甘い屍
■-2
月夜の公園でハーキュリーズを呼び止めた瞬間、小さな肩が大仰に跳ねるさまが見えた。急いて振り返った顔は引き攣っていたが、背後の人物がジェイスンだと認めると力無く表情を消す。緊張感の無いそれはあまりに無防備だった。
「どうした」
苦し紛れに聞こえるハーキュリーズの問いにも、ジェイスンは目を逸らさない。
「俺も苦しくなったから」
答えを聞いてハーキュリーズは歩み寄り、ジェイスンの眼前で立ち止まる。
「何故、とは愚かな言葉だろうな」
ハーキュリーズが微笑む。痛みに歪み、温もりに安らいでいた。
並んで長椅子に腰掛け、言葉無く過ごす。流れているかも解らなくなる、ただ静かな二人の時間はやはり幸福なものだった。
「ジェイスン」
呼ばれてハーキュリーズを見ると目が合う。左右で色の違う瞳の中には、同じようにジェイスンがいた。
「死にたくないと、ずっと強く思っていた。その筈だった」
自嘲の笑みがハーキュリーズの唇を歪ませる。
「だが今は、以前のどんな時よりも、死にたくない」
ハーキュリーズはジェイスンの肩口に顔をうずめると小さく笑った。
「お前の所為だ」
「それ、そっくりその侭返すよ」
肩を抱いてくるジェイスンの手が温かく、心地良いと感じている時点でハーキュリーズは己が大きく変化していたのだと知る。検体達の死の形を目の当たりにした瞬間に抱いた強い思いは、ジェイスンの存在によって呆気無く溶けてしまった。
「あれから考えてたんだ。もしハーキュリーズが死んで灰になったら、俺はどうするか」
どう足掻いても幸福ではないそれに直面したくもないが、可能性は非常に高い。そして直面した時、為したい事をせねば後悔は死んでも消えないだろう。
「そしたら、やっぱりその時は腕でも斬り付けるかなって」
「腕を?」
意図が解らず、ハーキュリーズは思わず顔を上げる。すると困った笑みが見えた。
「血なら灰を固められるかなって……、それで、確か死んだ人の骨とか髪の毛とか入れるペンダントがあるんだろ、そういうのにって、考えてた」
途端にハーキュリーズは笑い出し、ジェイスンはぽつりと謝る。
「ごめん。気味悪かったかな」
一頻り笑ったハーキュリーズはゆっくりと首を振って否定し、細めた目に狂ったとさえ見える光を宿して告げた。
「そんな甘美な事を言われたら、死んでしまいそうになる」
悪寒に似て非なる小気味良さがジェイスンの背筋を駆け上がり、思考の芯を溶かしていく。混ぜ合わせるだけの行為に悦楽さえ感じてしまうのは、その存在を求めるからなのだろう。
ジェイスンはハーキュリーズの額に己のそれを軽く当て、静かに告げる。
「死なないでくれよ」
「お前も、死ぬなよ」
死への願いも、生への渇望さえも、今は互いのものだ。
ハーキュリーズはジェイスンの腕の中に収まる。安心で出来た綻びから弱さが零れ落ちるのを止めなかった。
「久々にあの頃の夢を見た」
言葉が指すのは以前ジェイスンも聞いた、ハーキュリーズが検体として生きていた頃だ。
「同胞でもない者でも、自分が手にかけた者でも、肉となり、灰となって死んでいくさまを見ると恐ろしかった。とても他人事ではなかった」
ジェイスンの腕に若干力が入るが、苦しくはない。
肉と灰の上に放り出されたハーキュリーズは絶望に沈んでいた。絶望の中で見付けたものが憎悪であり、それだけが命を奮い立たせていた。現在でも憎悪の炎は消えず、出来る事ならば復讐を遂げたいと願っている。
だが、確かな憎悪が繋ぎ留めた命を、それ以外に使っても良いのだと教えてくれた。そして憎悪へよりも命を使いたいものも、今は側にいる。
「以前はそういった夢に魘されて暴れていたらしい。あいつらにはその時にも世話になったな」
シーシアスとパーシアスから押さえられ、我に返って見た掻き傷だらけの二人の顔はいつも穏やかなものだった。努めてそうしていたのだろう。二人の思いはいつしかハーキュリーズへ届き、少しずつ温められていった。
「きっと、ハーキュリーズが一生懸命生きようとしたから、二人も応えてくれたんだよ」
「そうだろうな。でなければ今も無い」
憎悪を湛えた瞳が生きようとする意志だと受け取られなければ、二人がハーキュリーズを救う事も無かっただろう。偶然が時に必然を欲する表れなのかもしれない。
ふとハーキュリーズが顔を上げ、余裕を含む普段の笑みでジェイスンを見詰める。
「従って、お前は随分と難しい小舅が二人もいる訳だ」
ものの例えに軽く吹き出しつつ、ジェイスンは悪戯っぽく笑った。その余裕は強さでもある。
「どんな事があっても絶対負けないよ。ずっと一緒だって、二人にも誓える」
向けられた直情は眩む程輝き、照らされ包まれるのは居心地が良い。
「お前には、どうも吸い寄せられてしまうな」
気付けば傍らで笑っている自身を、嫌いにさえなれなかった。
二人が戻り、また眠りへ就いた頃に一人が寝返りを打つ。
「……俺からも頼むからな」
そう独り言つのもまた、幸福なのかもしれない。
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