暑い暑い夏の日のこと。
けれど地底の奥深くにあるそこに陽の光が届くわけもなく、変わらず地霊殿は一日を過ごすのに丁度良い気温だった。
その頃はまだお姉ちゃんと二人暮らしで、ペットでも飼おうか、などと私に相談を持ち掛けてきたことを覚えている。
お姉ちゃん以外の生き物を本でしか見たことのない私は、期待に胸を膨らませながら元気良く頷いた。
どんなのがいるの? 動くって本当? 私たちと同じように喋れるのだろうか。身体が温かいの?
お姉ちゃんが何かを言う度に疑問は浮かび、言葉が頭の中を埋め尽くした。
生き物。動物。私たち以外に生きている何かがいるなんて、地霊殿から一歩も出たことのない私には想像すらできなかった。
早く会ってみたいな。
会いたい。
……うん、会おう。
幼かった私の思考はこの上なく短絡的。衝動に突き動かされるままに、私は地霊殿を飛び出した。
「ちょっ……待ちなさいこいし! どこへ行くというの!?」
後ろの方からお姉ちゃんの焦った声が聞こえる。
いつもクールで格好良かったお姉ちゃんの焦る様はちょっとおかしかった。
「お外へ探検しに行くの! 行ってきまーす!」
くすくすと笑いながら危なげに飛んで行く私の後ろ姿を、お姉ちゃんはどんな思いで見ていたのだろう。
今では心を失った私には、知る由もない。
私の眼は突如突き刺すような痛みに襲われた。
今まで暗い所にいたからだろう。次第に光に慣れ引いて行く痛みに顔を顰めながら、手でパタパタと顔を仰いでどこに行くでもなく私は歩き始めた。
「眩しいなあ……しかも暑いし」
お姉ちゃんに聞いた以上に、地上は眩しく暑い場所だった。
燦々と降り注ぐ陽の光。お昼を少し過ぎた時間帯、真夏に天高く昇る太陽は私をじりじりと焦がす。
当然ではあるのだが、引き籠り同然の生活をしていた私にとってそれは地獄の責め苦に等しい痛みだった。
今までいたところが元々の地獄だったのに、地上に出た途端そこが地獄のように感じるなんておかしいな。私は早くも朦朧とし始めた頭でそんなことを考えていた。
「……服、脱ぎたいなぁ……」
じわりと滲み始めた汗がシャツを濡らし、べたりと体に張り付く。暑くて不機嫌だった私はそれが余計に不快に思えた。
でもこんなところで服を脱ぐなんて恥ずかしい。それに地上には「ニンゲン」がいるってお姉ちゃんも言ってたし……。
きょろきょろと周りを見回す。
右を見れば川。前にはどこへ続いているのか分からない道。左は何本か大きな木が生えていて、後ろには私が今出て来た地底へと続く大きな穴がぽっかりと開いていた。
誰もいなかった。
「ニンゲン」もいない。
誰も私を見ている人はいなかった。
…………。
誰も見てないし、いいよね……。
私は左の方の木の内の一本を選んで、木陰に入り帽子を取った。
こうして日陰に入るだけでも大分違う。でもきっと薄着になればもっと涼しくなるだろう。
私はその誘惑に耐え切れず急いでシャツのボタンを外そうとした。
「おい、何やってんだ?」
「きゃあっ!?」
突然耳に届く声。
思わず帽子で顔を隠しながら、声のした方――私の丁度真後ろ――に振り返った。
するとそこには。
「…………? なんだお前、初めて見る奴だな?」
私と同じように木陰の中で涼んでいたのだろう。
日に焼けたと思われる健康的な黒い肌にシャツ一枚、短パン一枚で裸足に草履の軽装。
それでも顔から首に掛けて凄い量の汗が滴り落ちていた。
“それ”は大きな目をくりくりとさせて、私のことをじっと見詰めて首を傾げている。
お姉ちゃんにずっと前に聞いたのと大凡変わらない外見。
そう、私たちとも、変わりはしない。
地上に出て来て初めて見た、動く生き物。
「あなた……もしかして、『ニンゲン』?」
「はぁ? 何言ってんだお前」
怪訝そうな顔をして、その「ニンゲン」は問い返した。
その後私たちは、ちょっとお話ししただけで打ち解けた。
お互いに子供だったし、そうなるのはやっぱり必然だったと思う。
私は少しだけ不安だったけど、彼が親しげに話し掛けてくれたおかげで自然に喋れていた、と思う。きっと。
内心ではとても驚いていたけれどそれもすぐに解れて、まるで以前から知り合いだったように話せるようになった。
「へぇ。こいしって言うのか」
「うん。……あなたのお名前は?」
彼はへん、そんなことも知らねえのか、と鼻を掻きながら言った。
「お前本っ当に世間知らずなのな。俺の名前を知らない奴なんてここらじゃいないぜ?」
そう言われても困る。確かに世間知らずではあったが、初対面では分かる方がおかしいとは思わないのだろうか。
私は頬を膨らませて彼の言うことに反論する。
「そんなこと言ったって分かる筈ないじゃない。私ここに来たのは初めてなのよ。
……それより、教えてくれないの?」
少しばかり上目遣いになって。
すると彼は途端に焦り、一瞬だけ逡巡して口を開いた。
ほんの少し顔が赤くなったように見えたのは、私の気のせいだったろうか。
「あー、うん、まぁ……そ、そうだ。名前を聞けば思い出すだろ。
誰が呼んだか知らないが、コソ泥の哲たぁ俺様のことよ。どうだ、ここまで言えば分かるだろ」
「分からないって」
私は笑いながら答える。
なんだよ馬鹿にしてんのか、と彼は口を尖らせた。
自慢の口上だったみたい。乗ってあげた方が良かったのかな。
「ごめんね。でも本当に分からないんだ。私、ここ初めてだから。
えーと……哲、くん?」
「はん。呼び捨てで良いぜ、俺のことは。俺もこいしって呼ぶからな。
……よし、これで俺たちゃ仲間だ。宜しくな!」
そう言って、彼こと哲は笑って私に手を差し出した。
今度こそ、はっきりと頬を赤く染めて。
「ニンゲン」の少年、哲。
口調は突っ慳貪だけれど悪人ではなさそうな彼に、私はちょこっとだけ好感を覚えた。
その後十分程休んでから私は、哲に誘われるがままに歩き出した。
どこへ行くの、と尋ねてもその問いに答えは返されず、いいからついて来いと言うばかりだった。
幾ら聞いても同じ答えなので埒が明かない。仕方がないので黙って言われた通りに彼の後ろをついて歩いた。
最終的に着いたのは、大きな大きな一軒のお屋敷。
高くはないけれど、外から見ても中が結構広いだろうことは分かる。私の家の半分くらいかな?
「よぅし。着いたぜこいし。何やるか分かるか?」
そう言って哲はへへ、と鼻を擦る。癖なのだろうか。
私はええ勿論、と余裕たっぷりに答えた。
「ここで本を盗もうとしている。そうでしょ?」
すると彼は少し間を空けてから、にやりと口の端を吊り上げて、
「……正解。よく分かったじゃねえか。やるな、お前」
「えへへー。凄いでしょ」
「おう。凄いな、一言一句間違いないぜ。まるで心の中を読まれたようで少しドキッとしたぜ」
哲は私の頭をくしゃくしゃと撫でた。いや、擦ったの方が近いかもしれない。
それでも褒められたことに変わりはない。私はそのことを嬉しく思った。
実はこっそりと心の中を読んでいたのだ。
ちょっぴり自慢げに胸を張る。
「ま、それはそれとして、だ。
ここのな、稗田っつー家なんだけどよ……これが結構な……なんつーんだっけ、書痴? なんだよ。
珍しい本もざくざくあるんだ。俺ぁここに来るのが毎回楽しみでさぁ」
哲は私の頭を撫でるのもそこそこに、この大きなお屋敷の説明を始めた。
どうやらそこのご本を盗むつもりらしい。……でも……。
「それって、いけないことなんじゃないの?」
盗み、とはいけないこと。お姉ちゃんに言われたことがある。
人のものを盗んでしまったら、元の持ち主はとても悲しい。相手を悲しませたくなければ、そんなことはしてはいけない、と。
勿論、私は誰かを悲しませたくなんかしたくはなかった。
その尤もな正論に、哲はうぐ、と苦しげな表情を見せる。
「……そりゃ分かってるさ。でもよぉ、俺の欲しい本が、ここにしかない本がたーっくさんあるんだよ……。俺ん家貧乏だしよ、だから……。
ま、まぁいずれ返すしな。俺が死んだ頃には返してやるぜ、なーんつって! あーはっは、は、はぁ……」
無理に笑って見せたが、すぐに力なく項垂れる。
そんな彼が、少し可哀想に思えた。
「……盗むつもりはないんだよ。ただ、ちょっと物を集めるのが趣味でさ……それが悪い方向に転んじまったっつーか、何つーか……。
さっき言った通り、今じゃ“コソ泥の哲”なんて不名誉なあだ名まで付けられてるしな。……ごめん、俺が悪いなこいし。やっぱりやめるよ」
先程までのから元気などどこへやら。今の哲はすっかり力が抜けてしまっていた。
こうした咎められたことなどなかったのだろう。そうでなければこれ程までに気落ちすることなどない。
案外小心者なのかもしれない。
……………………。
「……ねぇ」
「なんだよ」
「…………本当に、後で返すって約束できる?」
私はにやりと笑った。
「よっしゃ! 逃げるぜこいし!」
「うん!」
小声で、且つなるべく足音を立てないように私たちは走った。
両手いっぱいに抱えた本。何回か落としそうになるけれど、その度哲がカバーしてくれた。
そうして上手く屋敷から抜け出し、路地裏に出た時、漸く落ち着くことができたのだ。
私も哲も真っ赤な顔で肩で息をしている。一番最初に会った時より汗をかいていた。
「はぁっ……はぁっ……助かったぜこいし、お前がいなかったら見つかってた」
冷や汗が出たぜ、と額を拭うけれど、それでも彼の汗は止め処なく流れ続けた。余程無理をしていたのだろう、
妖怪である私は人間よりは身体能力が高い筈だから、彼程疲れてはいなかったが。
「うん……でも、必ず返さないと駄目だよ? あそこの家の人たちが悲しくなっちゃうのだけは駄目なんだからね」
「あぁ、約束するさ。ちゃんと返して、そんでいつか俺が全部買い取ってやるんだからな」
へへっと哲は笑う。
それにつられて私も笑った。
「いんやそれにしても見事だったぜ。どうして奉公人がどこで曲がるかなんて分かったんだ? 俺もこれ始めて結構長いけど、未だにパターンなんざ掴めないのに」
不思議そうに哲は問う。
私はえへへー、内緒だよ、と笑って誤魔化した。
実際は心の中を読んだだけであった。別に覚りの能力の範囲は対峙している相手のみに限定されるわけではない。距離が余程遠くない限り、それこそ壁一枚を隔てたぐらいでは能力は十分に通じる。
勿論そんなマジックの種明かしのようなことをしてわざわざ驚かせる種を減らすつもりはなかったので、教える気はなかったが。
哲は納得しないような面持ちで、しかしまぁいいか、と一人ごちてそのことについて考えることを止めた。
もう空は夕焼け色に朱く染まっていた。
私がそろそろ帰らなくちゃ、と言うと、哲は笑顔でおう、また明日なと返してくれた。
待ち合わせ場所は今日出会った大きな木の下。哲からまた明日と言ってくれたことに、私は喜びを隠せないでいた。
「うん! また明日……また明日、絶対に会おうねっ!」
「約束だぜ! 待っててやるから早く来いよ!」
「うん!!」
何度も振り返り、何度も大きく手を振って、哲との別れを惜しみながら私は帰路についた。
今日会ったばかりなのに、今ではずっと前から友達だったような気がする。こんなに地上が楽しいところだったなんて、私は思ってもみなかった。
明日がこれ程楽しみに思えたことなんて、今まであっただろうか。
ああ楽しみだ。早く明日にならないかな。足も自然と軽やかに弾む。いつの間にかステップを踏みながら、私は橙色の光に包まれて一人踊るように戻って行った。
地底へ続く穴まで辿り着いた時には、もう日もとっぷりと暮れ烏が鳴きながら山へと向かって飛んでいた。
私は今日一日のことを思い返して、とても充実していたと口元を緩ませる。
明日は何をしようか。きっと楽しいことに違いない。そう考えるだけで心がとてもうきうきとした。
――まさか、地獄で本当の地獄を見ることになるとは思いもせずに。
家に着くと、お姉ちゃんが笑顔で玄関に仁王立ちしていた。
「お……姉……ちゃん……?」
「お帰りなさいこいし。外は楽しかった? こんな遅くまで遊び呆けて。私がどれ程心配したのか分かっているの?」
いや、笑顔ではない。口は笑っているが、目が明らかに笑っていない。
あまりの威圧感に怒りのオーラを全身に纏っているようにさえ見える。今まで見たことのない程の怒りっぷりだった。
私は体を震わせて弁解する。
「ご、ごめんなさいお姉ちゃん! ……でもその、お友達が出来たから嬉しくって……」
「いいこいし? 私は遅く帰ってきたことだけに怒っているんじゃないの。あなたが勝手に家を飛び出したことに怒っているのよ!
外は危険よ。すっごく危険。今までそう言い聞かせてきたのに、なんでこんなことをしたの?
お姉ちゃんの言うことを聞けないこいし……あぁっ、なんでこんな悪い子に育ってしまったのでしょう! お姉ちゃんはとても悲しいです!!」
そう言って泣き真似をする。
そう、真似である。
物凄く下手だった。お姉ちゃんは物真似が下手なのだ。そもそも私にだってお姉ちゃんの心は読めるのだからそれが嘘なのか本当なのかぐらいは分かる。
けれどそれにちゃんと付き合ってあげるのが私の妹としての優しさだった。
「分かった、分かったからお姉ちゃん……ごめんなさい。もうこんなことはしません」
「……分かってくれればいいのよ。こいしは物分かりの良い子でもあるものね。一度間違ったことはもう二度としないって、お姉ちゃんはちゃんと分かってます」
鼻を啜りながら笑顔になる。いい加減その演技を止めて貰えないだろうか。
――それに、本当にお姉ちゃんが心配しているのも分かったし。
本心から申し訳ないと思った。勝手に出て行ったことは本当に悪い行動だったと思う。でも。
「……ところで、明日も遊ぶ約束してる、ん、だけ……ど……?」
そう言うと。
お姉ちゃんは、その笑顔を止めてまた口元だけに笑みを浮かべた。
……しまった。タイミングを見誤ったか。
「駄目よ」
「何で! まだ何も言ってないじゃん! お姉ちゃんのケチ!」
「駄目なものは駄目なの! ……ねぇこいし、私が何を一番心配しているのか分かる?」
急に雰囲気が変わる。
お姉ちゃんはすっと目を細め、私を睨むように見つめた。
「……分かんない。何が心配なの? 今日会った子だって悪い子じゃ……」
私が言い掛けると、お姉ちゃんはぴしゃりと言葉を断ち切った。
「そういうことじゃないの。……あのねこいし、私たちは妖怪さとり。覚りなのよ。私がこうしてあなたの心の中が読めるように、こいしは私の心の中を読める。そこまでは分かるわよね?」
こくりと頷く。
よし、と呟いてお姉ちゃんは続けた。
「でもね、人間はそうはいかないわ。そんな能力を持っているのは私たち覚りだけ。私たちにとってはそれは日常だから何とも思わないけど、本来なら心の中を読まれるのってとても嫌なことなのよ。
だから人間は私たちのことが嫌い。……信じられないかもしれないけれど、これは本当のことなの。とても、残酷なことだとは思うけどね。
……この際だからはっきりしておきましょう。私たちと人間たちと間にはね、決して縮めることのできない、大きな隔たりがあるのよ、こいし」
諭すように。
優しく、お姉ちゃんは私に語り掛けた。
けれど私は受け入れられなかった。人間が私たちのことを嫌い? まさか。現に哲は私のことを凄いって褒めてくれたじゃない。嘘よ。私をここから出したくないだけね。
信じるものか。そんなこと絶対に、……信じるものか!
「こいし」
お姉ちゃんの声が耳に届く。
はっと我を取り戻す。
「ね……お願いだから、私の言うことを聞いて。そうすれば、きっと傷つくことはないから」
お姉ちゃんの瞳に、悲しげな色が籠っていた。
本当なのだろうか。信じられない。……けれど、お姉ちゃんが言うことなら、もしかして……。
そこまで考えた時、そっとお姉ちゃんが私の手を取った。
「……おいで。お夕飯にしましょう。今日はこいしの大好きなカレー作ったから。ね、元気出しなさい」
「…………うん」
大好きなカレー。
私の一番大好物。
けれど、その言葉を聞いても私は嬉しくはならなかった。
次の日。
私はお姉ちゃんの動きを監視し、隙の出来た時を見計らって地霊殿から脱出する計画を立てていた。
確かにお姉ちゃんの言うことは間違っていないと思う。けれど、それが本当かどうかは確かめなければ分からない。
だから私は、その真実を見極めるべく――本当は哲と遊ぶためだけれど――脱出を試みようとしていたのだ。
しかしお姉ちゃんだってそんなことは予測済みのようで、決して監視の目は緩めなかった。
やはりそう甘くはないと言うことだ。
失敗すれば閉じ込められるかもしれない。成功しても、帰ってくればどれだけ怒られるのかも分からない。一度約束を破ってしまったのだから尚更だ。
うーむどうしようか。
そんなことを考えていると、お姉ちゃんが私の名を呼んだ。
「なーに? お姉ちゃん」
首を傾げて尋ねる。
すると、はぁ、と一つ溜め息を吐いて言った。
「……行ってきなさいな。友達が待ってるんでしょう?」
まるで仕方ないな、とでも言うかのように。
しかし、その言葉は私にとって何よりも待ち望んでいた言葉だった。
とくん、と心臓が一際大きく鳴る。
今お姉ちゃんが何を言ったのかも理解し切れていない。もしかしたら聞き間違いかもしれない、と自分の耳すら疑っている。
目を白黒させながら驚いている私に、お姉ちゃんは微笑みながら言った。
「私も覚りだってこと、忘れてるの? あなたが何を考えていたか、私は全部分かっているのよ。……全く、逃げ出そうとまでするなんてね。
いい? 危険なことはしないこと。ちゃんと夕方の五時までに帰ってくること。“まで”よ、まで。それと……精一杯楽しんでくること。
それだけ守ってくれれば私はもう何も言いません。……良いお友達を持ったわね、こいし」
「…………うん!」
私は元気よく頷いた。
お姉ちゃんがにっこりと笑う。
ほんのちょこっとだけ、そんなお姉ちゃんが、……お母さんのように見えた、気がした。
「お! 来たな!」
変わらず強い日差しの中、既に滲み出て来ていた汗を袖で拭いながら昨日と同じように木の下へ向かおうとすると、哲が先に私の姿を見つけて言った。
その声に未だ夢のように思えていた昨日の出来事が現実なのだと再確認でき、私の心は一層喜びと期待で満ち溢れた。
今日は何をするんだろう。昨日見たような大きな人間さんともお話できるだろうか。他にもお友達がたくさん欲しいな。
逸る気持ちを何とか抑え、私も彼の挨拶に応じる。
「こんにちは、哲。ねぇねぇ、今日はどこに遊びに行くの? 教えてよ!」
「そう焦るなって。今日は特別ゲストも呼んできてるんだからさ。……おい、いつまでびくびくしてるつもりだよ」
哲は両手で私を制し、次いで後ろに振り向いて誰かに呼び掛けるように言った。
誰かいるのだろうか? そう思った矢先に、震えた気弱そうな声が耳に届いた。
「ででででもぉ……やっぱりりり僕帰るよ、ごめん哲」
「ばっかやろぉ! おめーが帰ってどうすんだっつーの! ……悪ぃこいし、ちっと待っててくれ」
哲は私に向かって軽く頭を下げると、背にした木の反対側に回って腰を低くするとともに何かを引っ張り出すような動作をした。
続いて聞こえてくる悲鳴。先程のなよなよした声と同一のもの。
もしかして、と頭の中に浮かんだことが一気に心の中で膨れる。
「哲ー……お願いだから堪忍してくれよ、頼むよぉ……」
「お前が会いたいっつったから連れて来てやったんだろ! いい加減腹を決めろ、この根性無し!」
「酷いよ哲……」
既に半分泣いているような声。
哲の竹を割ったような性格とはあまりにも対照的なその声に、私は思わず吹き出してしまう。
「あははっ! ねぇ君、誰なの? 早くお顔を見せてよ、ね!」
どんな性格の人間がいるのか、私はまだ哲しか知らない。
もっと知りたい。もっと見たい。どんな人間がどれ程いるのだろう。
そんな疑問が、そんな欲求が、私を積極的にさせる。
私がまだ姿を見せない“彼”にそう問うと、哲が更に追い打ちを掛けた。
「ほら、こいしもああ言ってるぜ。顔ぐらいは見せろよ、な?」
「ぐぇ……わ、分かった! 分かったから首絞めないで! 死ぬ!」
「ん? おぉ悪い悪い」
哲がぱっと手を放す。
引っ張るのに夢中になるあまり、いつの間にか首を絞めるような形になっていたようだった。
次いでげほげほと咳き込む音。もしかして本気で引きずり出そうとしていたのだろうか。少しは手加減してあげればいいのに。
その音も止んで少しした後、咳払いが聞こえたと思うとゆっくりと木の裏から人影が出てくるのが見えた。
やけにだぼだぼとしたゆとりのある甚平。
哲の小さいながらも男の子らしくがっしりとした体つきとは違ってひょろりと細く、背も高い。
目が悪いのか、真ん丸の眼鏡をちょこんと鼻の上に乗せていた。実際に目にするのは初めてだったけど、本で読んで眼鏡という道具があることは知っていたから然程驚きはなかった。
どこかおどおどとした態度。私に話し掛けようとする度に吃音が混じり喋りを止めてしまう。見れば見る程、声から想像した通りの姿だった。
哲がどんと彼の背中を叩き、豪快に笑う。
「こいつな、稗田っつーんだ。お前のことを話したら会いたいって言うから連れて来たんだが……まぁ見ての通りの臆病者でな。悪い奴じゃないんだけど」
そう言うとその少年――稗田――は恥ずかしそうに頭を掻く。
間髪入れずに褒めてんじゃねえんだよと哲が突っ込みを入れた。あまりにも自然な流れだったので、私も思わず笑ってしまう。
……いや待て。
「稗田って……もしかして?」
「ん? あぁ、そうだよ。昨日忍び込んだとこ。そこの次期当主様だよこいつは」
顔からさっと血の気が引けるのを感じた。
「え、……ねぇ哲、あなた、もしかしなくても馬鹿なの?」
まさかのまさか。
今哲は誰の前で昨日のことを喋った? 今、そこにいる男の子は誰だと言った?
稗田家の次期当主、つまり言ってしまえば被害者の家の子なのよ。
なのに平然とそのことを言うなんて……罪の意識はなかったのかしら? だとすると、……ちょっと許せない。
それに片棒を担いだ自分のことも許せない。昨日やったことが全て許せなく思えてしまう。
私はきっと哲を睨むと、彼も同じように眉を顰めた。
「あぁん? お前にそんなことを言われる筋合いはないぜ」
「ないってことはないでしょう。全く……良い奴かと思ってたけど、ちょっと裏切られた気分よ」
「はぁ? 何の話だ」
途端に険悪な雰囲気が漂う。
睨み合う私たちを交互に見て、稗田、君は一触即発の私たちを慌てて制止した。
「ちょちょちょちょっと待って! ……大丈夫だよこいしちゃん、僕は怒ってないんだから……寧ろ感謝してるくらいだし」
「…………感謝?」
どういうことなのだろう。
それに怒ってもいないなんて。
彼の言ったことが少し信じられなくて、私の怒りは少し収まる。
稗田君の言葉を受けて、哲もさっきまで私を睨んでいたのが嘘かの様ににかっと笑って言った。
「おお、そういやこいしのお陰でもあったな。そこは礼を言っとかなきゃならん。ありがとよ、お前のお陰でこいつと友達になれたんだ」
そして稗田君を片腕でぎゅっと抱き寄せる。
苦しそうな表情だったけれど、同時に何故だか楽しそうにも見えた。
……しかし、本当にどういうことなのだろうか。
何で友達になったの? バレてしまったのなら敵対してもおかしくはないし、寧ろなった方が自然だとも思う。
なのに、たった一日でこんなに仲良くなれるなんて。
それに私のお陰って、何の話?
何が何やらちんぷんかんぷんだった。
そんな私の心中を察したのか、稗田君はそっと哲に耳打ちをした。
きっと詳しい説明をしろとでも言ったのだろう。哲はああ、と大きく一つ頷いて私に事の経緯を説明し始めた。
「あの後、お前と別れてからだな。何となく座りが悪いんで謝るだけ謝っておこうと思ったんだよ、稗田のおっさんにさ。
そしたら出て来たのはこの小僧さ。しかしこいつ、話してみればなかなか良い奴。本好きな奴に悪い奴はいないってな、快く今までのことも許してくれたよ。
もう日も暮れてたってのについつい話し込んじまってな、帰ってから母ちゃんにしこたま怒られたけど……ま、それ以上の収穫はあったと思うぜ」
いつになくよく喋り、そしてにこりと笑う。
お母さんに怒られていたというのが私と同じように思えて、それがおかしくなってしまいついしかめっ面を止めて私も吹き出してしまった。
しかし蒐集家で且つ読書家の人間なんて、同じ世代の子供たちにいるかどうか。一緒に遊ぶような友達の中にはまずいなかっただろう。
そんな中で出会った、如何にも本が好きそうな――実際そうだったのだが――稗田君は、哲の丁度良い話し相手になったんじゃないかな、とその時に思った。
たまたまではあるけれど、友達になれたのならそれはとても素晴らしいことなんじゃないだろうか。
しかも切っ掛けは私の言葉。それが少し誇らしくすら思える。
成程そう言う理由なら私が口を出す意味はない。友達になれたのならこの上なく良いことだ。それで私とも友達になってくれるのならもっと良い。
稗田君はどんなことが好きなのだろう。私と同じものが好きだったら嬉しいな。哲も好きなものだったらもっともっと嬉しくなるに違いない。
新しい人間の男の子、稗田君を加えて私の二日目の地上探検は始まった。
「僕の家には百年に一回くらい……なのかな? 稗田阿礼っていう偉い人の生まれ変わりが産まれてくるんだって。次は九代目って父様が言ってたんだ」
「へー」
「生まれ変わり? はん、なんだか嘘くせえ話だぜ」
太陽の光は昨日にも増して強い。そんな最中を歩いて行くには少々辛いものがある。
しかしただ暑い暑いと言っているだけでは何も変わらない。少しでも気を紛らわすため、何か喋り続けていようと言う結論に落ち着いた。
そんなわけで、みーんみーんと蝉たちがうるさく騒ぐ中、稗田君は私に家のことを詳しく話してくれたのだ。
物知りな人は皆そうだ。人に物を教えることが楽しいのだ。お姉ちゃんもそうだったし、この稗田君だってやっぱり同じ。
けれど物知りなだけあって話し方は上手で、私も哲もすっかり彼のお話に聞き入っていた。
得意げに稗田君は哲の言葉に反応した。
「まぁ、そう簡単には信じられないだろうけどね。でも幻想郷縁起は知ってるだろう? あれを編纂するために生まれ変わるんだって。記憶は引き継いでないけれど、産まれた時からあんまりにも頭が良いからすぐに分かるみたい。
家には前代御阿礼の子が産まれた時の新聞の切り抜きもあるけど……見る? 聡明そうな顔だったよ」
幻想郷縁起やら御阿礼の子が何かは知らなかったけれど、それは判断材料としてのものだから話の本筋には関係ないと切り捨てた。
ここまで言い切っていると言うことは余程の大嘘吐きか正直者のどちらかでしかない筈だ。私は後者だと思う。
少しだけ心の中を覗かせてもらったけれど、どうやら本当みたいだったし。
哲も稗田君の言葉に納得したようで、首を横に振りながら答えた。
「いんや、お前がそこまで言うんならそうなんだろうさ。わざわざ確認する必要もない。
さ、てと……今日はどこへ行く? 山とかどうだ?」
「それは危険だね。あそこは妖怪たちがいっぱいいるからとても危ない。僕も襲われたら逃げられないだろうし。
丁度こいしちゃんもいることだし、今日は里の中をぶらつくって言うのはどうかな。案内も兼ねて。どう?」
「それが面白いっつーのに……ま、わざわざ危ない所に首突っ込むこともないか。
しかし里か……どうだこいし? それでもいいか?」
哲が私の方に振り向いて問い掛ける。
決定権は私にあるらしい。新参者であることは確かだったし、それなら私のために案内をしようという流れになるのは当然とも言えたかもしれない。
妖怪がたくさんいるという山の方にも向かってみたかったが、まだ自分の力がどれ程のものかも分かっていなかった。妖怪同士だからまさか死ぬまではいかないだろうけど、他の二人も同じかと言えばそうでもないのだ。
人間は妖怪よりずっとずっと弱い。もし出会ったとして、下手に手出しをしてはいけないとお姉ちゃんからもきつく言われていた。
それに、私の我がままで皆を危ない目に合わせたくなかったし。
そこまで考えた時、私の首は自然と縦に振られていた。
――だから、そこで逃げ出しておけば良かったのに。
里に着いた時、私の心は再び喜びで満たされた。
一度ここに来てはいる。来てはいるが、哲に連れられて幾つもの細く長い裏道をこそこそと歩き回っていただけだった。
あれはあれで面白かった。でも、やっぱりこうして表通りを目の前にすると興奮が抑えられなくなってしまう。
子供みたいだとは思ったけれど、でもそれでも面白そうなものを前にすればどきどきしてしまうものなのだ。仕方がない。
「こいしはこっちから来んのは初めてだったよな。昨日はちっとばかし変な道を歩いたからなー。どうよ、なかなかのもんだろ」
自慢げに哲は胸を張ってみせる。
哲が自慢することでもないと思うのだが、敢えてそこに突っ込むことはしなかった。私って優しい。
「んー……でもどうするの? ただぶらぶらしてるだけなの? 別にそれでも良いけど」
私が誰に問い掛けるでもなくそう言うと、稗田君が即座に答えた。
「まぁまずは里内をぐるりと一周するのが普通のルートかな。そうしたら一旦僕の家に戻ろう。今日は暑いからね。何か冷たいものでも飲もう」
頭の中で計画を立てていたのだろうか。途中でつっかえることもなくすらすらと言い切った。
それともあの一瞬で計画を組み立てたのかしら。頭良さそうだし。そうだとしたら凄いなぁ。
ちょっと尊敬かも。
そんな感じで誰も彼の意見に反論する人はいなく、取り敢えずはぐるっと回ろうという話に落ち着いた。
「うわっ! ねえねえ、何あれ何あれ! なんかすっごく緑っぽい!」
「あん? 野菜だ野菜。あの店は八百屋だからな。……ちょっと待て、お前野菜も知ら……」
「あー! あっちに猫さんいる! 猫さんだよ猫さん!」
「うんそうだね。猫さんだね」
「ええっ!? あの水槽の中にいる赤い生き物は何なの!? 教えて哲!」
「……頭痛くなってくるぜ」
驚きの連続。見るもの全てが新鮮だった。
二人の間に挟まれて、今まで見たことのないものに驚き騒ぎそして笑う。
いちいち驚嘆の声を上げていたからか、逐一反応してくれていた二人は既に疲れたような表情を浮かべて顔を見合わせていた。
少々やり過ぎた気がしないでもない。
「…………おい稗田。こいつどんだけ箱入り娘なんだ。俺ぁもう疲れたぜ」
「うん、僕も少しだけ同感、かな。……ねぇこいしちゃん。ちょっとあそこの公園で休もうか」
そう言って稗田君はすっと私の頭上を通って真っ直ぐ向こう側を指差した。
私はその指の動きを目で追って、同じように差した方向を真っ直ぐ見据える。
その先には幾つかの大木と、街路樹と、遊具とがあって。
そして、何人もの忙しく動き回る子供たちがいた。
「ねぇねぇ! 私も入れてよ!」
「んー? 誰ー?」
「良いよ! じゃあ君鬼ね! 十数えて!」
「逃げろー!」
公園の中に子供たちのきんきんと高い声が響く。
無論それに私も混ざって。
二人はベンチに座ってこっちを眺めていた。曰く、俺たちはここで休んでるから一緒に遊んで来い、だそうな。
私一人じゃちょっと不安だったけれど、話し掛けてみると案外快く受け入れてくれた。今は私が3回目の鬼。私より小さい子もいるのに案外足が速い子は多くて、私はすぐに捕まってしまう内の一人だった。
「……きゅーう、じゅうっ! えへへ、ぱぱっと捕まえちゃうよ!」
数を十数え終わると即座に駆け出す。足の遅い子や体力のない子はあまり遠くまで離れておらず、少し頑張ればすぐに捕まえられるような範囲の内にいた。
けれど、私の目標はそれではない。
このグループの中でも取り分け運動が出来る子がリーダー格だというのは教えられずとも知っていた。いつでも態度がちょっと偉そうだし、私が参加してからの鬼ごっこで一度も負けたことがなかったからだ。
後で聞いた話だったが、その子は殆どの遊びで無敗を誇る最強の男の子だったらしい。
子供たちに限らずグループのヒエラルキーは割と単純なのだ。大概は運動が出来て、話が面白く、皆を引っ張って行ってくれるリーダーシップのある子が頂点に立つことになる。
稗田君みたいに背が高くて、けれど哲みたいにがっしりとした体格の子。どこにでもいるガキ大将タイプの男の子だった。
そいつは先程からのろのろと走っている私を馬鹿にしていた。新参者だからか運動が出来ないからなのか、それとも私が女の子だからなのか。そのいずれかかもしくはその全てか。恐らくはそのどれかが理由なのだろう。
今も挑発するかのように、逃げるどころか一層近付いてきて妙な踊りを披露していた。
「へん。おーにさんこーちらっ、手ーの鳴ーるほーうへーだっ!」
ぱんぱんと手を打ち鳴らし、リズムを取りながらげらげらと笑う。
とても不愉快だった。
こんな風に馬鹿にされたのは初めてだった。そりゃ前日まで地霊殿から一歩も出たことがなかったから当然と言えば当然なのだが、地上に出てからもあまりに良い人と出会い過ぎていたのだろう。そんな陳腐な挑発に乗ってしまう程、その時の私は純真無垢だったのだ。
だから、何も言わずともその子を狙うのはある意味必然とも言えた。
心の中は怒りでいっぱいだったけれど、精一杯努力して自分もお道化てみせる。
「馬鹿にしたなー!? ようし、待ってなさい! 今あなたを捕まえてあげるんだからねっ!」
「やれるもんならやってみな!」
そう言って手をひらひらとさせ舌を出し、お道化た表情で私を更に挑発する。
周りの子たちはそれを見てけらけら笑っていたが、私の頭の中は見返してやることで一杯だった。
すっと音も立てずに一歩前に飛び出す。
彼はまだお道化た顔をしていた。
二歩目。今度は大きく踏み出すのではなく、次の一歩をより大きくするために少しだけ小さく前へ進む。
まだまだ彼は逃げ出さない。完全に私をからかった動きだった。
次いで三歩目。これで私の射程内。
すかさず鞭のように右手を真横に真っ直ぐに構え、そして一旦ほんの少しだけ後ろに引いてから思いっきり渾身の力を込めて放つ。
重力と遠心力に任せたまま、腕をしならせ体を狙う。
まるで居合切りのように、素早く、そして深く。
確実に捕らえた、と、
そう思った。
しかし手ごたえは感じず、私の右手はこれ以上ないくらい綺麗に宙をすかっとかいた。
そう、既に私の狙っていた獲物はそこにはいなかったのである。
「えっ……きゃあっ!?」
勿論捕まえる気でいた私は完全に重心をそちらの方へと傾けていたので、バランスなんか取れる筈もなく。
そのまま、勢いよくどでんと大きな音を立てて転んでしまった。
「はははっ! 余裕余裕! 一人で転んでんじゃねーよ、どんくせえなぁっ!」
頭上から大将の嘲るような声が聞こえる。
私がそうやって捕まえに行くのも完全に予想済みだったようで、ぎりぎりのところまで引き付けて後ろへ避けたんだと思う。
よくよく考えればわざわざ挑発するということは、自分に絶対の自信があるということだ。それが原因で捕まえられるような間抜けなことはそうそうしないだろう。
そのことに気付かず挑発に乗ってしまった私は、結果こうして無様な姿を晒すことになったのだ。
とても悔しい。
転んだ拍子に口の中を切ったのか、だんだんと鉄の味が広がる。
同時に顎や外気に晒していた膝小僧が少しずつ熱を帯び始める。痛みは今のところ感じてはいないが、そうなるのは時間の問題だろう。見ずとも擦りむいてしまったことは明白である。
けれど、そんなことより何より簡単に乗せられてしまった屈辱感が今は一番重要だった。
耳まで赤くなっているのが分かる。顔が熱い。鼻がつーんとしてきて、唾が口の中に溜まり始めた。
くそっ。負けてたまるか。負けてたまるもんか。絶対に、絶対にあいつを捕まえてやるんだ。私が、無敵の大将を、必死でも捕まえて見せるんだ。
擦りむいたと思われる箇所から、じんじんと痛みが広がり始めた。
その痛みと悔しさとが入り混じって、目に涙が溜まって来ているのが分かる。
泣くな、泣いちゃ駄目だ、ここで泣いたらまた弱虫だって貶されるに決まってる。
でも駄目。やっぱり我慢できない。痛くて痛くてたまらない。悔しくて悔しくてたまらない。
泣くな。泣くな泣くな泣くな泣くな泣くなっ!
涙が一粒ぽとりと地面の上に落ちた。
砂を握り締めて必死で堪えようとするけれども、一度滲んできてしまった涙がまた引っ込むことなどない。そんな顔を見せたくなくて、私はいつまでも倒れたままの格好でいた。
そんなずっと伏せたままの状態に不審なものを感じたのか、遠くから笑いながら見ていた子たちも次第に静かになる。
「…………あれ? どうしたの?」
どこか遠くの方から心配そうな声が聞こえる。
その声を皮切りにまた周囲はざわざわとし始めた。但し、今度は私がどうしたのだろうか、という意味でのざわめきだ。
けれど私は顔を上げることができない。こんな無様な姿を、顔を、皆に見せることなんてできない。
本音を言えば哲や稗田君にも見られたくはなかった。でもきっと見ているのだろう。だから余計に顔を上げることなんてできない。
それを分かって分からないでか、大将が私に問い掛けてきた。
「おい、どうしたんだよ。早く起きろよ」
その声には少し不安げなトーンが混じっていた。
そこで私はぴんとくる。成程そうか、こいつもしかして自分のせいで何かしてしまったのではないかと心配になっているのだ。
だからと言って、私が立ち上がることができないのは変わらないのだが。
その時。
「……うるさい。ほっといてよ」
何故か私の口からは、予想だにしない言葉が飛び出ていた。
自分でも驚く程に、その言葉には冷たい響きがこもっている。
相手もそれは感じ取れたようで、はっと息を呑むような音が聞こえた。
「な、なんだよ……折角心配してやってんのにさ……」
「ほっといてって言ってんでしょっ! 私に話しかけないでよっ!!」
更に、口から言葉が飛び出る。
そんな冷たい言葉、私は日常生活の中でも一度も考えたことがなかった。誰かに憎まれたり誰かを憎んだりすることのない生活だったからなのだが、だからこそ私は純真無垢でいられたのだ。なのに。
なのに、相手を傷つけるような言葉を私は発していたのだ。
まるで私の心の悲しみを代弁するかのように。
それまで温厚な私を見続けていた皆は、急変した私の態度に驚き黙ってしまった。
場がしんと静まる。
私は焦った。どうしよう。幾ら大将が相手でも、あんな言葉を浴びせられたら怒らないわけがない。あぁ、なんてことを言ってしまったのだろう。
今すぐにでも謝った方が良いかな。あぁ、あぁ、どうしよう。
そうやって私が迷っていると、大将がふと口を開いた。
「……おい、お前」
とてもぞんざいな調子の声。
それは怒りのあまり震えた声のように私には聞こえた。
あぁどうしよう。もしかしたら殴られるかもしれない。そうだよね、酷いことを言ったのは私だもんね。大将が怒っても仕方ないよね。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
私はきゅっと身を縮こまらせた。
……けれど、その次に来る筈の痛みが訪れることはなく。
予想外にも大将は、嘲り笑うこともなくほらよ、と私の手を乱暴に握った。
「……いや、まさか泣くとは思ってなかったんだよ。……悪いな、からかってよ」
本当に申し訳なさそうな声だった。
私は思わず顔を上げてしまう。
眉を顰めたしかめっ面で怒っているようにしか見えなかったけど、これが大将なりの謝り方なのだと私は何となく理解した。
――相手が謝ったのなら、それで許してあげなさい。
いつだったかに教えて貰った、お姉ちゃんの言葉が頭の中を過る。
お姉ちゃんは時たま色々な意味の分からないことを一人呟く。それは言葉を私に教えているようでもあり、自分に言い聞かせているようでもあった。
その時は、まだ意味が分からなかった。
けれどたった今、その内の一つの意味が理解できた。
……うん。元々は大将がからかったのが原因だったんだもの。それを謝ってくれたのなら、許してあげない道理はないもんね。
大将の手を借りて、よろよろとよろめきながらも私は立つ。
その際にまた倒れてしまわないように、彼はもう一つの手で私の体を支えてくれていた。
案外この人も優しいのか、と私はちょっと大将のことを見直した。
「……ねぇ。ちょっとお耳貸してくれる?」
そう尋ねると、大将はあぁ、と小さく呟いて私の方へ右耳を寄せた。
私は一歩前に出て、よりよく聞こえるように触れるか触れないかの位置までその耳に顔を寄せて、
そして耳元で、
「――――つーかまーえたっ」
ぽんと肩に手を置いて、そっと呟いた。
大将の顔がきょとんとなる。
そして意味を理解したのか、次の瞬間には歪み始め、最後に本当に悔しそうな顔になって叫んだ。
「ちくっしょうっ! 騙しやがったなぁっ!!」
公園中に響く声。
それは無敗を誇る大将の、完敗を示す叫びだった。
どういう意味なのか最初は理解してなかった皆も、次第に私がどういう魂胆でそうしていたのかに気付き、少しずつ笑い声が漏れ始めた。
広がる驚きと感嘆の声。それはだんだんと大きくなり、途中から拍手が混じり、そして最後には大喝采というべきものに変わっていた。
新参者がそこで一番強い奴を倒す。誰がそんなことを予想していただろうか。
私の描いた筋書きは大凡こんなところ。
最初相手の策に踊らされているように見せかけて、わざと大げさに転ぶ。
それからは立たない。そうやって周囲の動揺を誘うのだ。何かあったのだろうか、何があったのだろうか、と。
急き立てられるように相手は焦り、そして私のことを心配する。大丈夫か、などと声を掛けることは容易に想像できる。
そこで更に一度突き放す。そうすることで冗談ではなく、本気で怒っているように見せるためだ。
案の定、大将はその策に引っ掛かり、それどころか私に向けて手まで差し出してきた。流石にこれは予想外だったが。
――そうして、近付いてきたところを、狩る。
今考えればとても幼稚な脚本で、成功するかどうかも分からないような滅茶苦茶な計画。その頃の私はとても考えが甘く、本当に皆が皆哲たちのように優しい人間ばかりなのだと思っていたのだ。
常識ではそんなことはありえない。悪い人はどこにでもいて、それでいて誰が悪い人なんか簡単には判別は付かない。ましてや出会ってからまだ一時間程度。大将の性格を見切れていたかと聞かれれば頷くことはできなかったし、成功率なんてとんでもなく低かったことだろう。
だけど、その時の私の中では一番の計画だったのだ。
……まぁ、痛かったり怒ったりしていたのは、本当だったけど。
けれどとっても面白かった。それに結果はこの通り。
ドラマチックな演出に皆は興奮。大将は心底悔しがり、私の計画は見事大成功を収めたのだ。
初めて人を騙した感覚はとても新鮮で、ちょっぴり罪悪感もあったけどスリルがあってとても楽しかった。
お姉ちゃん、ごめんなさい。こいしは悪い子になってしまいました。でも、たまにはこんな風にして遊んでも、良いんじゃないかなって私は思うな。
擦りむいたところはまだ痛かったけれど、私はまだ濡れている頬を服の袖で拭ってにっこりと笑った。
そうして皆の人望を得たのも束の間、私は強制的に稗田屋敷へと強制的に連れて行かれることになった。
確かに膝や顎からは予想以上に血が出ていたけれど、それでも治療のためとか何とか言っておんぶまでされるのはちょっとやり過ぎだと思うし、やっぱり恥ずかしかった。
小さい子からは羨ましいなぁとか言われたけど、私だってもうそんなに幼くはない。そんな風に扱われるのは心外だという気持ちもあった。
だから相当暴れた。手足を精一杯じたばたとさせて、もがくように体を捩じらせ必死で抜け出そうとした。
けれど哲の力はやっぱり私なんかより全然強くて、私が幾ら逃げようとしてもがっしりと締め付ける腕が緩むことは決してなかったのだ。
「いいから静かにしてろっつーの。お前怪我人なんだからな? ……ったく、お前がいきなり大声出した時は何事かと思ったぜ」
「うー……あれも作戦の内だったの。別に良いじゃん」
哲が先程の私の行動を窘める。確かにあれは傍から見ても行き過ぎた演技だったようにも思えた。でもまるでどこかのお母さんみたいなことを言うものだから、私も思わず反発してしまう。
そんな私たちのやり取りを見ていた稗田君が、急にぶふっと吹き出した。
「あんだよ稗田。何か面白いもんでも見たか」
「いいや? ……ただ、哲も案外……」
そう言ってまた稗田君はくすくすと笑う。私のいない間に何かあったのだろうか。何が何だか分からない。
けれど哲がそこで急に血相を変えてうろたえ始めたのを見て、これを聞かない手はないを判断した私は稗田君に問い質した。
「ねぇねぇ、何かあったの? 私にも教えてよ」
「ばっ! 止めろ止めろ! おい稗田、言うんじゃねえぞ! 言うなよ、絶対に言うなよ!!」
その言い方だと、逆に言うように促しているようにしか聞こえないが。
しかしこの哲の慌て振り、余程のことがあったに違いない。既に好奇心を押さえられなくなってしまっていた私は更に教えるようにせがむ。
ぎゃあぎゃあと喚く哲を尻目に、稗田君はうん、それがね、と口を開き始めた。
「こいしちゃんが転んだ時ね、――とは言っても哲はずっと見てたんだけど――その様子を見ていた哲がね、すぐに駆け出そうとしたんだ。
“何やってんだ稗田、早く助けに行くぞ”とかなんとか……まぁ、僕は大丈夫だから見てろ、って止めたけどね。子供同士の喧嘩なんてそんなもんだし。
渋い顔をしながらも納得したのか一旦はまた僕の横に座ったんだけど、事ある毎に腰を浮かせ掛けて本当に納得しているのかどうか疑問だったね。それ程心配ならさっさと行けば良いものを。
正直、誰かを心配するような性分じゃないと思ってたからとても意外だったよ」
…………あらあら。
あらあら、あら。
これはちょっとばかり、予想外。
稗田君が全て話して観念したのか、既に哲は黙っていた。熱気が体に籠っているのが分かる。耳の先まで赤くなっていた。
多分、私も同じようになっていると思う。だって顔全体が熱いもの。
少し気恥ずかしい。
哲が誰かを心配するような性分ではない、という意見は私にも頷けた。だって今でも信じられないもの、哲があの時点で駆け寄ってきそうになっていたなんて。
するにしても寧ろ立場は逆じゃないかと。見ながら少しだけ心配するのが稗田君で、それを笑い飛ばすのが哲なんじゃないかと。
お陰で完全に無防備だった私は直撃を喰らってしまった。
意外、感心、羞恥、好意、充足感、様々な感情が心の中で入り乱れている。
それはどうやら哲も同じみたいだった。けれど強がって稗田君には手前ん家ついたら見てろよ、目も当てられねえ顔にしてやる、などと気炎を上げている。
でもそれも堂々と宣言するのではなく、小さな声で途切れ途切れに呟くように言い捨てるだけだった。恥ずかしさを紛らわすための強がりにしか思えない。多分私ぐらいにしか聞こえないだろう。
こういうところが、余計彼を幼く見せるのだ。
予想外に大人だった稗田君と、予想外にお兄さんタイプだった哲。
……ちょっとだけ、今まで以上に彼らのことを好きになった、気がした。
稗田家につくとすぐさま哲の背中から下ろして貰い、何故か代わりに手を繋ぐことになった。
恥ずかしいには恥ずかしいのだが、それは異性だから、という理由からではなく何となく子供扱いされているように思えたからだ。
けれど哲は哲なりに保護者的感覚を持っていたらしい。その結果が私を気遣うことなのだ。さっき少しだけ心を読んだ時にそんな感情が私の中に流れ込んできた。
わざとやっているのならまだしも、哲のは義務感と好意によるものなのだ。しかも比重は後者の方がやや大きい。それを拒否するまでには、私の精神は幼くはなかった。
少しごつごつとした手。よくよく考えたらこうして手を繋ぐなんてお姉ちゃん以外とはしたことはない。それも当然の話なのだが、当時の私はふわふわとした心地で高揚感に包まれていたのだ。有り体に言えば正気ではなかったのである。
とても温かくて、包まれるような感覚。夏の中ではそれはうざったいだけの筈なのだけど、その時だけはそうすることで守られているような感覚に陥っていた。
哲がお兄ちゃんだったら良かったのに、などというような思いが一瞬頭の中を過って、すぐにそれを振り払う。
いやいやいやいや、一体何を考えているのよ。まだ勝利感に酔っているのかな。しっかりしなくちゃ、うん。
私は再度自分を取り戻したのを確認してから、目の前に聳え立つ大きく広いお屋敷を見上げた。
やっぱりいつ見ても大きい。人里を見て回ってきたのだからそれが余計理解できた。
稗田君はとんとん、と木でできた大きな門を叩いてから彼にしては大きな声で言った。
「只今帰りましたよ。お友達も連れて来ています。一人怪我をしているので、誰か救急箱を持って来て下さい」
いつもよりも丁寧な言葉遣いで、且つ毅然とした声。
彼が次期当主ということを思い出させるのに、今の彼は十分過ぎる程の風格を備えていた。
すると幾秒も待たない内に門が勝手に開き、大人が横に十人並んでも悠々と通れるだけのスペースがそこにできる。
以前本で読んだ、自動ドア、の仕組みに似ているように思えた。こんな感じなのかと少し驚く。
扉の向こう側には勿論この家のお手伝いさんであろう人が何人も並んでいた。稗田君の姿を目で確認すると、全員が全員揃って腰を折り頭を下げる。
そしてその中でも一番年齢の高そうな人が一歩前に出て、また恭しく頭を下げてから言った。
「お帰りなさいませ。お薬の方は今用意させております。少しお待ち頂ければ、すぐにでも手当てさせますが」
「ふーん……どうこいしちゃん? 怪我の調子は?」
突然話を振られる。
実際痛みは既に引いていて、哲に下ろして貰ったことから分かるように歩くことにも支障はなかった。私は足を何度か曲げて見せてから、首を横に振ってにこりと笑い大丈夫だという意思を伝える。
すると稗田君はうんと一回頷いてからまたお手伝いさんの方に振り返り返答した。
「了解。良いよ、僕の部屋に連れて来て。そこで手当てを受けさせよう」
稗田君がそう返すと、お手伝いさんその一はまた深々とお辞儀をして後ろに下がった。
稗田君のお部屋は、子供一人が使うには勿体ない程広かった。
この私が驚くのだ。自慢なのだが地霊殿より大きい建物なんてそうそうないと思う。そこに住んでいる私が驚くのだ。その広さたるや凄まじいものがある。
しかしその広さより何より、驚くべきはこの部屋を埋め尽くす本の量だろう。
私の首の辺りにまで積み上がった山。そんなのが部屋の大凡半分を占めているのだ。何かの拍子に崩れやしないかと内心冷や冷やものだった。
けれど二人はそんなことはちっとも心配していないようで、片や数々の見知らぬ本に興味津津で片や愛する本に囲まれてとても幸せそうな表情になっている。
ちょっとヒいた。
でも感心する気持ちもある。自ら本好きを名乗るだけあって、様子を見ただけでその情熱が私にすら伝わってきた程だ。気持ち悪いけど。
「この本は……全部稗田君のものなの?」
「うん? そうだよ。僕はあんまり体が強くないからね、一日の大半を家で過ごす。その時によく本を読むんだ」
そうして彼は山の一番上に積まれた一冊の本を手にし、ぱらぱらとページを捲りながら言った。
「例えば、この本は里に伝わる昔からの伝承などをまとめた本なんだ。結構面白いよ、読むかい?」
私にひょいと差し出す。
けれど今はご本を読むような気分ではなかったので丁寧に断った。
稗田君は少し残念そうな顔になったけど、またすぐに笑顔に戻って、そう、まぁ暇になったら読んでみてよ、と言った。
……ちょっと悪いことをしちゃったかな。
と、そこでとんとん、と部屋の戸を叩く音がした。
「お坊ちゃま、お薬を持って参りました。入っても宜しいでしょうか?」
「ん、どうぞ」
失礼します、と慎ましやかな声と共に、綺麗なお姉さんが足音も立てず入り、一礼してから開いた戸を閉めた。
「どうもありがとう。迷惑を掛けたね」
「いえ、他でもないお坊ちゃまの御命令です。勿体ない御言葉ですわ。……怪我をしたというのは、そちらのお嬢様で?」
私の方を一瞥して言う。
あまりに綺麗な人だったので見蕩れていた私は、その声で我に返りびくんと体を跳ねさせた。
すぐに体が熱くなる。恥ずかしい。
そんな私の様子などを気にも留めずに、稗田君はうんと一回頷いてそうであると肯定した。
「僕の友人だ。丁重に扱ってくれ。傷は浅い筈だからそうそう心配ないとは思うけど、くれぐれも傷が残らないように慎重に手当てしてくれよ」
「はい。分かりました」
そう言うとお姉さんはつつ、と私の方に歩み寄り、優雅な仕草で膝を折って私のすぐ横に座った。
そうしてから手をすっと差し出して言う。
「どうぞ横になって楽にして下さい。多少沁みるとは思いますが、極力そうならないよう努力致します」
「あ……はい……」
私は言われるがままにその人の前に横になり、少しどきどきしながら静かに目を瞑った。
哲と稗田君の二人は私のことをお姉さんに任せると、和気藹々と何やら語り合い始めた。
どうやら共通した読んだ本についての議論を交わしているらしい。
……何かに夢中になるのは良いけれど、私のことももうちょっと気に掛けてはくれないのかしらね。
少しむくれる。
「……はい、次は顎ですよ。女の子ですものね、痕が残らないようにちゃんと消毒しないと……」
肘の手当ても終わり、首から下はどうやら全て終わったみたいで、漸く自分としては一番痛む顔の治療へと移った。
液体状の何かをガーゼに含ませ、ピンセットでそれをつまんで軽く傷口をぽんぽんと叩く。
言われた通り確かに沁みるように痛んだが、それも雑菌が殺されている証拠。涙が出そうになるのを堪えて動かないように頑張って耐えていた。
それにお姉さんの手際もとても良かった。慣れているのだろう、やるべきことはきちんと押さえて時間をあまり掛けないようにしていた。傷口に触れる時だってそっと撫でるようにしていたから、本当にあまり痛みはしなかったのだ。
まぁ、消毒液の分は仕方ないけれど。
そんなことを考えていると、お姉さんがぺたり、と絆創膏を最後に貼ってお終いです、と私に告げた。起き上がると見事に全身傷だらけだったのが代わりに絆創膏だらけになっていて、少しやり過ぎだと私を戒めているような心地になる。
これじゃあお姉ちゃんにまた怒られるだろうなぁ、はぁ。
「一応の応急手当みたいなものです。かさぶたが既に出来始めていたので、無理に絆創膏を剥がすようなことはしないで下さいね。治り掛けには痒くなってくると思いますが、そこで掻いてしまうとかさぶたが剥がれてまた傷が開いてしまいます。また傷跡も残ってしまうことが多いので出来るだけ避けて下さい。
お風呂でも無理に体を洗うとかさぶたが取れてしまいます。なので患部に近い場所は治るまで洗わずにいるか、そっと撫でるようにする程度にして下さい。擦るのは絶対にいけません。約束ですよ」
おおー。
なんか専門家っぽい。
難しい言葉ばかり言われて意味分かんないけど。
「……分かりましたか?」
お姉さんは眉を八の字に曲げて私に問い掛けて来た。
びくんとまた体が跳ねる。いけないいけない、ちょっと注意力散漫ってやつね。
再び我に帰った私は元気よく頷き、そしてありがとうございました、とちゃんとお礼を言った。
お姉さんも笑顔でどういたしまして、と返して私の頭を撫でた。別に偉いことはしてないのだけれど、褒めて貰える時は遠慮なく褒めて貰うのが私なりの礼儀だった。
あぁ、やっぱり良い人だなぁ。綺麗な人だしなんだか凄いなぁ。私もあんな人になれるかな。
そんなことを考えていると、お姉さんはそれじゃあね、と言ってお薬を箱に仕舞い始めた。そんなに暇でもないのだろう、私も呼び止めることなくただその様子を見守っていた。
そして立ち上がると、何故かお姉さんは一度私の胸元を見遣って、
「…………?」
くいっと首を傾げて、稗田君に一礼してから部屋を去った。
何だったんだろう。
まぁいっか。
それにしても美人さんだったなぁ。
手当てをする時だってとても丁寧で優しかったし、何だか憧れちゃう。
あんなお手伝いさん、私も欲しいなぁ。
朝から元気いっぱいに活動しっぱなしだった私は、折角だから、という理由で稗田家でお昼ご飯を頂いてから程なくして、急激な眠気に襲われてしまった。
お腹がいっぱいになると眠気に襲われる。そんな一般的な常識が頭の中からすっかり抜け落ちてしまっていた私は見事に不意打ちを食らった。
他の二人もずっと遊んでたもんね、と私がうつらうつらしているところを邪魔しようともせず、それどころか私に一枚の毛布まで掛けてくれた。
私はもっと遊びたいがために必死に起きていようと頑張ったのだが、掛けられた洗ったばかりの良い匂いのする毛布はとても心地良くて、それは私を夢の中に誘うには十分な環境で。
暖かなお日様の恩恵を一身に浴びながら、私はいつの間にか眠ってしまった。
ふと目覚めると。
二人は私に背中を向けて、何やら話し込んでいたように見えた。
「――だから、この箇所を読んで欲しいんだ――ほら、ここだよ」
「おいおい稗田、そういった冗談は止めろよ? お前の言う戯言はもうたくさんだって、あん時公園で言ったろうが」
そう言って哲は握り拳を作り、これ見よがしに掲げて見せた。
何をやっているのだろうか。何やら不穏な雰囲気なのだが。
場合によっては止めなければ。私は体を起こす準備をする。
「ごめん哲。でも、おかしいとは思わないのかい? 君のいたところ、あそこは――」
「だからそれはもう聞き飽きたんだよっ! 地底に続く大きな穴だぁっ!? 馬鹿も休み休み言え!!」
哲の怒号が静かな部屋の空気を切り裂く。
私は思わず体を縮こまらせてしまった。
……その時、小さな悲鳴でも上げていれば多少結果は違っていただろうに。
「――哲。こいしちゃんを起こしてしまう。静かにしてくれないと困るよ」
「……そうだな。悪い、ちっとばかし興奮した」
そう言うと哲は咳払いして、大きく深呼吸を取るような動作をしてから再度口を開いた。
「にしても、だ。あまりにも話が突飛過ぎねえか? お前だって分かってんだろ、あいつがそんな化けもんに見えるのか?」
「見えないよ。見えないからこそ、最も用心すべきなんだ」
そして稗田君は傍らに置いてあった本を取り、ページを乱暴に捲ってから哲にほら、と突き付ける。
丁度私にも見える位置だった。
そこに見えたのは何やら古臭い絵と、細々としたとても筆運びの上手な文章。
達筆ね、などと暢気なことを考えていた。
「これはさっきこいしちゃんにも見せた本。……でも、伝承をまとめた本、というには少々その本質は違っていてね」
裏返して表紙を見せる。
「……“幻想郷縁起”……おい稗田、これって……」
「その通り。我が稗田家に代々伝わる家宝、稗田阿礼とその子孫が遺した幻想郷縁起、現存する中で最も新しいものだよ。先代御阿礼の子稗田阿弥の書き記したその原書だ」
稗田君の言葉に、哲は何も言えないでいるようだった。
勿論私も驚いていた。御阿礼の子がどうとかっていう話には興味がなかったけど、とても貴重なものだっていうのは何となくは理解していたからだ。
ていうかそもそも現存していたのか。
「再度この本の信憑性を説明する気はさらさらないけれど……」
また裏返して、先程見せていたページへと戻る。
「まぁ、何はともあれ読んでみてほしい。特にこの妖怪の名前、ね」
「あん? 名前だぁ? …………うーむ、何となく覚えているような覚えていないような……」
暫く唸り、そして、
「あぁ! “あの”昔話か!」
漸く疑問が氷解したように顔をぱっと明るく輝かせてぽんと手を打った。
稗田君も深く頷いて肯定する。
「そう。遠い昔から伝わっている話、……君もよく知っているだろう。妖怪覚りについての伝承を」
妖怪、覚り。
さとり。
お姉ちゃんの名前。
私の体がぴくりと跳ねて反応する。
どうしてお姉ちゃんの名前、いえ、私たちの妖怪としての種族の名前を?
一体、何を話すと言うのだろうか。
そんな私の疑問を余所に、稗田君は喋り続ける。
「この幻想郷縁起は、幻想郷にいるありとあらゆる妖怪を纏めていると言っても過言ではない。この覚りですら例外じゃないんだよ。今では覚りの本来の姿を知っている人なんて極々少数だろうけどね」
「ふーん……そんで? その“覚り”とやらは、一体どんな格好をしてるっつーんだ」
「外見だけの意味じゃないよ。その生態、危険性、性格や目撃情報に至るまでの情報がここには纏められている。歴代御阿礼の子は憶測や伝聞だけではなく危険を顧みず実際に取材を敢行することもあったそうだから妖怪の資料としては間違いなくこの本が一番真実に近いだろうね」
「そんな話は聞いちゃいねえよ。いちいち回りくどい奴だな、さっさと言いたいことを言いやがれ!」
哲が苛立ち力任せに畳を叩く。
本の山が震え、ぐらぐらと揺れて崩れそうになるが、ぎりぎりのところで踏み止まった。
何をそんなに怒っているのだろうか。いつもの哲らしくない。
「……とは言っても伝承と幻想郷縁起に記されている覚りの姿とは、そう大差はない。寧ろこの地上で覚りの姿が確認されていない今となっては、昔話とは言っても無視はできないだろう。もしかしたら、あの話こそが真実を表しているのかもしれない。
現に覚りは地底から出てきてはいないのだから」
「じゃあなんだ? お前は本当に、昔心を読む妖怪覚りがいて、悪いことをしたから罰として地底に閉じ込められて、そいで今も生きているって思ってるのか。……お前、本当に頭大丈夫か?」
「勿論。信じているし僕の頭は正常な筈だよ。そして僕にとってこの幻想郷縁起は絶対だ。それに記されているのなら、僕はそれが真実だと信じるよ」
「…………馬鹿馬鹿しいっ! 手前の妄想に付き合ってられるか! こいしを貶すのも大概にしやがれってんだっ!」
更に激昂する。
哲は開かれていた幻想郷縁起のページをビリっと破り、くしゃくしゃに丸め捨てて言った。
「こんなもん何の証拠になるんだよ! それ以上こいしを悪いように言ってみろ! ただじゃおかねえぞ!!」
そして稗田君の首元に掴み掛かり、顔をぐいと近付けて唸る。
それでも稗田君の表情は全く変わらない。無表情のまま、更に淡々と続けるだけだった。
「……何よりの証拠が一つあるんだよ、哲。君はどこでこいしちゃんと出会った?」
「あん? どこって……そりゃ」
「僕が隠れていた木のすぐ傍だよね。里からかなり離れた、時間帯によっては妖怪たちが跋扈する、とても危険な場所だった。大人たちからは危ないからあそこに近付いてはいけない、とも言われていた筈の、ね」
「……あぁ、まぁ、そうだな」
ばつが悪そうに哲は答える。
「だけど、それなら尚更おかしいんだよ。大人たちが口を酸っぱくして行ってはいけないと言う程の危険な場所に、どうしてこいしちゃんのような女の子がふらふらとしているんだい? いや……それよりも人間だとして、僕たちが一度も見掛けたことがないってことからしておかしいんだよ。
外の世界から迷い込んだにしては、その割に怯えもしていないし僕たちに順応している。何よりどうやって昨日から今日に掛けての一晩を過ごしたと言うんだい? 君は何も気にしていないようだけど、あの子には不自然なところがあまりにもあり過ぎるんだ。人間の子供として考えると、ね」
「だからって……だからって、あいつが妖怪だなんて、そんなの言い切れないだろうがっ!」
「あぁ、確かに言い切れはしないね。だけど否定も出来はしない。だから出来る限り、僕たちは自分の身を守るために用心しておくに越したことはないんだよ。分かるだろう?」
「分かんねえよ! お前、こいしと仲良く話してたじゃないか……なのに、そんな非道いことを言うなんて、俺にゃあ全然分っかんねえんだよ……!」
哲は力なく稗田君にもたれかかるように崩れた。
声は震え、いつものような覇気はすっかりなくなっている。
まるで哲ではないかのようだった。
――なんで、二人は喧嘩しているんだろう。
私の、せいなの?
私が妖怪か妖怪じゃないかなんて、そんなに重要なことだったの?
もし、そうなのならば。
もし、それが原因で二人が喧嘩しているのならば。
私は本当のことを言うべきなのだろう。
すっと立ち上がる。
音もなく。
そして私は口を開いた。
「……ねぇ、稗田君」
二人の体がびくりと跳ね、ゆっくりと時間を掛けて顔を私の方に向ける。
「こいし……」
「……起きてたんだね」
「うん。……もし、私がその妖怪だったとして、私が覚りだったとして、……稗田君はどうするの?」
声が消えそうになる。
けれど、勇気を振り絞って聞いた。
だからと言って、私の望む答えが返って来る筈は――ないのに。
「…………逃げるね。君の能力が届かない所にまで、必死になって僕は逃げる。僕は弱いから。心の中を読まれてまで、君とこれから先楽しく付き合っていくことなんて出来ないから」
ぽつりと。
世界が止まったように感じた。
しかし、哲がその止まった世界を瞬きする間もなく壊す。
「おい馬鹿野郎稗田っ! 嘘だろ、嘘だって言えよ! お前のいう“友達”なんて、そんなもんなのかよっ!」
「――悪いね、哲。例え“友達”でも、僕は――心の中を読まれるのなんて、ごめんなんだ!」
同時に稗田君は哲を突き飛ばす。
きっと本音なのだろう。
いいや、本音なんだ。
だって私には分かるから。
明確に私に向けられた感情は、それがどんなものだって、私に確実に届いてしまうから。
それは――嫌悪感。
気持ち悪いと思う心。私を遠ざけたいと思う心。私から遠ざかりたいと思う心。私と話なんかしたくないという心。
それら全てがごちゃ混ぜになって、私に消えろと責め立てる。
「こいしちゃん。僕は君を決して嫌いなわけじゃあない。でもね……妖怪だったら、話は別なんだよっ!」
その感情は、どんどん膨らみ始めて。
稗田君は辺りに乱雑に置かれた本を私に向って投げ始めた。
「消えろっ! どっか行けよっ! 僕らをどうしようって言うんだ、覚りめ!!」
私は手で頭を守るように覆い蹲った。けれどどんなにそうやって守っていようとも、降ってくる本は私の体を容赦なく痛めつける。
頭に。
腕に。
背中に。
脚に。
体中の至る所に、赤く跡が付いて行く。
「痛い……痛いよ稗田君……止めて……」
「稗田! 手前何やってんだ! 止めろっ!」
そして哲は稗田君に向かって走り、大きく振りかぶってから全力で殴った。
哲の拳が少しずつ稗田君の顔にめり込んで行くのがコマ送りされるように見える。
そのまま二人はもつれるようになりながら、どすんと大きな音を立てて倒れた。
その上で哲は稗田君の上に馬乗りになって更に執拗に殴る。稗田君がどんなにもがき呻こうとも、決して手を緩めることはない。
どうしてこんなことになってしまうのだろう。
やっぱり私のせいなのかな。
そんなこと、私はしてほしくないのに。
私がか細い声で止めて、と呟くと、哲は漸くその手を止めて私の方に振り返った。
肩で息をしている。それだけ力を込めていたのだろう。固く作った握り拳には、ほんの少しだけ血が付いていた。
殴られていた稗田君の顔は見えなかったけど、見るからにぐったりとはしていた。
…………私のせい、なのかな。
「……畜生……おいこいしっ! こいつの言うことなんて気にすんな! 俺はお前を信じてるから! 例えお前が覚りだったとしても――絶対に嫌いなんてしないからっ!!」
そう言う哲の目からは、涙がつう、と頬を伝って流れ落ちていた。
稗田君のしたことが余程ショックだったのだろう。私だってショックだ。一日二日の仲でも、私たちは確かに友達だったんだから。
暴力をふるってまでも、哲は稗田君を止めたかったのだろう。暴力はいけないことだけれども、きっと稗田君はそうでもしない限り私に本を投げつけるのを止めはしなかったと思う。
全ては私のためにやったことなんだ。そう、私のことを考えてくれているのがよく分かる。でも。
でも、私には建前なんかいらないんだ。
建前なんか、意味がないんだ。
「――『本当に、覚りなのだろうか』」
「っ!?」
哲は目を見開いて驚いた。
恐らく、自分の心の中にある言葉をそのままそっくり口にされたからだろう。
「『どうして俺の考えている言葉が分かった?』『おいおい、冗談は止めてくれよ』……ごめんね、冗談なんかじゃないんだよ」
だって。
だって私は。
「――覚り、だから」
ぞわっ、っと。
哲の心がざわめいた。
それに呼応するように私の背筋もぞくりと毛虫が這ったような感覚を覚える。
倒れたままの稗田君は然程驚きもしていない。それどころかやっぱりか、と納得し、余計私に対する嫌悪感を強めていた。
ちょっと、傷付くな。
私は哲に一歩近寄り、そして尋ねる。
「ねぇ哲。それでも私を信じてくれるの? それでも私と友達でいてくれるの? それでも私を好きでいてくれるの?」
「あ、あぁ……信じるさ。俺はお前とこれからも友達だし、嫌いになるわけないじゃ、ない、か……」
言葉が段々と小さくなって、最後の方は殆ど消え掛かっていた。
もう自信たっぷりにその言葉を発することは出来ないでいるのだろう。
怯えているのは明らかだ。
だから私はもう一歩だけ、哲の方へと歩み寄る。
すると、
「……ひ」
小さな悲鳴を微かに上げて、彼は少し後ずさって。
私を拒絶した。
その時ほんの少しだけ。
ぽわっと浮かんだ、その感情。
私に対する、恐れの心。
――やっぱり、そうだよね。
稗田君の言う通りに決まってるんだ。
わざわざ聞き直す意味なんてなかったんだよ。
やっぱり、恐いものは怖いもんね。
ごめんなさい、哲。ごめんなさい、稗田君。私のせいで怖がらせてしまって。
もう、二度と近寄ったりしないから。もう、二度と怖がらせたりしないから。
本当に、ごめんなさい。
……あぁ、それともう一つ。
「――――嘘吐き」
そう、一言呟いて。
私はそこから逃げ出した。
そうして、里から出て、獣道に入り、誰にも誰からも見られないような場所に入ったところで、私は不意に力が抜けてしまった。
すとんとその場にへたり込んでしまう。
何、やってるんだろう、私。
馬鹿みたい。
両手で顔を覆い、伏せ、そうして漸く堪えていたものの糸がぷつりと切れた。
涙がじわりと滲んでくる。
視界がぼやけ、自分と世界の境界が曖昧になる。
最初から、分かってたじゃない。
お姉ちゃんが言ってたことはそういうこと。所詮、妖怪と人間は相容れられない存在。
私たちがどれだけ歩み寄ろうとしても、……受け入れては、貰えないんだから。
さっきの哲の心を見たか。さっきの稗田君の心を見たか。さっきの擦れ違った大人の、子供の、人間全ての心を見たか。
気付かない内は分からない。けれど、気付いてしまった今ではどうしようもなく気になってしまう。
それはまるでひそひそ声。だから余計に聞こえてしまう。知らない内は気にも留めないけれど、気付いてしまったあとでは無性に知りたくなるでしょう?
特に――自分のことについては。
私を見た時の、あの人たちが最初に抱いた感情は――不審。
初めて見る子。どこから来た子? 変わった服を着ている。どこの服だろう。変なアクセサリー。何あれ? 好きで付けているのかな。ううん、もしかしたら外せないのかも。
何で? どうして? 何で外せないの? それってどういうこと?
ああ――
もしかして、妖怪かも?
そうかも。だって見てくれからして人間離れしている。変に愛嬌を振りまいてるのも怪しい。きっとそうやって油断させて、私たちを取って喰おうとしているんだ。
きっとそうだ。
あれ? あの胸についてるのってもしかして――目玉?
もし、そうだとしたら――
里に昔から伝わるお伽噺の一つ、読心の妖怪。
その伝承に出てくる妖怪の容姿と、彼女の容姿がぴったり一致している。
妖怪覚り。相手の心を読んで、人を驚かせたり相手の行く先に罠を仕掛けたりする悪戯好きな悪い妖怪。
外見は普通の人間と変わらない。時には少年少女の姿を取る時もある。
ただ、明確な相違点が、分かりやすい所に一つある。
それは第三の眼。額に埋め込まれたように、眉間で視神経を丸裸にさせて瞬き一つすることなく心を読む相手を四六時中探し続けているのだ。
場所はちょっと違うけれど、あれは確かに第三の眼。相手の心を読み取るための、恐るべき恐怖の器官。
見た目に騙されてはいけない。そうやって獲物を見つけようとしているんだから。相手は妖怪覚りなんだ。いつでもどこでも誰かの心を、読もう読もうと舌なめずりしているんだから。
心の中なんか読まれてたまるもんか。
そうだよ、関わり合いにならない方が良いんだ、最初から。
ああ嫌だ。帰れ帰れ、すぐ帰れ。もう帰れ。さっさと帰れ。早く行け。
そうすれば関わり合いにならなくて済むんだから。
それは、私が里を出るまでに途切れ途切れに聞こえた言葉。
一人一人はぼんやり小さく思っただけなのかもしれないけれど、それが集まればはっきり大きく聞こえてしまうのだ。
ひそひそ声が集まれば、騒がしくすら思えるように。
そんなわけはない、そんなわけはないと分かっている筈なのに、その時の私には全ての人間が私のことを嫌っているのだと思えた。
もう――嫌だ。
誰の心も知りたくない。
もう誰とも会いたくない。もう誰も見たくない。もう誰にも見られたくない。もう誰とも話したくない。もう誰にも話し掛けたくない。もう誰からも話し掛けられたくない。
もう誰とも会えない。もう誰も見えない。もう誰にも見られない。もう誰とも話せない。もう誰にも話し掛けられない。もう誰からも話し掛けられない。
もう、何もかもが――
嫌なんだ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!!
こんな能力、消えてしまえっ! みんなみんな消えてしまえっ!!
私は望んでいなかった! みんなと仲良くしたかった! なのにこの力のせいで! こんなどうでも良い、相手の心を読む力のせいで私は無駄に傷付かなければならないんだ!!
お姉ちゃん。今ならお姉ちゃんの気持ちが分かるよ。今ならお姉ちゃんの言ったことが分かるよ。人間が、どんなに私たちを嫌っているのか。それを全部知ってしまったから。
――知りたくなんて、なかったのにっ!!
涙がボロボロと、抑え切れない程に零れる。
私の人間に抱いていた幻想が、ポロポロと落ちて行くように。
良いよ。
全部全部落ちてしまえ。
全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部消えて砕けて燃えて塵になってなくなってしまえ。
嗚咽が止まらない。
きっと、全部流されて行ってしまうだろう。
それで良いんだ。
もう何も要らないから。
もう何も居ないから。
もう何も無いから。
もう何も見えませんように誰にも見られませんように何も聞こえませんように誰にも聞かれませんように。
そんな幽かな願いを込めて。
私は心の瞳を閉じた。
それからどうやって地霊殿まで帰ったのか、私はよく覚えていない。
放心状態の内に、……つまりは無意識の内に、自分がその時点で最も心の休まる場所へと戻ったのだろう。
ただ、ぼんやりとは覚えている。
私が何も見えないままに地霊殿に着いた時、お姉ちゃんがとても驚いていたこと。
それでも傷心状態の私を優しく抱き締めて、何があったのかを全部察してくれたこと。
私はその温もりに耐え切れずに、既に流し尽くしてしまったと思っていた涙をまた零してしまったこと。
そして、その日を境に。
私の心は、何も感じなくなってしまったことを。
だから彼女は瞳を閉じた。