話の邪魔にはならないように、見えない目の代わりに鋭くなった耳を澄まし、あるともしれない強弱をつけて、ただ静かに、 薄暗い部屋の中に、音を撒いている。 DIOは、外を見たまま、肩をすくめた。 「別に。その方が面白いと思っただけだ。」 からかうような口調は、どこまで行ってもDIOらしく、そのらしさを何より愛するプッチは、他愛もなく気持ちをやわらげ、ゆるめた口元を、まだ熱い紅茶 にまた寄せた。 「きみがもし、面白い方がいいと言うのなら、刑務所の中でやらせてもいい。告解のために、中の囚人に面会へ行くこともできるし、その時にいくらでもチャ ンスはある。きみやわたしのために何でもする愚かな連中は、それこそ履いて捨てるほどいるじゃないか。」 ンドゥールの指先が、一瞬にも満たない間に、わずかに迷う。DIOの部下に対して無神経なことを言ったのだと気づくはずもないプッチが、それを聞き取る はずもない。 DIOが、肩からあごの先だけで振り返って、自分の姿を見ることのできないンドゥールに向かって、かすかな笑みを刷いた。 「なぜあの男に、そんなにきみが構うのか、わたしには理解できない。」 今度こそ、DIOは声を立てて笑った。 「構うわけじゃない。死にたがっている人間を殺しても、つまらないじゃないか。あの男は思ったよりも長続きがしたし、楽しませてもくれた。だから、どこ まで楽しめるのか見てみたい、それだけだ。」 窓枠に手を置いて、プッチの方へ振り返る。光を浴びた顔半分が、白い仮面のように見えると知っている。そこに表情を隠して、DIOは目を細めた。 医者を呼ぶ院内放送の声が、耳の奥に轟音のように響く。 雑音の混ざる、引っかいたように割れたその声に阻まれて、他の音は何も聞こえない。廊下を歩き回る足音、そこで交わされる声、それはただ、気配となっ て、承太郎のところへ、空気の揺れとして伝わって来るだけだ。 目を動かして、白っぽい部屋の中を見渡す。それ以外にすることなど、何もないからだ。 小さな窓、カーテンが掛かっていて、外は見えない。時計がベッドの正面にあるけれど、時間など承太郎には意味がない。今日は一体、いつの何日だろう。午 前中だろうか午後だろうか。最後の食事がいつで、何だったか思い出せない。そもそもここへ来てから、誰かと口を聞いただろうか。 看護婦らしい女の顔は、いくつかかろうじて思い出せたけれど、それが頭の中にいくつも並ぶうちに、重なり、輪郭がぼやけて、顔とすら見分けのつかない、 ただ白く揺れる形になるだけだ。そこへ目を凝らすうちに、形は小さくなり、ひとの顔ひとつ分らしい大きさに落ち着くけれど、そこに現れた顔が一体誰のもの なのか、承太郎には思い出せない。 何か言おうとして、唇を動かした。乾いてひび割れた唇がそれだけで痛み、承太郎は頬の辺りを少しだけ歪めて、それも充分には湿っていない舌先で、傷んだ 唇を舐める。 半開きの唇をそのままにして、言葉か、それとも別の何かか、承太郎はそこで舌先を動かし続けた。 「それで、骨はどうしたんだ。」 DIOが、窓の前に立ったまま、話題を変えた。 今度は、プッチが肩をすくめる番だ。 「どうもしない。あのままだ。無縁墓地に埋めてもらうわけには行かないそうだ。まさかどこに埋めてもいいというわけでもなし、許可を取って、海にでも捨 てようかと思っているよ。」 それが、生前花京院と呼ばれた、自分と深く関わりのあった人間の骨のことだなどと、思わせもしない鬱陶しげな口調で、プッチが答える。DIOが、それを 薄く笑う。 「君の、可愛い元弟子じゃないか。君が懇ろに弔ってやればいい。」 上滑りにそう言うのは、もちろんプッチをからかっているだけだ。プッチが、どれほど、花京院のような過去を持つ人間を卑しんでいるか、そこから抜け出す 力のなかった人間を蔑んでいるか、知っていて、DIOはプッチをからかっている。 利用価値があると思わなければ、プッチは花京院をわざわざ拾い上げたりはしなかったろう。花京院は確かに、役に立ってくれた。汚れたその身を、さらに汚 すことに逆らわずに、貶められた人間特有の従順さで、神であるプッチに抗いもせず、プッチやDIOのために、泥にまみれてくれたのだ。 泥に汚れたその死体の後始末に、今プッチは少々手を焼いている。骨になった後でも、花京院は相変わらずプッチの許にいて、何とかしてくれないかと、生前 と同じ捨て犬のような風情で、助けを求めている。鬱陶しいことだと、もう何度思ったかわからないことを、またプッチは思う。 ゴミはゴミらしく、焼却所で焼かれて灰になって、それで終わりになるべきだ。 死んだ後も自分の手を煩わせるその花京院の残った骨を、あの男のところへ送ってやろうかと、ひどく意地の悪い考えが浮かんだ。 「エジプトへ持って行って、砂漠に埋めてやればいい。」 突然、笑みを浮かべたまま、DIOが言った。 「エジプト?」 「エジプトだ。そこにいるンドゥールの、故郷だ。」 窓に背を向け、そこから日を浴びているDIOに、不思議なものを見るように目を細めてから、黙って楽器を奏で続けているンドゥールに、プッチは初めて彼 の姿に気づいたとでも言うように、いつもの尊大な視線を流した。 部屋には、小さなバスルームがついていたけれど、承太郎には用のないものだった。 眠ることもないくせに、ベッドから起き上がることもない。 鎮静剤の注射の痛みだけが、その一瞬だけ承太郎を、現実の世界の端へ引きずり戻す。 人らしい姿は、何もかも薄っぺらい紙人形に見え、そこに乗る顔にはきちんと表情があったけれど、どれもこれも、同じ顔に見えた。誰の顔か思い出せない、 けれど、知っている誰かの顔だ。 その顔が、自分を見張っているのだと、承太郎は思う。 どこにいても、その顔が自分を追って来る。逃がさずに、けれど追いつめるわけではなく、ただそこから、にやりと笑って承太郎を見つめている。その残忍さ のあふれる、赤みがかったように見える瞳から、承太郎は目をそらすことができない。 恐怖と嫌悪感が湧いて、叫びたいと思うのに、声は出ない。その瞳にねめつけられて、ただベッドの上で、やっと動く頭を振って、いやだいやだと繰り返すば かりだ。 ドアへの途中にある小さな洗面台の上にはめられた、小さな鏡、その中にも、その瞳が見える。誰のものか覚えていない、けれど知っている誰かの、不気味な 瞳だ。その瞳が、承太郎を見つめ続けている。承太郎はそれから逃れようと、首を振って、ベッドの中でもがき続けている。 「なぜ突然エジプトに?」 プッチが訊く。紅茶はもう空になっていて、華奢で美しいカップは、そばのテーブルの上だ。 「前から行ってみたいと思っていたのでね。ちょうどいい機会かと思ったんだ。」 ようやく、窓からDIOがこちらへ近づいて来る。 均整の取れた、厚いけれどもあくまで美しいDIOの背高い体が、ゆったりとプッチの傍へ来る。空のカップの乗ったテーブルに、軽く指先を乗せて体を支え るような仕草をして、DIOが、ひどく魅力的な動きで、顔を傾けて見せる。まるで、おねだりをする子どものように見えた。 「君も一緒に来てくれるだろう。」 プッチは、DIOのそんな蠱惑的な振る舞いに心騒がされることはなく、ただ親しい友人の面白い提案に、迷っているという表情を浮かべて見せた。 そんなプッチの表情を受けて、大事な友人が即座にYesと言ってはくれないことに、少しばかり拗ねているという振りで、DIOはプッチが空にしたカップ に触れ、プッチの唇が触れただろうその縁に、人差し指の腹を滑らせる。 「君はもう、あの教会にはいたくはないんだろう? 愛弟子のとんでもないスキャンダルの責任を取って、君はあそこから身を引く、恥じて姿を隠す、ごくご く自然なことじゃないか。」 DIOが、さらに1歩、プッチに近づいて来る。軽く曲げて突き出した膝が、プッチの膝に当たった。 顔色も変えず、DIOを見上げて、思案の表情を作りながら、プッチの心はすでに決まっている。ほとぼりを冷まそうと思っていたのだし、新しい地で神の教 えを説くのも、面白そうだと思った。 「きみのゆくところが、わたしのゆくところだ、DIO。」 首を伸ばし、プッチは毅然とした口調で、そう言った。その声には、親愛が確かにあふれていて、自分と友に対する、揺るぎない自信に満ちている。先へ待つ ものに恐れはなく、怯むこともなく、自分たちの進む道に間違いはないのだと、信じ切っている。 神の祝福とご加護を。プッチは、自分と友のこれからのために、胸の中で祈った。 DIOが、微笑んで、手を差し出して来る。承諾のしるしの握手に、プッチは力強く答え、そうして見つめ合った後で、握り合った手はそのまま、DIOが不 意に、プッチの足元に膝を折った。 「君は確かに、私の大事な友だ。」 言いながら、プッチの膝に頬を乗せる。 DIOの気配を読み取ったのか、ンドゥールの指が、弦の上を滑る。主人の微行になど気づかない---気づいてはならない---と、奏でる音の調子を変え た振りで、ンドォールは、いっそうひそやかに弦を弾(はじ)いた。 プッチは、狼狽など一切表さずに、自分の膝に甘えてくるDIOの髪をそっと撫でる。 プッチの膝を抱きかかえて、DIOは、自分の孤独を胸の中でもてあそんでいる。自分に群がる誰もが、邪まに自分を眺めるのを楽しみながら、けれど、自分 を、ほんとうにひととして受け入れているのはプッチだけだと気づいているから、どこまで自分について来てくれるのかと、それを試す気持ちばかりが湧く。 プッチの言う天国が、どこにあるのかはわからない。それが見つかるまでは、こうして、プッチのそばでただ憩うことができる。 自分の髪を撫でる掌に、首を伸ばしながら、DIOは承太郎の絶望を思った。 大切なものを得て、それを奪われて失い、今は己れすら失いかけているだろう。それでいい、とDIOは胸の中でつぶやいた。あれが絶望の中を這いずり回っ て、破滅する姿を見ていたい。まるで自分からそう望んだように、破滅の縁ぎりぎりに爪先立って、いつ奈落へ落ちるかと、恐怖に全身を蝕まれている姿を、 ずっと眺めていたい。 退屈なDIOの人生に、それはわずかでも興奮を与えてくれる。承太郎のヘロインと、同じようなものだ。 愛することをせず、愛されることに倦んでいるDIOにとって、承太郎のあの茶番は、まったく素晴らしい見世物だった。 愛してその人を得る事は最上である、愛してその人を失う事はその次によいと、誰かは言ったけれどそれは嘘だ。失って嘆き悲しむ人間を見ることこそ、最上 のことだ。他の何もかも、ただのくそったれだ。 エジプトで、また面白いことがあるだろうかと思いながら、DIOは、プッチの膝の上で、ひとり残酷な笑みをこぼしている。 ンドゥールの指が弾(はじ)く弦の音が、今はよどみなく流れ続けていた。 鎮静剤のせいの眠りと、禁断症状のせいの不眠と、その合間に現れる悪夢の中にただよいながら、承太郎は、少しずつ少しずつ、自分が削れてゆくのを感じて いる。 手足に感覚はなく、まるでシーツに同化したように、動かそうとすれば、ひどく力がいる。この体は、ほんとうにここに存在しているのだろうか。この体は、 ほんとうに自分のものなのだろうか。 なぜ自分が唇を動かし続けているのかわからない。怖い、いやだ、そう叫びたいのだろうと思うけれど、それだけではないような気もする。何が怖いのか、何 がいやなのかすら、よくわからなくなって来る。 ここはどこだろうか。今日は一体いつだろうか。自分が誰で、なぜここにいるのか、ただよう意識は、そんなことすら手放そうとしている。 唇が乾いている。全身が渇いている。自分が今ここにひとりでいることが、大きな間違いだと感じている。誰か。誰か。誰か。 医者や看護婦ではない。欲しいのは薬ではない。なんだ、何が欲しいんだ。承太郎は、透明になった全身を開いて、気配を探ろうとしていた。口の中に苦味が 広がる。それを飲み込もうと喉があがいて、一瞬呼吸が止まる。それが絶望の苦さなのだと、気づいて、涙がこぼれた。 誰が、承太郎のために、ここへ来て承太郎を抱きしめてくれるのだろう。涙をぬぐって、慰めてくれるのだろう。 自分に触れた手を思い出す。服を脱がせ、体を洗い、食事をさせてくれた、あの手を思い出す。あの手を、承太郎は求めている。あれが欲しいあれが欲しいあ れが欲しい。 また、涙が流れた。 拭うために腕を持ち上げる力はなく、承太郎は、その誰かが酸素でもあるかのように、胸をわずかに反らせ、空気を求める魚のように、喉と唇を喘がせた。 ここへ来て、おれを抱きしめてくれ、花京院。 やっと思い出した名前に、安堵したように、涙があふれ続ける。 誰も来ない。誰もいない。承太郎はひとり、白いシーツに囚われて、泣き叫び続ける。 思い出せないことと、思い出したことと、その間を行ったり来たりしながら、承太郎は少しずつ失われてゆく。すべてを失うことはない、けれど、失い続ける のだ。 気味の悪い眠りの闇の中へ、引きずり込まれてゆく。そこで続く悪夢の予感に、承太郎は身震いした。頭の中が、黒よりも濃い闇一色に塗り潰されることに必 死で抵抗しながら、無力な承太郎は、まるでそこへ自ら飛び込むように、力のない体を投げ出してゆく。開いたままの口の中が、足らない酸素を求めて、乾き続 ける粘膜を痙攣させた。 また、誰のことか思い出せなくなったその名前を、承太郎の舌と唇だけが、空しく叫び続けている。叫びは空気を揺らすこともなく、真っ白い部屋の中で、た だ空気に溶けて霧散する。 院内放送が、まだ同じ医者を呼び続けている。それももう、承太郎には聞こえなかった。 ******************************************************************************
後書き (ブログより、2008/11/12)
1曲1話で、9月中には終わる予定が10月になり、10月中には!10月中には!というのも、長引かせ/引き 伸ばし病で大嘘になりました。 長編との付き合いと言うのは、ごく自然に長いものになり、だからこそ完結によって自分の許から手放したくなくて、長引かせたり、完結しなくてもいいよね 病が発症したりするのかもしれません。 その病気で、いちばんの被害者になってしまったテツオさまに、ここで改めて深く謝罪いたします。 「Queensryche? 知ってますよ」というテツオさまの(うっかりな)一言がなければ、実現しなかった企画でした。 神さまテツオさま、ありがとう。自分だけ、ほんとうに楽しい企画でした。 ブログのカレンダー的には皆勤賞、という、ある意味暴挙な快挙を成し遂げられたのも、すべてすべてテツオさまのおかげです。平伏。 この企画で、改めてOMをゆっくり聴き直すことになり、新たな発見もあったり、Queensrycheの凄さを再認識して惚れ直したり、主に楽しく、少 し苦しい2ヶ月半でした。 ほんとうに、どうもありがとうございました。 Special Thanx To: お付き合い下さった方々、009のNさま、009のMさん、燃料の言葉を下さった方々、動画師匠のTNたん Very Special Thankx To: テツオさま、Queensryche/特にGeoff、ネタ元のスズキさま BGM Operation: Mindcrime by Queensryche It's Probably Me by Sting with Eric Clapton Kind Of You by Ego-Wrappin' Charms by Philosopher Kings |