いつか幻でさえ


■-2

 包まれてしまえば断片的な囁きだけが聞こえた。どうやらこのヴェールは霊の声を届けているらしい。霊と一口に言っても悪霊の類いではなく精霊に近いようで、悪意や怨恨などの負の要素を感じる事は無かった。時折鈴を転がすように笑うのは気に入られた証なのだろうか。
 他の仲間は突如舞い込んだ依頼を受けて出かけたと宿の亭主から伝えられ、普段は六人で使っている部屋にハーキュリーズは一人でいる。寝台に座り込んでヴェールを被り、薄い黒の中で開け放した窓から差し込む光を何とは無しに見詰めていた。光はまだ白いが、じきに茜色へと変わるだろう。
 入り込むそよ風にヴェールが波打つ。まるで心象を投影したような光景だった。
 不意に部屋の扉が開き、見慣れた姿が入ってくる。部屋を見るや否や目を見開いた横顔は、一瞬にして血の気が失せたように見えた。
「ハーキュリーズ」
 絞り出したような声でジェイスンが呟くが、すぐ近くにいるハーキュリーズを見ていない。立ち尽くすジェイスンをハーキュリーズはあまり働かない頭で見詰めていたが、やがて驚く事となった。
 またそよ風が吹く。ジェイスンの頬を冷たく通り過ぎる。固く握られた拳が、感情の行き場を無くしていた。
「ジェイスン」
 呼びかけてみたがジェイスンは応えず、その時になって気付く。ハーキュリーズは愚かな己を呪うや否やヴェールから飛び出していた。ジェイスンからすれば、虚空から突如としてハーキュリーズが出てきたように見えただろう。黒は舞い、寝台の端に落ちた。
 眼前に立ち、ジェイスンの顔を確かめる。やはり弱さに歪んでいた。その弱さを与えたのは、他でもないハーキュリーズだ。
 ハーキュリーズを目にしてから、やがて漏れ出た震える息が恐怖と安堵を物語っていた。
「もう……」
 いつにない弱々しい声が訴える。
「離れないでくれ……、そんなのは、もう、嫌だ……」
 これで二度目だと言いたいのだろう。一度目は先日の依頼、魔女の遺品整理の際に起こった事件だ。対象の大切な人の記憶を抜き取る青い蝶が、ハーキュリーズからジェイスンに関する記憶だけを全て奪い去り、一時は敵対するにまで発展した。
 事態を諦めろと、ハーキュリーズ当人から突き付けられてもジェイスンは折れず、記憶の奔流に呑まれ消えそうになっても尚諦めずに、最後にはハーキュリーズと共に互いだけのものを取り返すに至る。
「済まなかった」
 ジェイスンの抱えた弱さは、ハーキュリーズにだけは見られたくなかっただろう。せめて代わりに拭った。
 確かに終わった事ではある。しかしその影は今も、ジェイスンに暗く落ちていた。苦しみを誰よりも近くで見ておきながら、その影の形になってしまった己をハーキュリーズは恥じる。
「お前の隣にいる。私がそうしたい」
 しかしジェイスンは頷かない。深い暗闇へ呑まれてしまう言葉を必死に掻き集めていた。
「……怖いんだ」
 一度溢れ出せば止まらない弱さは、確かにハーキュリーズへ向けられている。胸の内が締め付けられるが、それだけで済むのはまだ幸福とも言えるだろう。
「今日だって、そんな、まるで葬式みたいな……」
 言われてハーキュリーズは気付き、知る前の自身と同じ感想に至ったジェイスンへ微笑んだ。
「ジェイスン。私としては、あれは花嫁のものと見たぞ」
「でも、黒って……」
 悪い意味を想像しているジェイスンへ申し訳無さも覚えるが、この後を想像するとおかしさも込み上げてしまう。
「黒い花嫁衣装の意味を知っているか?」
 問われてジェイスンが初めて悲しみを消した。それだけでも喜ばしいと思ってしまう。
「えっ……、何……?」
 困惑するジェイスンへハーキュリーズは顔を寄せると、そよ風のように擽ったく囁く。
「『貴方色以外に染まりません』、だ」
 ジェイスンの茫然とした顔に赤みが差すまで、そう時間はかからなかった。
「私は誓うぞ。お前はどうだ」
「そんな……誓うしか、ないよ……」
 何処までも正直なジェイスンの想いに、ハーキュリーズは満たされて笑う。その笑顔にジェイスンも容易く満たされてしまうが、それで良かった。
 思えば、霊達は事態を見越して笑っていたのではないか。それは思い上がりなのかもしれないが、今はその気分に酔い痴れても良いと感じられる。ハーキュリーズの背後で黒いヴェールが楽しげに揺れていた。



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