一縷のたより


■-1

 雨戸を外から叩く音がする。小さな音だったが、含まれた事実は深い眠りを覚ますには充分だった。速やかに、しかし静かに身を起こして寝台を降り、両開きの雨戸を開ける。雨は降りやんでおり、まだ薄い朝の光と冷えた空気が部屋に入り込んだ。
「んー……なんだぁ……?」
 冷気に目を覚ましたらしい、眠っていたジェイスンが寝惚けた声を上げる。
「済まん、起こしたか」
 身を捩って目を向けた先には、まだ起きたばかりの格好をしたパーシアスが窓際に立っていた。両手には幼い獣のような大きさの揺らめく黒い塊が乗っている。
「何だそれ?」
 平然としているパーシアスの態度で危機感は感じなかったが、正体不明の塊には疑問しか出てこない。
「ああ、まだ見た事が無いんだったな」
「……どうかしたのかい?」
 欠伸混じりにアキリーズが起きたのをきっかけとして、他の三人も起き上がる。精霊のユリシーズが熟睡していたかは定かではないが。
「魔力? 命令の?」
 ユリシーズが黒い塊を見て首を傾げた。警戒していないところやはり危険性は感じていないらしい。
「そうだな、使い魔みたいなやつだ」
「あー、それか」
「便利なものだな」
 シーシアスとハーキュリーズの言葉に頷いたパーシアスは雨戸を閉めると、塊を持って寝台へ腰を落ち着ける。
「二人が見るのは四回目だな」
 言って塊を指でつつくと、途端に小さくなる。塊の中からは同じような大きさの箱が現れ、箱に付いている小さな石に塊は吸い込まれたようだ。蓋を開けて出てきた中身は、細く丸められた羊皮紙が二つと羽根ペン、小さなインクボトルだった。
「すっげえ……」
 普段滅多に見る事の無い羊皮紙にジェイスンが驚く。紙だけでなくペンやインクも高価且つ高品質なものなのだろう。
 パーシアスは青い紐で留められた紙を手に取り、嬉しそうに微笑んだ。
「はは、やってる事は普通の文通だけどな」
「君にとってはただの文通じゃなさそうだけどね」
 アキリーズの言葉にパーシアスの微笑みが僅かに陰る。
「そうだな。あいつは多分、世界一の淋しがりだから」
 断言しないところが却って程度の酷さを物語るが、ますます相手の想像が付かずにジェイスンは首を捻る。パーシアスは下手に干渉しない面々を改めて見て、一つ決意した。
「丁度いい機会だし、紹介してもいいか?」
「おっ、遂にお披露目か!」
 期待感溢れる言葉からしてシーシアスも内心は相手が気になっていたらしい。ハーキュリーズも既に腰を落ち着けて聞く態勢でいる。
「まあ、いずれ話そうと思ってたからな。けど、なるべく他言無用で頼む」
 パーシアスは青い紐を解くと、折り畳まれた二枚目の隅に記された名前のみを他の者へ見せた。それを目にして珍しくアキリーズも驚きの表情を浮かべる。アキリーズの反応にユリシーズが不思議そうな目を向けた。
「なんで?」
「少し命令するだけで大都市を消せるくらいの権力者だよ」
 字が読めないユリシーズへアキリーズが軽く解説し、力の凄まじさにユリシーズですら顔を強張らせる。
「しかも確か、不老不死だって噂が……」
 ジェイスンの言葉にパーシアスは迷い無く頷きを返した。
「そう。だから世界一の淋しがりなんだ」
 手紙を見遣るパーシアスの眼差しも淋しげだった。



 己の成り立ちを知る者は全て土に還ってしまい、長きに渡る統治の末に全く話題にならなくなった。
 意識が芽生えた当初から体は成熟しており、様々な知識も身に付いていた。どれ程壊れても再生する最強の存在であると誰もが思う中で、精神だけは幼い事に誰も気付かなかった。その点だけ通常だったと言える。知識と全く噛み合わなかった為に幼さを自覚出来ず、よく隠れて訳も解らず泣いていたという。
 その日は珍しく夕方まで泣き続けていた。泣き腫らす側から再生してしまうので、涙さえ拭いてしまえば何も残らないのは好都合であり不運だった。
 何が苦しいのか理解出来ない。それがまた苦しみに拍車をかける。
「大丈夫か?」
 近寄る足音にも気付かない程に混乱していたらしく、言葉で弾かれたように顔を上げた。瞬間、苦しみの堂々巡りを止めて欲しかったのだと気付き、思考を捨てて泣き喚く。
「大丈夫じゃないな」
 慰めるように頭を撫でた彼は、己と違ってただの人だった。



「あいつは何一つ経験しない侭だったから、中身は小さな子供だったんだ。みんながみんな、あいつは全部知ってると思い込んで、まっさらなあいつに何も教えない侭だった」
 全てを持つ事と、全てを身に付ける事は同義ではない。当然の事実を誰もが忘れた結果があの頃の眼前にいた。悲しみの理由、ともすれば悲しむ己さえ理解出来ていなかっただろう。本来時間をかけて育まれる認識と想像力を欠いた結果、最強の生物は最大の弱さを持つ事となった。
「だが、同情で構った訳では無いのだろう?」
 瑞々しい小さな実を口に放り込みながらハーキュリーズが言う。甘酸っぱい実はいつの間にか話の肴になっていた。パーシアスも実を一つ摘まんで口にしてから答える。
「あの頃も余裕は無かったからな。ただ、俺みたいになってほしくなかったんだ」
「みたいに……、そういえばパーシアスの今までってあんまり聞いた事無いよなあ」
 ジェイスンの言葉にパーシアスは短く唸った。話す迷いよりは説明に困った様子だ。
「うーん、そんな大層なものじゃないけどな。親父が医者で、家業を継ぐ為に何から何まで決められたけど、嫌気が差して家出したんだ」
「金だけあったって窮屈じゃあなあ」
 シーシアスの言葉にパーシアスは、相変わらず困ったように眉根を寄せる。
「家はまあまあだったけれど、自分で自由に使える金はこれっぽっちも無かったから、そういう意味じゃ貧しかったな」
 不自由極まる生活の中で自尊心を外に見出し脱出計画を決行したからこそ、良くも悪くも自由な今がある。しかし何処にも行けない立場だったならばどうだろうか。
「……あいつは前の俺以上に、自分が何処にいるか見付けられてなかった」
 パーシアスの言葉へ、アキリーズとハーキュリーズは密かに己の過去を思う。自尊心を持つ事すら侭ならなかった頃に比べれば、死と隣り合わせであっても現在のほうが遥かに生きやすい。己を己として確立出来る事の幸福を理解出来ない道理だけは無かった。
 青い紐を指先で弄りながら、パーシアスは目を伏せる。瞼の裏に泣き顔が見えた。



 最強の存在でいなければならない。従って弱い姿を晒してはならなかった。
 その決まりを思い出したのは、漸く声が落ち着いた頃だ。涙は依然止まらない。
「何があったんだ」
 長い間を隣に座り、側にいた彼は穏やかな声で問う。まだ残る涙声は迷いの呻きを出してから、やっと答えられた。
「何も、何も解らない、事が、苦しくて……」
 一部を外に出してしまえば、後は溢れるだけだった。容易く出てくる事を疑問に思う余裕も無い侭、吐き出してしまう。
「大勢の人が、私には全てがあると、言うけれど……、私は、何も解らない、私自身の事さえ……」
「探しには行けないのか」
「私は此処を、離れられない……、離れたとしても、世界中、何処にいても、離してくれない……」
 頭を抱えると再び嗚咽が込み上げてくる。自分を置いていく全てが、自分の側にいてくれた事は一度も無かった。まとわり付いて周囲を塞ぎ、自由を啜る人々だけがある。
 傍らの彼は身の上を知っているのだろうか。此処にいる限り知らない筈が無いのだが、知っているにしては無関心な上に、穏やかだった。経験した事のない穏やかさを何というのか、まだ確証が持てない。
「それじゃあ」
 彼は寸分の迷い無く告げる。
「何から知りたいんだ?」
 問いに驚き、答えが既に決まっている事へ更に驚いた。初めて己が抱いた望みの形だと知る。
「また、会えるかな、どうかな……」
 名前よりも何よりも求める、切なる懇願へは正直に答える事にした。
「多分会える。何も無ければ、また此処に来るさ」
「多分……?」
「俺は所謂冒険者ってやつだから、戦う事も沢山ある。いつ死ぬか解らないから、あんまり約束は出来ない」
 誰もが姿を消してしまう最たる原因、死の可能性に震え上がる。もし権力を使えば、彼を安全な場所に、ひいては側に留める事も容易いだろう。しかし彼の持つ自由を害してしまえば、彼は己と同じような苦しみを抱えるかもしれない。
「……どうか、死なないで」
 葛藤の末に弱々しい願いの言葉しか出せずにいると、彼はまた頭を撫でる。自分はどのような顔をしていたのだろう。
「ああ。その為に俺は生きてる。これからもな」
 生き方を初めて知った気分になり、今度こそ顔が歪むのを自覚した。



 パーシアスは瞼を開き、手紙を広げる。相変わらず華奢で整った筆跡だった。大雑把ではあるがひとまず目を通し、息をつく。
「うん、大変な事は起こってないみたいだ」
 パーシアスの指すものは国単位ではなく非常に個人的なものだろう。国単位で事が起これば遠方にも届く大事件だが、パーシアスにとっては個人的で小さな事こそが自身を揺るがす大事件だった。
「怖いのに、離れたの?」
 息遣いの僅かな違いから感情を読み取ったのだろう、ユリシーズの問いにパーシアスは頷く。
「離れるのはお互いに怖かったんだろうけど、あいつが俺以上に俺の自由を大切にしてくれたからな。あいつはたったこれだけの我儘しか言えない、優しいやつだよ」
「我儘をたったこれだけって言うやつも相当だと思うぜ?」
 シーシアスの言葉に他が納得するのを見て、パーシアスは視線を払うように手を振った。
「いやいや。これくらい出来ないんじゃ、送り出してくれたあいつに悪いってだけだ」
「ふふ、だからなんだろうな」
 ハーキュリーズに他の者が賛同し、パーシアスが苦笑する中でふとジェイスンが短く思い付きの声を上げる。
「そうだ、今度の返事、俺達からも何か書いてもいいか?」
「えっ」
「書けない……」
 読み書きの出来ないユリシーズが悩ましく呟くところ、書く意思はあるようだ。それに微笑みつつアキリーズが手を挙げた。
「僕が代筆するよ」
「あとはパーシアスの許可次第だな」
 進む話に驚いた顔で固まるパーシアスへ、シーシアスが陽気に告げる。
「お前に助けられた事も数えりゃきりねえし、世話になってる挨拶くれえしといてもばちは当たんねえかなって。どうよ?」
 パーシアスは五人を改めて見回し、笑みで驚きを消した。
「それじゃあ、追加の紙を買ってくる」
「あとで値段教えてくれよ?」
「手持ちが無いやつは言うんだぞー、つけといてやるぜ」
「ほう、流石昨夜勝っただけはあるな」
「奢るって言ってた、けど?」
「じゃあ、あんまり頼ったらいけないね?」
 和やかに笑いが起こる。こうして映る穏やかさを信じてもいいのだろう。



 石に指先で触れると、溢れ出した黒が箱を包む。やがて大型の烏のように形作ったのを確認してから、開け放した窓の外へ投げた。黒い鳥は羽根の無い翼を広げて夜の闇に紛れ、すぐに見えなくなる。
「あいつ、速いね」
 ユリシーズだけが最後まで存在を感知していたが、認識出来ない位置へ飛ぶのもかなりの速度だったようだ。
「強力な命令らしくて、他のやつがやろうとすると魔術士が五人はいるって言ってたな」
「そんなものを秘密裏に一人で作ったなら、最強の力も頷けるな」
 パーシアスへハーキュリーズが告げる。微妙な言い回しが弱さを物語っており、配慮が見えた。
 今夜の空は新月であり、星々だけが広がっている。頼りない光達かもしれないが、側にいる事には変わりなかった。



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